「東への道―1950年代の西洋映画における『インド』」(6/14)参加記
2011/06/22
6月14日(木)に、土田環氏(映画専門大学院大学助教)を講師としてお招きした、GCOE・SRC特別セミナー「東への道―1950年代の西洋映画における『インド』」が開催された。今回のセミナーでは、まずジャン・ルノアール監督の映画『河』(1951年)の上映会が開かれ、次いで土田氏が講演をおこなった。
氏は講演で、1950年代から60年代にかけて発表された、インドで撮影された映画をいくつか紹介し、それぞれの映画で「インド」がいかに表象されたかを論じた。同時期のインドは、ジャワハルラール・ネルー首相の推進する近代化政策のもと、大きな社会変容を経験した。国策として、ル・コルビュジェによる都市計画が立案されたり、近代的映画産業の育成が目指されたりしたのもこの時期である。変貌の渦中にあるインドの姿が西洋人の関心を引きつけ、西洋人映画監督のインドでの撮影を促したという。
1950年代の諸作品でしばし描かれたのは、インドにおける恐るべき「群れ」というイメージである。『巨象の道』(ウィリアム・ディターレ監督、1953年)における象の大群や蔓延するコレラのイメージ、あるいは、『大いなる神秘』(2部作、フリッツ・ラング監督、1959-60年)における癩病患者集団のイメージなどがそれに該当する。そうした「群れ」のイメージの前提にあるのは、インドの人びとを理解不能で危険な異国の群衆と捉える西洋人の認識である。
講演ではまた、1950年代の作品で表象された、混血性という主題が論じられた。上映された『河』においても、西洋人の父とインド人の母のあいだに産まれた少女が登場するが、混血性という主題をより焦点化した映画として、『ボワニー分岐点』(ジョージ・キューカー監督、1956年)が紹介された。『ボワニー分岐点』においては、イギリス人とインド人の混血女性が主人公に据えられ、この女性が映画の進展に伴い、自らの人種的なアイデンティティを探求するかのように、自身のパートナーを混血男性からインド人へ、そして最終的にはイギリス人軍人へと変えていく。映画の縦糸をなすのは、西洋人の男性が混血女性を救い出すという、通俗的な西洋中心主義的物語であるが、むしろ注目されるべきは、パートナーの移行に伴い女性が自身の服装を変化させる推移を描く、映画的な視覚表現の妙である。観賞者は、映画の自然な流れのなかで、女性が服装を軍服から民族衣装のサリーへ、サリーから洋装のドレスへと変化させるのを目にする。映画のタイトルにある「分岐点」とは、文字通り鉄道の交差路を指すとともに、主人公の女性の運命と人種的アイデンティティの交差路を示唆すると解釈できるという。
こうした1950年代の映画が、いわば「インドを舞台とした映画」であるのに対し、60年代に入ると、「インドを主題とした映画」たるドキュメンタリー映画が登場した。その登場の背景の1つとして指摘されたのは、撮影技術の刷新である。具体的には、50年代から60年代にかけ、少人数での機動性ある撮影を可能にする16mmフィルムカメラの普及や、同時録音技術の一般化があった。このような技術刷新は、人類学において、ジャン・ルーシュらによる映像記録の活用を可能にしたが、それと同時に、映画界において「インドを主題とした映画」の登場を促した。それらの映画では、監督がインドを旅する最中に収めた長時間におよぶ記録映像が編集され提示されている。先駆的な作品は『インディア―母なる大地』(ロベルト・ロッセリーニ監督、1957年)であるが、それに加えて、土田氏は、ロッセリーニに刺激を受け制作された『インドについての映画のための覚書』(ピエル=パオロ・パゾリーニ監督、1968年)、パゾリーニに影響を受け制作された『インド幻想』(ルイ・マル監督、1969年)を紹介した。それぞれの映画監督の問題意識には特徴があり、マルの場合は、インドをありのままに撮影することと、撮影者の意識と視線が介在することとの矛盾に悩まされた。一方でパゾリーニは、西洋世界の原点たる古代ギリシアを理想的な社会と考え、その現実の姿を、インドを含めた第3世界に求めた。他方、ロッセリーニの場合、変わりゆくインドの姿を科学的な映像記録として残し、人間が世界を知るための教育素材を提供することを実験的に目指した。
1950年代から60年代にかけての各種各様の映画を以上のように論じたうえで、土田氏は、それらの映画がオリエンタリズムの問題や、カメラの眼差しの暴力の問題を不可避的に孕むものの、そうした問題を糾弾的に指摘するのではなく、映画を撮影するという営為の暴力と可能性を、映像表現の細部まで検証しつつ考究する必要があると主張した。
質疑応答の時間では、象や虎といった動物表象のあり方や、1950年代から60年代にかけてのカメラの眼差しの暴力について考える際に、70年代末に登場したエドワード・サイードのオリエンタリズムの議論を遡及的に適用させることの問題、西洋人監督のインド映画に対するインドの人びとの反応、インド社会の描き方にリアリティが欠如している問題、等が議論された。GCOE・SRC特別セミナーで映画を上映し、講演に移るという試みは、今回が初のものであったが、講演や質疑応答の際に、映画史や映像分析に関する多様な知識とエピソードが講師から提供され、非常に有意義な時間となった。
氏は講演で、1950年代から60年代にかけて発表された、インドで撮影された映画をいくつか紹介し、それぞれの映画で「インド」がいかに表象されたかを論じた。同時期のインドは、ジャワハルラール・ネルー首相の推進する近代化政策のもと、大きな社会変容を経験した。国策として、ル・コルビュジェによる都市計画が立案されたり、近代的映画産業の育成が目指されたりしたのもこの時期である。変貌の渦中にあるインドの姿が西洋人の関心を引きつけ、西洋人映画監督のインドでの撮影を促したという。
1950年代の諸作品でしばし描かれたのは、インドにおける恐るべき「群れ」というイメージである。『巨象の道』(ウィリアム・ディターレ監督、1953年)における象の大群や蔓延するコレラのイメージ、あるいは、『大いなる神秘』(2部作、フリッツ・ラング監督、1959-60年)における癩病患者集団のイメージなどがそれに該当する。そうした「群れ」のイメージの前提にあるのは、インドの人びとを理解不能で危険な異国の群衆と捉える西洋人の認識である。
講演ではまた、1950年代の作品で表象された、混血性という主題が論じられた。上映された『河』においても、西洋人の父とインド人の母のあいだに産まれた少女が登場するが、混血性という主題をより焦点化した映画として、『ボワニー分岐点』(ジョージ・キューカー監督、1956年)が紹介された。『ボワニー分岐点』においては、イギリス人とインド人の混血女性が主人公に据えられ、この女性が映画の進展に伴い、自らの人種的なアイデンティティを探求するかのように、自身のパートナーを混血男性からインド人へ、そして最終的にはイギリス人軍人へと変えていく。映画の縦糸をなすのは、西洋人の男性が混血女性を救い出すという、通俗的な西洋中心主義的物語であるが、むしろ注目されるべきは、パートナーの移行に伴い女性が自身の服装を変化させる推移を描く、映画的な視覚表現の妙である。観賞者は、映画の自然な流れのなかで、女性が服装を軍服から民族衣装のサリーへ、サリーから洋装のドレスへと変化させるのを目にする。映画のタイトルにある「分岐点」とは、文字通り鉄道の交差路を指すとともに、主人公の女性の運命と人種的アイデンティティの交差路を示唆すると解釈できるという。
こうした1950年代の映画が、いわば「インドを舞台とした映画」であるのに対し、60年代に入ると、「インドを主題とした映画」たるドキュメンタリー映画が登場した。その登場の背景の1つとして指摘されたのは、撮影技術の刷新である。具体的には、50年代から60年代にかけ、少人数での機動性ある撮影を可能にする16mmフィルムカメラの普及や、同時録音技術の一般化があった。このような技術刷新は、人類学において、ジャン・ルーシュらによる映像記録の活用を可能にしたが、それと同時に、映画界において「インドを主題とした映画」の登場を促した。それらの映画では、監督がインドを旅する最中に収めた長時間におよぶ記録映像が編集され提示されている。先駆的な作品は『インディア―母なる大地』(ロベルト・ロッセリーニ監督、1957年)であるが、それに加えて、土田氏は、ロッセリーニに刺激を受け制作された『インドについての映画のための覚書』(ピエル=パオロ・パゾリーニ監督、1968年)、パゾリーニに影響を受け制作された『インド幻想』(ルイ・マル監督、1969年)を紹介した。それぞれの映画監督の問題意識には特徴があり、マルの場合は、インドをありのままに撮影することと、撮影者の意識と視線が介在することとの矛盾に悩まされた。一方でパゾリーニは、西洋世界の原点たる古代ギリシアを理想的な社会と考え、その現実の姿を、インドを含めた第3世界に求めた。他方、ロッセリーニの場合、変わりゆくインドの姿を科学的な映像記録として残し、人間が世界を知るための教育素材を提供することを実験的に目指した。
1950年代から60年代にかけての各種各様の映画を以上のように論じたうえで、土田氏は、それらの映画がオリエンタリズムの問題や、カメラの眼差しの暴力の問題を不可避的に孕むものの、そうした問題を糾弾的に指摘するのではなく、映画を撮影するという営為の暴力と可能性を、映像表現の細部まで検証しつつ考究する必要があると主張した。
質疑応答の時間では、象や虎といった動物表象のあり方や、1950年代から60年代にかけてのカメラの眼差しの暴力について考える際に、70年代末に登場したエドワード・サイードのオリエンタリズムの議論を遡及的に適用させることの問題、西洋人監督のインド映画に対するインドの人びとの反応、インド社会の描き方にリアリティが欠如している問題、等が議論された。GCOE・SRC特別セミナーで映画を上映し、講演に移るという試みは、今回が初のものであったが、講演や質疑応答の際に、映画史や映像分析に関する多様な知識とエピソードが講師から提供され、非常に有意義な時間となった。