博物館 第五期(第二部)展示 開幕
2011/08/26
2011年8月26日、北大総合博物館2階、GCOEブースにおいて、第五期第二部展示の内覧会が開かれました。本日から始まる後半展示では、「言語と境界」をテーマにしつつ、舞台が東欧に移され、歴史に翻弄されながら、それでもなお言語に対する自らの立場を粘り強く保ち続けた四人の作家に光が当てられます。
フランツ・カフカ(1883-1924)の生きたハプスブルグ帝国末期のプラハでは、優先的な言語がドイツ語からチェコ語に入れ替わった時期であり、ユダヤ人のカフカは、言語の境界に生きることを余儀なくされました。
クシシュトフ・マリア・ザウスキ(1963-)は、社会主義体制末期のポーランドから西側の国に移住し、今日でもあえてドイツに残ってポーランド語で書くという選択肢を取ることによって、言語の境界を意識し続けています。
メシャ・セリモヴィッチ(1910-1983)は、旧ユーゴスラヴィアのボスニア・ヘルツェゴビナに生まれたムスリムでありながら、自らをセルビア人の作家と位置付け、あえて異なる環境に飛び込むことで、よそ者を感じ、社会的なシステムと個人との関係を常に意識した作家活動を続けました。
ウンドラ・ウィソホルスキ(1905-1989)は、故郷シレジア地方が第一次世界大戦後にドイツ、ポーランド、チェコ・スロヴァキアの複数の国家に分断されたことを憂えて、それらの言語を組みあわせたラフ語を創案して詩を作りました。統一国家の足並みが乱れることを恐れるチェコ当局から禁止されても、なおもラフ語による詩作をやめなかった彼は、言語に思いを寄せる作家の不屈の精神を体現しています。
本展示は11月20日(日)までとなっています。皆様のお越しをお待ちいたしております。
フランツ・カフカ(1883-1924)の生きたハプスブルグ帝国末期のプラハでは、優先的な言語がドイツ語からチェコ語に入れ替わった時期であり、ユダヤ人のカフカは、言語の境界に生きることを余儀なくされました。
クシシュトフ・マリア・ザウスキ(1963-)は、社会主義体制末期のポーランドから西側の国に移住し、今日でもあえてドイツに残ってポーランド語で書くという選択肢を取ることによって、言語の境界を意識し続けています。
メシャ・セリモヴィッチ(1910-1983)は、旧ユーゴスラヴィアのボスニア・ヘルツェゴビナに生まれたムスリムでありながら、自らをセルビア人の作家と位置付け、あえて異なる環境に飛び込むことで、よそ者を感じ、社会的なシステムと個人との関係を常に意識した作家活動を続けました。
ウンドラ・ウィソホルスキ(1905-1989)は、故郷シレジア地方が第一次世界大戦後にドイツ、ポーランド、チェコ・スロヴァキアの複数の国家に分断されたことを憂えて、それらの言語を組みあわせたラフ語を創案して詩を作りました。統一国家の足並みが乱れることを恐れるチェコ当局から禁止されても、なおもラフ語による詩作をやめなかった彼は、言語に思いを寄せる作家の不屈の精神を体現しています。
本展示は11月20日(日)までとなっています。皆様のお越しをお待ちいたしております。