宇山 智彦 (スラブ研究センター)
国連タジキスタン監視団(UNMOT)で政務官として活動していた秋野豊氏が、7月20 日に他の3人の監視団関係者と共に射殺された事件は、大きく報道された。しかし、 マスコミなどの関心はもっぱら秋野氏の人柄や日本の国際貢献のあり方に向けられ、 タジキスタンの現状やそこでのUNMOTの位置づけはあまり注目を浴びていない。 1992年に始まったタジキスタン内戦は、イデオロギー的な対立から犯罪者集団の参 加まで、複雑な側面を持つが、基本的には地域間の相違が政治的動機によって顕在化 されて起きた対立だと言ってよい。タジク人の中でも平地タジク人と山地タジク人は 、習慣や伝統を互いに異にし、またバダフシャン(パミール)の人々は、ソ連時代に タジク人と名づけられはしたが、実際には言語的にも宗教的にも一般のタジク人とは 異なっている。 ただし、こうした文化的・歴史的背景がそのまま地域対立を生んだわけではない。 フランスのある研究者によれば、ソ連時代に、共産党幹部、治安機関幹部、経済専門 家、インテリといったエリートの諸グループがそれぞれ特定の地域出身者に占められ るという構図が出来上がった。この構図に基づく対立が1970年代から始まり、その時 々の状況によって地域間の同盟関係をさまざまに変えつつ、内戦に至ったのである。 また、ソ連時代のさまざまな時期に、綿作の発展のために山地から南西部の綿作地に 移住させられた貧しい移民(ムハージル)の利害が、周囲の人々と対立したことも、 内戦の背景となっている。 6万人の死者と70万人の難民を出したと言われる内戦は、1993年初めに現政権が一 応の権力を掌握してからもくすぶり続けたが、96年12月にようやく、停戦協定と国民 和解委員会創設に関する合意が政府とタジク反対派連合(UTO)の間で交わされた。 そして97年6月には本格的な和平協定が結ばれた。その後現在に至るまで、基本的に は和平のプロセスが進んでいると言ってよい。 しかし、政府とUTOの相互不信は根深い。閣僚ポストの3割(14人)をUTOに割り当 てることが昨年2月に決められたが、今年始まった任命は必ずしもスムーズに行かず 、一部の閣僚の就任は国会に反対された。また5月23日には国会が宗教政党を禁止す る法案を可決したが、これはUTOの中心メンバーであるイスラーム復興党を狙い撃ち にしたもので、反対派政党の公認で合意した昨年の和平協定をぶちこわしかねなかっ た。このためUTOのヌーリー代表が、和平プロセスからUTOが離脱する可能性を表明す る一幕もあった。その後6月18日にこの法案に関し妥協案がまとめられ、また8月3日 までに10人のUTO出身閣僚が任命されたが、秋野氏らが殺害直前に会っていた国防相 候補のズィヨーエフらは、就任をラフモーノフ大統領に拒否され続けている。 一連の和平プロセスには、ロシア、イランなどの関係国と並んで国連が積極的に関 与してきた。政府とUTOの交渉および両者の合意の遵守のために、国連特使とUNMOT( 1994年12月創設)がなしてきた貢献は大きい。しかし政府側も反対派側も一体でなく 、それぞれの指導部に従わない勢力や政府にもUTOにも属さない第3勢力が、武力行使 を含む自己主張の機会を窺っているタジキスタンの状況で、政府とUTOの仲介を基本 的任務とするUNMOTが果たしうる役割には厳しい限界がある。しかも和平プロセスの 象徴である国連関係者は、和平を妨害する者には恰好の標的になる。これまでにも、 国連関係者が誘拐されたり襲撃されたりする事件は何度も起きていた。彼らの安全を 保証してくれる機関はどこにもない。タジキスタンに限らず紛争地域での国連の活動 に、危険を承知の上で個人の意志で参加を決意する人々は賞賛に値するが、「国際貢 献」に名を借りた国のメンツのために民間人を危険地域に送ろうという風潮は、疑問 に付されるべきだろう。 『中東研究』(中東調査会)1998年8月号