私は、これまで外国人研究員としてスラブ研究センターに滞在する中で、レニングラードの党組織で第一書記を務めていたセルゲイ・キーロフが1934 年に暗殺された事件について調べてきました。彼は、1934年12月1日、レニングラード市党本部で、レオニード・ニコラーエフという男によって射殺され ました。ニコラーエフは、共産党内の反対派のメンバーで、過去にも上司や地方共産党の役員たちと対立したことがありました。暗殺事件後の4年間、ヨシフ・ スターリンは、事件を大粛清の口実として利用しました。内務人民委員部(NKVD)とソヴェト検察当局は、元スターリンの政治的ライバルだったグリゴー リー・ジノヴィエフ、レフ・カーメネフ、ニコライ・ブハーリン、アレクセイ・ルィコフを、キーロフとスターリン本人の暗殺を企てたとして起訴しました。結 局、革命以前から共産党を導いてきたリーダーたち(いわゆる「古いボリシェビキ」)のほとんどが、仮想の陰謀に加わっていたとして告発を受け、投獄された り処刑されたりしたのです。
著
者
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スターリンが、自らの政治的目的のために、この暗殺事件をあからさまに利用したことは、ほかの二つの胡散臭いエピソード―暗殺者のニコラーエフが、
かつて内務人民委員部に監禁されたことがあるということと、暗殺の翌日、キーロフのボディガードが「自動車事故」で亡くなったということ―とあいまって、
1930年代末ごろまでには、独裁者自らがキーロフの暗殺を指令したのではないかという憶測を呼びました。このような疑念がくすぶる中、火に油を注いだの
が、パリ在住のメンシェビキ、ボリス・ニコラーエフスキーと、内務人民委員部離反組のアレクサンドル・オルロフ、ワルター・クリヴィツキーたちでした。彼
らは、この事件にスターリンもしくは彼の側近が関わっていたという噂を、ソ連内部から流したのです。おまけにニコラーエフスキーは、晩年のキーロフが、テ
ロリズムに傾斜していくスターリンにとって「なまぬるい」重石となっていたこと、そして、スターリンの党指導者としての座を脅かしていたことを訴えまし
た。
スターリンの「個人崇拝」を非難する内容で1956年に行われた「秘密報告」の中で、新しい党首ニキータ・フルシチョフは、キーロフ殺害の背後にス
ターリンがいた可能性を示唆しました。かねてから持たれていた疑いに、ソ連国内から確証を得たことによって、西洋のソ連研究者たちは、暗殺がスターリンの
命令によるものと考えて間違いないだろうと結論付けました。これに対して、ハーバード大学のアダム・ウーラムやカリフォルニア大学のJ.
アーク・ゲッティなどは異議を唱えましたが、スターリンが「古いボリシェビキ」の指導者たちを一掃するための手はずとして、キーロフの殺害を指示したとい
う見方は、1980年代後半までにはソヴェト国外の研究者の間で通念となっていました。ペレストロイカ期に、ソヴェトの論壇が外部にも開かれるようになっ
て、こうした解釈はロシア国内でも急速に広まっていきました。
ところが、1990年から91年にかけて、国家保安委員会(KGB)やソヴェト最高裁判所、およびその他の機関が、1950年代と60年代に共産党
政治局(Politburo)の行ったキーロフ暗殺に関する極秘調査の資料を、いくつか公開しました。歴史家にして、サンクトペテルブルグのキーロフ博物
館の元館長だったアーラ・キリーリナは、このとき公開された資料と、レニングラード地方のアーカイブを渉猟して集めた幅広い知識に基づいて、事件はニコ
ラーエフ個人による単独の犯行だったとする論文をいくつか発表しました。さらにキリーリナは、スターリンが自分の元ライバルたちを攻撃するために、この殺
人事件を口実として利用したことを、詳しく確かめました。オレグ・フレヴニュークは、キーロフがスターリンのライバルであったり、その政策に不満を表して
いたりした形跡が、党のアーカイブにまったく見られないことを示して、キリーリナの出した結論をより強固なものにしました。公開された新たな証拠を用いて
出された見解は、ニコラーエフが大きな妄想を抱いた単独の殺し屋だったという、首尾一貫したものでした。彼は、共産党が労働者の運命を改善していないこと
に失望し、ボリシェビキ専制君主の暗殺者として歴史に名を残すことを望んだのでした。また、このときの資料からは、殺人事件の一週間後に、スターリンがか
つての宿敵をキーロフの死に関連付けようとしたことが、明らかになりました。
これに対して、1999年にはエイミー・ナイトが、その名も『だれがキーロフを殺したか?』と題する本を出して、スターリンがキーロフ暗殺をたくら んでいたという、新しい説を打ち出しました。ナイトは、ニコラーエフスキーの論文も含めて、1990年以前に西洋で書かれた事件に関する資料が正しいと主 張し、1989年以降に公開されたアーカイブの資料には矛盾が見られることを指摘しました。とりわけ、ニコラーエフの日記からの抜粋や、事件後早い段階に 行われた証人喚問の記録など、最近になって公開されたアーカイブの資料についても、疑わしいものであることを示しました。これらの資料は、保安警察 (NKVD-MGB-KGB)の手にかかって、スターリンの罪状を覆い隠すように偽造された可能性が高いというのです。
しかしながら、アーカイブの新資料から得られる事件像は、ナイトの言う偽造説がうまくあてはまるものではありません。もし、スターリンの時代に資料 が偽造されていたとすると、事件はジノヴィエフとカーメネフおよびその一味がたくらんだものと見せ掛けられていたでしょう。しかし、そのような見せ掛けは されませんでした。一方、もしフルシチョフの時代に偽造されたのだとすると、資料はスターリンの関与をはっきりと表出していたでしょう(脱スターリン化に 関して新たに公表された証言によると、フルシチョフは、キーロフ殺害におけるスターリンの罪状を論証することに躍起になっていたそうです)。しかし、その ように表出されることはありませんでした。
しかしながら、アーカイブの新資料についてナイトが差し挟んだ疑問は、まじめに取り上げられるべきです。資料がKGBのアーカイブから抜き出して公 開されたものである以上、それを無批判に受け入れるわけにはいきません。
ところで、戦前の日本に目を向けて見ましょう。1938年、ゲンリッヒ・サモイレーヴィチ・リュシコフは、スターリンの計略が身に迫ったために、日 本に亡命して来ました。当時彼は、極東地方内務人民委員部の幹部を務めており、スターリンからの指令を受けて、極東内務人民委員部と極東軍司令部の粛清を 行っていました。国境付近で満州国警察に引き止められた後、リュシコフはすぐに日本-朝鮮軍に収監され、東京に護送されます。そこで彼は、日本軍諜報機関 の対ロシア部門で情報の提出を求められました。彼は1945年まで、おおかた東京の自宅に軟禁され、日本軍諜報部と宣伝工作組織のために働きました。 1945年8月、日本軍は、ソ連軍の急襲に直面した関東軍に助言を与えるよう、リュシコフを満州に送ります。そこで彼は、若い日本人諜報部員に射殺されま した。
彼自身の供述およびKGBのアーカイブによると、リュシコフがキーロフ殺害に関する調査を指揮する者の中に含まれていたことは、間違いありません。 暗殺事件の翌朝、彼はスターリンや内務人民委員のゲンリッヒ・ヤゴダと同じ列車でレニングラードに駆けつけ、ニコラーエフ本人のみならず、事件の主要な目 撃者たちから証言を聴取しています。ですから彼は、事件の調査と事件そのものについて、鍵を握っていると言えます。
アメリカ人で日本研究家のアルヴィン・クックスと、日本人ジャーナリストの西野辰吉は、リュシコフの日本滞在を年譜にまとめました(『謎の亡命者 リュシコフ』)。リュシコフの身柄を統率していた日本の諜報部員の話によると、彼は熱心に反スターリンの立場を訴え、東京にいる間にソ連での出来事に関す る回顧録をたくさん書いていたということです。残念ながら、日本軍は終戦に際して、その原稿のほとんどを焼却してしまいました。しかしながら、日本の雑誌 や新聞で発表されたいくつかの文章は残っていますし、またリュシコフに対して行われた尋問の日本語による調書の英語訳で、1938年にモスクワの日本人外 交官によって極秘にアメリカ大使館に流された文書が残っています。
内務人民委員部内部における政略や大粛清時代に行われた多くの処刑、ソ連軍の配置などに関して、リュシコフが日本人に提供した情報は、アーカイブで 見つかった新資料と、実に深く関わっています。このことは、例えば、極東内務人民委員部と軍司令部での粛清に関する彼の供述についても言えます。アレクサ ンドル・オルロフのような他の亡命者と違って、リュシコフは、尋問においても公開された文書においても、多くの情報を流し、正確なデータを提供していま す。
1939年4月、リュシコフの書いた文章の翻訳が、雑誌『改造』に掲載されました。「スターリンへの公開状」と題されたこの文章は、キーロフ暗殺 と、スターリンがかつての政敵に対して行ったその後の展開について、大きく取り上げたものでした。彼のこの文章は、近年新しく公開されたアーカイブ資料か ら見つかった、暗殺事件とその後の取調べに関する記述を、驚くほどの細部にわたって裏付けるものです。それによると、ニコラーエフは、歴史に名を残すこと を望んでいた、情緒不安定な単独の暗殺者でした。ボディガードの死は、実際に事故によるもので、彼の乗ったトラックの操縦機器のスプリングが故障していた ために起きたものでした。スターリンは、自分の政敵を追い出すために、キーロフの殺害を利用したのです。
1989年以降KGB-FSBによって公開されたアーカイブ資料に対して、それだけで確証を与えるリュシコフの供述は、大変重要なものです。それ は、1939年という早い段階でなされたものですし、出所もきちんとしています。リュシコフは、事件調査の内部事情および内務人民委員上層部の政略につい て直接知っていましたし、それについてソ連の外で、反スターリンの立場から書いたのです。全体的にスターリンを非難する論調の供述において、彼が独裁者の 体裁を取り繕ったり、キーロフ暗殺に関する公式の見解に合わせようとしたりしたはずはありません。
スターリンがキーロフ殺害に関与していた可能性を拭い去ることはできません。しかし、リュシコフの供述がアーカイブに残る証拠に与える確証は、この 犯罪に関してあたう限り確実性の地点まで到達させてくれます。いまやこのように言うことができるでしょう、スターリンが暗殺の命令を出したことはありえ ず、彼はただ、党内外の何千というソヴェト市民に対して、不正かつ凶悪な告発を行うのに、それを利用したのだと。私は、スラブ研究センターに来た当初、北 大図書館の本棚にキーロフ暗殺の謎を解く鍵を見つけようとは、想像すらしていませんでした。しかしそうなったのは、以上お話ししたような次第です。
(英語より後藤正憲訳、望月哲男監修)