スラブ研究センターニュース 季刊2006年冬号 No.104 index

強制移住の果てに~フェレイダーン・グルジア人探訪

前田弘毅(センター)

2005年6月下旬の約2週間、イランを訪問した。筆者にとって5年ぶりのイランであったが、今回は中西部に位置するフェレイドゥーンシャフルを訪 ねる機会を持つことができた。筆者はかつて『イランを知るための65章』(明石書店)の中で、このイランに住むグルジア人村について記したことがある (「グルジア村の発見:ラド・アグニアシュヴィリの旅」)。僅かな時間、滞在したのみであるが、再度彼らを紹介する意味でも、ここに簡単に印象を記した い。

フェレイダーン・グルジア人

フェレイドゥーンシャフルとその周辺に居住するグルジア人(本稿ではグルジア語での通称「ペレイダンのグルジア人Pereidneli Gurjebi」に倣って「フェレイダーン・グルジア人」と記す)がグルジアからイラン内地へ強制移住させられたのは17世紀はじめのことである。イラン に存在するグルジア人コミュニティーについては、イランはおろかグルジアでもあまり知られていない。しかし、筆者は、ちょうどこの時代を研究しているとい うめぐり合わせ以上に、この土地に執着にも似た強い感情を持っていた。それは、トビリシ滞在中に見たある映像によるものであった。

数年前、留学中の筆者は、停電の続くグルジアで厳しい寒さをやっとの思いで凌ぎながら過ごしていた。こうした冬のある日、テレビから、見慣れない光景と聞 いたことのない不思議な言葉が流れてきて、画面に釘付けになった。これが、フェレイダーン・グルジア人と筆者との出会いである。

この映像の中で、古老は、ペルシア語の単語や接続詞を用いた、しかし強い田舎訛りの奇妙なグルジア語を話しており、独特の雰囲気を醸し出していた。また、 映し出されるイランの荒涼とした大地の映像は、電力も途絶えがちな旧ソ連の都会で勉強していた自分にとっても非常に印象的であった。数百年のときを経て故 郷を懐かしむという演出が、当時の自分の境遇にどこかマッチするものがあったのかもしれない。いずれにせよ、グルジア人が自国の歴史に寄せる特別な感情 が、素朴で朴訥としたフェレイダーン・グルジア人のナレーションを通して、画面から直接伝わってきたのであった。

17世紀初頭、サファヴィー朝中興の雄アッバース一世(在位1587-1629年)は、コーカサス(カフカス)での大規模な軍事作戦を行い、カスピ海沿岸 とイラン高原中央部に住民を強制移住させた。これは、特にオスマン朝との国境付近における反乱要因の除去と、強制移住先の殖産や、住民の多様化によって、 中央宮廷の支配権を強化する目的を持っていたものとして理解される。コーカサス南東部全域で宗派を問わず多くの住民が強制移住の対象となったが、とりわけ 繰り返し叛乱を起こしたグルジア東部が蒙った人的損失は甚だしかった。

また、イランでも経済ネットワークと利権を保持して宗教共同体を存続させたアルメニア人やユダヤ人と異なり、強制移住させられたグルジア人は大部分が農民 であったと考えられている。郷里グルジアは大国の草刈場と化し、必死に独立を保とうとしたが結局ロシアに併合された。他方、イランに移動した大方のグルジ ア人は細々とコロニーを存続させながら、自分たちの過去を振り返る余裕を持つこともなかったであろう。彼らはイスラームに改宗し、徐々に現地社会に同化し ていったと一般には考えられてきた。

しかし、19世紀以降、ロシア・ソ連とイランの近代化は、二つの世界を再び結びつけたのであった。イランで働いていたお雇い外国人がロシア経由で帰国する 際に同行したフェレイダーン・グルジア人が、そのままトビリシに「帰還」したのは19世紀末のことであった。やがて社会啓蒙家として知られていたアグニア シュヴィリが苦難の末、グルジアからこのフェレイダーンにたどり着いたのは、1895年のことである。すなわち、400年前に強制的にイラン内地に移住さ せられ、その後本国との連絡もなく忘れさられていた彼らが「発見」されたのは100年ばかり前のことに過ぎない。

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近郊の丘の上からフェレイドゥーンシャフルを見下ろす

筆者は、トビリシで知り合ったフェレイダーン・グルジア人から、現在も彼らがグルジア語を日常語として用いていることを聞いた。もっとも、帝政ロシ アの外交官として活躍し、革命後はロンドンに移って東洋学で偉大な足跡を残したミノルスキーは、20世紀初頭、カスピ海沿岸に赴いてグルジア人を尋ねた が、年老いた女性が一人かすかに言葉を覚えているだけだと告げられたという。実際、マーザンダラーンにはゴルジーマハッレ(グルジア人地域)という名前の 村があるが、ゴルジー(ペルシア語でグルジア人を指す)の苗字を持つものはいても、言語を理解するものはいないとイラン人の知人に聞いていた。したがっ て、何としても実際に現在のフェレイドゥーンシャフルの人々の姿を見てみたいと考えたのである。

フェレイドゥーンシャフル

フェレイドゥーンシャフルへの道のりは決して楽なものではない。サファヴィー朝当時の都エスファハーンからでもかなりの距離がある。今回は、テヘラ ンから車で数時間かけて、まずゴルパーィエガーンを訪れた。典型的な地方の小都市であるが、大変歴史の古い由緒ある街で、そのせいか4つも大学があると聞 いて驚いた。そこから、保養地としても知られるハーンサールを通って、フェレイドゥーンシャフルに至った。イラン国産車に泣かされながらも、どこまでもき ちんと舗装された道には、旧ソ連の悪路に難渋した身には贅沢に映るほどである。

実際に訪れたフェレイドゥーンシャフルは、以前見た映像のイメージとは裏腹の緑あふれる自然の豊かな土地であった。6月のテヘランはすでに40度に届こう という熱さであったが、より南部にありながら、ザグロス山脈にも接する山岳地帯に位置するフェレイドゥーンシャフルは快適そのものであり、夜など厚着が必 要であった。もっとも、相当な田舎で、イランではどこにいっても日本で出稼ぎをした人に日本語で声をかけられるものだが、ここではついぞそうした出来事は なかったし、そもそも外国に出稼ぎに出た人の話を聞くこともなかった。この街はイランでも無名で、テヘランで知人に話をしても、誰もグルジア人はおろか街 の存在も知らなかった。フェレイドゥーンシャフルに至る道が舗装されたのもそれほど昔ではないらしい。

ここは、遊牧民として大きな力を持っているバフティヤールの拠点のひとつであり、法被にも似た民族衣装で闊歩する遊牧民の男性の姿も多く目にした。春初め のキャンプ移動の際には、遊牧民調査と観光をかねて外国人研究者が訪れる場合も少なくないらしいが、グルジア人の存在にはほとんど気づいていないようであ る(ちなみに、遊牧民の移動も現代ではモータリゼーションを駆使しているという。それでも、法被を捨てないところが、バフティヤールの存在感を際立たせて いるが、そこには伝統と現代をつなぐ糸があるといえるだろう)。街にはグルジア語の看板を掲げる商店もいくつか目にした。また、近くにはアルメニア教会も あり、トルコ人も多いという。首都から遠くはなれたこうした辺境の地にも民族混淆の現実が見て取れるところにイランの奥深さを感じた。

フェレイダーン・グルジア語と「標準語」

フェレイダーン・グルジア人では特に純粋にグルジア語を話す(ペルシア語にスイッチしない)お年寄りとの会話は、特に楽しく興味深いものだった。例 えば、グルジア語で「こっちに渡して」とか「もってきて」という言い方で「モイタネ」という命令表現がある。これが、ワインの名産地としても知られる東部 のカヘティ方言だと、「マイター」となる。標準とか方言という用語自体がたぶんに近代的で人工的なわけだが、モの部分がマに変わるだけでどこか朴訥で田舎 の響きが感じられるから不思議であるが(母音も多少異なる)、フェレイダーンの人々もこの「マイター」を使っていた。実は、フェレイダーンの住民は、主に カヘティ地方から連れてこられたと考えられている。このように、はっきりとした訛りの特徴も含めて、彼らの話す言葉はまぎれもなくグルジア語であった。

また、訪問の際に興味を持ったのは、挨拶言葉であった。現代グルジアでは普通「ガマルジョバ」を使うが、知り合ったフェレイドゥーンシャフルのグルジア人 も努めてこの「ガマルジョバ」を使っていた。ちなみに、1944年、イギリスと分割してイランを保障占領していたソ連軍のグルジア人将軍がこの地を訪れた 映像が残っているが、そこでは、「ガマルジョバ」の掛け声が連呼され、将軍は、「もうグルジア語を忘れるんじゃないぞ!」と叫んでいる。ただし、実際には アグニアシュヴィリが初めて訪れたとき、ガマルジョバという挨拶言葉を村人は使っていなかったとされている。

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街のレストランにはペルシア語とグルジア語の看板も

興味深いことに、グルジア語で「挨拶をする」という動詞は、アラビア語起源でイスラーム世界に広まる「サラーム(平安あれ)」から派生した「ミエサルメ バ」である。現在でも「サラーム」のグルジア語訛り「サラミ」は、公式な場面で使われることがある。それでは、この「勝利あれ」という意味を持つ挨拶言葉 「ガマルジョバ」が標準化したのはいつごろなのだろうか。また、若者の中には現在グルジアで話されている標準語を話そうと努力し、筆者の話すグルジア語を 羨ましそうに聞くものもいた。しかし、フェレイダーン・グルジア人の存在こそ、言語と国家にまつわる諸問題において、何が「標準」であるか、問いかけるこ とは間違いない。

生活変化の波の中で

イランにおいては、ペルシア語は共通語であるが、家庭内では他の言葉を話すことは決して珍しいことではない。イランでは普通トルコ人Torkと呼ばれるア ゼルバイジャン系の人々は家の中ではトルコ語(アゼリー語)を話しているし、クルド語や、ペルシア語の一方言とみなされるサーリーなども、標準ペルシア語 で理解できる言葉ではない。もっとも、日本でも、全く標準語のみで生活が営まれている地域はどれだけあるだろうか。

したがって、彼らは外部のものが感じるほどにはフェレイダーン・グルジア語の価値を感じていない。また、彼らはグルジア人のように訛りを恥じることもない が(そもそも訛っているという意識が希薄なのだから)、一方で特にフェレイダーン・グルジア語に誇りを感じているようにも思われなかった。グルジア語自体 は方言の差が(もちろん、スヴァンやメグレリは別にして)それほど激しい言葉ではない。従って、400年前のグルジア語で育ったといっても、トビリシに滞 在したことのあるフェレイダーン・グルジア人が標準グルジア語を身につけるのはそれほど難しいことではないと思われる。

実際、そうした若いフェレイダーン人とは、自由に現在の標準グルジア語で意思の疎通ができた(逆にいえば、一般のフェレイダーン・グルジア人とは、意識的 にペルシア語の単語を混ぜることで、ようやく意思の疎通が可能となる場合がほとんどだったし、訛りも影響して彼らの会話を聞き取ることはかなり難しかっ た)。イランの中でもコンピューターを巧みに操る若い世代はチャットなどで海外の同胞と会話を交わしている。また、当然、国語であるペルシア語は方言=地 方語の領域を確実に侵食しつつある。このように、グルジア語とペルシア語という二つの標準語の間で、未だ健在とはいえ、400年前から保存されてきた純粋 な日常語としてのフェレイダーン・グルジア語の未来は決して明るくはない。

この地を訪れたアグニアシュヴィリは、村人から「どこでおれらの言葉を知った?」と怪訝そうに尋ねられたという。それからちょうど110年のときを経て、 まさか自分にも全く同じ言葉がかけられようとは思わなかった。しかし、もっと驚いたのは現地の人々だったかもしれない。フェレイダーン・グルジア人も東洋 人がグルジア語を話すとはおもいもつかなかっただろう。自分自身がグローバル化の恩恵を受けながら、いささか複雑な気持ちになった。

グローバル化を誰もとどめることができない以上、同じような形で彼らの言葉と文化が存続していくことは難しいかもしれない。短い滞在であったが、美しい自 然と人々の姿をしっかりまぶたの裏に焼き付けた。グルジアに憧れる若い世代もイランの大地で自分なりに夢の祖国グルジアと折り合いをつけていくのであろう か。祖先が400年間そうしてきたように。

イラン社会の行方

さて、今回のイラン訪問はちょうど大統領選挙と重なった。到着後まもなく一次投票が行われ、その後、上位二人による決選投票に進み、それまで無名に近かっ たテヘラン市長のアフマディーネジャード氏が地すべり的な大勝利をおさめた。テレビ・新聞等のメディアでも白熱した選挙戦の模様は伝えられていたが、筆者 のテヘラン滞在先近くでも、ある夜、突然大音響の音楽が鳴り響き、隣家の結婚式かと外に出ると大統領候補の応援集会だったこともあった。選挙事務所の前で キーボードの生演奏に歌手の歌つきでさながら路上ディスコと化す中、大統領候補の名前が連呼されるなど、派手な選挙戦が印象に残る。

また、報道等でも、海外からの選挙への関心も含めて民主的投票を強調する論調が非常に目立った。これは、旧ソ連地域における一連の民主化革命や、アメリカ のうたう中東の民主化計画を睨んだものといえるが、特に外部からの選挙監視が意識されていたことは優れて今日的な現象であり、イランが決して世界の流れか ら孤立しているわけではないことも感じた。

一方、貧富の格差の拡大は、海外へのアクセスチャンネルを豊富に持つ知識人とその他一般大衆の情報格差の拡大とあいまって、これも印象に残った。カメラ付 携帯も、パソコンも、インターネットも普及しているが、これをどう使いこなすかは別問題であろう。いずれにしても、アフマディーネジャード政権の核エネル ギー利用を巡る強硬姿勢ばかりが取りざたされるが、より広く社会情勢の変化に伴う地域の政治的胎動について目を配る必要性を強く感じた。

2週間ばかりの間に、大きな変化を感じつつ、イランとグルジア、イラン首都と地方、イランと日本との遠い距離も実感した旅となった。ユーラシアの過去と現 在を考える上で、広大な国土を持つイランの豊かさと、文化的な力を含む存在感は無視することは出来ない。フェレイドゥーンシャフルの美しい自然と、長い時 を経てすっかり現地に馴染んだグルジア人の歴史を身近に感じた意義深い紀行となった。 

  

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