スラブ研究センターニュース 季刊2006年秋号 No.107 index

新時代のロシア人旅行者から見た「自他」の問題

セルゲイ・コズロフ(サンクトペテルブルク国立大学、ロシア/ センター2006 年度外国人特任教授)

 

19 世紀から20 世紀にかけての歴史家と哲学者(たとえばD.N. プィピン、P.Ia. チャアダー エフ、V.S. ソロヴィヨフ、N.Ia. ベルジャーエフ、S.I. ゲッセン、E.K. メトネル、B.N. ポルシュ ネフ等)の研究には、「自己=身内(свои)」と「他者(чужие)」 の問題が映し出されている。N.Ia. ダニーレフスキイは、『ロシアとヨーロッパ』と題された著作の中で、この「自他」の問題を 文化的・歴史的問題とした上で、奥の深い分析を行っている。彼によると、ロシアはそもそ も初めからヨーロッパに属している。つまり、ロシアにとってヨーロッパは「自己=身内」で ある。しかしその一方で、ロシアはヨーロッパにただ部分的に属するだけか、あるいは全く属 さないとも主張していた。つまり、ヨーロッパはロシアから見て「他者」というわけである。 ところで、「他者」は常に否定的な意味合いを持つわけではない。しばしば「他者」は、自 分とは異なる「別の人・もの」(иное)の同義語とされる。しかし、人はただ「別の人・もの」 のことをよく知らないがゆえに「他者」という感覚を持つのであって、徐々に認識が深まる に連れて「別の人・もの」も自らの考え方とそう違わないことが明らかになるだろう。K. シン ドラーとG. ラピードが言うように、「オープンであること、物事をよく聞き分けること、誇張 しないこと、自分が相手を押さえつけず、相手にも自分を押さえつけさせないこと」といった 諸々の指針に従うことは、大事なことである。ロシア人にはもともと「中庸」の感覚が欠 けており、「自己=身内」と「他者」の問題はロシア人の遺伝病なのだという見方もある。 だがこれに関して、ロシア人の歴史的意識における建設的な点についても指摘しておかな ければならない。「他者」は敵ではなく、それについて理解することを学ぶべき「他の人た ち」(другие)なのだ。「自己=身内」と「他者」 の間には克服しがたい壁などなく、相互関係で結ばれている。両者は互いに入れ替わるこ とがあり、「自己=身内」だったものが「他者」となることもままある。こうした「自他」の 問題は、ロシアと西洋、ロシアと東洋、あるいは歴史的継承の問題といった、数々の世界的 な歴史の諸問題と隣りあわせなのである。


kozlov
著者 函館にて

「他者」の世界像がとりわけよく示されているのは、旅行者の手記においてであろう。なに しろ旅行記が一番とっつきやすい資料であるし、なにより人の興味をそそる。そもそも旅行 記はあらゆる「他者」を記録するために書かれたものであり、ある種の見取り図めいた、ス テレオタイプ的な見方で、標準的なお決まりの表現が用いられているからだ。なんといっても、 そのあけすけな記述や明快さ、スケールの大きさなどが際立つ。もともと公表されることを 予期せずして書かれたものであるため、旅行記の書き手たちは、社会的な通念や検閲を気に することなく自分の見たままをつぶさに表現し、体験した出来事や出会った人々に評価を加 えた。

ロシア人旅行者たちは「他者」の生活を注意深く観察し、「自己=身内」のロシア人とは大 きく異なっているその特徴に注意を払った。この場合彼ら/彼女らは、その特徴が何に基づ いているのか理解しようと努めた――自然、宗教、国家体制によるのか、それとも、ドイツ人、 イギリス人、フランス人、日本人などの民族に特有の性格によるのか、といったふうに。 センターに滞在して研究を進めていく中で、18 世紀から20 世紀にかけて書かれたロシア 人旅行者の手記を十点ほど調べてみた。その結果、「他者」の環境に旅行者が順応していく際 の特性を見極めることができ、また、旅行者たちの日常生活(旅行経路、交際仲間、余暇の 過ごし方、不測の事態への対応など)について調べることができた。その他にも、当該研究 から得られたこととしては、次のような事柄があげられる。すなわち、「自己=身内」と「他 者」の生活に関する彼ら/彼女らの理解が変化して、西洋主義やコスモポリタニズムに傾倒 していった諸原因について検討すること、「自己=身内」と「他者」理解の最も持続的なステ レオタイプを見分けること、旅行記の中に描かれた「敵の姿」の分類を行うこと、ロシア人 旅行者が祖国に帰ると宿命的に「自己=身内」の中の「他者」となってしまう理由を見出す ことである。資料としてとりわけ興味深かったのが、英語やフランス語、ドイツ語で書かれ た旅行記である。これらは、「他者」の言語を受容して「自分の」ものとし、それを使って考 える能力の賜物だろう。

これら一連の問題が歴然と表に現れているのが、ロシア人航海者ユーリー・フョードロヴィ チ・リシャンスキー(1773-1837)が最も早期に著した手記である。彼は、1793 年に女帝エカチェ リーナの発意によって、イギリスの商船や軍艦に志願して乗り組んだ14 人のロシア人海軍将 校の中の一人だった。彼は旅先の記録を『日誌』(1793-1800)に書きとめた。私は、この稀 有な資料の全文を近く出版したいと考えている。

イギリス人の風俗に対する第一印象を、彼は少々当てこすり気味に、そして時には容赦な く記している。「私たちが関わり合いを持っているこの民族は、金銭事情がかなり進んでおり、 そのふところはたいそうご立派である。要するに、ここではちょっとでも歩けばすぐに金が かかるのだ。われわれがロシア人だといっては金を取られ、ロンドンに行こうとしては金を 取られる。おまけにわれわれが英語を話せないからといって、少なくとも半ギニー[訳注: 英国の旧金貨]は取られた」。

その一方でリシャンスキーは、彼が乗り組んだ艦船「ルアゾー」のイギリス人将校や乗組 員たちについて、感慨を込めてこう綴っている。「酒は泉のようにふんだんにあり、ラム酒、 フランス・ウォッカ、ジン、ポーター、総じては海の如し。どうだい、これは勤務どころか 天国じゃあないか。同行の将校たちはみなすばらしい人たちばかりだ。何か特別なことでも なければ、私は彼らとずっと一緒に暮らしていてもいいくらいだ」。

航海の途中でリシャンスキーは、イギリスの植民地制とも直面した。彼は無念そうに記し ている。「私がもしアンチグア島の光景を目にしていなかったならば、おそらく私はイギリス 人があんなにも残酷に人を遇することができるなどと信じることはできなかったろう。そこ で私は、馬の代りにこき使われる不運な黒人を、しばしば見かけたものである」。また彼は、 黒人狩りを行ったときのことを尊大かつ傲慢に語って聞かせる南アフリカの植民者について、 憤然と記している。「このあと私の対話者は、部屋に小さな男の子を連れてくるように告げた。 彼によると、この男の子を捕まえたときに、彼の同族の大人たちが16 人も殺されたという。 なんと野蛮なことだろう!」

1795 年から96 年にかけて米国に滞在したリシャンスキーは、そのいたるところに満ち溢 れた自由の精神にすっかり感心して書き綴っている。すべての州がそれぞれ小さな共和国を 成し、権力機関の人員はすべて「一定期間のあいだ市民の中から選ばれる」。国家権力の影響 はほとんど目立たないのだが、「同じような状況におかれたらヨーロッパではきっと起こるで あろうような」混乱はまったく生じていない。その理由を、彼は「よく行き届いた法」とア メリカ人の道徳性に見出したのだった。また、『日誌』の明らかにするところによると、リシャ ンスキーは当時のアメリカ大統領ジョージ・ワシントンの接見を受けたが、その生活のつつ ましさと親切なもてなしぶりに「心を打たれた」とある。一方、ロシア人旅行家は決して物 事を理想化せず、不快に思ったことや驚嘆したこと、理解できないことをすべて書き留めた。 彼は、旧大陸のヨーロッパにおいてと同様、新大陸においても「生活状況の不公平、銀行や 賭博場を支配する不誠実」を見て取ったのである。

自ら志願して外国に渡ったロシア人は、「他者」の生活を見てロシアの現実と比較し、とき に「自己=身内」の生活を情け容赦なく批判した。リシャンスキーと同様にイギリスの艦船 に乗り組んでいたI.F. クルゼンシュテルンは、ロシア本国における「通商の発展と国力増強」 のための学術旅行編成の草案をそえて、1799 年にイギリス船での航海記を編纂した。彼はそ れを、当時の通商協議会会長P.P. ソイモーノフに提出するつもりだった。クルゼンシュテル ンはとりわけロシア海軍の現状に着目し、ロシア人の苦難を指摘している。「病院や軍隊では、 不注意や、ことによると人間性を欠いた扱いのために、何千という人々が命を落としている。 まさにその病院や軍隊に人の命が託されているというのに。こんなことはわが民族の恥であ る! 水夫たちの健康を守るのに欠かせない暖かい衣服や他の物資が欠如することによって、 いったい何人の人たちが艦船の上で亡くなったことだろう。ロシアほど人に対して散漫に接 している国も他にあるまい」。続いて彼は、外国との貿易だけが国家を啓蒙に導き、繁栄させ るとしている。

話をリシャンスキーの手記に戻すと、彼の手記には自然地理的および民族誌的に詳細な資 料が含まれており、さまざまな民族に関する国家の社会機構や人々の生活様式、習慣、伝統 についてのおびただしい情報が満載されている。彼の目にしたものの多くは、彼にとっては 奇妙で馴染みの薄いものだったが、彼の評価にはすこしも断言的なところがなく、嫌味もな い。東洋人の生活の異国情緒は、文字通り彼の目に飛び込んできた。『日誌』には、リシャン スキーが「最初から最後まで同席した」というボンベイでの婚礼の様子がつぶさに描かれて いる。彼は、インドの伝統の特殊性を、あくまで正確に伝えることのできた最初のロシア人 の一人であった。リシャンスキーは「インド人の頭脳の類稀な敏捷さ」をも見て取った。「か の民族が素早く暗算をするのには、驚くばかりである。彼らにとっては寸時に千単位の足し算、 掛け算、割り算をすることなどお手の物である」。彼はまた、数々の珍品稀品の収集家でもあっ た。彼は1799 年に「ペルシャ湾を通って」ロンドンに帰還するように命じられたとき、当時 エジプトに停泊するナポレオン軍が巻き起こしていた軍事態勢を理由に、あえてそうしなかっ た。リシャンスキーはこのことを、旅先で苦労して集めた珍品のコレクションを失いたくな かったからと説明している。

イギリスの船上での勤務を通して、リシャンスキーは「他者」の世界にすっかり適応し、 英語を「自分」のものにした。その結果、彼が英語で書いた手紙や旅行記、訓令が後に残さ れた。イギリス艦隊の教え子でロシア人航海者のリシャンスキーは、世界の市民たらんとし たのである。

(ロシア語より後藤正憲訳)

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