今年のセ・パ交流戦も、盛況のうちに終了した。我がファイターズが北海道に移って2年 目の2005 年に、交流戦が始まったが、その最初の交流戦でファイターズは12 勝22 敗(9位) と大きく負け越し、シーズン成績も5位に低迷。昨年は、誰もが予想しえなかった快進撃でリー グ優勝、日本一を勝ち取ったが、その昨年でさえ、交流戦は2つ負け越しの7位に終わって いる。ところが今年は、シーズン序盤こそ借金生活で苦しんだが、交流戦に入るとまるで別チー ムのようによみがえった。交流戦で一気に12 連勝して優勝。交流戦を乗り切ったファイター ズをみて、北海道のファンは連覇を確信しはじめている。
I
昨今、我がスラブ研でも「交流戦」が盛んになりつつある。ロシアやユーラシアについて、 どこかの国、あるいはどこぞの地域の人々と意見交換をし、一緒に議論を深めていこうとい うものだ。最近では「フィンランド学者たちとの対話」(2007 年6月18 日)、日韓セミナー「東 北アジアの地域協力:ロシアとエネルギー要因」(2007 年5月9日)などがこれに当てはまる。 「交流戦」の意義を私たちがいつからはっきりと自覚しはじめたのか、よくわからない。おそ らく2005 年5月16 日の「日韓共同セミナー」あたりからだろう。この3つの行事の組織者 が敬愛する先輩教授の田畑伸一郎であることは偶然ではない。
ところで私と「交流戦」の出会いは、2005 年4月末に遡る。セ・パ交流戦が始まった年である。 私は敬愛する先輩教授の林忠行と札幌ドームでクラシック生を飲んでいた。
林は2003 年来、国際交流基金の支援のもとで日本と中・東欧諸国との「学術交流」プログ ラムを組織している。早稲田大学教授の伊東孝之、元ハンガリー大使田中義具など日本の学 界と実務での一級の専門家たちと、主としてヴィシェグラード諸国(チェコ、スロバキア、ポー ランド、ハンガリーの4ヵ国)の研究者たちとの相互往来による毎年の交流によって、日本 の中・東欧に関する政治、経済、国際関係などの研究で成果をあげてきた。しかし他方で、 その限界も感じつつあった。確かに「交流」は深まったが、ネタもつきようとした。とくに中・ 東欧の研究者にとって、自国の話を外国の研究者から繰り返し聞かされるのは退屈に違いな い。
その日、ファイターズが、ロッテの小林雅に手も足も出ないまま敗れたのを見届けた林は、 突然きり出してきた。「今年のブラチスラバの会議で、アジアがらみの報告を用意したい」。
思いがけない提案であった。ロシアと中国の関係を中心に、ユーラシアの「辺境」、いや「中 心」??を旅し続けてきた私は、エレガントでスノッブな雰囲気を味わえる中・東欧研究者 に嫉妬していた。ブラチスラバにウィーン経由で入るときいたとき、快適なオーストリア航 空で飲むワインとモーツァルトの顔が浮かんだ。林は言った。「会議が終わったら、プラハに 一緒に調査に行こう」。チェコ、そう世界一のピルスナー・ウルケルが生で飲める... クラシッ ク生など話にならない。私の喉がごくりと鳴った。
こうして教授の手足となった私は、日本人のアジア研究者を推薦するとともに、十八番の「中 ロ国境4000 キロ」ツアーをブラチスラバでプレゼンした。その後、プラハのビアホールで、 1杯目のウルケルを飲み干そうとしていた私に林は囁いた。「次もあるからな」。
その後、教授は、教授のままとはいえ、北大の理事兼副学長となった。2006 年度に入り、 本部事務局に出ずっぱりの理事と私はほとんど顔をあわせることがなくなり、「交流戦」の記 憶もかなたに消えた。なんといっても、「北方領土」の本を出したばかりで、どこから石をぶ つけられるか、戦々恐々の日々。スノッブもエレガントも夢の彼方に霧散していた(ちなみに、 12 月に何とか賞をもらうまで、あの本は公けでは「黙殺」されていた)。
5月9日、超多忙の日々を慰労すべく、理事をドームに誘った。プロ野球セ・パ交流戦の初 戦、対中日戦である(私は元中日ファン)。その日はエース川上憲伸が投げていた。日ハムの 方は誰だったか記憶にないが、最後に岩瀬を打ち込んでサヨナラ勝ちしたのを覚えている。ハ ムのあまりの弱さに辟易していた私には信じられない結末であった。勝ち試合をみたのも久し ぶりだし、ましてやサヨナラなんて初めてだ。だが、弱小チームの勝利にクラシック生で乾杯 をするときでさえ、理事たるものは仕事を忘れない。「次のワルシャワ、顔ぶれを考えてくれ」。
II
ポーランド側のカウンターパートは、外務省傘下の国際問題研究所。担当はアダム・エベ ルハルト。ブラチスラバで知り合った相手だ。理事の命令を受けた私はアダムと会議の骨子 づくりを始める。コンセプトは「東西大陸交流戦」。日本とポーランドのみの「交流」にせ ず、それぞれを「ヨーロッパ・チーム」「アジア・チーム」と名付け、幅広くチーム編成を考 える。旅費についてはそれぞれのチームでもつが、ローカルホスピタリティはワルシャワの 負担。共催シンポジウムは2006 年9月11 日と12 日にSecurity Challenges in the Post-Soviet Area from the East and West Perspectives というテーマで開催する。
団長の挨拶
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日本人以外の参加者については、当 然、国際交流基金だけではまかなえな いので、21 世紀COE ならびに林・岩 下がそれぞれ代表者である科研の後援 を頼んだ。日本側は、伊東孝之(早稲 田大)、中野潤三(鈴鹿国際大)、湯浅 剛(防研)、伊藤庄一(ERINA)に私 が報告(理事は団長挨拶のみ)。テー マは安全保障、エネルギー、中央アジ ア、CIS など多岐に及んだ。特筆すべ きは他の「アジア」からのメンバーだ ろう。中国から2人、ロシア政治に詳 しい北京の董暁陽(中国社会科学院ロ シア東欧中央アジア研究所)と中央アジア国際関係を専門とする上海の趙華勝(復旦大学: 2003 年冬シンポ報告者)を招請。インドから2006 年スラブ研夏シンポでも活躍したニルマラ・ ジョシ(インド・中央アジア基金)。そして、中国人移民研究の第一人者ミハイル・アレクセー エフ(サンディエゴ州立大学:2003 年冬シンポ報告者)。「ヨーロッパ・チーム」を指揮する アダムは、米国からのミーシャの参加に驚き、自チームに引き抜こうと画策する。だが、ミー シャはきっぱりと断った。「西海岸はアジアに近い。自分は『アジア・チーム』の一員として 闘うことを誇りに思う」。なんと頼もしい言葉だろう(もちろん、「ヨーロッパ・チーム」と いうのも怪しい名称で、アゼルバイジャンやベラルーシの報告者がメンバー入りしていた)。
虎になる直前のミーシャ
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とはいえ、私には「交流戦」に 勝てるかどうか、一抹の不安が残っ ていた。主軸として期待していた 韓国人の移民問題専門家が参加で きなくなったからだ。「アジア・チー ム」が中印米のトライアングルを 抱えているのは強みだが、韓国の プレゼンスがないのは痛い(もっ とも、「ヨーロッパ・チーム」に もモスクワから来る予定だったロ シア人が不参加という弱みがあっ た)。
にもかかわらず、米国西海岸ま で包摂した「アジア・チーム」は強力だった。ニルマラのサリー殺法。互いのメンツをかけ 一つでも先の塁を目指す上海と北京の競い合い。湯浅、伊藤という日本チーム中堅の堅い守 備陣。我々の圧勝を決定づけたのが、何よりもミーシャだ。韓国代表欠場の穴を埋めるべく、 私は彼に(事前に用意していた理論的なペーパーとは別に)、ロシア沿海地方の中国人移民調 査についてのプレゼンを頼んだ。私の要請を快諾したミーシャは、同一セッションで連続ホー ムランをたたき出し、会場を沸かせた。とくに締めに披露した沿海地方の虎の雄叫びのマネ は観客の度肝を抜いた。ちなみに私も「ユーラシア8000 キロの旅」と称し、中国・アフガニ スタン・パキスタン国境から日ロ国境までのツアーをディズニー風に20 分でプレゼンし、彼 をアシストした。虎の鳴き声もなかなかだが、「時速2万4000 キロ」の旅もそうは簡単に味 わえまい。
「交流戦」勝利を祝う「アジア・チーム」
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アダムと私は、セッション毎 に勝敗をつけあっていたが、後 半に入り、彼はもはや「勝利」 を諦め、「延長引き分け」を目 指す戦術へと変えてきた。「交 流戦」の意義は勝ち負けではな いのだから、私は喜んでこの申 し出を受け入れた(言うまでも なく、ビジターの試合での「引 き分け」は勝利を意味する)。 かくて「交流戦」は2つの混成 チームの試合として始まった が、蓋を開けるとプロレスのバ トルロイヤルのような展開と なった。「交流」の多角化は、 これまでになかった出会いを生みだす。アダムと私は、次回は同一チームで闘うことを誓っ た。団長はサリーをまとった女性とオープンカフェでワインを飲んだ経験を嬉しそうに話す。 通り過ぎるポーランド人たちがこの不思議なペアに目を丸くしていたという。団長は続けた。 「ポーランド側がロシア人を呼べなかったのなら、おまえがウラジオあたりから一人つれてく ればよかったのに」。いやいや、勝ちすぎてもいけない。
III
交流戦では苦しんだファイターズだったが、レギュラーシーズンに戻ると上り調子となり、 私がポーランドに出張している間に未曾有の快進撃を続けていた。そして本拠地最終戦でシー ズン一位を決めると、日本シリーズで中日を粉砕し、頂点に立つ。気をよくした私は、この 優勝にあやかり、スラブ研の次のゲーム・プランを思案し始めた。ヨーロッパの次と来れば、 これは北米しかない。誰に企画を持ちかけるか? 頭に浮かんだのが、2006 年夏シンポに招 請したマーク・キャツ(ジョージメーソン大:2007 年度スラブ研COE 訪問研究員)。やるか らにはワシントンに乗り込んでみよう。私は彼に「ロシアに関する日米専門家の交流戦」を 誘うメールを送った。マークはかつてケナン研究所のプログラム・オフィサーをしており、 こういう組織はお手のものだった。彼はケナン研究所及びウィルソン・センターを巻きこみ、 U.S.-Japan Dialogue on Russia and Northeast Asia Security(2007 年4月12 - 13 日:ケナン 研究所)なるワークショップを立ち上げる。
マークから、交流戦のテーマとして、安全保障、中国、北朝鮮に、エネルギーと移民を加 えたいとの提案が来た(昨今、世界のどこのシンポジウムにいってもこの2つばかりだ)。米 国との対話、しかもエネルギーと移民といえば、組むべき相手は田畑伸一郎しかいない。そ こでこの企画を田畑・岩下両科研のプロジェクトと位置づけ、政治・経済それぞれ6人のチー ム編成を考えた。ロシアに関するエネルギーといえば、本村真澄(石油天然ガス・金属鉱物 資源機構)、移民といえば雲和宏(一橋大)。田畑の提案は明快だ。一方、ロシアをめぐる安 全保障や外交専門家の人選は難しい。米国好みの軍事知識を持ち、しかもアカデミックなロ シア外交専門家は日本では稀だ。結局、朝鮮半島、日本、ロシアの全ての関係をカバーでき る中野潤三(元防研)に再登板を頼み、英国在外研究中の兵頭慎治(防研)にロンドンから 来てもらうことにした。団長田畑が近年のロシア経済について、私は上海協力機構や日本の 対ユーラシア外交などについて風呂敷を広げる役割を引き受けた。
ジョージタウン大で連投の団長
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ワークショップは小規模編成でまた2日目が週 末だったにもかかわらず、両日とも参加者は20 名近くまでのびた。日本側の報告2名、米国側が 報告・コメント各1名の各4人編成で3セッショ ン。もっとも米国のコメンテーターはしゃべるは しゃべるは、コメント以上に自説を十二分に開陳 するから、存在感は報告者と変わりがない。ケ ナン側もカーネギーから国際戦略研(CSIS)に 移って注目を集めるアンドリュー・クッチンズや ジョージタウン大学の教授、エネルギー会社の重 役など多彩かつ強い顔ぶれを招請したため、「交 流戦」はなかなかに盛り上がった。
率直に言えば、日米間の各種専門家による2ヵ国間交流は多いようだが、ロシアやユーラ シアをテーマとした、専門家同士によるここまで突っ込んだ討議は稀だといえる。そのため、 このゲームは勝ち負けをつけるというよりは、親善試合の様相を帯びた。米国との交流戦は 端緒についたばかりだが、カウンターパー トを変えながら継続し、やがてチーム編 成が中東欧との「交流戦」のように多角 的に成長していけば嬉しい。そのときは ぜひ、アダムを「アジア・チーム」に招 請して、「全米ユナイティド・チーム」と 一戦交えたい。今回の彼らのチーム編成 もワシントン周辺に留まっていたが、そ のときは西海岸やカナダ、もし人材がい ればメキシコや中南米からも報告者を組 織して欲しいと思う。団長は成果にご満 悦で、帰国前日、「次の相手はブルッキン グスだな」とにやり笑った。
4連戦4連投も余裕?の団長(ケナン研究所)
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今年10 月には、返礼もかねアダムがポーランドご一行を率いて来札する。いま理事と私は いかにホームで彼らを迎えうつかを考えているところだ。ホームでの「交流戦」は落とせまい。 しばらく「交流戦」ブームは続くだろう。私たちも、「交流戦」を通じて、強くなりたいものだ。 追記)文中では人名の敬称を略しました。なお、話の一部はフィクションであり、事実とは異なる部 分があります。筆者は2007 年9月から10 ヵ月間、ワシントンに滞在しますが、ぜひ、みなさんの「交流戦」 への参加とご支援をお願い申し上げます。