ボリス・ミロノフ
(ロシア科学アカデミー・ロシア史研究所/
センター外国人研究員)
札幌は私の目的の遂行には理想的な場所でした。まず第一に、私はスラブ研究センターで、たいへん仕事に適した環境を与えられました。すなわち研究室には機器をはじめ諸設備が整っており、立派な図書館が近くにあり、いつでもコーヒーやお茶が飲め、テレビはロシアの第一 チャンネルに合わせてあって、祖国の新しい情報が得られるようになっているのです。しかし 私にとって一番大切なのは、静かで創造的な雰囲気です。日本はどこでもそうですが、センター にはすばらしい生体エネルギーの場が存在していて、それが思索の気分を促し、積極的な感情 を高めてくれるのです。私は週の6日をよろこんでこのセンターで過ごしています。もしも単 身で札幌に来ていたら、おそらくここで寝泊りしていたことでしょう。
もうひとつ仕事に好影響を与えてくれるのは、家でも街でも大学でも私をとりまいている日本的な文明の現実です。私はいまあらためて、「すべては比較によって認識される」という月並な真理の正しさを感じています。合衆国にいたとき、私はロシアの後進性を感じ、ドイツにい たときはヨーロッパというものの近親性を覚えましたが、日本で生活することにより、私はロ シアの社会や政治体制、国民性、文化やメンタリティの特殊性というものを痛感させられるよ うになりました。日本の生活がどうしてロシア生活をより深く理解する助けになるのか、ひと つ説明させていただきます。
ロシア人の酒好きは皆の非難の的になっています。しかし私は常に、このロシアの伝統が深い社会的な意味を持つと見なしてきました。酒宴は仲間の連帯感を強め、孤独感を吹きとばし、相互理解を助けてくれるのですから。ロシアにいるとき、私は日本人は酒を飲まないというこ とを読んだことがあります。日本人はアルコール分解酵素を分泌しないので、アルコールに弱 いというのです。しかし同時に私は、日本人が集団志向の国民だとも聞きました。私は酒宴を 好まぬ日本人がどのようにして仲間意識を強めているのか、知りたいと思いました。しかし私 が日本で見たことは、私の疑問を解いてくれました。つまり日本人は、すくなくとも日本の男 性は、酒宴が好きですし、しかも私の見るところ量の点ではロシア人に劣らぬほどよく飲むの です。日本人は酒宴を、仕事の成功の必要条件と見なしています。酒宴が同僚間の結束を固め、 仕事の意欲を強めてくれるのです。日本の繁栄からみて、これは正しいのでしょう。つまり酒 を飲むのは、もちろんこれを賢くおこなうならば、有益なのです。おそらくロシア人の欠点は、 しばしばこれを見境いもなくおこなうという点にあるのです。
ロシアの女性は、家庭でも社会でも常に低い地位におかれてきました。しかし心理学者たちによれば、女性は全体として男性よりも賢いといいます(つまり、たとえ男性が女性よりも才能豊かなことが多いとしても、女性が男性よりも賢いことのほうがもっと多いのです)。私はロ シアの女性が社会的問題に対して発言権と影響力をほとんど持たなかったことを、ロシアに とっての大きな不幸だと考えています。私は日本の社会でも同じように女性があまり男性から 敬われていないということを読んだことがあります。そのとき私は、女性に対する尊敬なしに、 どうして国の繁栄が可能なのだろうかと思いました。しかし私は日本で生活することにより、 ほっそりとして可憐な日本の女性が、勤めに出ている割合はロシアの女性の2分の1なのにも かかわらず、家庭では、彼女を愛し、敬い、重んじる夫に対してとても大きな影響力を持って いることを知りました。おそらく日本の女性は、自分の夫をとおして社会的問題に影響を与え ているのでしょう。残念ながら私には、日本の女性がどのようにしてこの家庭内の高い地位を 確保しているのか、よくわかりません。
西側のロシア学者と多くのロシア人研究者は、ロシアには資本主義とそれに関連する、自由、創意、冒険その他のものが常に不足していたことが、ロシアの後進性の原因であると考えています。現在ロシアでは、個人主義および私有財産と自由企業の思想が流行しています。ロシア 人の圧倒的多数は、日本の繁栄はすべて資本主義のおかげだと思っています。しかし日本に来 て私は、日本の資本主義がヨーロッパの資本主義にあまり似ておらず、アメリカの資本主義に はさらに似ていないことがわかりました。日本の資本主義は、集団主義、公共利益、計画性、 そして管理の思想を積極的に活用しています。しばしば私は、日本はかつてのソヴィエト・ロ シアよりも社会主義的であるように感じます。
帝政時代、ロシアの農民(1913年には人口の80%を占めていました)は、同時に異教徒でもありキリスト教徒でもある二重信仰者でした。多くの人々が、異教はロシアの経済と社会の 進歩を著しく妨げたと考えています。ですから、日本人の大多数が二重信仰者だということを 知ったときの私の驚きは大変なものでした。様々な宗教的伝統が、同じひとつの家庭でばかり か、同じひとりの人間の日常生活のなかでも平和に共存しているのです。日本人は、同時に神 道と仏教のある伝統的宗派もしくは何かの新しい宗教に属しています。もっとも日本人にいか なる宗教を信じているかと尋ねれば、三人に二人は自分は信者ではないと答えるでしょう。し かしその一方で、日本人は宗教的祭日を守り、すくなくとも神式の結婚式と仏式の葬式という 二つの儀式に従っているのです。このように、二重信仰は日本の進歩を妨げてはいません。と いうことはロシアでも、二重信仰が問題ではなかったのです。
1860年代にロシア人と日本人は同時に近代化に着手しましたが、その後ロシア人は日本人に追い越されてしまいました。日本はロシアに比べて天然資源が乏しいのに、どうしてこのような大進歩を成し遂げられたのだろうか、と私はいつも不思議に思います。日本の成功の原因に ついて、私は次のようなことを考えたというよりも感じました。
日本人は宗教改革を体験せず、プロテスタントにもなりませんでした。しかし日本人の勤労倫理はプロテスタントにひけをとりません。日本人はうらやむべき勤勉さをもって、どんな労働にも熱心にとりくみます。日本人にとっては悪い職業や悪い仕事は存在しないようです。日 本人は夢中になって働き、労働を楽しみ、その成果に満足を見いだします。日本人が何をする にもよりよくおこない、労働というものに勤労意欲を高めるらしい美意識を結びつける能力に は、感嘆せずにはいられません。日本人は立派に働き、そのさいに必ず立派な作業衣を着用し ます。日本では、掃除夫がファッション・ショーのモデルのような服装をしているのです。
いたるところで私は日本人の驚くべき現実主義に出会います。私は日本人を、小事を尊ぶ理論の信奉者と呼んでみたい気がします。日本人は空を舞う鶴を追いかけるよりも、シジュウカラを飼うほうを好みます。また日本人は一度に全部を変えることを嫌い、革命よりも改革を、 飛躍よりも進化を好むように感じられます。おそらくこの現実主義のために、日本人は伝統を 愛し、それと同時に外国から入ってくる有益なものをよろこんで受けいれるのでしょう。その 結果、新しいものは伝統のふるいにかけられ、日本古来の文化を損なうことなく、逆に豊かに していくのです。
私の感じるところ、日本人は安定した心理と落ち着いた精神において際立っています。日本人は避けがたい事態や状況と妥協し、欲求や願望を抑え、不和や不幸に面して自らの非を認めるすべを知っており、いたずらに他人を責めることはしません。日本人は仕事に集中するばか りでなく、必要とあらば、開いた時間を利用してリラックスすることもできます。公園や、自 然の中や、ベンチや、また人ゴミや自動車にかこまれた最もありふれた場所や職場で、ゆった りとくつろぐ身体や明るい顔を、私はよく見かけます。きっと日本人は、身体や心を癒す力や 時間を上手に見つけたり、草花や、魚や、雪のようなささやかなものによろこびを見いだした りすることのおかげで、たくさん働くことも、長生きすることもできるのでしょう。
日本人にはみな日本の国民としての誇りと野心があるように見えます。しかし日本人の民族中心主義や愛国主義は、戦闘的ではなく、平和的な性格のものです。日本人は自分が日本人であることに誇りを持ち、どんな分野でも一番になろうとします。日本人は日本人としての顔を 大切にし、他の文化に吸収されることを望みません。
日本人の力は、規律性、組織力、几帳面さ、義務感、そして秩序への愛にあります。私はこ れほど法律を遵守する国民を見たことがありません。日本人は人生のあらゆる場面に備えて優 れた規則をあらかじめつくり、それに従うよう努力し、滅多に踏みはずしません。責任を守り、 義務を果たし、恩返しをするのは、名誉なことであり、日本ではこれがお題目でなくて日常生 活でおこなわれています。やってはいけないことをしたり、他人をおとしいれたり、嘘をつい たり、秩序を乱したりするのは、不名誉なことなのです。言われたことは必ず守られます。こ のような誠実さにはいたるところで出会います。私はあるときベンチに鞄を置き忘れましたが、 あくる日、鞄はその場所にそのまま何も盗られずにありました。今までに私をだましたり困ら せたりした日本人は、ただのひとりもいません。
日本では大学教授が、日本人の知識への愛と教育への敬意を反映してとても尊敬されています。この愛と敬意こそ知恵と力の尽きることのない泉です。 また人々のあいだの団結した雰囲気と温かい関係がよく目につきます。他の国々に比べて、 孤独に苦しんだり、未来に不安をおぼえたり、人生への信頼を失って絶望していたりする人を 見かけることはずっとまれです。日本人は、おたがいに理解しあい、助けあい、協力しあうこ とを知っており、人に親切にするのが好きで、人が困っている時には精神的に支えるばかりで なく、物質的援助をも惜しまないように感じられます。人々は、花や木、犬や猫、カラスや雀 など、生きているものすべてを大事にして慈しみます。もしも世界中がこうであったらどんな によいでしょう!
このように私には、日本人の力とその成功の理由は、日本の伝統と国民性の伝統的特質のなかにあるように思われます。もっとも正直を言いますと、日本で生活するうちに、私は日本の伝統的価値が年配の人たちが言うようにだんだんなくなりつつあるように思えてきました。教 養があって、西欧や合衆国のことをよく知っており、たびたび訪れている人ほど、私の思い描 く理想の日本人から離れていきます。知識人のあいだでは、日本的な姿からのズレが、農民や 労働者のあいだでよりも目立ち、大都市では小さい町やとくに農村でよりも目立ちます。しか し、どのくらいの速さで伝統的な価値が失われ、生活の新しい理想や日常の振舞いの新しい規 準が現れてきているのか、どれほど深く個人主義が浸透し、集団主義が評価されなくなったの か、日本のフェミニズムはどのような段階にあるのか、いろいろ疑問はありますが、私にはま だその予備的な解答さえありません。私はあまりにも日本人を知らなすぎます。
ともあれ、私の述べたことはすべて、リアリズムではなく印象主義にすぎず、絵というより下絵にすぎません。外国人、それも日本語を知らない外国人には、日本人を理解するのはむずかしいです。多くの疑問は答えを得ることができません。というのは、私の質問が日本人には 突飛であったり、要するに鳥はなぜ自分が飛ぶのか知らないということであったり、その質問 が公私の一線を越えてしまっていたりするからです。私が思うに、日本人は親しい人たちのあ いだでしか本音を言わず、喜怒哀楽や悩みを見せません。他人や第三者、とくに外国人の前で は、言葉と感情を自制するのです。私は思わずこんなふうに叫びたくなることがあります、「仮 面はもうたくさんです、あなたの本当の顔を見せてください!」と。
(ロシア語から武田昭文訳)