スラ研の思い出(第2回)
外川継男(上智大学)
スラ研が創設の当初から学際的な「地域研究」をめざし、かつ学部や大学の垣根を越えた機関として発足したことと、さらに左右のイデオロギーを排して、あくまでも学術的な研究をめざしたことは、いくら強調しても強調しすぎることはないだろう。その後スラ研は施設からセンターへ昇格し、さらに北大内の研究機関から全国共同利用へと大きく発展したが、このような発展を可能にした理由のひとつが、以上の設立当初からの原則と姿勢であったと言うことができる。
スラ研が官製によらない学内の研究室として発足するにあたって、中心的役割をはたしたのは法学部教授でのちに立教大学の学長になった尾形典男氏と、国立大学で最初のロシア文学の講座を担当した木村彰一氏の二人であった。尾形氏自身は専門がロシアではないということもあり、また間もなく北大から立教に移ったので、「職員録」に登場するのは1955〜56年度の2年しかない。一方、東大に移った木村氏は、1956年度からは学外兼任研究員として、1978年にスラ研が施設からセンターに改組されるまで勤めることになる。
後年尾形氏は私にスラ研設立の裏話としてつぎのようなことを語った。アメリカ合衆国の占領が終わって間もなく、東大、京大、北大などから何人かの研究者が米国務省の招待でアメリカに行ったが、帰国の船のなかで、将来日本にも地域研究の機関が作られるべきであり、その際には東大がアメリカ研究を、京大が中国研究を、そして北大がロシア研究をというふうに、専門を分化させてやっていこうということが「夢物語」として話し合われたというのである。
おそらく北大にスラ研ができたのは、これがきっかけになって、尾形氏が帰国後木村氏と相談して人選をすすめた結果と考えられる。さらに日本におけるロシア・スラヴ研究の育成に熱心だったロックフェラー財団人文学部長のファーズ博士がさまざまな形で後押しをしたこともあずかって力があった。ファーズ氏は木村氏をハーヴァード大学に、そのあと岩間氏をコロンビア大学に、さらに大学院生だった外川をカリフォルニア大学(バークレイ)に留学する機会を与え、スラ研設立にあたっては欧文基本図書を寄贈するなど、正面からではなく、陰になって援助をした。
このようにアメリカの財団の援助で地域研究機関ができるというのは、京都大学の「東南アジア研究センター]の例が後年にも出てくる。しかし当時ジャーナリズムをおおいにわかせたように、京大の「東南アジア」の場合には、このことが政治問題化し、関係者はたいへんな苦労を強いられた。あとで述べるように北大のスラ研もそれなりの問題を抱え、百瀬施設長とその後任の私は処理に苦悩したこともあったが、それが大きな政治問題にならなかったのは、くりかえして言うが、設立当初から左右のイデオロギーを排して、純粋に学術的な研究を貫こうという姿勢にあったと言えるだろう。
1956年度の『北海道大学一覧』には「法学部付属スラブ研究室規定」が掲載されているが、それには「本研究室は内外の協力のもとにスラブ文化一般に関する研究を行う」と第2条に記され、第3条では研究部門として歴史、政治、経済、国際関係、文学の5部門があがっている。さらに第5条で「本研究室に研究員会議を置く」「研究員会議は研究室の運営、組織、予算、人事、その他重要な事項を審議する」として、法学部教授会とは別に、研究員会議という独自の審議機関が明記されている。しかし、法学部付属であるところから、第6条で「研究室主任は法学部長のもとにおいてその事務を行う」として、官製の上からは法学部の付属の機関であることになっている。
しかし、設立以来、慣例としてスラ研の教官は法学部教授会に出席することもなければ、法学部長の選挙にも参加せず、スラ研の予算や人事は年に二回開催される研究員会議において審議・決定され、その議事録が法学部長に提出されて了承されるという形をとった。これは独立性という点では結構なことだったが、大学全体のなかにおけるスラ研の利益はあくまでも法学部長を通してでなければ文部省に届かず、また大学紛争のときには大学の方針が一向にわからず、この事件を機会にスラブ研究施設長は法学部教授会の「報告事項」のみを傍聴するようになった。
このような法学部とスラ研との間をつなぐ兼任研究員として参加したのが尾形氏であったが、このポストは尾形氏のあと1959年から法学部の政治史の教授でハプスブルク帝国史研究の矢田俊隆氏が継いだ。
スラ研は5部門で発足したが、じつは最初法律部門または国家学部門を置くことが問題になり、当時東大の社会科学研究所にいたY教授が候補にあがった。しかしこの人が政治的にかなりはっきりした党派性の持ち主であったというところから、この人事はお流れになった。この後、経済部門についても同様なことがあった。
おそらく江口、猪木の二氏は尾形さんが、岩間、金子の二氏は木村さんが推薦したものだと思われる。木村さんがある夏、蓼科の別荘に岩間さんをたずねてスラ研の兼任研究員に加わることをさそい、二人が将来の構想について夜を撤して語ったことを岩間さんが書いている。
当時すでに江口さんは名の知れた左翼の論客であり、一方、猪木さんはこれまた芯のあるタカ派として知られていた。しかし二人とも柔軟な考え方をするリベラリストでもあった。この二人を組合せたことはその後のスラ研にとって大きな意味をもつことになったと私は信じている。当時の日本の学会で、このような左右の論客が三日間にわたる研究会を通して、同じ宿に泊まり、同じ釜の飯を食い、同じ風呂に入って、心ゆくばかりに議論し、冗談を言うなどということは、スラ研以外にまったく考えられないことであった。その後スラ研には江口さんの弟子の百瀬宏氏と伊東孝之氏が、また猪木さんの弟子の木村汎氏が専任の研究員に加わって、大きな戦力になるが、このことひとつをとってみても、二人の功績は大きいといわなければなるまい。
江口さんは独特な風格のある人で、よく坊主頭をかきながら「そんなことを言っても、学問的にそう簡単にいうわけにはいかないんで」などとぶつぶつつぶやいたものだった。書かれる文章は明快だったが、話されることは語尾がはっきりせず、論理を追うのに苦労した。一方、猪木さんには一種独特のユーモアがあって、その関西訛りの語り口に一同は腹をかかえて笑わされた。人物や業績をずけずけ批判しても、根アカなところから憎まれないところがあった。
岩間さんはラジーシチェフの『旅』で卒業論文を書いたと聞いたが、インテリゲンツィアやナロードニキに強い関心をもつヒューマニストだった。イワノフ=ラズームニクのロシア・インテリゲンツィア論を紹介したときに、予定の半分も時間があまってしまって「女子大で話したときは時間が足らなかったのですが、どうも・・・」と言って苦笑された。金子さんは寡黙な、すこし気難しい人のように見受けられた。ゲルツェンの翻訳を通してかねてから氏を尊敬して私は、すこし間をおいてその話を謹聴したが、すでに老大家の風格があった。しかし、最年長の金子さんもまだ四十台半ばで、皆若かった。1961年の春、スラ研の助手になったとき、私は27歳だった。
宇宙飛行士に次ぐ壮挙
ハリーナ・ヤナチェク=イワニチコヴァ
(シレジア大学・ポーランド/センターCOE外国人研究員として1998年6月〜12月滞在)
初めて北海道に来たときの私は、ポーランド人にありがちな紋切り型の日本イメージを持っていました。ポーランド人が高く評価する、主として科学技術文明の権化のような国のイメージです。具体的に言えば、平均的なポーランド人の意見では、日本製の車、テレビ、ラジオ、カメラ、コンピュータ機器といったものは世界一なのです。また優雅で洗練された東洋美術、華道、園芸、茶道、音楽といったものも、よく知られて高い評価を受けています。音楽の才能について言えば、ポーランドで行われる国際ショパン・コンクールで、日本人の演奏家は誰よりも美しく繊細にショパンのマズルカやポロネーズを演奏し、沢山の賞を獲得しています。その一方で、日本人のヒロイズムや残忍さのイメージも、英国やアメリカの戦争映画や黒沢監督の映画を通じて知られています。さらにポーランドのマスコミは、いわゆる過労死の問題や、親の過剰な期待からおこる子供の自殺の問題など、日本の暗黒面も広く報道しています。
総じて日本はポーランド人の間で、他の諸国よりも飛び抜けて高い人気を得ており、私も大いにそうした世評の影響を受けていました。私が札幌で客員教授になると聞きつけたある編集者は、冗談めかして「あなたより高く飛べるのは宇宙飛行士だけですね」と言ったものでした。
日本での私の「宇宙飛行」は、研究生活と日常生活の二つのレベルで行われました。研究生活について言えば、センターは外国人客員に素晴らしい環境を用意してくれました。つまり研究会を組織し、コンピュータとその技術援助を提供し、図書資料を提供してくれました。図書資料は絶えず海外の出版物が補充される充実したものです。こうした環境では、どんな学術的「飛行」も高度なものとなりうるし、またそうあるべきなのです。
しかし一方で日常生活というものがありました・・・。市街ではもっぱら日本語しか通じません。私は日本語が読めないので、例えばある建物が何の建物かも分かりません。前にポストがあるから郵便局だと思って入っていったところが、守衛によって慇懃に、しかしきっぱりと出口を指し示される、というようなこともありました。地下鉄の改札で切符をしかるべきスロットに差し込み、ゲートが閉まらぬうちにすばやく通り抜けるといったことも、なかなかの難題でした(ちなみに、動物の知能やストレスへの反応を調べる実験にも、例えばネズミに同様な開閉ゲートをくぐらせたりするものがありますが、恐らくネズミの方が私よりもずっと器用でしょう)。
ポストモダンの第三千年紀を迎えようとしているこの世の中で、日本での私は文盲の生活を強いられたわけで、これはたいへん大きなカルチャーショックでありました。
こうした環境の中で、私は人々やその生活習慣に馴染んでいきました。まず第一に驚いたのは、ここには下劣な振る舞いが見られないということでした。それどころか人々は上品で親切であり、私が一人では見つけられないような目的地まで、わざわざ何百メートルも案内してくれるといったようなこともありました。夜一人で歩くのも、なにも怖くありません。いったい例の残忍な将軍たちは、野蛮な山賊たちは、気位は高いが酷薄な武士たちは、大胆な空手遣いたちは、どこへ消えてしまったのでしょうか?ひょっとして、そっくりゴジラにとって変わられてしまったとでもいうのでしょうか?しかし悲観主義者の私には、歴史においては何事も消え去らない、ただ一時的に姿を消すだけだと思われるのです。だからいにしへのサムライたちも、いつかまた別の形で登場するのでしょう。大学のキャンパスで、大きな太鼓でリズムをとり蛮声をあげながら、扇を持って踊っている学生たちの中に、私はその片鱗を見る思いがするのです。
こうして私は徐々に、文字からではなく目と耳で日本を知ることの面白さを発見していきました。
壮大な日本の文明のただ中にありながら、私は自然や永遠といった超越的で圧倒的な存在と直面する人類が抱えこんだ解決不能のジレンマを感じずにはいられませんでした。果てしない太平洋の上を飛行し、何千もの光に彩られたおとぎの国のように美しい日本列島を目にすると、この素晴らしくも脆い国家を取り巻く危機の要素に気づかされます。とりわけあの邪悪なエルニーニョが冷たいラニーナと結んで自然を支配している現代においては。
札幌に着いた折り、私はまず面倒見のいいポストモダンの守護天使のようなホスト教官から一冊のガイドブックを渡されましたが、そのパンフレットのキーワードは「災害」でした。天災はいつ起こる分からないという前提で、地震の際にどのように対処すべきかを教えるものです。しかしそこに書かれた対処法は、危機の規模に見合うものとは思えませんでした。つまり電気とガスを消してテーブルの下に隠れ、恐らくそのまま家が、あるいは町全体が崩壊するのを待てというのです。もしそうならなくても、隠れていれば鍋釜が落ちてきても大丈夫というわけです。特別の避難訓練というものもあって、それによって起こりうる災害の規模がはっきりイメージされます。つまり東京地区では850万の人間の住む家屋が崩壊するという想定がなされているのです。ただし死者の数の推定は慎重に隠されています。恐ろしい話ですが、これを知ると大洋のただ中の火山地帯に住む国民の勇気と成果への尊敬の念が、ひとしお大きくなろうというものです。
現代文明は規模の大きなものです。日本列島には1億2千万の人間が住んでいますが、墓地にはさらに多くの人間が住み、しかも当地の信仰によれば、祭の日には死者たちの霊が里帰りするというのです。霊魂および精霊というものは、常に問題の種となってきました。かのフェイエラーベントが言うように、「科学は確かに存在に関する信頼できる情報を与えてくれない」のですから。
生者がなつかしい死者を迎えるお盆という祭が市街で行われるのを見ましたが、これは驚くべき経験でした。橙色の提灯で飾られた夜間の大通り公園に、着物姿や普段着姿の老若男女が手に手に団扇を持って、列をなして踊っているのです。これは死者を迎える踊りで、エキゾチックな楽器による切れのよい、しかしメロディアスなリズムにのって行われます。別の時代、別の次元から響いてくるような盆踊りの音楽に共鳴するように櫓が回り、踊り手の列がそのまわりを回転します。徐々に熱と激しさを加えていくリズムにのった踊り手たちが、目の前を動いていくのです。これは南スラブのいわゆるコーロとは別物で、踊り手たちは手をつなぐこともありませんし、ブルガリアの場合のように体をこすり合わすことも、また自分の汗や肉体を感じることもありません。誰もが一人で踊りながら、同時にひとつの精神、ひとつの儀式を共有しているのです。テレビカメラ用のライトに照らされた彼らの顔を、私はじっと観察していました。緑の着物を着たスポーツマンらしい若者の顔は、まだ時の痕跡を宿していません。派手な着物の若い女性の顔は楽しげに微笑んでおり、祖先の霊よりも観衆の注意を引きつけようとしているようにみえます。中年女性の少しむくんだような丸顔は、疲れを表しています。一番興味深いのは老人の顔です。短い髭に整った顔立ちの、痩せた灰色の着物の踊り手が一人、空を仰ぎながら踊っている様は、なにか残酷な振る舞いをした人が罪を悔いているようにみえます。また一人黒っぽい着物の踊り手が櫓の回転に合わせて回っていますが、禿頭に櫓の灯を反射させたその顔は、なにやらオペラの幽霊を連想させます。真っ白な着物を着て毛皮の付いた帯を締め、自信満々の表情を浮かべた高齢の男性は、どうも誰かに似ている−−まるで北海道の森にではなく、古代ギリシャの丘に生まれた人間のようなのです。そう、着物を着ていてもだまされません。これは死者の霊とデーモンたちの支配者ディオニュソスであり、サテュロスたちとともにダンスとセックスによって死の恐怖、存在の終末の恐れを呑み込んでしまう者なのです。
こうして私たちはついに、代々保存されながら、時とともに文明の洗練によって幾分風化してきた、人類の太古の儀式の場にたどり着くのです。
万霊節の荘厳な悲嘆の文化の中で育った私には、この美しい日本の儀式はまったくエキゾチックで、しかも注目に値するものと思えました。それはこれが高度な「癒し」の性格を持つからです。踊りながら死者を迎えるとは、なんと素晴らしい思想でしょうか!踊りは人に全てを忘れさせ、一番大切な人の死も、あらゆる災害をも受け入れる気持ちにさせてくれます。はるか昔にこの儀式がどのようなものであったか、私には想像がつきます。きっとそれはもっと激しい、もっと忘我の儀式だったにちがいありません。
これは単なる祭だよ、とセンターの同僚に一人は言いました。しかし「とんでもない」と北区の祭の組織者は反論します。「だって家の息子たちは、はるばる東京から爺さん婆さんの霊を迎えに帰って来るんだから」この人物は私にお盆の団扇をくれて、盆踊りに加わるよう招待してくれました。これは疑いもなく親切な招待ですが、しかし見知らぬ人々の霊と交わることは本当に安全でしょうか???
(英語より望月哲男訳)
日本での暮らしから:3つのエピソード
イーゴリ・クリャムキン
(独立社会学分析研究所・ロシア/
センター外国人研究員として滞在中)
モスクワを発つ直前に読んだ日本論の本に、日本人はどんな場合にも地位の上下ということにとても気を配ると書いてありました。外国人への忠告まで書かれていて、それによると、日本人に頼み事をする際には、まずそれが相手の地位に見合った事柄かどうか考えてからにしなさいとのこと。さもないとお互いに気まずいことになりかねないというのです。
この忠告を私はよく頭に刻み込んで、しっかり守ろうと思ったものですが、来日第一日目からもうそんな頼み事の機会が訪れました。東京の空港で北海道行きの航空券を買った私は、搭乗手続きのアナウンスを待っていました。しかししばらくして気づいてみると、アナウンスは日本語だけで、私には分からないのです。掲示板の文字表示も同じく理解できないものでした。そこで私は、自分の搭乗機のチェックイン・カウンターを捜そうと、広いホールを延々と歩き始めました。しかし自分の便の番号には一向に行き当たりません。そうしているうちに、フライトまであと20分ほどという時間になってしまいました。
こうなると出口はひとつ−−誰か日本人の係員をつかまえて、相談を持ちかけるしかありません。しかしどうしたら自分の頼み事にふさわしい相手を見つけることができるのでしょうか? しばしじっと観察したあげく、ついに私は一人の係員に目をつけました。どうやら彼は搭乗手続きの係ではなく、旅客の案内を担当している人物のようです。私は彼に歩み寄って、英語で窮状を説明しました。相手は愛想のよい微笑みで迎えてくれましたが、しかしこちらの言うことは通じませんでした。そこで切符を見せると、彼は自信ありげにある方向を指さしましたが、そこはもう私が歩き回ってなにも見つけられなかった場所なのです。おそらくその時の私は、たいそう複雑な表情を浮かべていたことでしょう。お前さんの言う場所にはもう行ってみたんだ、ということさえ言葉で表現できないのですから。
するとその時、意外なことが起こりました。係員はやおら立ち上がり、案内の順番を待っていた人々に何事かを告げると、カウンターから出てきて私の手にあった切符を取りあげて一瞥してから、ついてこいと合図したのです。またもや延々と、ほとんどホールの端から端まで歩くはめになりました。そうして私を必要な場所につれていくと、彼は自分の口から私の切符のチェックインをするように頼んでくれたのです。私はこれまでどんな国でも、このような個人的サービスを受けた覚えがありません。ところではたして私の頼み事は、この係員の地位にふさわしいものだったでしょうか?
その翌日、今度は札幌で、私は迷路のような地下街に手こずり、どうしても地下鉄の入り口が見つけられませんでした。通行人に尋ねはじめましたが、英語の分かる日本人はなかなか見つかりません。しかし最後にようやく、非常に上手な英語を話す50恰好の大変格幅のよい男性に行き当たりました。ところが彼は東京の人で、当地に来たばかりだから、教えてあげられないと言うのです。私は立ち去ろうとしましたが、彼はちょっと待てと言って人々のいる方に引き返していきました(その時近くには誰もいなかったのです)。そうして人々に地下鉄の入り口を訊ね、戻ってきて私に行き方を分かりやすく説明してくれたのです。このことがあってから、私は日本語を知らなくても日本で暮らせるということを理解しました。そしてさらに数日たつと、英語も不要だと確信するようになったのです。
その時、私はある役所を探していました。場所はだいたい頭に入っていましたし、それに日本語で書かれた所番地も持っていました。しかしすぐには見つからなかったので、最初に通りかかった人(中年の婦人でした)に番地を書いたメモを見せたところ、相手は行くべき方向を教えてくれました。そちらの方に200メートルほども歩いたとき、背後から大きな声が聞こえました。振り向くと、先ほど道を教えてくれた婦人がいるではありませんか。彼女はその時じつに表情豊かな手振りをして見せたので、私はどうやら次のことを理解しました。つまり第一に私は道を間違えている、第二に自分についてこい、第三に彼女自身も同じ建物に用事がある、というのです。この後、私の関心はひとつに絞られました。はたしてこの婦人は本当に同じ役所に用事があるのだろうか、それともお節介と思われたくないためにそんな口実を考え出したのだろうか、ということです。ですから必要な窓口に並んでからも、私はそっとこの婦人を観察していました。すると彼女はすぐに出口の方へ立ち去っていったのでした。
日本は半ば閉ざされた国で、日本人以外はほとんどおらず、外国人を見かけることは希です。たぶんそのせいで、外国人は希な客として大事にされるのでしょう。しかしおそらく時とともに日本ももっと開放されて、ヨーロッパ人の顔をした人間の数も増えて行くでしょう。はたしてその時、日本人の外国人への態度は変わるでしょうか? ロシアの場合には、国が世界に開けて街で外国人を見かけることが希でなくなったとき、人々の外国人への態度ははっきりと変化したのですが・・・・・・。
ところで、日本人の地位へのこだわりということに関して言えば、私自身はこれまでその種のことを経験していません。ひょっとしてこれは、私が例の本で読んだ忠告を念のために忘れまいと努めているからかも知れませんが。
(ロシア語より望月哲男訳)
サッポロ・ダイアリー
ピーター・ラトランド
(ウェズレイヤン大学・米国/
センターCOE外国人研究員として1998年5月〜8月滞在)
5月末の札幌に飛行機から降り立ったときには、何が自分を待ち受けているのか私はよく分かっていなかった。たいがいの西洋人はそうなのだが、私の日本についての印象の土台も、若い時に観たクロサワの映画だとか、テレビでやっていた相撲レスリングなどに由来するステレオタイプなイメージを、漠然と組み合わせたものだった。この地球上では誰でもそうだが、我が家は日本の電気製品で溢れており、私も何年かトヨタを運転したことがある。アカデミズムの世界では、第二次世界大戦の原因と特徴について、そして日本の経済モデルについて、今も活発な議論が戦わされている。私のウェズレイヤン大学では、定期的に日本の交換留学生(外務省から2年間派遣される者を含む)を受け入れていて、彼らはよく私のクラスを受講した。
しかし、日本の都市がどんな風に見えるかとか、日本人が日々の暮らしをどのように送っているかとかいう話になると、はっきりしたイメージを、私は持っていないことが分かった。私は、何か「収束理論」のようなもの、つまり経済のグローバリゼーションが文化の違いを根絶しつつあり、都市の生活は、五大陸のどこであろうと、どんどん同じになっていくというのが真実であると、ナイーブに考えていたようだ。私が読んだ唯一の日本の作家は村上春樹(『羊をめぐる冒険』、『ダンス・ダンス・ダンス』)で、どの作品も一致して北海道を舞台にしていた。しかし、村上はアメリカナイズされた若い世代の作家で、マサチューセッツ州のケンブリッジに住んでいて、「本当の」日本を見せてはくれない。
去年、私にとって初めてのアジア訪問として、韓国と中国を1ヶ月間だけ旅行した。これによって、部分的ではあるが、日本に自分の身をさらすための心構えが出来た。両国の社会のダイナミズム、ソウルと香港の外観の豊かさや洗練のレベルには驚かされた。「発展した」社会と「発展途上の」社会の対立という往年の考えは、あっという間に消えていった。旅行して、自分の目で見てみること。これに代わるものは本当にありはしない。
日本についての私の第一印象も、同じくらい強烈なものだった。この社会の民族的均質性にはすぐに驚かされる。私は大阪からの飛行機の中で、自分がただひとりの外人だということに気づいたものだ。札幌の街並みが近代的で新しいことにもびっくりした。もちろん、札幌は典型的な日本の都市ではない。その広々した通りや碁盤目のシステムは、見た目にも感覚的にも明らかにアメリカのものだ。私の息子は札幌のダウンタウンをニューヨークと名づけた。スケールは小さいものの、大通りはパーク・アヴェニューに似ているどころか瓜ふたつである。七月に京都と東京を訪れたときには、本州での暮らしがもっとゴミゴミしたものであることを知った。しかし古代の寺院があるとはいえ、京都も現代風の感覚を持った都市だし、もちろん東京に至っては隅から隅まで近代的である。
日本社会を研究するのは、その建築環境を研究するよりもずっと難しい。残念なことだが、アメリカを発つまでは、ガイドブックに載っていた『日本語2時間レッスン』のための時間さえなかった。札幌に向かう一週間前まで講義があったし、出発の日の朝にも学生たちのテストの採点をしていたというのが私の言い訳だ。言葉を何も知らないのが、日本人の生活にとけ込む上で大きな障害になった。三種類の文字はきわめて恐ろしいものだった。日常生活については、実にあっけらかんとしたものだった。センターのスタッフと友人たち、通りや駅の英語の標示、スーパーでのインスピレーションに満ちた当て推量のおかげで、私は大きな問題もなく外を出歩くことができた。
興味をそそる沢山の矛盾が目に見える社会に住んでいながら、言葉の壁に阻まれて本格的なフィールドワークが出来ないことが、社会学者である私を欲求不満にした。私は耳ではなく目でもって研究する「道端の社会学」に甘んじた。靴を脱ぐこと(専用のスリッパについても)、店の接客で詠唱される機械的な挨拶、緻密な日本式ボディーランゲージといったような日常生活の諸々の儀式にはハッとさせられる。お祭りは意外な楽しみだった。ヨサコイソーラン祭りを観ていると、自分が札幌ではなくサンパウロに降り立ったような気がした。繰り返し催されるお祭りは、日本の人々が自分たちの文化を保護・再生しようする決意、そしてそんな立場を集団で表現することに時間と労力をかける善意を証明している。
私はあらゆる機会を捉えて、日本人や外国人の同僚に、どのように日本という国が機能しているのか、彼らの考えを聞き出そうと務めてきた。西洋の文献もいくつか読んでみたが、「菊学派」(ルース・ベネディクト)と「リビジョニスト」(チャーマーズ・ジョンソン、パトリック・スミス)との間でひどく分極化されていることが分かった。前者は日本文化を極めて安定したものと見なし、後者は極めて壊れやすいものと見ているが、両者とも、日本文化が内面では矛盾を抱えていて、独自な特色を持つものだという点では一致している。ウェズレイヤン大学の日本政治の専門家は、日本とイギリスの政治を比較対照する講義を持っている。どちらも君主制の島国だし、ヒエラルキーに関する強い社会的な伝統、慣習、概念を持っている。日本へ訪問して以来、なるほどそこは島国だということには、私も賛成できる。けれど、他の類似点については、あまり確信が持てない。イギリスの社会は、日本より柔軟で流動的だし、衝突が多く、ずっと個人主義的でもある。そのうえ、過去30年の間にとても多文化的になった。
センターは私の環境を実にスムーズに整えてくれた。設備万全のアパート、ゆったりとしたオフィス、それに自転車まで次から次へと手に入れてくれた。インターネットのおかげで、札幌に「降り立って」すぐに、私は起きて、ひと走りし、電子メールに返事を書き、ロシアの新聞を読んでいた。私が最初に学んだ日本語は、「ネットスケープ」だったと思う。びっくりするほどインターネットは地球を縮めてしまった。ここで最初にしなければならなかった仕事は、1997年の旧ソ連と東欧の政治事件についての年次調査を編集することだった。これはM. E. Sharpe社によって出版されることになっている。要するに私はワルシャワやバクーやティラナの人たちと電子メールをやりとりしていた。政治危機がちょうどその地域で火を噴いたとき、そこに住む人々とリアルタイムで日本に居ながらにして討論するというのは奇妙な感じがしたものだ。
もっと変だったのはハーバードの同僚、マーク・クラマーとの体験だった。私が手に入れた新しい情報について、我々は七月いっぱい電子メールのやりとりをしていた。私がコネティカット州ミドルタウンではなく日本にいることをマークが知ったのは、4週間たってからだった。私は夏に出かけると彼に言うのを忘れ、彼は私のミドルタウンのメール・アドレスを使い続けた(メッセージはそこから自動的に札幌に転送された)。
同僚との会話、そして夏のシンポジウムによって、私はスラブ研究が日本とアメリカでは、違ったやり方で行われていることを知った。ここでは流行の理論的な議論には関心が薄く、これらの地域で何が起きているのかに関する情報を集めることが重視されている。これは歴史、経済、政治科学の規範を越えて当てはまるように思える。経験主義寄りの私としては、こうしたアプローチは小気味よい。とはいえ、結論をもっと広い社会に伝えるために、調査をもっと大きな文脈に置いてみることも、重要なことに変わりはない。アメリカのキャンパスでの理論への強迫観念が、地域研究を痩せたものとし、アメリカをどんどん島国に変えているのではないか。それと全く同じ時に、平和にはほど遠い複雑な世界の中で、リーダーシップを示すよう期待されているのだ。異なる国の学者たちによる共同研究は、このような規範上のアンバランスを是正する点でとても重要だと私は思う。
(英語より越野剛訳)