タジキスタン民主化セミナーを終えて

宇山智彦

中央アジアのように、ある程度注目されているが専門家の少ない地域を研究するというのは因果な商売で、いろいろな仕事を一人でこなさなければならず、自分の本来のテーマの研究がおろそかになってしまうことが少なくない。去年の秋、かつて在カザフスタン大使館で私の上司だった外務省の方から、タジキスタン民主化セミナーという行事があるのでそのコースリーダーをやってくれないかという電話がかかってきた時も、またこれで専門のカザフスタン近代史の勉強をする時間が少なくなるなあと、私は複雑な気持ちだった。
筑波大学で秋野さんの写真を囲むタジキスタンの人たち
それでもこの仕事を引き受けたのには、理由があった。その一つは、このセミナーが、国連タジキスタン監視団のメンバーとして活動中に亡くなられた秋野豊先生の遺志を継ぐものと位置づけられていたことである。私は生前の秋野さんと特別親しかったわけではないが、彼の死には中央アジア研究者として大きなショックを受けた。他方でジャーナリストらが秋野さんを国際貢献のヒーローにまつりあげ、そのくせ秋野さんが命を捧げたタジキスタン和平の問題をほとんど取り上げないことには不満を持っていたので、このセミナーを機会に世間の注目を少しでもタジキスタンに向けたいと私は思ったのである。

もう一つの理由は、タジキスタンが私なりに思い入れのある場所だからである。1989〜90年にモスクワ大学に留学した時私が一番親しくしたのは、同じ寮にいたタジク人の学生たちであった。彼らの作るおいしいピラフを食べ、時にはウォッカを飲みながら、私の下手なロシア語と彼らの訛ったロシア語でいろいろな話をしたのは懐かしい思い出である。本当は彼らを頼ってドゥシャンベに行きたかったのだが行けずじまいになっていた。91年に政情不安が、そして92年に内戦が始まってからは、私はいつも悲しい思いでタジキスタンのニュースを追い、いくつかの場所にタジキスタン情勢の解説を書いてきた。

さて民主化セミナーというのは、外務省の外郭団体である国際協力事業団(JICA)の主催で、発展途上国の代表を招いて日本の政治・経済・社会に関する講義や見学を行うとともに、その国・地域の今後の発展のあり方を考えようというもので、これまでに中南米、アフリカ、インドシナなどを対象に何度も行われている。つまりセミナーのテーマは「民主化」には必ずしも限定されない。特に今回のセミナーは、タジキスタンの和解と復興のあり方を、タジキスタン側と日本側が一緒に考えることを重要な課題の一つとしていた。

私の仕事はまず、 外務省・JICA側の大まかなプランや過去の例を参考に、セミナーのプログラムを組み立てることから始まった。講義や見学は原案に近いものにしたが、外務省の「シルクロード総合戦略セミナー」と時期を合わせ、タジキスタンからの研修員がそれにも参加できるようにしたり、日本の中央アジア研究者たちとの懇談の場を設けたりして、かなり欲張ったプログラムを作った。

そのほか、セミナーの企画・運営に関わるさまざまな話し合いに加わるために何度も東京に通ったり、JICAの担当者とひんぱんに電子メールや電話のやりとりをしたりした。私は官庁がらみの仕事を少なからずしてきたが、これは、中央アジアのように日本人によく知られていない地域との関係を強化する際は、官庁と研究者が力を貸し合うことが必要だと思うからで、無条件に官庁の言いなりになろうとは思っていない。今回も、役所の内部の理屈を押しつけられた時や、知らないうちに私の提案が消されてしまった時は、遠慮なく文句を言わせてもらった。結局既成事実になってしまっていて変えられないことが多かったが、真摯な対応をしてくれた外務省・JICAの関係者には感謝したい(きっと、煙たい奴だと思われただろうが)。

一番頭が痛かったのは、タジキスタンから招く研修員の顔ぶれの問題だった。もともとセミナーの対象者は、タジキスタン政府とタジク反対派連合(UTO)が合同で作っている国民和解委員会(CNR)のメンバーかCNRが推薦する者で、政府側・UTO側を半々にするということになっていた。しかし、相手国政府への技術協力というJICAの基本的な仕事のやり方から言っても、外務省の連絡の取り方から言っても、タジキスタン政府にまず話を通さざるを得ない。従って研修員の大半が政府側に占められてしまう可能性を私は最初から予期していた。しかも募集の時期は、タジキスタンがタシケントの日本大使館の管轄に変わる直前で、モスクワの日本大使館(在ロシア・タジキスタン大使館を通じてタジキスタンと連絡するという迂遠な方法を取っていた)を通さざるを得なかった。そこで私は、最初に話を通すのはモスクワ・タジキスタン政府経由にしても、その後はタシケントの大使館とCNRの間で話を進めるようにと、外務省・JICA側に提案した。

しかし結局は私が恐れていたことが起こった。タジキスタン政府から返ってきた研修員リストは、10人中5人だけがCNRのメンバーであり、また経歴から判断すると、7人が政府側で3人だけがUTO側という構成だった。CNRは全部で26人から成る委員会だから、そこから多くの人を招くのは難しかったかも知れないし、旧来の政府とUTOの合意によって現政府でUTOに配分されるべきポストは3割だから、研修員リストもそれを反映していたのかも知れない。しかし国民和解の仕事とは明らかに関係ない人がいること、UTO側の研修員のランクが政府側の研修員より低いことから言って、やはり十分に満足できるリストではなかった。日本側の意見はこの点では一致し、UTO側から研修員を追加することをタジキスタン政府に打診したが、これもうまく行かなかった。

もともと、タジキスタンの和解という問題を真剣に話し合うためには、政府とUTO以外の政治勢力の代表も招く必要があったろう。しかしそのようなことをすれば政府・UTOに快く思われないのは明らかであり、そこまでの覚悟は私を含め日本側になかったというのが本当のところである。多少構成に問題はあっても、とにかく政府とUTOの代表を招いて日本社会に触れてもらい、タジキスタンについて様々な意見交換をすることができれば、初めての試みとして意味があると思われた。それにしても、研修員として来るのはどのような人たちなのだろうかと、私は不安だった。タジキスタンを専門とする外国の研究者数人に聞いてみても、リストに載っている人々のほとんどを知らないと言われてしまった。心配な気持ちのまま、研修初日の3月8日を迎えた。

新宿のJICA本部で会った研修員たちは、前日までの長旅にもかかわらず元気そうだった。私はガイダンスで、日本の良い面も悪い面もありのままに見てほしい、また日本人にタジキスタンのことを知らせるために積極的に交流してほしいと述べた。研修を主に担当する市ヶ谷のJICA国際協力総合研修所での歓迎昼食会では、ハラール・ミート(ムスリムが祈りを捧げた上で屠殺した家畜の肉)の食事を取りながら話が弾んだ。研修員たちの訛ったロシア語が私にはとても懐かしく、不安な気持ちはだんだん和らいでいった。

その後2週間のセミナー期間中には、いろいろなことがあった。最初の頃の講義の先生が途中で質問してもいいですよと言うと、研修員たちは待っていましたとばかりどの講義でも質問や意見を浴びせかけ、講師を立ち往生させることもしばしばだった。反面、ややメリハリに欠ける講義の時は居眠りをしたり、休憩でお茶を飲みに行っていつまでも帰ってこないなど、とにかく素直な反応が印象的だった。日本の構造汚職の話や、カンボジア和平の話の時は、タジキスタンの状況に引きつけながらとても熱心に質問をしていた。また、日本がアメリカ式の政治経済改革を迫られているという話や、アメリカの一極支配の話には敏感に反応し、周辺諸国の思惑に翻弄されてきた彼らの意識が窺えた。

外務省の担当官たちのレクチャーでは、しばしばタジキスタンの安定化が先か、日本からの援助・協力が先かという議論になった。外務省側の見解は、タジキスタンが十分に安定化するまで本格的な経済協力はできないというものである(小規模な援助は既に行っている)。それに対しタジキスタン側は、安定化を促進するためにも経済協力や投資を早く始めてほしい、特にタジキスタンに豊富な希少金属の開発に投資してほしいと主張した。これについては外務省側から、投資はそもそも民間の問題だが、天然資源を持つ国は他にもたくさんあるので、タジキスタンが投資先としての魅力を持つためにはやはり治安の回復が先だという再反論があった。基本的には外務省の言う通りだろうが、入口論に終始するよりも、タジキスタンの復興のために必要な援助・協力のあり方を具体的に話し合う中で、どの範囲の協力が可能なのかを考えた方が生産的なような気がした。

東大では中央アジア・中東研究者との会合を、またスラブ研では旧ソ連・東欧研究者との会合を開いたが、特にメーリング・リストで案内を出した前者には約25名の参加申し込みがあるなど、盛況だった。政府側はタジキスタンのさまざまな問題が順調に解決されつつあることを強調し(「民族問題はソ連時代に解決済みだ」という発言で日本側が白ける場面もあった)、UTO側は政府とUTOが協力していることを強調するのが基本パターンではあったが、それなりに多様な話が聞けた。そもそも紛争はタジク人が望んだことではなく、外からの影響が大きかったという論調が強かったため、スラブ研でMさんが具体的にどういうことなのかと聞くと、政府側は答を拒んだが、UTO側の一人がウズベキスタンやロシアの関与を具体的に話した。しかし全体的には、UTO側はもっと言いたいことがあるのに遠慮しているという印象があった。そもそも人事担当の大統領顧問が団長として来ていたのは、余計なことを言うと帰国後の身分を保障しないぞという意味だったのではないかと私は想像している。

UTO側がさまざまな場面で積極的に発言できなかったもう一つの理由は、3人中2人がロシア語が苦手なことだった(応募資格としてロシア語の十分な能力という条件が付いていたにもかかわらず)。彼らが発表する時は、別の研修員や、タジク語・ペルシア語ができる日本の研究者に通訳を頼まなければならなかった。いずれペルシア語を勉強しようと思いながらまだしていない私は、もどかしい思いだった。

日常生活で関係者が多少苦労したのは、イスラームに関わる習慣のことだった。UTO側の3人は熱心なイスラーム教信者で、旅行中といえども毎日最低3回はお祈りをしていた。ある日など銀行の自動コーナーで金をおろしている時に、一人が「メッカはどっちの方向だ」と私に聞いて、銀行の床でお祈りを始めた。またJICA内での食事は証明書付きのハラール・ミートだったが、特に神経質な人はそれさえ信じず、魚しか口にしなかった。豚肉以外は何でも食べる(人によっては豚肉でも食べる)カザフ人とつきあってきた私には少々衝撃的だった。もっとも政府側の7人はイスラームに無関心で、お祈りをしないのかと尋ねると「我々は近代化されているから」と答える人もいた。バスの中で、UTO側の一人が「タジク人で酒を飲むのは数パーセントだけだ」と言ったのに対し、政府側の一人が「いや、酒を飲まないのが数パーセントだけだ」と冗談めいた反論をする場面もあった。

セミナーの山場である18日の総括討論会には、100人近くの聴衆が集まった。このためにわざわざ来日された前国連タジキスタン監視団長メレム氏が、基調講演をしてくださった。続く第1部では3人の研究者(フランスのD氏、ロシアのN氏、それに私)が、タジキスタン紛争の歴史的背景と今も残る問題点について話したが、これに対するタジキスタン側の反応はネガティヴなものだった。指摘された問題は過去のことだ、地域的な激しい対立など存在しない、といった調子なのである。彼らの憤懣は昼食時にも続いていた。ある研修員は私に、あなたはタジキスタンについて十分な情報を持っていない、と言ってきた。確かに私はタジキスタン専門家ではないし、今回の報告はタジキスタンのことをよく知らない日本人聴衆のための導入が目的だったから話が概括的になったが、具体的にどのあたりが問題だったのか、と私が聞くと、彼は答えられなかった。彼はN氏の報告(環境に有害な開発プロジェクトがタジク社会を不安定化させてきたことを指摘した)についても、 N氏はタジキスタンに住んでいないのだから何も分からない、と決めつけた。
総括討論会のようす
しかし、タジキスタン側がみな同じことを考えていたわけではない。ある研修員はあとで私に、「あなたの話したことはすべて真実だ。我々の中には、本当のことを言われるのをいやがる人たちがいるんだ」と耳打ちしてくれた。

第2部では、タジキスタン側の2人が報告したあと、元駐カンボジア大使の今川教授、JPO(Junior Programme Officer)としてUNDPタジキスタンで働く野田さん、同じくUNHCRで働く長谷川さんほかが、各自の経験を生かした話をされた。タジキスタン側の人々がどちらかと言えばきれいごとの話をしたあとで、野田さんや長谷川さんがタジキスタンの普通の人々の苦しい生活や無気力な状態について話してくれたことは、タジキスタンの現実を知る上でとても役に立った。

質疑応答では、筑波大学の院生の方から、秋野先生に続いて日本はどんどんタジキスタンなどに人を送るべきだと思うが、中央アジア研究者たちはどのような対応を話し合っているのか、という質問があった。これについて私は、タジキスタンに人が行くのはよいことだが、日本の名誉のために中央アジア研究者の中から誰かが必ず行くべきだというような発想をするべきではない、あくまで個人のレベルで考えるべきだと述べた(外務省幹部たちの前で私がこういう発言をしたので、JICAの人は冷や冷やしたそうだ)。また筑波大のある先生は、自分の周りにはタジキスタンなどに行って国際貢献したいという若い人がたくさんいるが、彼らには語学力や専門知識がない、どうすれば国連機関等で働けるのか、とJPOの人たちに尋ねていた。語学力や専門知識を身につける環境がないのに、とにかく何か国際貢献をしたいと焦る雰囲気があるとすれば、不幸なことだと私は思う。世の中に役立つ仕事は(国際的にも国内的にも)いくらでもある。自分の適性と能力の範囲で何ができるのかを考えるべきだ。ヒロイズムに酔うだけではよい仕事はできない。

タジキスタン民主化セミナーは、19日の歓送会で全日程を終了した。セミナーのことはいくつかのマスコミで取り上げられたが、一番大きく扱ってくれたAsahi Evening Newsの記事は、私には心外なものだった。このセミナーが、欧米のものとは違う「日本式の民主主義」を教えるためのものだったというのである。外務省の人が記者に語ったことがもとになっているらしいが、私はセミナーの企画の過程でそんな話を聞いたことは一度もないし、そんな妙な行事の先棒をかついだつもりもない。外務省は研修の具体的内容は私と各講師の方々に任せてくれていたのであり、「日本式」うんぬんは、政府の中にそういうことを考えている人もいるという程度の話だろう。むしろ私は、(中央アジアの人たちがよく言うように)我々は東洋人だから欧米流の民主主義は合わない、などと言い訳をする前に民主主義の基本をきちんと考えてほしい、というメッセージを研修員たちに伝えようとしていた(セミナーのテーマが多岐にわたったため、「民主化」に焦点を絞れなかったのも事実だが)。このことは取材に来た記者にも話していたのだが、記事の筋書きは最初から出来上がっていたようである。マスコミとつき合う難しさを感じた。

セミナー全体を振り返って印象に残っているのは、研修員たちがどこでもとても熱心にタジキスタンのことを日本人に向かって語っていたことだ。自国の宣伝としてのきれいごとに流れるきらいもあったが、それぞれの人が自分の言葉で語っていたのは確かである。タジキスタンには中央アジアの一部の国と比べて言論と思考の多様性があると感じられた。ただし気になったのは、タジキスタンの安定の支えはラフマーノフ大統領だ、という発言がしばしば聞かれたことである。タジキスタンも、権力を大統領の一手に集中させる体制を固めようとしているのかも知れない。しかし、地域的・イデオロギー的な多様性が顕著なタジキスタンで、権力集中はうまく機能するだろうか。対立の種を力で押さえ込むことは、いつか対立が再び吹き出すことにつながらないか。

タジキスタンは確かに徐々に落ちついてきており、政府とUTOの協調も大体うまく行っている。しかし、深刻な問題はもはやないと研修員たちが強調すればするほど、私はむしろ不安を感じた。セミナー終了後もタジキスタンでは、内戦盛期に政府側武装組織形成の中心になったケンジャエフが殺されたり、UTOに属さない反政府諸政党が、現政権の政策は内戦の再発を招きかねないとする書簡をCIS諸国首脳に送ったりという動きがある。まだまだ解決しなければならない問題は多い。

セミナーの仕事による精神的疲労は予想以上で、セミナーが終わって20日近く経っても、私は本来の仕事のペースに戻れないままである。しかし何と言っても、このセミナーを通じていろいろな人と出会えたことは、大きな収穫だった。和平交渉に一貫して加わった経験を持ち、貴重な情報と資料をくださったウスマーノフ教授。いつもユーモアで場を盛り上げていた戦略研究センターのアサドゥッラーエフ所長。日本との研究交流にも関心を見せていたCNRのアーリモフ教授。温和ながら時々鋭い発言をしていたシャーマフマドフさんら、人間味を感じさせるUTOの人たち。いずれタジキスタンでお会いしましょう。研修員のわがままにいつも明るい顔で対応していた付き添いの香取潤さん(中世ロシア語の研究者でもある)も、セミナーの運営に大きく貢献された。関係者のみなさん、どうもありがとうございました。


当世韓国大学事情

金 成浩(センター1999年度COE非常勤研究員)

「FF?、ロードヒーティング?」ちょうど去年の今ごろ、札幌での住居探しのため、訪ねた不動産屋さんで見せてもらった間取り図には、こんな見慣れない文字が並んでいた。どういう意味か尋ねても、なんとなくわかったようで実はよくわからなかったが、一冬超して、ようやくこれがどういう意味をもつのか飲み込めるようになった。今年は例年より雪が多かったそうだが、11月から3月までのおよそ5ヶ月間にもおよぶ雪は、札幌若葉マークの筆者にとって、きつかった。「う〜ん、夏は冷房もかけず快適に過ごしたのだから、仕方ないか。」と自分に言い聞かせ過ごした冬でもあった。

昨年4月にこちらにCOE非常勤研究員(正式名称:講師(中核的研究機関研究員))として赴任して、早一年。実はこのエッセイも次の行き先を決めた上で、COE非常勤研究員制度への要望などかっこよく述べてみたかったが、ここでは、唐突であるが、韓国の大学事情とロシア研究について、思い付くままのべてみたい。

韓国がIMF体制下に入って、しばらく立つ。当初は何のことかわからず、上で何か騒いでいるだけのような感覚であった国民も、IMF体制下一年も経過する頃から、じわじわ国民生活に浸透する経済危機の重さを実感している。韓民族は愛国心が強く、外国にあまりみすぼらしい姿を見せたくないという気持ちが強いせいか、お家の事情についてはあまり外の人に話さない傾向が強い。また、日本のマスコミも今の韓国の状況を、生の庶民感覚で伝えているものは少なく、いまだ日本に正確に伝わっていないように思う。最近、韓国からきた筆者の友人の話によると、韓国の大企業はともかく、中小企業は軒並みダメだという。そんな大袈裟な?と思うが、他から聞く話はそのあたりを裏付けているようでもある。例えば、町の食堂がウエイター募集の広告を出したら電話が鳴りっぱなしになり100件近く応募が殺到したとか、テレビ局は企業からの広告収入が減ったため、新番組をつくらず再放送番組を流しているとか、最近では学校にお弁当も持っていけない子供もいるとか、この手の話は珍しくもなくなった。

大学はまだ、そんなに影響を受けていないようだが、それでも教官の新規採用となると、私立大学などでは任期制の導入などが促進されているようだ。韓国では、大学教官の公募を新聞に告知することが法律によって義務づけられている。大学側もあまり有名な新聞に告知を出すと経費がかさむので、マイナーな新聞にだけ出したりする場合もある。そのため、大学で職を探す人は、毎年秋頃になると、片っ端から新聞に目を通さなければならない。最近は大学のホームページに教官公募を掲示している所もある。筆者もいくつか韓国の大学の教官公募をたまたま目にしたが、私立大学では、大体、教授クラスで3年、助教授・講師クラスで2年程度の任用期間が定められているケースが多かった。むろんこれは再任可能であるが、あまり大学に籍を得たと言って仕事を怠けていると、再任不可になるケースも有るようである。そういう意味では、まだ、日本の大学は恵まれている(?)ように思える。日本には、最近、NACSISのホームページで教官公募掲示システムができたが、このホームページを見ても、日本の文系学部の教官応募資格が、修士修了ないし博士課程単位取得以上であることが多いのに対し、韓国の文系学部はほぼ博士号取得が最低条件となっている。これは、韓国の大学教官の大部分が、米国でのPh.D取得者に占められてきた伝統によるものとみられる。

筆者は、いわゆる在日韓国人であるため、日本で博士課程まで修了したが、かつて修士課程から博士課程に行く時、韓国で博士課程に進学することを試みた経験が有る。ソウル大学外交学部でロシア研究を担当されている河龍出(ハ・ヨンチュル)先生に会いに行き相談した時のことであった。先生いわく、韓国では、資料的問題から、100年も前の韓露関係ならともかくソ連現代史研究は難しい。筆者が興味を持っていた「70年代〜80年代の韓ソ関係」で博士論文を仕上げるのは、多分難しいだろうとのことであった。すでにソウル大でロシアを研究している学生にも、修士課程を終えると海外への留学を勧めているとのことであった。

御存知のように、1990年9月まで、韓国とソ連は国交がなく、韓国にとってソ連はいわゆる「敵性国家」であった。ソ連関係の新聞雑誌を収蔵していた数少ない研究機関の一つである 漢陽(ハニャン)大学中ソ研究所(現亜細亜太平洋研究所)でも、ロシア語の新聞雑誌の多くには、閲覧不可の封印がされていた。だが、ゴルバチョフが新思考外交を展開した当時、韓国でも「ロシアブーム」がおこり、さらに韓ソ修交後には、モスクワでは日本人留学生よりも韓国人留学生の方が多くなった。しかし、92年の韓中国交回復後は、「中国ブーム」の高まりと反比例して、ロシア人気は影をひそめてしまった。韓国にとってロシア研究はまだまだ、政治変動の波を直に受ける研究エリアである。

先に述べたソウル大学外交学部の英語名は、The department of International Relationsで、日本ではさしずめ国際関係学部にあたるが、外交学部というネーミングになっている理由は、その授業科目をみればわかる。日本の国際関係関連の学部が、広く社会学や経済学、時には人類学や文学の分野まで含む学際的傾向に有るのに対し、ソウル大の授業科目はかなり政治、軍事、外交科目に特化している。シラバスによると、以下のような科目が並んでいる。「国際政治研究方法論」、「国際関係思想史」、「国際関係史」、「国際政治経済」、「国際政治と日本」、「国際政治と中国」、「国際政治とロシア」、「国際政治と米国」、「北東アジア地域研究」、「南北関係研究」、「平和研究」、「戦略研究」、「外交政策決定過程研究」、「韓国外交研究」、「安全保障研究」・・・。これに加えて、筆者の記憶に間違いなければ、以前には「四強大国論」なる科目があった。「四強」というのは、米国、日本、ロシア、中国を指している。日本から見ると、なんとも不思議な科目のように映るが、この科目がなぜ生まれてきたかを考えるには、大国に翻弄されてきた朝鮮半島の状況を踏まえなければならないだろう。

個人的感想だが、日本の国際関係関連の学部は、あまりにも学際化し過ぎてしまっていて、そこで学ぶ学生は結局国際関係といっても何を学んだかはっきりしないまま卒業してしまっているように感じる。ソウル大のように特定分野に特化した方が、学生にとっては勉強の対象がはっきりし、ディシプリンの習得をたやすくするのではないだろうか。また、「外交学部」というネーミングも結構学生にうけると思うが、いかがなものだろう。

(もしかすると、続編につづく)