エッセイ

 

  比較できないものを比較する:日本とバルカン諸国

エカテリナ・ニコヴァ
(ブルガリア科学アカデミー バルカン問題研究所/センター 1999年度外国人研究員)

 比較研究に携わる者なら、リンゴとミカンを比較してはならないこと、リンゴと大根ならなおさらであることを知っている。にもかかわらず、日本に到着してからずっと、わたしはこの遠く隔たった二つの土地を並べて、両者のきわだった違いと類似を見つけるというゲームを半ばまじめに始めた。
 わたしの第一印象はほとんどショックに近いものであった。第五次ユーゴスラヴィア戦争のさなかに、騒々しく、神経過敏で、破産状態にあり、自暴自棄になっていたバルカンから来た者にとって、日本は安全で、落ち着いていて、静かで、別世界に感じられた。この安全という感覚から、ここではすべてがうまくいっていて、すべてがしかるべく迅速に処理されていると感じることになる。
 孤立している日本列島と、世界でも最もせわしい十字路の一つに位置する欧州の小さな半島、この両者ほど違っているものはありえようか(もっとも両者はその面積と人口では奇妙なほど似ているのだが)。バルカン諸国の国民、人種類型、宗教、文化のモザイク状の多様性と比較すると、均質で堅く結び付いている日本国民ほど対照的なものはあるのだろうか。
 景観、色彩、特に山々は祖国のそれと大いに異なっている。少し時間がたつと、わたしは日本文化の簡素な洗練性に感銘させられた。それは、多彩でけばけばしいバルカンのフォークロアや芸術とは対極をなすものである。
 人々の違いは最大のショックだった。来日前に、友人のひとりは、日本では自慢をしたり文句をいったりしないようにと警告してくれた。わたしは独り言をいった。神よ。それ以外にわたしが話すことなどあろうか。彼は正しかった。遠慮深く、しばしば無口で、控えめで、恥ずかしがりの日本人は、おしゃべりで、過剰に感情的で、ジェスチャーたっぷりで、猛々しいほど論争好きで、芝居じみたふるまいのバルカンの人々とは、かくも異なっている。人間関係から国際問題にいたる日本人の慎み深さは、バルカンの人々の夜郎自大、すなわち、自分たちの崇高な過去、比類無き特質、文明への偉大な貢献、いうにおよばずその世界政治に占める運命的な中心的位置を言い張るのとは対照的であると気づいた。
北京のレストランにて
向かって右から筆者、劉氏、ウィタカー氏

 でも、さらに滞在を続けていると、類似点も見出すことになった。北海道産の伝統的繊維製品をはじめてみたとき、誰かが私をからかっていると思った。それは間違いなくトラキアの品であると思えた。鎌倉に行ったときには、正教の修道院にいるのではと感じた。類似点はそれだけではない。同じような知識欲、教育の尊重、子供に対する敏感さ、家族と人間関係の重視などである。私は日本にも快楽的な文化があることを知って驚いた。それは、バルカンではオスマンの遺産である。つまり、肉体的喜びに対する同じような愛好であり、そこには飲食に対する真剣な態度も含まれる(いったい誰が日本人は酒を飲まないなどといったのだろうか?)。日本の温泉は、子供のころよく祖母に連れていってもらったトルコ風呂を思い出させるものだった。温泉はもちろん清潔なものであるが。わたしたちのラキは日本酒の三倍も強く、スパイシーでジューシーなバルカンの豊かな料理は、優雅で品がよく、見目麗しく供される日本食とは見事に対照をなしている。とはいえ日本人の場合、快楽への愛はもっと重要な事柄と切り離されているが、バルカンの生活観ではそれが中心をなしている。
 社会を取り上げれば、そこにはもう一つの大きな相違がある。日本の階層秩序、役割配置、高い信頼と規律は、社会的に無定型で、根本的に民主的なバルカンと対比をなす。徳川封建体制の二世紀半のあいだに、歴史的に厳格な社会秩序が形成された。その同じ時期にキリスト教徒からなるバルカン諸国は外国の野蛮な統治のもとにおかれていた。しかし、その統治に対して人々はやすやすと狡猾さや腐敗をもって欺き、抵抗した。日本の物語ではサムライ、つまりは権威者がつねに悪者を罰することになる。バルカンのフォークロアでは義賊(hayduks、klephts)が讃えられる。法律や規則に従うことは日本では美徳であるが、わたしたちの国々では、脱税から交通違反にいたるまで、権威を欺くことが国民をあげての気晴らしということになる。日本人の義務感、集団的義務、階層的秩序をなす社会のなかにおける自己の位置の受容、合意と安定の優越は、わたしたちが自由と闘争を信頼するのとは決定的に異なり、またわたしたちのすさまじいほどの個人主義(それは同時に小集団の保護を追求するものでもあるが)とも異なる。日本人が紛争を回避しようとするのに対して、バルカンでは対立や反乱は常なる習わしであり、意見を述べるときには強力に、激しく議論を闘わせるものであり、妥協は汚い言葉ということになる。結局のところ、ユーゴスラヴィアの悲劇全体は旧連邦について再度交渉で合意することに失敗したのだと解釈することができる。日本での武器の個人所有や武力による自己防衛に対する歴史的制限は、バルカンにおける銃、剣、ナイフの尊重と興味深い対照をなす。
 宗教面で引き裂かれたバルカン、つまりかくも多くの戦闘が宗教のために、もしくは宗教の名をもっておこなわれ、宗教が主要な身分証明である場所から来たとき、日本人とその神々のあいだの関係が、度を超えて寛容で、無頓着で、冒涜的で、ほとんど滑稽ともいえるのは興味深いものといわざるをえない。
 日本は変化を観察する場所としても魅力的である。日本では変化は滑らかに、連続性の範囲内でおこる。日本人は革命が嫌いである。たとえ(明治のそれのように)革命が起きても、彼らはそれを好んで維新と呼ぶ。バルカンの人々の歴史は大変動によって測られる。そこに何らかの連続性があるとしたら、それは非連続性の連続性であり、それぞれの新しい段階はゼロからのスタートになる。
 近代史をとおして、バルカン諸国も日本もともに同じ脅迫観念に駆られてきた。近代化が必要であり、発展した西欧に追いつかねばならなかった。ほぼ同じ時期に、おおよそのところ同じ初期条件でスタートしたが、日本は成功し、ついには経済的奇跡とよばれ、スーパーパワーとなり、すべでの後発国の手本となった。バルカン諸国は欧州の停滞国、問題児のまま残り、両者の間には当初よりもはるかに大きな格差が生じている。両者の近代化はきわめて似通った性格を持っていた。高度の蓄積と圧力をとおして達成された急速な成長、(すべての後発工業国において同様であるが)国家の決定的な役割、同様に強力で冷酷なエリート、生活水準と何世代もの犠牲、「富国強兵」という同じスローガンさえもそこには含まれる。両方で、鋭い眼を持つ観察者なら西欧近代に対する同じほろ苦い態度を見出す。つまり、自身の自己同一性を保持しながら近代的になろうと悪戦苦闘する姿である。日本人が外国の言葉や習慣を取り入れる安易さには驚かされる。他方、文化的には欧州にあるバルカンでは、新しい言葉の一つ一つに、コンピュータ用の語彙にさえ抵抗を示し、翻訳をおこなうのである。日本人の優越感は十分に深く根付いているので、彼らは控えめになることができ、謙虚に学ぶことができるのだが、誇り高いバルカンの人々は西欧に対する無言の歴史的劣等感に苦しめられている。
 自分の世界が、つまり東欧世界が崩壊するのを見ているので、わたしはとりわけ日本の抱える問題に敏感であり、その現在の危機の深さに気づいている。そのようにいうと大げさに聞こえるかもしれない。たしかに繁栄し誇り高い日本が直面している挑戦は、窮乏で自暴自棄になっているバルカンのそれとは本質的に異なるからである。しかし、地球的な変化の風は、両者にその政治経済システムの根底からの再構築と外の世界への前例のない開放を求めている。新しい時代は両地域での社会的平等と安定を損なっている。両地域で新しい時代は、過去と折り合いながら、新しい魂と自己同一性を発見するよう求めている。
日本での一年は、開かれた心を持っていれば、生涯の記憶として残るものとなる。それは、食習慣を変え、人、仕事、自然、社会への対応の仕方を変える。滞在中のどこかの時点で、花を盗むのをやめ、多すぎた釣り銭を従順に返すようになる。日本での一年間の滞在では、そばやうどんを音を立てて食べるまでにはいたらないが、むやみに謝り、同じくお辞儀することを身につけることにはなる。それは、東欧の不作法な店員に対しては全くふさわしいものではないのだが。
 この比較は、もちろん、あまりまじめなものではなく、お定まりのステレオタイプで、学術的なものには聞こえないし、政治的にも正しくない。比較という学問の規則とタブーは心得ている。しかし、スラブ研究センターが有する最大の長所の一つは、その豊かな蔵書、暖かい同僚たちの雰囲気、文部省の保証付きという安心感といったものを越えている。すべての外国人研究員によってそれは正当に認められている。北大に一年間滞在すると、日本に、その独特な文化と経験に晒される。狭い領域ときわめて特殊な問題に閉じこもっているわたしたちの大部分にとって、それは視野を広げ、ものを視るレンズを修正する機会となる。スラブ研究センターの一年は本物のプレゼントなのである。

(英語より林忠行訳)


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