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   エッセイ

  スラ研の思い出(第7回)

外川継男(上智大学)

 1971(昭和46)年の4月1日付けで私がスラ研の施設長に任命されたとき、スラ研をとりまく北大の雰囲気は2年前の紛争当時とはだいぶ変わってきて いた。まず学長は左翼の堀内教授から右翼と目される丹羽教授に、法学部は学部長の薮重夫教授は変わらなかったものの、二人の評議員は法律専門の平出・川井 両教授から、北大文学部西洋史出身で堀米教授門下の石川武教授と、西洋政治史思想史の小川晃一教授が新たに就任した。

1962年熱海にて:後列右より 勝田、江口、百瀬、福岡
金子、山本:前列右より 矢田、鳥山、五十嵐、外川

私は石川さんも小川さんも以前から個人的によく知っていた。学部長に就任のあいさつにいった折りに、そこに石川さんも在席していて、スラ研がその学内にお ける特殊な立場から、大学当局の情報が伝わってこないことが話題になると、その場で早速これからは月に2回、金曜日の11時から1時間、法学部長とスラブ 研究施設長とが定期的に連絡会議をもつことに急に話がまとまった。
 当時法学部は石川教授が中心になって「改革問題懇談会」を通じて、新しい構想をまとめようとしていた。やがてこれは次の石川学部長時代に教育部と研究部 の創設や、図書係を廃止して中央図書館と統合するといった結果を生むことになるが、私はこの懇談会にも随時出席するようになった。文学部は小栗学部長が辞 任したあと、学部長選挙のための教授会が成立しなかったところから、評議員の鳥山教授が事務取り扱いになって、多難な時を迎えていた。11月には文学部の 教室が封鎖されたり、哲学の花崎助教授が紛争後逮捕された学生の裁判において大学当局のとった態度に抗議を表明して、辞職したりした。 
 この時は、法学部の事務もスラ研の事務も変わった。北大では毎年4月1日付けで係長以上の異動が、ついで5月1日には平職員の異動が行なわれるが、私は さっそく二度の歓送迎会に出席した。このような会合に施設長が出席するのは初めてだというので、大歓迎された。しかし法学部の事務長の今田末吉さんは依然 として変わることなく、彼は法学部のたっての要請で、改革の目鼻がつくまでということで異例の長期間事務長を務めることになるが、これはスラ研にとっても 好運であった。
1962年秋 河口湖にて  右より矢田、外川、鳥山、五十嵐
 この春、法学部の事務には会計係長として天野道彦さんが本部の経理から移ってきたが、天野さんもスラ研には非常に好意的で、よくやってくれた。スラ研の 新しい事務官には、図書の大垣さんに替わって大学病院の収入係をやっていた佐藤安一さんがきた。私はこの人事についてはそれ以前に今田事務長から相談を受 けていた。というのはスラ研にはたった二つしか事務官ポストがないのに、秋月さんが図書をやっているので、残る一つを会計か庶務か、どちらを望むかという ことであった。私はスラ研の改組・拡充のためには概算要求がもっとも大切だから、北大の経理・主計畑で太いコネのある今田事務長のラインの会計の専門家が いいと返事した。しかし今田さんにしてみれば、若い二十代の事務官が、法学部そのものではなく、いわば盲腸みたいなスラ研に来て、それが本人の将来にとっ てプラスになるかどうかが気遣われただろうと思う。
 今田さんは最初私に会ったときに、自分には法学部長とスラブ研究施設長の二人の上司がいると思っているので、なんでも相談しますから、先生のほうからも 遠慮なくどしどし言ってくださいと言った。このあと私は何人かの事務長と接するようになるが、これほどはっきりものを言う人はいなかった。 やがて私にも 北大における事務系列の昇進のコースがわかるようになってきた。この頃にはもう雇員・傭員はもとより事務員というのも廃止されて、事務は正規の事務官がほ とんどで、これらの人は大学本部や各部局間を異動しながら、主任、係長になっていくのが昇進のコースである。その間に道内の他大学や高専に出ることもあ る。本部の事務局長、部長、学生部次長、庶務課長、病院の事務部長などは本省人事で、大体二、三年で交替する。学内の部局でも工学部や医学部、農学部など は睨みのきく大部局だが、文系四学部は予算規模も小さく、事務官定員もすくない。しかもその付属研究施設となると、それこそ盲腸のような存在で、その存在 すら知らない事務官も学内にすくなくない。そんなところに回されたら将来いつになったら本部や大部局に移れるやらわからない、といった不安は当然である。
 しかしスラ研に来た佐藤さんは、今田事務長や天野係長と連絡をとりながら、もくもくと仕事をしてくれた。だいたい庶務にくらべると会計担当の人は無口の 人が多いようである。われわれは5月半ばにスラ研だけの佐藤さんの歓迎会を苗穂のサッポロビール園で開いた。このあとしばらくして、法学部の懇親のボーリ ング大会が行なわれたが、佐藤さんと天野さんは、ともに同点トップをとった。
 新米の施設長の私は5月10日に今田事務長に案内されて大学本部に行って、学長、事務局長、庶務部長、経理部長に就任のあいさつをした。北大を卒業後、 一時製薬会社に勤務したこともあるという新学長は、前の学長とはだいぶ肌合が違うように感じられた。このあと学長とは、6月はじめに学長が法学部を訪問し たときにも、法学部長室で会った。
 8月に経済学部の評議員の酒井教授から学長が文系の研究所を考えているという話を聞いたが、はなはだ漠然たるものだった。これより前、4月12日の文系 四学部長会議で、新川経済学部長がスラ研と文学部の北方文化研究施設を核にして、文系の研究所を作ることを話題にしたが、ほとんど反応がなかったというこ とを聞いていた。すでに文部省には学術会議を通じていくつもの研究所設立の要望が来ているが、文部省は新しい研究所を作ることはまったく考えていない、新 川さんは思いついたことをすぐ口にする人だし、スラ研と北方文化との合併という考えはだいぶ以前にもあって、つぶれたということをわれわれは知っていた。
北大では毎年6月の評議会で文部省へ提出する概算要求が決まるが、会議の結果を緊張して待っている私に薮法学部長は、本年はスラ研は施設関係で第6位であ ると電話で伝えてきた。翌日私はスラ研で専任研究員にこのことを紹介し、結局このような正攻法では百年河清をまつに等しいから、なんとかもっとよい方法を みんなで考えようということにまたしても話は落ち着いた。
 この年のスラ研の秋の会議は11月8〜9日に東京の本郷会館で開催された。このときはそれ以前に辞任を申し出ていた金子幸彦・岩間徹両研究員の後任とし て、斎藤孝さんと平井友義さんの二人が選任された。すでに木戸さんが学外の兼任研究員になっていたので、国際政治の部門で百瀬、木戸、斎藤、平井と四人の 強力なメンバーが編成されたことになり、これは前述の国際環境にかんする特定研究にスラ研が参加する布石となった。
 本郷会館における研究員会議の翌日、百瀬さんと私は学術振興会に岡野澄さんをたずねた。岡野さんは東大の西洋史学科を林健太郎教授と同期に卒業され、文 部省の学術課長から審議官を勤めたあと、学振の理事になっていた。岡野さんのことは鳥山さんや岩間さんからも聞いていて、私はこれより前の4月末にも学振 にお訪ねしたしたことがあった。このとき岡野さんは、自分が府立六中では林さんより二年先輩で、北大のドイツ語の井手さんと同期だと笑って言っておられ た。わたしも都立六中の出身で大学も文学部の西洋史だったところから、因縁浅からぬものを感じていた。このときは百瀬さんと二人で岡野さんに会って、スラ 研の改組・拡充のために誰か文部省の適当な人を紹介してくれるように頼んだ。すると岡野さんは自分の後輩の学術課長を紹介してくれたが、翌日百瀬さんと私 はさっそく文部省に行って学術課長に会うとともに、かれにすすめられて大学課長にも会って、スラ研のために協力をお願いした。
 このあと7年してスラ研のセンター昇格が決まったとき、最後の研究施設の会議を東京・神田の学士会館で開催したが、われわれは旧兼任研究員と一緒に岡野 さんをお招きして、ご尽力に感謝した。岡野さんの名はこれまで一度もスラ研の歴史に出てこなかったが、この方もスラ研にとっては忘れることのできない影の 応援団の一人といってよいだろう。
 いまになって振り返ると、このときの文部省訪問が今田事務長を動かし、北大の事務当局にスラ研ありという強い印象を与えたのではないかと思われる。北大 にもどってすぐに私は本部の若い庶務課長に会って、本省の大学課長や学術課長に会ったことを伝えて、 「資料を準備する」ように依頼したが、それはこのと きの二人の課長のことばがもとになっている。そもそも改組・拡充と言っても、どんな資料が必要なのかということは、その仕事を長年担当してきた事務官でな ければ、管理職についたばかりの教官などにわかるわけがない。先方が欲しているのが何なのかがわかれば、それにあわせて資料を整え、効能書きを作ればよ い。庶務課長に頼むのとほぼ時を同じくして、私は今田事務長とスラ研の改組・拡充についてじっくり話し合ったが、この文部省で二人の課長に会ったこと、ま た前審議官がスラ研に好意をもっていてくれることを聞いた今田さんは、よし、これなら行けるかもしれないと感じたのだろう、それからは前にもまして、スラ 研の改組について一生懸命になってくれた。これはたまたま法学部における組織替えと時期を同じくしており、文部省としては大学紛争以後、全国の大学から新 しいアイデアが出るのを期待していた時期でもあった。法学部の教育部と研究部への改組はこの時期をとらえて、事実上のサバティカル・イヤーを文部省に認め させたものであった。
このあとの私は11月29日の在札(幌)研究員会議でセンター構想と文部省における感触、本部の協力の可能性を話した。そしてその翌日の30日には初めて 文系四学部長会議に出席して、スラ研の文系共同センターへの改組について説明をした。本来この会議のメンバーでないスラ研の施設長がのこのこ出て話をする ことができたのは、薮学部長の好意的な取り計らいがあったからであったが、このとき私は新川経済学部長から執拗で意地の悪い質問をうけた。
 施設長になったとき今田事務長からまっさきに言われたのは、「先生は管理職なのですから、勤務時間中は、かならずどこにいるか所在を明らかにしておいて ください」ということであった。大学本部や文部省から電話や急ぎの問い合わせがくるのはそうたびたびあることではないが、もしそのとき管理職が不在だと事 務が迷惑することは間違いない。しかし、映画の好きな私はよく大学の帰りに映画を見に行ったので、それからは5時以前に映画館に入ることはできなくなっ た。
施設長をやめたとき、いちばんほっとしたのは、このいつも所在をはっきりさせておかなければならない、という枠がなくなったことで、それはいままで自分の まわりにあった目に見えない金網が取り外されたみたいで、じつにのびのびとした気持ちになれた。
 その後スラ研のセンター昇格構想が次第に明らかになり、本部も本腰を入れ始めてくると、今田事務長は私にあらためて自分と一緒に文部省に行って、関係部 局の課長連中にあいさつするように進言してくれた。そこで私は「それでは何日の何時に行くから、アポイントメントを取っておいてください」と依頼した。こ れにたいして今田さんは「とんでもない。たったいま上野駅に着いたという格好で、朝九時から課長の机の前で待っていて、課長が出勤してきたら、よろしくと あいさつしてください。あとは私の方で適当にやりますから」と言った。もうこのころは飛行機で上京するのが当たり前だったが、制度上はまだ汽車と連絡船を 乗り継いで行くことになっていた。しかしこのときは、たしかゴムの長靴をはき、厚いオーバーを着て、ついさっき汽車で上京してきたという格好であいさつに 行った。
 しかし、事務長ひとりがムキになっても、日常のこまごました業務は施設の事務でこなさなければならない。庶務や会計のことでわからないときは学部の事務 の庶務係長や会計係長に聞きにいけばなんとかなるが、問題は外国との手紙のやりとりだった。スラ研がわが国で唯一のソ連・東欧研究機関ということもあっ て、海外の大学・研究所や図書館、研究者との文書のやりとりが次第にふえてきた。しかし、これらを読んで適切に答えることは施設長以外にだれもできないの が実情だった。本来こういった仕事は秘書がやるのが普通だが、大学には学長秘書以外にこのような仕事をやるポストもなければ人材もいなかった。施設長にな りたてのころ、毎日かなりの時間を庶務的な仕事、とくに外国語の手紙の作文にさかなければならなかった。まだこの種の手紙の書き方に慣れていなかったせい もあって、一日に3通も手紙を書くとそれだけでもう疲れてしまった。
 これに関連して思いだされるのは、このあと数年たってから訪問したアメリカのロシア・東欧関係の研究所の秘書のことである。ニューヘブンのエール大学で 行なわれたAAASSの大会に出席しあたと、私はインディアナ大学のバーンズ教授に連れられて、教授が長年所長をしているロシア・東欧研究所を訪れた。所 長室でバーンズ教授は中年の女性の秘書から、3、4日留守していた間に来た手紙を手渡された。それにさっと目を通すや教授は秘書に、この手紙にはこう、そ の手紙にはこうと、要点を書き取らせてから、私と一緒に教室へ行った。このとき私は教授から前以て学生に自分が研究してきたことを話すように言われていた ので、50分ほどチャアダーエフについて講義をして教授と一緒に元の所長室へ帰ってきた。するとこの間に秘書が先のメモを手紙にタイプして教授に渡すでは ないか!これを一瞥したバーンズさんは、ちょこちょことサインして秘書に戻し、文書の件はこれで一件落着というわけだった。驚くよりため息がでた。
このあとワシントンのジョージ・ワシントン大学の中ソ研究所に行ったとき、シュガー所長は「私には秘書が二人いる。一人は大学が給与を払っている大学の職 員だが、もう一人は私が自分のポケット・マネーで雇っている個人秘書で、彼女は私がこの大学に移るとき一緒に来たのだ」と誇らしげに言った。
 日本とアメリカの大学の相違を云々するとき、いつも私が思いだすのはこの秘書制度のことと、図書館のキュレーターやレファレンスの制度、そしてそこに働 く職員の有能なことである。スラ研についていえば、どこの国に行っても、スラ研の研究員には教育の義務がなく研究の義務だけがあるというと、一様に羨まし がられる。しかし、これは施設長、センター長をのぞいてである。私は運命の巡り合わせで、このあと施設長を4年半、センター長を3年半、計8年間管理職を 務めることになった。この間自分の研究といえば、夕方5時をすぎてから簡単に夜食をとったあと、10時近くまで研究室で仕事をした。ときどき肩がこって苦 しくなると、当時大学院生だった秋野豊君のところに行っては、バリバリというのをやってもらった。これは柔道をしていた彼がすすめてくれた肩の凝りをほぐ す療治?で、うしろから私を羽交い締めにして抱き上げ、骨がバリバリいうまで体をもちあげるのである。
 しかし、大学紛争で、よき教育者と研究者の両立は理想であっても不可能であることを学んだ私は、大学の管理職と研究を両立させることは、よっぽどのスー パーマン以外、結局どちらかを等閑にするか、それとも両方ともにいい加減にやる以外にないとの結論に達した。現に私が個人的によく知っているある教授は、 学部長の仕事を終えたあと、夕方から毎夜おそくまで研究室で仕事をしていたが、ついに心筋梗塞で倒れてしまった。
 最近私はロンドン大学の森嶋道夫氏の自伝を読んだが、この中の「学問における聖と俗」という箇所で、森嶋教授は研究所の教官を研究一辺倒の「聖者」と、 事務や学会の雑用をやる「俗人」に分け、そのいずれもが必要であるが、アメリカやイギリスではその区別がちゃんとできていて、社会はその双方をともに評価 している。本来大学の管理職は「俗人」から選ぶべきであって、すぐれた研究者が雑用にこき使われて、いつの間にか「管理職という俗業」に専念するのを名誉 と思うのは大きな間違いだと書いているのを読んで同感した。しかしこれは社会の基本的相違からきていることで、そう簡単にどちらがよいと決め付けることは できない。森嶋さんはすぐれた研究者にはちがいないが、日本だったら決してよい管理職にはならなかっただろうというのが、私の感想である。
 スラ研はセンター設立以後、ローテーションで管理職をやる伝統ができ、海外でもそれが評判のようだが、そもそもその元はといえば、百瀬さんや私のときか らであった。大学紛争の直後で、だれもがスラ研を背負っている気持ちでなければ、いつ施設がつぶれてもおかしくないという時に、一人の者に雑用を全部押し つけて研究に専念することは許されない情況だった。しかし、いまやこのローテーション制は再考する時期にきていると言ってよいかも知れない。それは研究者 のなかには確実に「俗業」に向いていない人がいるからという理由と、だれもが「俗業」をやることによって、みなが倒れてしまうこともあるからである。

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