◆ タンペレのICCEES世界大会に参加して ◆
田畑伸一郎(センター)
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会場となったコンベンション・センター
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ICCEES(国際中東欧研究評議会)の世界大会に参加するのは、1990年のハロゲイト(英国)、1995年のワルシャワに次いで、3回目であった。ハロゲイトのときは、たまたまカリフォルニア大学バークレイ校に滞在していたので、大西洋を越えて見物しに行った。ワルシャワのときは、individual
paperとして報告申請したところ、経済に関わるものの、内容的には全く関係のない3つのペーパーが並べられたパネルで報告する羽目となった。今回は、センターに滞在したことのあるロシア人経済学者がパネルを組織してくれたので、そこでの報告の準備をして出かけた。
私のパネルは、初日の2番目であった。1番目には、同じ部屋(タンペレ大学経済学部の小綺麗な教室)で、フィリップ・ハンソン氏(バーミンガム大学)や上垣彰氏(西南学院大学)が報告するパネルがあった。聴衆が50人を超えて、なかなかの盛況であった。ところが、そのパネルが終わっても、次のパネルのパネリストは、司会や討論者を含めて私を除いて1人も現れないという全く予期しなかった事態が生じた。見かねて、この2月に法政大学の招待で日本に来られ、センターにも立ち寄られたマイケル・エルマン氏(アムステルダム大学)が司会をやりましょうと言ってくれ、1人で報告することとなった。とくに質疑応答の際には、当然ながら、私1人に質問が集中するので、孤軍奮闘、悪戦苦闘となった。いつもながら、英語力のなさを痛感することとなった。しかし、今から振り返ると、得難い経験になったし、苦労して発表したペーパーはPost-Soviet
Geography and Economics誌に掲載されることになったので、収穫は少なくなかったと思っている。
私のエネルギーと緊張感は、この初日のパネルで切れてしまったので、後の4日間はかなり気楽にいろいろなパネルに出て過ごすこととなった。いくつかの総会セッションを除いて、経済のパネルにしか出ていないので、かなり偏っていると思われるが、以下は、今回のタンペレ会議についての私なりの感想である。
(1)会議の「ロシア化」を感じた。「公式統計」によると、ロシア人の参加者数が、地元フィンランドを超えて、最大であった。ロシア人は地の利を活かして(さらに、多くの場合、外国からの補助金を受けて)、サンクトペテルブルクから貸切バスで乗り込んできた。前々回や前回はほとんどなかったと記憶するが、経済のパネルでも、ロシア人がロシア語で発表する場面が多々見られた。逆に、ワルシャワのときに多かった中東欧からの出席者や中東欧経済に関わる報告が少なくなったように思われた。
(2)なかでも、ロシア人の若手の活躍が目立った。そのうちの多くは、国際機関等(IMF、世界銀行、OECD、EU、EBRD等々)から委託された研究を行っている者で、研究の水準が高くなったように感じた。言葉と資料の面で彼らは優位にあり、分析用具については欧米から教えられているので、今後、こういった形の研究に対抗していくのは、なかなか大変なことになると思った。逆に、いわゆる大御所の参加は、オレグ・ボゴモーロフ氏ぐらいであった。
(3)「理論」よりも、「地域学」あるいは「地理学」の報告が多かったように感じた。ディシプリン別の国際学会は他に沢山あるのだから、これは当然と言えば、それまでかもしれない。しかし、以前の大会では、「ショック療法か漸進主義か」といった大上段の議論や、市場経済移行の具体的な方法をめぐる「理論的」パネルも結構多かった。
(4)米国のプレゼンスが低下したように感じた。この印象には、著名な米国人研究者による報告が少なかったこと、世界銀行の研究者たちが内部的な事情で参加をキャンセルしたことなどが影響したように思われた。
「公式統計」によれば、日本からの参加者は18人で、ロシアの449人、フィンランドの410人、米国の221人、英国の123人、ドイツの91人からは、大きく離されて、国別では17位であった。スラブ研究の分野でも研究発信の必要性が叫ばれるようになって久しいが、若い人を中心にもう少し日本からの参加者が増えてしかるべきであろうと思った。次回は2005年にドイツ(都市は未定)で開かれる予定とのことである。
(法律・政治関係の詳細については小森田秋夫氏のホーム・ページ
http://web.iss.u-tokyo.ac.jp/〜komorida/を参照のこと。)