迷宮への招待
楯岡求美(神戸大学/
1999年度にセンター非常勤研究員として滞在)
多少入り組んだ奥のところにひっそりとたたずんでいるという立地条件のせいでもあるのだろうか、スラ研というところ、ちょっと迷宮に似たところがある。扉を開けると吹雪のロシアにつながるナボコフの博物館か、カフカの城か、昼日中でも不意に人影が消えてしんとしてしまう。人がいないわけではなくて、扉の向こうではパソコンが湯気を立てそうな勢いで活動しているのだが、廊下にまでその気配がもれてくることは少ない。雪に音が吸い込まれてしまう冬場はなおさらである。一冬だけの滞在(勤務)で移動するという思いがけない結果のせいで記憶がよけい幻想的になっているのかもしれないが。
雪の迷宮といえば、ペテルブルグである。ネフスキー大通りを骨の一本として扇のように広がっている街並みは必ずしも複雑ではないのだが、とくにひとつ奥に入った裏通りの表情など互いによく似ていて、一度曲がり角を間違えると遥か遠くにまで流されていってしまう。一区画が大きく、それがただひとつの建物で覆われているため、間違ったと思っても、途中で曲がることはできないし、戻る角も遥かかなたで、えい、ままよ、と思って突き進んでいけば、わずかにカーブしていた道筋の途中からは方向感覚が失われていき、さらにあらぬところをさまようことになる。不思議なもので、迷路のような道をたどっていると先の見えない不安感を通り越して、どこにも所属しない場所を浮遊しているかのような奇妙な感覚になることがある。ユーリー・マーミンというペテルブルグの映画監督に『パリへ通じる窓』という作品があって、ある日、アパートの窓を開けたら、そこはパリだった、という奇妙な話らしい。映画では別に迷っていて窓を見つけるわけではないが、さまよい歩きつづけふと角を曲がると、もしくは扉を開けると、違う世界につながっているかのような期待とも錯覚ともつかぬものに襲われるのだ。
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筆者 ペテルブルグにて
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それが雪の降る石畳の凍った街なのか、めくるめくカーニバルの喧騒の中なのか、いずれにせよ、つねに予期せぬ事件に満たされたロシアに魅せられるのと、どこか感覚的につながっているような気がする。そういえば、スラ研にはそこかしこに世界に直接つながってしまう窓(研究者のネットワーク)があって、世界の広がり方の突然さが、それもまた幻惑的であった。
対照的にモスクワでは、街のスケールがとてつもなく大きくて無闇に歩いたりすることが少ないせいか、街をまよいながら歩いた経験はあまりない。ただ、ロシア国立人文大学に2、3年程前に滞在したときはさすがに困った。建物自体が複雑な迷路の様相を呈している。それにもまして大学を迷宮のようにしているのは、授業の行われる割り当て教室の決め方がわからないことである。毎回教室が移動するのである。
ロシア国立人文大学のある建物の前身は共産党の高等教育機関である。そこに共産党が活動を禁止されたときにすばやく移り住んだらしい。「共産党が選挙に勝ったら真っ先にすることは銀行の国有化でもマスコミの検閲でもなく、人文大をあの建物から追い出すことだ」というアネクドートがあった。外観はなかなかに立派な建物である。反面、内部の構造が複雑で回廊がどのようにつながっているのか仕組みが良くわからない。いちど2階にあがってから建物の奥に渡るようになっているが、どこから次の回廊が始まるのかを当てるのはなかなか難しい。途中にはプーシキン美術館の分館になっている彫刻の展示されたホールが通り抜けを拒否していたり、油断しているとぐるぐる歩き回っているうちに建物の西端を占める付属美術館に出てしまって、古代の彫刻と対面してしまうことになる。廊下の角を曲がると探している番号の直前になって不意に数字が消えてしまうかと思えば、隠し扉の後ろに廊下があって教室が連なっていたりする。中庭に出たら出たで、大学と関係のないらしい企業が占めている建物もあったり、戸惑うばかりであった。
教室を決めてしまうことになにか問題があるのだろうか? とても不思議なシステムである。なぜ毎週同じ教室に決めないの? と尋ねたら、学生は、こっちが教えてもらいたいよ、と答えた。なにか利点があるわけではないらしい。授業の途中でしばしば扉を開けて覗き込んで行く学生がいる。一度見失った授業を探し出すのは勘と気力の勝負である。およその見当でクラスメートを探すのだが、いかんせん、短期の滞在では、いろいろな学年のクラスをつまみ食いしていることもあって、そのクラスメートの顔がわからない。所属講座の事務に聞けばわかるかと思いきや、あっさりと「知らない」の一言である。
教官が鍵を開けるタイプの教室ならば、鍵部屋に行って聞けばよい。それは入り口を入ってコート預けを抜けた玄関ホールの隅にあって、たいてい似たようなことを考えた学生が長蛇の列を作っている。時々、その列を掻き分けて教官が鍵を受け取ったりしている。ようやく順番がきて扉のところから覗き込むと、係りの女性がふたり座っている前の机に鍵の貸し出しノートが広げられていて、その中に目当ての教官のサインがあるかどうか探し出すのである。しかし、である。手書きのサインが異邦人にわかるわけがないではないか。結局しばらく眺めた挙句にあきらめて、教官の名前を言い、探してもらうのだが、どういうわけか、こうなったときにうまく探し出せたためしがない。鍵部屋の扉はあまりに狭く、学生が殺到して混乱が続いたので、滞在の後半には学生の問い合わせが一切禁止されてしまった。それでも、教室の割り当てがわからないことに変わりはない。しかたなく講座の部屋から鍵部屋に電話してもらって聞いたり、講座に人がいないと(これもしばしばだった)「教官と特別大事な約束があるのだが」と口からでまかせで無理やり聞き出したり、といったことをした。これは些細ながら異邦人の役得であろう。
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センターでの筆者(後列中央)
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基本的には授業が始まる前に学生たちがエントランス・ホールでなんとなくざわざわと集まっているところへ教官が鍵を取りにきて、めでたく授業場所へ移動、となるようなのだが、ゼミなどでふたり担当教官がいたりすると互いに探し合ったり、教官のほうが学生を探していたり、まるでどこに行ってしまうかわからない子供の遠足のような、なにがなんだかわからない状況であった。今はもう少し穏やかになったのだろうか?
教室の所在の複雑さはここ神戸でもかなりのものだ。この4月から勤務している神戸大学は御影石の産地、六甲山にある。地盤が固かったことが幸いして地震の痕跡は扉の建て付けが悪いぐらいで目立たない。それでも本部へ渡る構内道路が路肩崩れのため通行止め、バイク置き場になっていたり、少し下ったところには大きなヒビが痛々しく残る建物もある。
六甲山麓とはいうものの、充分山の中である。学生会館の脇を経営学部へと上る階段はまるで登山道のようだし、上りきったところから法学部へたどる細い脇道は緑が茂ってまるで獣道か山奥にうち捨てられた祠でもありそうな気配を漂わせる。なにより、イノシシが出る。とはいえ、神戸ならば少し小高いところはどこでもイノシシが闊歩しているけれど。(噂によれば、このイノシシ氏、信号待ちをしたりもするそうである)。北大は自転車の群れが壮観だが、神戸大は大学まで道の傾斜がきついので、バイクの大群が迫力である。
特に登り斜面に継ぎ足しながら建てられた国際文化学部は複雑である。門の脇にある学部見取り図に建物の断面図までついているのはここぐらいなものではないだろうか。研究・教室棟にアルファベットが振られているのだが、初心者にはあまり助けになるものではない。A棟とB棟のあいだにMやLの記号がついた教室が現れるかと思えば、一番奥にD棟があって、いちばん手前がA棟と並ぶE棟である。
教室から教室へと渡る回路もやはり複雑で、曲がり方や階を間違えると袋小路に飛び込んでしまい、結局もと来た道を引き返す羽目になる。かと思うと意外なところに抜け道があったり、外への扉を開けたむこうに教室があったり(この大学もときどき教室番号が途中で消える)、重い資料などをもって教室に急いでいると、ときどき障害を乗り越えて進むゲームの主人公になったような気がする。とはいえ、行き着く先に宝物はないのだけれど。さすがに教室が頻繁に変わることはないが、慣れるまでは大変である。春には学生も教師も、ともに教室を探し回ることになるらしい。
教官研究室の所在も順不同である。神戸大の自由主義、独立独歩の気風を「反映」して、それぞれ思い思いの場所に研究室がある。露文や歴史、といった学科ごとに集まらず、まったくの気ままなので、誰がどこにいるのか表を見なければ決してわからない。春になって大学を去る人が出ると、より快適な場所を求めて研究室の玉突き移動があったりするらしい。国際文化学部の特色かと思ったら、同じ宿舎に住む法学部の事務の人曰く、他も大体そうなんです、とのこと。さすがに最近はなるべく大講座ごとに、という傾向があるらしく、私が所属する文化交流論大講座のメンバーはおおむね横移動ですむところにいる。
実はこの学部、建物以上に仕組みそのものがよっぽど複雑で、形而上的な迷宮度のほうがよっぽど難度が高いのである。そんなわけで、どこかロシアを思わせなくもない環境のもと、手探りで進む(もしくは進んでいる気になっている)日々が続いている。もしかしたらいつか、ロシアに通じる扉を見つけてしまうかもしれない。