姓 | ブルィンツァロフ:Брынцалов |
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名 | ウラジーミル、А. |
生年月日 | 1946.11.23 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 大学卒業後、チェルスカースク技術コレッジで教鞭を執り、その後建設現場で現地技師として働く。79年三階建ての建物を所有していた理由でソ連邦共産党の追放処分を受ける。87年、農業協同組合「ビー」を設置。その後、製薬会社「フェレイン」を設置し、会長をつとめる。93年12月の第1期下院選挙で一人区から立候補したが落選。95年12月第2期下院選挙で、選挙ブロック「イワン・ルイプキン・ブロック」の推薦を受け、モスクワ州オレーホヴォ・ズーエヴォ選挙区から当選。96年1月16日から96年2月まで「人民に権力を」会派所属。96年2月から無会派。96年1月からロシア社会民主党メンバー。96年3月よりロシア社会党組織委員会議長。第2期国家会議健康保護委員会委員。ロシア連邦大統領候補に推薦され、同年6月16日に実施された大統領選に出馬するが、0.16%しか得票できず落選。97年9月、「我が家ロシア(NDR)」に加入。 |
姓 | ブルガク:Булгак |
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名 | ウラジーミル、Б. |
生年月日 | 1941.05.09 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 博士候補 |
考察 | モスクワ生まれ。妻と娘1人。63年モスクワ通信・電気工学大学、72年国家経済管理大学卒。63~68年、モスクワ市コムソモールでインストラクターをつとめる。68~83年、モスクワ市放送網の主任技師として通信部門のキャリアを積む。83~90年ソ連通信省で局長を歴任。91年7月、ロシア共和国通信・情報・宇宙相となり、機構改革に伴い91年11月22日よりロシア連邦通信相。91年8月までソ連共産党員。ロシア政府政令No.1051(96.9.9)により政府業務委員会メンバーに任命される。97年3月17日、連邦副首相(科学、テレビ、通信、情報、運輸、天然資源、環境保護担当)に就任。同年4月8日付首相命令でロシア連邦と諸外国間の貿易・経済及び科学・技術協力における政府間委員会ロシア側議長(スウェーデン、ハンガリー担当)に任命される。同年8月、省庁間国家機密保護委員会議長に就任。98年1月16日、副首相の新職務配分に関する決定が行われ、マスメディア対策を担当する。98年3月23日、大統領令第281号により、ロシア連邦憲法第83及び117条に従って、連邦政府の総辞職及び新政府組閣まで政府閣僚は職務を引き続き遂行することを決定。98年4月30日付で連邦政府副首相代行を解任され科学技術相に任命。同年5月より政府幹部会のメンバー。同年8月23日付大統領令により、内閣総辞職、科学技術相代行となる。同年9月16日、プリマコフ内閣の副首相(科学問題、インフラストラクチャー担当)に任命。起訴・応用科学分野における国家政策、科学の成果を取り入れた技術の発展分野を含む科学・技術政策の取りまとめ・実現問題を担当。燃料エネルギー・コンプレクス、原子力産業、核エネルギー産業、運輸、遠隔地間の情報伝達、通信・情報の諸問題、産業および核の安全保障問題を担当。規格・度量衡・製品の品質認定問題、知的工業所有権の保護問題を担当。ロシア科学アカデミーと部門別の国家アカデミーの連携を調整。(ロシア連邦政府権限に入る問題に関して)国家間航空委員会との連携を組織。また、科学・技術省、運輸省、鉄道省、燃料・エネルギー省、原子力省、通信・情報国家委員会、規格・度量衡国家委員会、連邦エネルギー委員会、連邦航空局、連邦道路局、連邦鉄道部隊局(ロシア連邦政府権限に入る問題に関して)、連邦核・放射能安全監督局、連邦鉱工業監督局、ロシア特許・商標局、ロシア連邦大統領直属技術国家委員会(ロ |
姓 | ブルガコフ:Булгаков |
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名 | ヴィクトル、К. |
生年月日 | 1949.01.26 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 博士 |
考察 | トムスク大学卒業。教授の称号を持つ。専門は、物理工学で、ロケットエンジンの理論及び設計に携わる。72~76年化学・工業研究所技師として、76~87年イジェフスク機械大学講師、助教授、講座主任として働く。学位論文の公開審査に合格。イジェフスク機械大学で働く。上級講師から、講座主任となる。博士号の公開審査に合格。89年からハバロフスク国立技術大学の学長を務める。全アジア燃焼及び火災との闘争に関する協会会長。93年12月連邦会議代議員に当選。無所属。94年3月26日、上院科学・文化・教育問題委員会副議長に就任。「大学と高等学校の破滅的な状況が、私をして重要な政治へと進むことを余儀なくした。」と語っている。95年12月地区議会代議員の候補となるが、落選。政治的意見は中道主義。 |
姓 | ブルガコワ:Булгакова |
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名 | タチヤーナ、И. |
生年月日 | 1945.06.11 |
性別 | 女 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 中/高卒 |
考察 | 93年12月の選挙で国家会議代議員に選出される。未成年協会会長として働く。国家会議安全保障委員会委員。ロシア自由民主党のメンバー。 |
姓 | ブルコフ:Бурков |
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名 | セルゲイ、В. |
生年月日 | 1956.08.25 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 博士候補 |
考察 | 93年12月国家会議代議員に選出され、94年1月に下院財産・民営化・経済活動委員会議長に就任する。小選挙区から選出される。ケメロヴォ州経済問題ソヴィエト議長顧問。「新地域政策」グループのメンバー。 |
姓 | ブルコフ:Бурков |
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名 | ワレリー、А. |
生年月日 | 1957.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 93年12月まで大統領顧問(身障者の社会的保護問題担当)。 |
姓 | プルサク:Прусак |
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名 | ミハイル、М. |
生年月日 | 1960.02.23 |
性別 | 男 |
国籍 | ウクライナ人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 79~80年教師として働く。86~88年コムソモールraikom第1書記などをつとめる。88~91年地区ソフホーズ所長、89~91年ソ連最高会議のメンバー。ノヴゴロド州行政長官。93年12月選挙で連邦会議代議員に当選。連邦会議CIS問題委員会委員。ロシア統一・合意党のメンバー。95年12月下院選と同時に実施されたノヴゴロド州行政長官選挙で再選。第2期連邦会議国際問題委員会委員。 |
姓 | プルジェズドムスキー:Пржездомский |
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名 | アンドレイ、С. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 96年2月、連邦税務警察機関副長官に就任。 |
姓 | ブルスニツィン:Брусницын |
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名 | ユーリー、А. |
生年月日 | 1946.04.15 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 93年12月選挙で国家会議代議員に当選、94年1月には国家会議活動組織委員会副議長に就任。小選挙区から選出される。医師、エカテリンブルグ市キーロフ地区行政長官として働く。「新地域政策」グループのメンバー。98年4月、スヴェルドロフスク州における大統領代理人に就任。 |
姓 | ブルダエフ:Булдаев |
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名 | セルゲイ、Н. |
生年月日 | 1934.03.06 |
性別 | 男 |
国籍 | ブリャト人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 大学卒業後、鉄道関係の工場で働く。57年入党と同時にコムソモールで活躍し、コムソモールobkom部長、同gorkom第1書記もつとめる。64~65年、地方執行委員会議長。65~68年、raikom第2書記をつとめた後、中央委員会の社会科学アカデミーで経済学を学び、その後もraikom、obkomなどで要職を歴任。85年ロシア最高会議代議員。87年ブリャト閣僚会議議長に選出される。91年7月、第5回人民代議員大会で民族会議メンバーに当選。 |
姓 | ブルダニン:Бруданин |
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名 | セルゲイ、Д. |
生年月日 | 1961.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 98年7月、連邦破産・財政健全化問題局副長官に就任。 |
姓 | ブルドゥコフ:Бурдуков |
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名 | パーヴェル、Т. |
生年月日 | 1947.04.06 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 93年12月選挙で第1期国家会議代議員に当選。小選挙区から選出される。カルーガ州クイブイシェフ地区ソフホーズ長として働く。ロシア農業党会派所属。第1期及び第2期国家会議安全保障委員会委員(経済安全保証分野立法小委員会委員)。95年12月第2期国家会議代議員選挙でカルーガ州ジェルジンスキー選挙区から当選。 |
姓 | ブルドゥコフスキー:Бурдуковский |
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名 | ゲオルギー、Е. |
生年月日 | 1954.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | ポーランド人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 72~74年ソ連軍武装部隊に勤務。80年イルクーツク国立大学法学部卒業。チチンスキー地方のネルチンスキー人民裁判所で研修し、87年までそこで働いた。家族の事情により87年から沿海地方に住み、ヤコヴレフスキー地区で人民裁判官として働く。80年代末ヤコヴレフスキー地区裁判所議長になる。 |
姓 | ブルナショフ:Бурнашов |
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名 | ロベルト |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 95年12月、サハ(ヤクーチヤ)共和国副首相に就任。 |
姓 | フルハチーエフ:Хулхачиев |
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名 | ベムビャ、В. |
生年月日 | 1958.07.27 |
性別 | 男 |
国籍 | カルムク人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 93年12月選挙で国家会議代議員に当選。小選挙区から選出される。市裁判所所長として働く。「12月12日連合」グループのメンバー。国家会議民族問題委員会委員。 |
姓 | ブルブリス:Бурбулис |
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名 | ゲンナディー、Э. |
生年月日 | 1945.08.04 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 博士候補 |
考察 | スヴェルドロフスク州ペルヴォウラリスク市生まれ。ロシア人(リトアニア系の姓は、第1次大戦中にウラルに移住した祖父に由来)。妻と息子1人。ウラル国立大学卒。62年からペルヴォウラリスク市で電気工として働き、兵役後スヴェルドロフスク市(現エカテリンブルグ市)で工場に再就職。その後ウラル国立大学哲学部を卒業。81年哲学博士候補の学位取得。エリツィンの母校ウラル工科大学で83年まで教壇に立ち、社会科学、マルクス・レーニン主義を教える。83~89年ソ連冶金工業省の全ソ専門家資格向上大学の講座主任、副学長。87年旧ソ連で最初の政治クラブ「討論の演壇」クラブをスヴェルドロフスク市で組織。89年3月ソ連人民代議員に当選し、続いてソ連最高会議に選出。90~91年ロシア最高会議議長全権代表を務め、「エリツィン・チーム」の結成に貢献、91年6月のロシア大統領選挙では事前にソ連共産党を離党してエリツィン派の選挙運動を指揮。エリツィン氏の大統領就任後、国務長官(91~92年「ロシア連邦国務長官」、92年5~11月「ロシア連邦大統領直属国務長官」)になる。91年11月から第1副首相を兼任、エリツィン政権内のナンバーツーになる。92年4月第1副首相解任。92年1月22日、大統領直属国家褒賞(文学・芸術分野)委員会議長に就任。同年11月26日大統領直属国務長官廃止。同日大統領主席顧問に就任(同年12月14日解任)。主席顧問解任後もしばらく憲法協議会など重要会議に出席。93年から人文・政治学センター「戦略」所長。93年12月選挙で比例区から第1期国家会議代議員当選。「ロシアの選択」のメンバー。第1期及び第2期国家会議地政学委員会委員。院内ではどの会派にも所属せず。ロシア「戦略」財団総裁。95年12月、スヴェルドロフスク州ペルボウラリスク1人選挙区から第2期国家会議代議員に再選される。 |
姓 | フルマノフ:Фурманов |
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名 | ボリス、А. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 93年1月14日、大統領直属専門家評議会副議長に就任(93年7月27日解任)。 |
姓 | ブルラコフ:Бурлаков |
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名 | ミハイル、П. |
生年月日 | 1952.01.31 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 博士候補 |
考察 | 93年12月選挙で国家会議代議員に当選。サマル州サマル国立教育大学トリヤッチ分校主任教授。ロシア自由民主党会派のメンバー。国家会議教育・文化・科学委員会委員。 |
姓 | ブルラコフ:Бурлаков |
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名 | マトヴェイ、П. |
生年月日 | 1935.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 大将。西部集団軍総司令官。94年8月26日、国防次官に就任したが、同年11月、軍に対する世論の批判の直接の対象となったことから更迭される。 |
姓 | ブルリノフ:Бурлинов |
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名 | Ю、И. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 92年2月より資源確保運用調整政府委員会メンバー。 |
姓 | ブルルツキー:Бурлуцкий |
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名 | ユーリー、И. |
生年月日 | 1937.02.17 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | スタヴロポリ地方人民代議員ソビエト副議長をつとめる。93年10月9日付「ロシア連邦の代表制権力機関及び地方自治機関の改革に関する大統領令」により、地方、州、自治州、自治管区の地方議会解体命令が出され、同地方ソビエト解体。第1期国家会議代議員秘書。ロシア連邦共産党中央委員会メンバー。95年12月第2期国家会議代議員選挙で比例区から当選。第2期国家会議連邦問題・地域政策委員会委員。96年1月21日から代議員資格審査委員会委員。 |
姓 | ブレチャロフ:Бречалов |
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名 | アルビオン、В. |
生年月日 | 1946.09.30 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 工場勤務の後、大学を卒業し、新聞社で働く。永年マスコミに勤務し、87年論説委員となる。地方代議員経験あり。92年4月、第6回人民代議員大会で民族会議メンバーに選出される。 |
姓 | プレトニョワ:Плетнева |
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名 | タマーラ、В. |
生年月日 | 1947.11.22 |
性別 | 女 |
国籍 | ドイツ人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 93年12月、第1期国家会議代議員選挙で当選、94年1月には下院女性・家族・青年問題委員会副議長に就任する。自動・青年問題小委員会副議長。小選挙区から選出される。教師、地区寄宿制特殊学校校長として働く。ロシア連邦共産党会派のメンバー。95年12月第2期国家会議代議員選挙でタンボフ州タンボフ選挙区からロシア連邦共産党の推薦を受け当選。第2期国家会議教育・科学委員会委員。 |
姓 | ブレノク:Буленок |
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名 | イワン、И. |
生年月日 | 1938.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | ウクライナ人 |
学歴 | 中/高卒 |
考察 | 58年にハバロフスク中等技術専門学校を卒業。軍に徴集されるまでウラジオストックUNR263で熟練工として働く。58~60年沿海地方およびハバロフスク地方の軍建設部隊に勤務。その後極東工場建設・組立局で熟練工、現場監督として働く。69年に企業「ストロイデタリ」支配人に任命される。87年から生産連合会「ストロイデタリ」総支配人。90年に同連合会は「ストロイチェリ」と改称されたが、引き続き総支配人をつとめる。「民主主義の社会においてはファシスト派を除いた任意の党に席がなければならない。自分は今でも共産主義者である。」と考える。89年にソ連邦人民代議員選に出馬したが当選せず、ソフホーズ支配人に席を譲った。 |
姓 | フレブニコフ:Хлебников |
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名 | イワン、Г. |
生年月日 | 1953.08.27 |
性別 | 男 |
国籍 | その他 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 高卒後、労働者として集団農場で働き、後に農業大学を卒業。専門技術者から集団農場副議長となる。80年からobkom、raikomなどの党機関で要職を経験する。84年より地方執行委員会議長。85年raikom第1書記。90年マリ自治共和国閣僚会議副議長に任命される。91年7月、第5回人民代議員大会で民族会議メンバーに選出される。 |
姓 | プレミヤク:Премьяк |
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名 | ピョートル、Г. |
生年月日 | 1945.07.26 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 59年から職業を転々とする。指物師の弟子になり、建設学校に通って煉瓦石積職人として働くが、アムール河汽船会社ハバロフスク営業所の水夫となり、舵手として働く。64~90年太平洋艦隊勤務。90年11月6日、カムチャツカ州人民代議員ソビエト議長に就任。93年10月9日付「ロシア連邦の代表制権力機関及び地方自治機関の改革に関する大統領令」により、地方、州、自治州、自治管区の地方議会解体命令が出され、同州ソビエト解体。軍防諜機関大佐。93年12月選挙で連邦会議代議員に当選。連邦会議安全保障・国防問題委員会副議長。 |
姓 | プローニン:Пронин |
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名 | アレクサンドル、В. |
生年月日 | 1955.05.10 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 中/高卒 |
考察 | 93年12月の選挙でロシア自由民主党から国家会議代議員に当選。ロシア自由民主党事務局長代理を務めるが、92年2月16日離党。国家会議環境委員会委員。 |
姓 | プロコピエフ:Прокопьев |
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名 | アレクセイ、А. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 94年10月より工業政策国家委員会副議長をつとめる。96年9月、産業省次官に就任。同年11月より同省次官・大臣官房長官。97年1月、政府官房副長官及びロシア政府業務問題委員会責任書記に任命される。98年5月22日、政府官房副長官再任。 |
姓 | プロコペンコ:Прокопенко |
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名 | アナトリー |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | ロシア国家公文書保管機関副議長をつとめる。 |
姓 | プロコポフ:Прокопов |
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名 | フョードル、Т. |
生年月日 | 1958.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 93年4月より連邦雇用機関長官をつとめる。 |
姓 | プロシェンコ:Площенко |
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名 | ナタリヤ、В. |
生年月日 | 1950.10.22 |
性別 | 女 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 中/高卒 |
考察 | 高卒後、被服工場につとめ、見習いからデザイナーになる。代議員選出時には、チーフ・デザイナーをつとめていた。90年最高会議常勤となる。74年以来党員。工場の初級党組織の書記、kraikom委員にも選出される。92年4月、第6回人民代議員大会で民族会議メンバーに当選。93年9月まで民族会議民族・国家機構および民族間関係委員会書記。 |
姓 | プロシン:Прошин |
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名 | ユーリー、А. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 98年5月25日、外務省次官に就任。 |
姓 | プロスクリャコフ:Проскуряков |
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名 | ヴィクトル、П. |
生年月日 | 1956.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 78年ハバロフスク工業大学を卒業。ハバロフスク地方ナナイスク地域の道路生産用地の技術者主任として働き始める。79年から90年ハバロフスク地方ラーゾ(名称)地区のラーゾフスキー道路修繕建設局修理技術者主任、局長。90年から91年ラーゾ(名称)地区執行委員会議長。91年12月からハバロフスク地方ラーゾ(名称)地区行政長官。政治的意見は中道主義。 |
姓 | プロツェンコ:Проценко |
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名 | アナトリー、А. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 95年8月、連邦警備総局副局長に就任。大佐。 |
姓 | プロトコポフ:Проткопов |
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名 | ウラジーミル |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | ネフチェカムスク自動車工場社長をつとめる。98年2月8日にバシコルトスタン共和国で実施されたロシア下院議員の補欠選挙で10人の対立候補を破って当選。 |
姓 | プロトニコフ:Плотников |
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名 | ウラジーミル、Н. |
生年月日 | 1961.11.30 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 93年12月選挙で第1期国家会議代議員に当選。小選挙区から選出される。農業専門家、ロシア共和国(ソ連)功労農業家。ヴォルゴグラード州オリホフカ区グセフカ村コルホーズ「グセフスコエ」農業技師長として働く。ロシア農業党会派のメンバー。第1期及び第2期国家会議農業問題委員会委員。94年3月18日より国家会議代議員資格審査委員会委員。95年12月第2期国家会議代議員選挙にヴォルゴグラード州ミハイロフカ選挙区からロシア農業党の推薦を受け当選。 |
姓 | プロトニコフ:Плотников |
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名 | セルゲイ、Г. |
生年月日 | 1952 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 94年3月ハバロフスク議会選挙に立候補し当選。「エクスプラレス」企業長。1995年急死。 |
姓 | ブロネヴィチ:Броневич |
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名 | ワレンチナ、Т. |
生年月日 | |
性別 | 女 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 弁護士。カムチャツカ州選挙委員会議長を経て、96年11月17日、コリャーク自治管区行政長官選挙で当選。 |
姓 | プロホロフ:Прохоров |
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名 | ヴャチェスラフ、А. |
生年月日 | 1950.06.17 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | モスクワ生まれ。妻と3人の子供。80年モスクワ電気機械製作大学卒業。69~90年、長距離ラジオ通信研究所に勤務し、副所長までつとめる。91~92年、モスクワの財産基金副総裁。92年より国有財産管理委員会の中央事務局で要職に就く。94年から政府官房財産・企業活動総局長。95年6月7日、45歳で小規模企業支援・発展国家委員会議長に就任。96年1月、ロシア大統領命令により、重大な職務規律違反のため厳重戒告処分を受ける。97年10月30日、同委員会議長から解任。 |
姓 | プロホロフ:Прохоров |
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名 | アレクサンドル、В. |
生年月日 | 1950.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 70年ウラジオストク中等気象技術学校卒業。80年代初め通信教育で全ソ労組中央評議会の高等労働組合学校を卒業(専攻は経済学)。70年、沿海地方気象サービス局につとめて1年経たないうちに、軍隊に徴集される。予備役にまわされたあと、72年ウラジオストク無線通信センターで最初技師として、その後職長、交代制長として働いた。85年党の仕事に移り、raikom指導員、部長をつとめる。2年後ナデージンスキー地区執行委員会副議長、90年に議長になる。91年ナデージンスキー地区行政長官に任命される。94年秋選挙参加者の51.1%の票を集めて3人の候補者の中から沿海地方議会代議員に当選。無所属。95年1月25日、沿海地方議会副議長に選出され、常任委員会で働く。投票者はほどほどに保守的である。自由民主党を民主主義者たちよりも評価する。 |
姓 | プロホロフ:Прохоров |
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名 | レオニード、Ф. |
生年月日 | 1946.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 73年極東国立大学法学部卒業。7年生終了後、ホロリ村で映画技師助手として働き始め、63年ウラジオストックにある技術専門学校を卒業後、カメラ機器修理機械技師として働く。66年からウラジオストックの工場「メタリスト」で取付工として働く。73年ハロリ地区ソビエト執行委員会指導員の職に招かれる。75年ハロリ地区人民裁判所人民裁判官に選出される。76年からハロリ地区人民裁判所議長。 |
姓 | プロホロフ:Прохоров |
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名 | ミハイル |
生年月日 | 1965.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | モスクワ財務大学卒。92~93年「国際金融会社」理事会議長。93年よりオネクシム銀行理事会議長をつとめる。98年5月28日のオネクシム銀行年次株主総会で、ウラジーミル・ポターニンの後任として同行頭取兼理事会議長に就任。 |
姓 | プロホロフ:Прохоров |
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名 | アレクサンドル、Д. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | スモレンスク市長をつとめる。98年5月17日、スモレンスク州知事選挙第2回投票(第1回投票は4月26日実施)で、ロシア連邦共産党の推薦を受けて歴然たる優位をもって当選。 |
姓 | フロムシン:Хромушин |
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名 | アキム |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 94年7月5日、住民社会保護省第1次官に就任。 |
姓 | フロロフ:Фролов |
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名 | アレクサンドル、К. |
生年月日 | 1949.07.25 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 93年12月選挙で国家会議代議員に当選。「ソヴィエツカヤ・ロシア」紙(新聞)政治評論家として働く。ロシア連邦共産党科派のメンバー。国家会議地政学問題委員会委員。 |
姓 | フロロフ:Фролов |
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名 | ワシリー、А. |
生年月日 | 1937.01.01 |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 92年1月24日、保安省次官に就任。大統領特別計画総局長。98年6月1日、同職解任。 |
姓 | フロロフ:Фролов |
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名 | ウラジーミル、В. |
生年月日 | 1946.03.11 |
性別 | 男 |
国籍 | ロシア人 |
学歴 | 大学卒 |
考察 | 93年12月の選挙で国家会議代議員に当選。ロシア連邦功労芸能者。国立オリョル市劇場支配人兼監督兼俳優として働く。ロシア連邦共産党会派のメンバー。国家会議国際問題委員会委員。 |
姓 | フロロフ:Фролов |
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名 | ヴィクトル、И. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 95年11月~96年8月、連邦通貨・輸出管理機関副長官をつとめる。 |
姓 | フロロフ:Фролов |
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名 | エヴゲニー、С. |
生年月日 | |
性別 | 男 |
国籍 | 不明 |
学歴 | 不明 |
考察 | 98年7月、政府官房国家会議(下院)相互協力総局長に就任。 |