| 考察 | 
       ゴーリキー州(現ニージニーノヴゴロド州)生まれ。ロシア共和国(ソ連)功労建設者。父親と祖父が無実の罪により37年に銃殺され、母親も逮捕された経験を持つ。スヴェルドロフスク鉱山大学卒。中部ウラルの建設現場から職歴をスタート。63〜75年企業合同「タギルストロイ」勤務。現場監督、生産部長、技師長などをつとめる。75〜83年建設コンビナート「タギルチャシストロイ」長などを、83〜89年別の建設コンビナート「グラヴスレドラルストロヤ」長などをつとめる。90〜91年、スヴェルドロフスク州勤労者人民代議員ソビエト執行委員会議長。91年1月〜10月、同ソビエト議長。91年11月からスヴェルドロフスク州行政長官。93年7月「ウラル共和国」創設を蹴って、93年11月10日、行政長官解任、同日ウラル地域経済協力連合総裁に就任。93年12月選挙で連邦会議代議員に当選。94年4月、スヴェルドロフスク州議会(ドゥーマ)議長に就任。連邦会議安全保障・国防問題委員会委員。95年8月20日、スヴェルドロフスク州知事の決選投票で勝利し、同23日就任。95年12月の下院選挙に選挙連合「祖国の変貌」を率いて臨むが、不振に終わる。エリツィン大統領の政敵として知られていたが、96年大統領選挙において同大統領を支持。98年9月、政府幹部会への参加に同意。ただし、同幹部会の決定についての討議や策定に参加するだけで、表決に参加することはできない。  |