ヤークシュ:Якуш
ミハイル、М.
生年月日 1947.01.01
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 カラチャイ・チェルケス共和国人民議会議員。95年12月第2期国家会議代議員選挙で、選挙団体「ロシア連邦共産党」の推薦を受け、カラチャイ・チェルケス共和国小選挙区から当選。ロシア連邦共産党会派所属。第2期国家会議民族問題委員会委員。


ヤール:Яр
セルゲイ、П.
生年月日 1955.01.14
性別
国籍 その他
学歴 大学卒
考察 7歳から働きはじめ、学校に通いながら漁業に携わる。72年大学法学部入学。73〜75年戦略ロケット軍に従軍。75年以降党員。コムソモールの推薦で内務保安庁で働く。81年ソ連内務省付属高等教育機関を卒業し、弁護士資格を得る。81〜85年地方ソビエト執行委員会内務保安部で司法調査官をつとめる。raikomプロパガンダ部門、地方人民監督委員会議長などを歴任し、90年地方ソビエト議長に選出される。90年5月、第1回人民代議員大会で民族会議メンバーに選出される。91年10月自治地域へのロシア共和国大統領代表に任命される。地方代議員およびraikom委員もつとめる。89年10月「ヤマ−ル帰属問題」協会設立の際に第1副協会長になる。ヤマル・ネネツ自治管区における大統領代理人(95年6月、本人の希望により解任)。


ヤヴリンスキー:Явлинский
グリゴリー、А.
生年月日 1952.04.10
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士候補
考察 ウクライナ共和国リボフ市でマカレンコ児童収容所長の子として生まれる。妻と2人の息子。73年プレハノフ(名称)モスクワ国民経済大学卒。9学年の途中で退学して働き始め、夜間学校で学ぶ。68年リボフ郵便局の郵便物運送係。69年同市の「ラドゥガ」ガラス会社で電気工見習い、器具組立工。モスクワ国民経済大学及び同大学院修了後、76〜80年モスクワの石炭研究所、80〜84年労働研究所に勤務。84〜85年ソ連労働・社会問題国家委員会労働・社会問題部副部長、85〜88年同国家委員会管理改善部副部長、88〜89年同国家委員会社会発展・人口局局長。89年7月〜90年8月ソ連閣僚会議経済改革国家委員会経済改革部長、市場経済移行「500日計画」の作成に当たる。90年8月からロシア共和国副首相兼経済改革国家委員会議長、同年12月、ソ連及びロシア政府の無策ぶりに抗議して辞任。90年12月経済政治研究センター(エピツェントル)を創設、その理事長に就任。91年ロシア共和国首相経済顧問。91年2月カザフ共和国最高経済会議委員。91年ソ連大統領直属政治諮問評議会メンバー。91年6月米国ハーバード大学でアリソン教授のチームと「グランド・バーゲン計画」を作成。カザフ共和国最高経済評議会メンバー。 CIS経済同盟条約やニージニーノヴゴロド州の地域改革計画の作成にも当たる。93年12月選挙で第1期国家会議代議員に当選。議会内会派「ヤブリンスキー連合」のリーダー。第1期及び第2期国家会議評議会員。95年1月より「ヤブロコ」議長。95年12月第2期下院選挙で、「ヤブロコ」より比例区当選。96年6月16日に実施された連邦大統領選挙に出馬するが、7.34%の得票率で落選。


ヤキモフ:Якимов
アナトリー、М.
生年月日 1949.03.10
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 エヴェンキ自治管区行政長官をつとめる。ロシア上院議員。第2期連邦会議北部・少数民族問題委員会委員。96年12月22日に実施された自治管区行政長官選挙に出馬し、対立候補との得票差が非常に僅差であったため、97年3月の再選挙に臨むが、落選。


ヤクーシキン:Якушкин
ドミトリー
生年月日 1957.01.01
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 ジャーナリスト。98年9月15日、大統領報道官に任命。


ヤクーニン:Якунин
グレープ、П.
生年月日 1934.03.04
性別
国籍 ロシア人
学歴 大学卒
考察 56年農業大学を卒業。専攻は生物学。50年代後半〜60年代前半に宗教運動に参加する。神学院卒業。60年代後半は、人権擁護活動に従事する。教会に対する弾圧に抗議して聖職者の地位を剥奪されるが、サハロフ、オルロフ、グリゴレンコらと共に人権運動を続ける。79年投獄され、その後も収容所や国内追放処分をうける。87年解放され、「ペレストロイカのための教会」運動をおこし、積極的に人権擁護運動に従事する。民主ロシア会派の創立時からのメンバー。90年5月、第1回人民代議員大会で民族会議メンバーに選出される。91年10月ロシア最高会議により名誉回復。93年9月まで最高会議良心の自由・信教・慈悲・慈善委員会副議長。93年12月の選挙で国家会議代議員に選出される。ロシア連邦大統領直属立法委員会委員。「ロシアの選択」会派のメンバー。国家会議社会団体・宗教組織問題委員会委員。


ヤコヴェンコ:Яковенко
イーゴリ、А.
生年月日 1951.03.13
性別
国籍 ロシア人
学歴 大学卒
考察 93年12月選挙で国家会議代議員に当選。出版社支配人、ロシア社会学調査所「モニタリング」所長として働く。「ヤブリンスキー連合」評議会のメンバー。国家会議情報政策・通信委員会委員。代議員資格審査委員会委員。


ヤコヴェンコ:Яковенко
В
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 イルクーツク州行政副長官をつとめる。


ヤコヴレフ:Яковлев
ヴィクトル、Б.
生年月日 1957.07.29
性別
国籍 ロシア人
学歴 大学卒
考察 代議員選出後、離党。大学で炭坑技師の資格を得る。卒業後、炭坑で技師として働く。89年6月および11月の炭坑ストライキに積極的に参加する。市の労働者ストライキ委員会員。「労働運動ヴェストニク」編集委員。90年5月、第1回人民代議員大会で民族会議メンバーに選出される。


ヤコヴレフ:Яковлев
ユーリー、Н.
生年月日 1950.10.09
性別
国籍 ロシア人
学歴 中/高卒
考察 93年12月選挙で国家会議代議員に当選。ロシア民主党沿海地方組織議長として働く。ロシア民主党会派のメンバー。国家会議連邦問題・地域政策委員会委員。


ヤコヴレフ:Яковлев
アレクサンドル、Н.
生年月日 1923.12.02
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士
考察 ヤロスラヴリ州ヤロスラヴリ地区コロレヴォ村生まれ(父親は農民で、後年コルホーズ議長)。46年ヤロスラヴリ教育大学、60年ソ連共産党中央委員会付属社会科学大学を修了。41〜43年ソ連軍に勤務、第2次対戦で重傷を負って除隊。除隊後、大学で学ぶ。44〜91年ソ連共産党員(71〜76年中央監査委員、86〜90年中央委員会書記、87年中央委員会政治局員候補、87〜90年政治局員)。ヤロスラヴリ市での「セーヴェルヌィ・ラボーチー」紙副編集長、党学校教師を経て53〜56年及び60〜65年モスクワで党中央委員会勤務。57〜58年、党より派遣されて米ニューヨーク州コロンビア大学に留学。65〜73年党中央委員会宣伝部第1副部長。73〜83年カナダ駐在ソ連大使。83〜85年ソ連科学アカデミー世界経済・国際関係研究所所長。85〜86年党中央委員会宣伝部長。86〜90年イデオロギー・文化担当の中央委員会書記。88年10月〜90年中央委員会国際政策委員会議長。88〜91年、30〜40年代及び50年代初めの弾圧に関する資料の追加的調査に当たる政治局委員会の議長。89〜92年1月ソ連人民代議員。ゴルバチョフを補佐してグラスノスチとペレストロイカの拡大に努め、また国際舞台でのゴルバチョフの成功は同氏のプランと助言に負っていると考えられ、東西冷戦を終結させた「新思考」の父とみなされている。90〜91年ソ連大統領評議会メンバー。91年ソ連大統領首席顧問、ソ連大統領政治諮問評議会メンバー。91年からソ日現代日本文化研究センター所長。91年から全ソ国営テレビ・ラジオ放送会社の政治評論員。91年から「ロシア民主改革運動」共同議長。92年1月からゴルバチョフ財団副総裁。「オスタンキノ」社長。92年12月3日、大統領直属政治弾圧犠牲者名誉回復委員会議長就任。93年12月22日より連邦テレビ・ラジオ放送機関長官及び新聞委員会議長。94年9月新聞委員会議長解任。95年3月16日、「オスタンキノ」社長としての辞意を表明(翌日解任)、連邦テレビ・ラジオ放送機関長官辞任届けを受理される。「オスタンキノ」は95年4月から株式の49%を公開し、「公共ロシア・テレビ」(ヤコヴレフが評議会議長をつとめる)に生まれ変わる予定だったが、同年1月に同テレビの総支配人(社長)に就任するはずだったウラジスラフ・リスチエフ氏が殺害された。また同年3月10日にはロシア下院が「オスタンキノ」の


ヤコヴレフ:Яковлев
アレクサンドル、М.
生年月日 1927.01.01
性別
国籍 ロシア人
学歴
考察 94年1月24日、連邦議会における大統領全権代表(96年より代理人に名称変更)に就任。96年2月5日、年金生活入りに伴い解任。


ヤコヴレフ:Яковлев
ウラジーミル
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 サンクトペテルブルグ市副市長を経て、96年6月2日の市長選の決選投票で現職のソプチャークを僅差で破り、当選。選挙公約として同市のインフラ再建を掲げる。同6月13日、就任。以後、伝統的に「市長」を名乗ってきた同市行政指導者は州と同様の「行政長官」となる。ルシコフ・モスクワ市長と親交がある。


ヤコヴレフ:Яковлев
ボリス
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 チュワシ共和国最高会議第1副議長をつとめる。


ヤコヴレフ:Яковлев
セルゲイ、В.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 大統領府運輸局長を務める。


ヤコバシヴィリ:Якобашвили
ズラブ、А.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 科学・技術政策省次官を努める。97年2月、科学技術国家委員会副議長に就任。同国家委員会は97年3月17日付大統領令によって科学技術省に改編される。


ヤシン:Ясин
エヴゲニー、Г.
生年月日 1934.05.07
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士
考察 オデッサ生まれ。妻と娘1人。57年オデッサ建設専門学校及びモスクワ国立大学経済学部卒業。経済学博士・教授。ソ連科学アカデミー中央統計局科学・分析研究所、中央経済数理研究所、モスクワ国立大学などに勤務。89年、政府経済改革委員会経済部長。90年、シャターリン、ヤブリンスキーらの「市場計画移行500日計画」案の策定に参画。「マクロ経済的安定と投資の促進」を強調。91年、「ロシア工業家企業家同盟」経済政策指導部長、専門家査定研究所長。92年ロシア大統領付属企業活動会議委員。最高会議政府委員。94年4月大統領府情報分析センター長官。同年11月8日より連邦経済相。改革当初の「アバルキン計画」から現在に至るまで一貫して経済改革の理論的指導者とされている。95年4月21日、国際通貨基金(IMF)におけるロシア連邦副代表。96年7月25日、ロシア連邦国防評議会が設置され、メンバーに加わる。ロシア政府政令No.1051(96.9.9)により政府業務委員会メンバーに任命される。96年10月11日付大統領令によって承認された大統領直属納税・予算規律強化臨時非常委員会議長メンバー。97年3月17日、経済相解任、同月26日、連邦無任所相(閣僚:経済問題、経済計画の分析・調整担当)に就任。同年4月8日付首相命令でロシア連邦と諸外国間の貿易・経済及び科学・技術協力における政府間委員会ロシア側議長(ルーマニア、スイス担当)に任命される。同年5月、政府経済改革委員会副議長に就任。98年3月23日、チェルルノムィルジン首相と内閣総辞職を決定する大統領令が出され、同氏は新内閣が組閣されるまで無任所相代行として職務を続行。同年4月4日、「ロシア統一電力体系」(EES)の臨時株主総会で、チェバイス、リフシツらと共に理事会入り。同年4月30日閣外。


ヤシン:Яшин
ユーリー、А.
生年月日 1930.01.01
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 92年1月5日、大統領直属国家技術委員会議長に就任(95年11月再任)。上級大将。


ヤスクノフ:Яскунов
セルゲイ
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 カレリア共和国第1副首相をつとめる。


ヤストルジェムスキー:Ястржемский
セルゲイ、В.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 ソ連共産党中央委員会国際部に勤務した経験を持つ。雑誌「平和と社会主義の諸問題」、「メガポリス」、「ビジョン」などの編集長、外務省情報局長をつとめる。93年6月からスロバキア大使。96年8月13日、メドベージェフの後任として大統領報道官に就任。97年3月28日、大統領報道官のまま大統領府副長官を兼任する。大統領府での国際問題の調整を担当。98年9月12日、大統領府副長官兼大統領報道官から解任。同年10月、モスクワ市政府で国際関係及び広報を担当する可能性が伝えられる。


ヤツィク:Яцык
ヴィタリー、А.
生年月日 1942.01.01
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 公開型株式会社「ピーシェヴィク」社長から、97年12月7日に実施された沿海地方議会代議員選挙に立候補し、当選。


ヤツケヴィチ:Яцкевич
ボリス、А.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 連邦地質学・地下資源利用委員会副議長を務める。同委員会は、96年8月15日付ロシア連邦行政機関の機構改革に関する大統領令によって、天然資源省及び環境保護国家委員会に統合され、廃止。96年11月より天然資源省第1次官・大臣官房長官。


ヤノフスキー:Яновский
アナトリー
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 ロスウーゴリ副会長を経て、98年3月31日、燃料・エネルギー省次官に就任。


ヤブロコフ:Яблоков
アレクセイ、В.
生年月日 1933.01.01
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士
考察 魚類学者。56年から研究機関に勤務。66年博士号取得。89年ソ連邦最高会議エコロジー委員会副議長。91年からロシア国家顧問(エコロジー問題担当)。92年1月より大統領直属環境政策評議会議長(93年12月29日解任)。92年8月8日の大統領令により大統領顧問(エコロジー問題・保健担当)。同年12月30日大統領直属環境政策評議会議長に就任。93年12月29日大統領顧問解任。同年11月、放射性廃棄物海洋投棄問題担当政府委員会議長。93年2月9日の大統領令により大統領顧問辞任。(辞任時の発言:I have resigned at my own will. I have not seen the President in over six months. Besides, there is much talk about the abolition of the office of advisers. I shall work at the Security Council. Meanwhile, the ecological situation in Russia, as most experts admit, is now close to disastrous.)94年4月25日、安全保障評議会環境安全保障省庁間委員会議長に就任。同年7月より連邦環境安全委員会議長。


ヤムキン:Ямкин
ミロン、А.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 95年6月、ヤマル・ネネツ自治管区(チュメニ州)大統領代理人に就任。97年11月22日、同職解任。


ヤルイギナ:Ярыгина
タチヤーナ、В.
生年月日 1953.03.02
性別
国籍 ロシア人
学歴 博士候補
考察 ウリヤノフスク生まれ。夫と娘1人。75年モスクワ国立大学経済学部卒業、大学院に進む。79〜83年、「経済新聞」(週刊)の通信員として働く。83〜89年、ソ連「ゴスコムトルード」の労働研究所室長。90年「500日」計画に参加。91〜93年、ヤヴリンスキーの経済政治研究センター「エピツェントル」主任研究員。93年12月選挙で第1期国家会議代議員に当選、94年1月より下院労働・社会的支援委員会副議長をつとめる(96年1月再任)。「ヤブロコ」会派所属。95年12月第2期国家会議代議員に比例区から当選。


ヤロシェンコ:Ярошенко
アナトリー、И.
生年月日 1937.01.20
性別
国籍 ウクライナ人
学歴 大学卒
考察 ロシア農業党員。クラスノヤルスク地方ボリシャヤ・ウリャ村株式会社「ボリシェウリンスコエ」支配人。93年12月選挙で第1期国家会議代議員に当選。小選挙区から選出される。ロシア共和国(ソ連邦)文化功労者、民族教育成績優秀者。株式会社支配人として働く。ロシア農業党会派のメンバー。93年12月の国家会議代議員選挙で当選。第1期及び第2期国家会議国防委員会委員。95年12月第2期国家会議代議員選挙でクラスノヤルスク地方カンスク選挙区から当選。


ヤロシンスカヤ:Ярошинскя
アーラ、А.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 ジャーナリスト。大統領評議会メンバー。


ヤロフ:Яров
ユーリー、Ф.
生年月日 1942.01.01
性別
国籍 ロシア人
学歴 大学卒
考察 レニングラード生まれ。レニングラード生産工学大卒。64年から沿バルト地域の一工場で交替作業班長、設計技師、職場長。68年からガッチナの「ブレベスニク」工場勤務、76〜78年ソ連共産党ガッチナ市委員会工業・運輸部長、78〜85年企業長。85〜87年gorkom第1書記。87年からレニングラード州執行委員会副議長、議長、人民代議員ソビエト議長、ロシア最高会議副議長。90〜93年ロシア人民代議員。91年8月のクーデター事件では「国家非常事態委員会」派に対する闘いでソプチャーク市長を支援し、主にアフガン帰還兵からなる義勇部隊を組織して市庁舎を防衛、市長派が逮捕されるのを防ぐ。91年10月〜11月サンクトペテルブルグ市とレニングラード州におけるロシア大統領全権代表。91年11から2月ロシア最高会議副議長。92年12月からロシア副首相(社会、経済、地域間関係の調整を担当)。92年黒海艦隊に関する対ウクライナ交渉のロシア国家代表団長。92年11月最高会議オセチア・イングーシ紛争平和解決監視促進暫定委員会議長。94年1月社会政策・政府と議会、政党、社会団体との連携問題担当の副首相に選出される。95年12月、大統領直属ロシア語問題評議会議長。96年7月24日、副首相のポストを解任され、大統領府副長官(大統領補佐官の活動調整担当)に任命される。97年3月28日、大統領府第1副長官に昇任。


ヤンヴァリョフ:Январев
ワレリー、А.
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 94年8月、労働次官に就任。96年9月より労働・社会発展省次官となる。


ヤンコフスキー:Янковский
アルカジー、Э.
生年月日 1958.01.01
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 80年から92年国営電子工場及び製造会社勤務。90年から93年ノヴォシビルスク市ソヴィエト代議員。92年経済自由党入党。経済自由党ノヴォシビルスク地域支部議長。95年12月第2期国家会議代議員選挙で、ノヴォシビルスク州ザエリツォフスキー選挙区から当選。議会内では無会派。第2期国家会議観光・スポーツ委員会委員。96年2月16日からは同委員会副議長。


ヤンダルビエフ:Яндарбиев
ゼリムハン
生年月日
性別
国籍 不明
学歴 不明
考察 93年4月17日、チェチェン共和国副大統領に就任。ワイナフ民主党議長。96年4月、ドゥダエフ大統領の戦死を受けて、大統領代行に就任。97年1月27日に実施されたチェチェン共和国大統領選挙に出馬するが、落選。