下 斗 米 伸 夫(法政大学法学部)
ソ連崩壊後、ロシア連邦での共和国問題をめぐるエスノ政治を、中国との比較をも視野に入れながら考察するのが本稿の課題である。中華人民共和国(以下中国と略)とソビエト社会主義共和国連邦(以下ソ連)とは、ともに民族解放を掲げた社会主義国であった。その後ソ連の継承国となったロシア連邦と改革の中国とは、その制度の理念にちがいはあれ、ともに改革と国際化が課題となってきた。同時に、お互い分離主義的民族運動が政治的争点ともなっている。ソ連時代、ロシア人は人口比で53パーセントをしめたが、ロシア連邦となって82−83パーセントとなった。中国での漢民族の比重が93パーセントであるとすれば、ともに均質度では比較的近いといえる。(表1)
その意味では中国ロシア両国の分離主義的な少数民族問題を比較するのには適しているといえよう。しかし表面的類似性は、実質的差異性を隠しているかに見える。なかでも旧ソ連邦、つまりロシア連邦と中華人民共和国との比較の観点からは、とくに前者での連邦制度、とくに共和国と、後者での自治区の制度的な差異の問題をとりあげる必要がある*1。ロシアと中国とで制度観や制度の機能は異なるように思われるからである。
もちろん、ロシア連邦で「共和国問題」が即、民族・エスニシティ問題となるわけではない。また民族・エスニシティ問題が共和国問題にのみ収斂されるわけでもない。たとえばロシア連邦全体で、タタール人は89年現在552万人住んでいるが、タタール共和国でのタタール人口は176・5万人、同国でも48・5パーセントと、絶対多数ではない*2。ロシア連邦の旧自治共和国ですら、中国の内モンゴルにも似て、ロシア人の方が多数派であるところのほうが多い。21共和国で、地元固有民族が多いのは、チュバシ(66パーセント)とトゥワ(64パーセント)でしかない。ダゲスタンは混合であるが固有諸民族が75パーセントである。ハカシヤ、カレリヤのように、人口の10パーセント程度という例もある。それでも共和国をめぐって、ロシアの民族問題の一断面を浮かび上がらせることはできる。
ソ連は、ソビエト型国家のソユーズ(連邦・同盟)といったものの、実質的には単一国家であって、「連邦制」に意味はなかった。しかしその解体の過程では、レーニンの連邦制概念、「主権」国家の理念が蘇生し、ノメンクラツーラ民族主義とでも呼ばれる現象や、分離主義を生み出してきた。その意味で現在のロシアの連邦制度には、(1)ソ連形成時の民族自決と分離権をふくむ連邦制、(2)ソ連崩壊期の「主権」共和国の自立、(3)ロシア国民国家建設での連邦制問題、(4)これに抗する分離派共和国の形成、といった四つの次元の問題がある。
旧自治共和国(以下共和国)とはソ連時代、15の構成共和国のより下位の行政単位であった。しかもその区分は、後者が内陸にあって離脱の自由がないということであったが、恣意的でもあった*4。
1 ロシア連邦制と共和国-- 法的政治的問題
ロシアは連邦国家である。連邦とは平凡社百科によれば「国家の結合様式を示す概念であり,統一的な主権の下に中央(連邦)政府と州(支邦)政府が明確に権限を分かち,国民国家を形成している場合」をいう*5。ロシア現憲法の解説では、中央国家権力と、個別地域権力機関との国家権力の配分の様式で、後者に固有の権限があって、中央権力によって一方的に変更できないもの、とある。また「自主性を有したより小さな単位を有している複雑な国家」(ルミャンツェフ)ともいえる。つまり種々の地域的、民族的共通性を基礎に自己決定し得るような制度であって、地域の文化・歴史的、地域・経済的特性を生かすことになる。現行ロシア憲法と連邦条約とでは、主体と呼ばれる単位(州、地方、共和国など)、連邦ー構成主体はともに国家権力機関を有し、そのもとの単位は自治機関である。
ロシア連邦はいくつか非対象な行政単位、つまり49州(オブラスチ)・6地方(クライ)・21共和国、自治州1、自治管区10それにモスクワ、サンクト・ペテルブルグ市からなる。なかでも考察の対象である共和国は、まだ帰属が未確定なチェチェンをも含めると21存在する。93年の新憲法では第65条において21の共和国が列挙されている。アディゲィ、アルタイ、バシコルトスタン、ブリャーチャ、ダゲスタン、イングーシ、カバニルディノ・バルカル、カルムィキャ、カラチャエボ・チェルケスク、カレリヤ、コミ、マリー・エル、モルドビア、サハ、北オセチャ、タタールスタン、トワ、ウドムルチ、ハカシヤ、チェチェン、チュワシ、である。ちなみにソ連時代にはロシアに16自治共和国があったが、チェチェン・イングーシが分割し、4自治州(アヂゲイ、カラチャエボ・チェルケス、ハカシヤ、アルタイ)が91年に共和国に昇格して21となった。ちなみに州と地方との区別は民族単位があるかであるが、ハバロフスク地方のようにユダヤ人自治州が分離しても地方といっている。
ロシア連邦は92年3月の連邦条約で、連邦と共和国との権限を、構成主体と連邦との関係と並んで定めた。これに先立ち92年春までに、連邦条約と憲法とのいずれかを優先させるかという論争が生じていた。主権をもつ「共和国」の建設には、ロシア連邦の民主派を含む一部に強い反対があって、エリツィン系でないソプチャーク、ルミャンツェフらの憲法案もこの点ではおなじであった。民族国家委員会議長であった民族学者のティシコフが92年にわずかの時間で辞任した背景もこの問題があった。彼は連邦・民族問題に関して、すべて行政単位を「地域」に一本化し、「民族・地域」という区分を廃止しようとした。しかし、共和国勢力の反対で辞任に追い込まれた*6。
こうして連邦条約は、憲法採択に先立つ条約であり、ロシアは「立憲・条約」連邦国家となった。もっとも連邦条約は憲法規範の補助的意義を有し、その意味では共和国・主体との連邦条約は補助的文書である。同じ連邦国家でも州だけからなるアメリカなどとは異なり、種類の異なった主体からなる「非対称」な連邦といえる。93年の憲法改正でも、アメリカ型の地域一本方式を目指したものの、結局共和国維持派が限定的だが勝利した。その意味ではロシアの連邦構成は、地方自治の原則と、再生したレーニン的民族自決の原則との混在であるといえなくもない。
この州・地方と共和国との関係は、憲法上だけでなく実際政治上も複雑である。周知のようにソ連崩壊は、主権と自決を求めた旧構成共和国の「主権化」、自立から生じた。この過程で、グラスノスチと政治改革により自由化した共和国ノメンクラツーラは、さらに連邦資産の獲得に動いていた。とくに91年秋以降台頭したロシアでの急進的中央集権的潮流にたいし、各構成共和国の民族化しつつあった共産党は、自己の自立化によって、この圧力を交わそうとした*7。この動きに実はロシア共和国連邦自体も合流してソ連は崩壊した。
しかしソ連邦の時期、さらに低い単位であった自治共和国は、制度的にはロシア共和国連邦でなく、直接ソ連邦に従属していたことに注目したい。ソ連では実質的な権力は共産党にあったが、自治共和国の党組織は、たとえばカレリヤ自治共和国の組織が、カレリヤ州委員会といった具合に、いずれも州党委員会の呼称で、ロシア共産党ではなく、ソ連共産党直属の下部機構であった。ちなみにロシア共産党なる組織は90年まではなかったのである。また財政的にもロシアの州・地方はソビエト・ロシア社会主義共和国連邦のもとにあったものの、自治共和国はソ連予算に直接たよっていた*8。こうして、ロシア共和国連邦と自治共和国とは直接の制度的従属関係はなかった。
こうして共和国派は、「民主ロシア」でなく、「改革されたソ連」に制度的にも近接していた。したがって崩壊に対して、共和国は概して否定的で、独立ロシアに対して一部共和国は主権と分離とを主張、改革派主導の一元的な行政に抵抗しはじめた*9。このうち、ソ連崩壊時に自立心の強かったタタールや、トゥワ、チェチェンなどでは、改革されたソ連邦支持であっても、ロシア帰属には反対であって、紛争の種となった。それでも多くが連邦内共和国として、1992年3月に連邦条約を締結したが、チェチェン、タタールスタンは連邦条約に不参加であった。
その後この共和国に対する特権批判がロシア人の多い州・地方から生じた。1993年春からは「共和国」昇格運動が、沿海州、ボログダ州などを中心として生じた。その背景には、補助金や税制上有利な共和国に対する州・地方からの不満があった。
なかでも1993年の大統領と最高会議との対立は、「共和国」を含めての地方主義に格好の場を提供した。共和国勢力は各主体の代表からなる「連邦会議」をつくり、これが憲法制定会議、ないしは将来の上院として機能し、両者の仲介をすることを求めた。エリツィン指導部のなかでもシャフラィ副首相のように、共和国などとの妥協を求め「連邦会議」を承認する考えがあった。
しかし両権力の決着がついた93年のエリツィン憲法の中では、共和国の地位が低下することは避けられなかった。93年11月の憲法協議会では「共和国」の主権を剥奪することが提案されていた。これにたいし共和国のスポークスマンであるダゲスタン共和国の最高会議議長で、旧最高会議の民族院議長アブドゥラチボフらは反対したものの、連邦憲法草案に共和国主権の言葉はなかった*10。
こうして1993年12月の憲法は、連邦条約に関して矛盾を含むものとなった。問題は、共和国、州、地方など「主体」の平等を掲げる第5条と、おなじく5条にいう共和国、正確には「共和国(国家)」としての性格の差異、ないしは矛盾である。共和国は憲法を有するが、地方は「憲章」でかまわない。また共和国は、自己の「国語」を制定する(第6条)が、通常連邦の国語はロシア語である。つまり連邦の「共和国」の特権と、平等の問題がでてきた。主体間が平等となると、連邦と特定の共和国との間で締結された、たとえば租税に関する個別の項目の協定は、他にも均霑することとなる。また、人権・自由や少数民族の権利保護の管轄は、第71条では連邦の権限であるが、第72条1項Vでは連邦と共和国との協同管轄に含まれる。まさに連邦・共和国の根本のところで、この憲法は不明確で矛盾していることになる。また租税でも、その徴収の権限の基本の原則確定は、協同管轄なのか(第72条I)、それとも第75条3項が規定しているように「連邦法」により決まるのかも不明確である*11。つまりレーニン民族問題の後を引く連邦制度と、地方自治制度との矛盾ということになる。
こうして憲法にいう「共和国(国家)」としての存在と、州・地方との間の問題は複雑化した。しかも94年2月になると再び、「主権」共和国問題が生じた。92年以来分離派の中心であって、連邦との国家的関わりをしなかったタタールスタンとの和解が生じ、ロシア・タタール間での2国間権限分割条約が締結され、これは主権共和国間の条約どうしのそれであることが規定されたからである。これ以降、連邦との個別的条約を結ぶ例が共和国だけでなく州にまでひろがった。他方このような考えに反対の共和国指導者も生じた。カルムィキヤのイリュムジノフ大統領は、共和国を廃止し県への移行を提唱した。結局シャフライら大統領側近らは、力で共和国のような民族的行政単位を解体できないと主張した*12。結局連邦は「民族・政治的」徴表に応じて作られた。
この共和国の地位は、連邦憲法と共和国憲法とにより規定される(憲法第66条)。逆にいえば、一方的に自己の地位を主体は決定できないことになっている。共和国の憲法は連邦憲法に照応していなければならない。しかし同時に、共和国の特殊性、とくに民族的構成を考慮し、ロシア連邦国家権力機関側からの承認を必要としないとしている。事実、共和国側は自己の法の連邦法に対する優位を指示している。チェチェン、タタール、カレリヤ、バシコルトスタン、ヤクーチャ、ブリャート共和国などで自己の法の優位を規定している*13。
2 分離主義の没落?-- 共和国の政治動向
こうした問題の頂点がロシア連邦からの離脱問題である。連邦内共和国から、一部の共和国で分離主義の運動が生じた。正確には、92年3月の連邦条約に参加しなかった共和国が生じた。分離志向が強かったのはチェチェン、タタール、トゥワなどであるが、サハ、バシコルトスタンなどでもこの傾向が見えた。
一 チェチェンにおける分離主義問題。
チェチェンは、19世紀までロシア帝国と戦った印欧系の山岳民族であり、1944年にスターリンによって中央アジアへの追放の憂き目にあったが、1957年フルシチョフによってチェチェン・イングーシ共和国が復活、彼らの帰国が許された。
1991年の8月のクーデターに際して、元軍人のドゥダエフら「全チェチェン民族会議」が政権を奪取、11月に憲法改正と大統領選挙を実施、ドゥダエフが圧倒的に選ばれ、ロシアに加盟しなかった。この時ルツコイ副大統領らは武力介入しようとするが失敗した。92年3月には自決権にもとずく憲法を採択したが、ロシア法などの適用は排除していない。
チェチェンには「タイプ」という130ほどの部族的結合の単位があり、バイナフという民主主義の基盤とも、またドゥダエフ支配に対する対立の根元ともなる。イングーシとも違い、タイプはある種の平等と民主主義の伝統があり、バイナフ民主主義の自主管理組織である*14。また平地と山岳地帯の産業などの違いもある。このため93年頃からモスクワ派と独立派の、また相互内部の対立が強化された。モスクワは、最高会議議長であったハスブラートフなどを担ぎ出そうとするが失敗、94年末この紛争に軍事介入、双方に多くの犠牲者を出した*15。このため96年8月レーベジ安保担当書記が、マスハドフと5年間主権棚上げの停戦にこぎつけた。97年2月には大統領選挙で穏健派マスハドフが勝利した。さらに5月にはモスクワと平和と相互関係の基礎という協定が締結され、正常化への道が開けた*16。
二 タタールスタンの分離主義問題
タタールは90年8月に国家主権宣言を行った。ソ連崩壊の後、タタール最高会議は、92年3月に国家の地位とロシア連邦加盟をめぐる国民投票を実施、投票権者の約半数が、国際法の主体、主権国家としてのタタールスタンを支持し、これを実施することを宣言した。こうした背景もあって92年3月のロシア連邦条約には参加しなかった。4月には両政府代表団が「特別の関係」を作ることを確認した。11月のタタールスタン共和国憲法も、「主権民主国家」としてのタタール共和国を宣言した。
このような背景には、盛り上がる民族主義を背景に、共産党官僚が民族主義をつかうノメンクラツーラ民族主義とでもいった潮流が生じたことがあげられる。元共産党第1書記シャイミエフは、タタール人であって、主権を強固に主張し、93年1月最高会議議長はロシア連邦加盟問題に応えなかった。逆に5月には憲法・条約問題をロシア側と議論する提案を行う。ただし、必ずしもロシア側とは完全独立したのでなく、93年新憲法採択に際しては、「ロシア連邦と連合した主権国家」(タタール憲法第61条)を承認せよとの立法提案を行った。しかしこれへの返事がなかった、地方主体の「連邦会議」を無視したとして、憲法採択の12月国民投票をボイコットし、ロシア系住民が一部参加したに過ぎなかった。
しかし、エリツィン政権が、新連邦議会選挙での選挙結果、反対派の進出をみて国民和解を図った94年2月、タタール共和国とロシア連邦とは、両国家機関の権限の分割を定めた条約に調印し、和解した。タタール側はロシア連邦がタタールの国家主権を認めたとして、両国は「非対称な関係」(リハチョフ)とはいえ、「国家間条約」であるとして、これに署名した*17。タタールはロシア憲法は承認したが、92年連邦条約は認めていない。こうして、共和国勢力の自立派代表として、チェチェン問題の解決や仲裁、97年ベラルーシとの国家連邦への批判など、共和国派の旗頭である。チュバシとの友好協力条約など2共和国間条約も熱心に結んだ。ラテン文字採択も決めている*18。
ちなみに、タタールスタン共和国からはじまった連邦との2国間条約はその後、バシコルトスタンなどの共和国だけでなく州・地方にも波及し、97年5月で26主体が調印している。これは連邦条約との整合性が問題で、ロシアを国家連合にするという批判もたえない*19。
この他、1920年に独立したトゥワ人民共和国をつくったが、1944年にソ連に自治州として加盟した。このためトゥワ共和国は、ソ連崩壊後は分離主義が強かったが、92年9月、ロシア連邦に「しばらくとどまる」ことを決議した。大統領オオルジャックは、トワ人の農業専門家、共産党州委員会書記から、閣僚会議議長をへて、92年に大統領に選ばれた。
他方、問題を実質的に処理して事実上の独自的地位を保っているのはサハ共和国である。サハはバシコルトスタン、タタールスタンとともに、92年をとおしてロシア側に主権強化をつよく求めた。ロシア連邦に参加しながら、同時に自決権保持をうたった4月採択のサハ憲法は、モスクワの集権的な民主派からの批判があった。ここではダイアモンド資源が多く、国際資本とタイアップした「ロシア・サハ・ダイヤ」社とともに、2割を販売する経済的自立をかちとっている。95年の2ヶ国条約は、一部で違憲説が出された*20。
バシコルトスタンも自立的である。ラヒモフ大統領は92年連邦条約に結局は参加したが、93年の共和国憲法では、「条約上で、対等に」、自発的に加盟するとしてロシア連邦への帰属を明確にしていない*21。93年4月には経済的主権をもとめる国民投票を成功させた。またバシキール語のみを公用語にしようとした。もっともこの自立主義の強い年でも、世論調査でロシア離脱派は10パーセントでしかなかった。94年5月には、タタールに続いていて、ロシアとの2カ国権限分割条約をむすんだ。ルシコフ市長のモスクワと条約を結んでいる。こうして資源豊かで、固有人口の多い共和国では、モスクワからの実質譲歩を迫る例がみられる。
3. 「ノメンクラツーラ民族主義」
共和国の人事を見ていくと、その指導部の多くが旧共産党出身である。興味深いことは、エリツィンの知事任命という形ではじまった91年秋からのカードル革命にたいし、元来保守的な共和国では、大統領選挙というかたちで先行的な「民主化」措置がとられた。これが、旧共和国の保守的指導層の自己保存と、中心・モスクワにたいする距離を保障した。こうして共和国での「主権化」、「民主化」はエリツィン革命にたいする予防ともなった。
事実、1995年の共和国指導者の3分の2は89年前後の指導者であって、交代の激しい州・地方と対比される*22。97年現在も、21の共和国首脳の多くはもと共産党州委員会の党官僚としての経歴があって、その地位はソ連の民族幹部登用政策に由来してきた。正確には、チェチェン、バシキール、カルムィク、チュバシなど5共和国指導者以外は、もとの州党官僚であった。このうち旧ノメンクラツーラでない人物が共和国大統領となったのはチュバシ共和国のフョードロフ、カルムィクのイリュムジノフ程度である*23。たとえばバシコルトスタンのラヒモフは、石油関連工場長から最高会議議長をへて、93年末に大統領として選ばれた。政治的には共産党ではないが、ノメンクラツーラとして、チェルノムイルヂンの「我々の家ロシア」系である。こうして共産党が民族化していくというノメンクラツーラ民族主義が多数の傾向となった。共産党権力を民族派が打倒するというパターンは、チェチェンでしか生じなかった。ドゥダエフが共産党権力を打倒し、エスノ民族派からなる政治権力を樹立したが、これは珍しい例なのである。
このチェチェン問題では、これら、共和国首脳はモスクワに憂慮を示した。近隣のダゲスタン、イングーシでは、チェチェンへの政策に批判的であった。もっともカバルダ・バルカルなどでは、ドゥダエフに対する批判的な声も多かった。また95年1月、チェボクサリでの会議は、チュヴァシ大統領フョードロフが、ボルガ周辺共和国首脳と批判行動にでた*24。
同時に、この共和国首脳たちは、モスクワのチュバイスに代表される「急進改革派」の急進的民営化、バウチャー型民営化へのもっとも一貫した批判者となった点にも注目できる。その意味では、チュバイス後任の国有資産委員会議長となって、急進民営化批判者となったアルタイ地方出のポレバノフ、またモスクワ市長ルシコフなどと、地域主義的現実主義者として気脈を通じる。事実、タタール共和国は、95年12月選挙で、もっともチェルノムイルジンの政府党支持であった。しかし、この選挙でチェルノムイルジン党の敗北が決まると、モスクワ市長とともに、チュバイス民営化批判の先頭に立ったのはシャイミエフであった。ちなみに、シャイミエフはチュバイスを批判したルシコフ・モスクワ市長との関係もいい。
他方、チュバイスらは96年代統領選挙後、資源を持った共和国に対して、非常委員会設置と徴税強化というかたちで批判を強めた。タタールに対してはカマズ社の破産、またサハに対しては国際ダイアモンド資本とくんだ「ロシア・サハ・ダイヤ」への財政統制である*25。これにたいしシャイミエフは、97年5月のベラルーシとの連邦条約に際し、いち早く批判、これに牽制することを忘れない*26。
4. 共和国と政治意識・選挙
共和国での揺れるアイデンティティは、選挙結果にも示されている。93年末の選挙には、チェチェン、タタールスタン両共和国が基本的には参加しなかった。もっとも他の共和国の政治動向も、ロシア連邦全体のそれと有意の差異はなかった。地方分権を掲げた、シャフライの政権党「統一と合意」が善戦した。
他方、95年12月下院選挙では、共和国では、総じて共産・民族主義ブロックが民主改革ブロックより多くの得票をえ、より野党系に傾斜した。ロシア全体では、野党が与党の1・7倍あった。93年は1・2倍であった。民主改革ブロック票が野党系より多いのは、イングーシ(3・53倍)、チェチェン(2・03、ただし参加すくない)、タタールスタン(1・15)とトゥワ(1・02)で、他方反対派が民主改革派より顕著に多いのは、北オセット(5・57倍)、アディゲイ(3・69倍)、カラチャエボ・チェルケス(3・55)などである。また総じて大ロシア系であれ、分離派系であれ民族票は減少し、かわって共産系得票が増加した。民族主義のアピールの減少は顕著である。初参加のタタールスタンでは、与党系「我々の家ロシア」が30・75パーセントで、共産の26・5パーセントに勝利した*27。
ちなみに、共和国というとイスラムの影響が日本では強調されているが、ロシア全体で約1000万のムスリム票のなかで、イスラム宗教政治組織ヌルは、40万票以下と、ほとんど支持がなかったことが注目される。彼らは、イスラム系選挙民の中でも10パーセントもとらなかった。イングーシ(24パーセント)、チェチェン(18パーセント)でこそ多かったが、しかし、タタ−ルでは10パーセント以下であった。ちなみに、ムスリム系の名前を持つ議員は、議員の5・4パーセントといえる*28。
96年大統領選挙では、一層、共和国の政治的地位が表示された。共和国の政治動向は両極分解した。エリツィンの1回目めの得票では、かなりの共和国で取りこぼした。たしかに、89主体のなかではエリツィンへの得票が第1位となったチェチェン、65パーセントは一部の参加であるとして除外しても、第3位のトゥワ、第5位のカルムィキヤといったところでエリツィンは圧倒的に勝利した。石油の多い北部自治管区3つは7−9位であった。一部共和国ではエリツィンは1回戦から有利に戦った。
しかし他方では、エリツィン票が少ない最後の3主体が、チュバシ、86位,アディゲイ、88位,そして北オセット、89位と、最低の共和国もあり、共和国総体としてエリツィン系は低調であった*29。共和国全体ではエリツィン票は395万票あったが、しかしジュガノフは1回目でこれをこえる442万票を得ていた。
これに対し第2回投票では、共和国全体でエリツィン支持票は617万票、ジュガノフは、465万票でしかなくなった。エリツィン票は、1・56倍、これに対しジュガノフは1・05倍でしかなかった。ロシア全体ではエリツィンは1・24倍である。
これはエリツィン陣営が、決選投票で共和国重視戦略を採ったからでもある。集中的に共和国でのキャンペーンをはかった。というよりも、レーベジらとの提携でエリツィン勝利が確実視される中、共和国指導部は忠誠を試された。1回目と2回目とで、北オセットは2・31倍,ダゲスタン、イングーシ、モルドビヤは2・04倍、カラチャエボ・チェルケスクでは2倍となった。タタールスタンでも、1回目と逆転した*30。これら共和国では共産票は2回目に減少している。イングーシは25パーセントの減少を始め、ダゲスタン、21・3パーセント、カラチャエボ・チェルケス13・8パーセント、北オセット、12・3パーセント、タタール、10・7パーセント、と減少していた。
このような共和国選挙に、エリツィン陣営の工作があったのは間違いない。エリツィンは、大統領府長官をフィラトフから96年始め、エゴロフに代えた。これは西側からはチェチェン強硬派・タカ派とみられたが、同時に、エリツィン陣営が選挙対策にした可能性は少なくない。事実、第2回投票では、彼の周辺で北オセット、ダゲスタン、イングーシ、カラチャエボ・チェルケス、スタブローポリなどで大量得票している。しかしこれらは、モスクワからの圧力というよりも、共和国指導者の自己保存とみた方がいいであろう。こうしてエリツィンは、タタールスタンなどを含め大量得票したのである。
結語
ロシアはいまだに国家のかたちも未確定である。しかし、いくつかの新しい現象が、ロシアでの民族・エスニシテイ問題に陰を落としている。第一は、ソ連崩壊を促した遠心的ベクトルがとまり、むしろ求心的方向に転徹されたことである。ベロベジェ合意の立て役者、シャフライが96年「崩壊の時期は過ぎた、ソ連は復活するか」を書いて、再統合路線を一層明確にしたのは象徴的である*31。97年5月ロシアとベラル−シとの国家連邦条約が署名され、またウクライナとの友好協力条約に調印された。第二に、チェチェンでの停戦合意(96・8)から、経済協力が促進された。2月のチェチェン大統領選挙でも対話派マスハドフが勝利した。5月の平和と相互関係基本条約の締結は、新しい相互関係を模索していることの現れといえよう。
第三にこのことがさらに共和国問題を浮上せしめている。タタールスタン、バシコルトスタンでは、ベラルーシとの連邦条約に反対した。もっとも、タタール出身のリハチョフ上院副議長は支持している。
第四に、NATO拡大問題は、ロシア連邦の「東」の世界への関心を強め、また非ロシア人との関係を見直す潮流が強まっているかに見える。「タタールのくびき」は存在しなかったというフォメンコの話題の『新年代記』に対し、ロシアの評論も、歴史学会も沈黙したままである*32。これは、むしろ「東」との関係をより真剣に見直そうとしていることかもしれない。こうして、ノメンクラツーラ民族主義に支えられた急進分離主義から、より現実的な統合路線があらわれ、共和国問題にも新たな次元が浮上している。
- 注 -
表1
(出典Rukovoditeli Respublik Gorodov Federativnogo znacheniya i Avtonomnikh obrazovanii,M.,1996; Rossiiskie regiony nakanune vyborov-95,1995,M., などより作成)