2016年9月21日(水)、北海道大学スラブ・ユーラシア研究センター大会議室にて、UBRJ/NIHUセミナー「沖縄と海兵隊:ボーダースタディーズからよむ日米関係」が開催されました。平日16時半からという時間帯にもかかわらず、北海道新聞に事前に開催告知記事が掲載されたこともあり、83名というUBRJセミナー史上(恐らく、センター主催のセミナーを含めても)最多の来場者がありました。運営側にとって、これは予想外の動員であり、座席がすし詰めになってしまったこと、お詫び申し上げます。
今回のセミナーは、元沖縄タイムス記者で、現在はフリージャーナリストとして沖縄米軍基地問題について積極的に発信しつづけている屋良朝博(敬称略、以下同様)による編著『沖縄と海兵隊』(旬報社)の執筆陣による、執筆論文の紹介とそれに対する質疑応答という形式をとりました。冒頭の屋良による書籍の簡単な紹介の後、3名の執筆者に登壇いただき、論文内容の紹介をいただきました。川名晋史(平和・安全保障研究所)の報告では、1960年代の沖縄海兵隊の撤収と普天間飛行場の閉鎖の計画が頓挫し、さらに、関東地方での米軍基地の再編が普天間強化につながった際の歴史的経緯を踏まえつつ、基地再編政策について、戦略とか地理的要因だけで説明できるものではなく、米国内および接受国側のポリティクス等も踏まえる必要があるという主張がなされました。山本章子(沖縄国際大学)の報告では、未だに検証が十分に行われているとは言い難い、1990年代のいわゆる「普天間移設問題」に関して、米国政府がどのような意図を持ち、また、当初の予定通りの推進になぜ失敗したのかについて検証がなされました。1990年代前半に北朝鮮の核開発危機が持ち上がった際、朝鮮半島有事の際の国連軍の使用基地として普天間(およびその移設先の辺野古沖)が措定されていたが、日米両国でのポリティクスや、沖縄世論の悪化、その米軍による読み違えなど様々な要因が重なって、移設問題は混迷を極めるようになったとのことです。齊藤孝祐(横浜国立大学)の報告では、普天間とグアムとが天秤にかけられる関係にあり、米国内では当初パッケージとして捉えられていたが、リーマンショック後の財務状況の悪化などの環境の変化の中で、この両者が最終的に切り離されて議論されるようになったことのプロセスが検討されました。質疑応答の際には、もう一名の執筆者である野添文彬(沖縄国際大)にもご登壇いただきました。
1時間半という時間の中で、3名の報告者の方には各自20分程度の時間でコンパクトに報告をまとめていただきましたが、質疑応答の時間があまりとれなかったことが惜しまれます。米軍が沖縄に展開することで、日本国民の多くが安全保障上の利益を享受している(と、少なくとも考えている)わけですが、実際にその場で苦痛を味わっている沖縄の人々の立場になかなか立てない、だからこそ大局観に立ってトップからボトムまで問題の本質に意識的に目を向ける必要があるということを改めて確認することができたセミナーだったと思います。屋良氏による、「苫小牧あたりに海兵隊基地を置いてもらって・・・」という発言も印象的でした。
(文責:地田 徹朗)