秋野さんと僕のつきあいが始まったのは最近のことだ。95年のスラブ研究センター夏のシンポジウムで彼がロシア・中国関係の報告をするときに、ある人からコメンテーターを頼まれたのがきっかけである。中ロ国境をそれぞれに「突撃」してきた僕らの間にはすぐに不思議な「連帯感」が生まれた。一廻り違う年の差が「嫉妬」からお互いを自由にしたのかもしれない。僕らは互いの「体験」を話し合って中ロ関係の「実相」をあばくことに熱中した。こんな凄まじい研究者がいたのか。彼と出会って僕の研究観は変わった。
秋野さんは誰もが言うように一面、人好きであり、みんなに慕われた人物であった。ただ彼の内面は結構「孤独」であったと思う。伊東孝之さんのエッセイにあるように、私の知る秋野さんも「1匹狼」であり、「好き嫌いの激しい人物」だった。彼は人々が「群れる場所」からいつも人知れず去っていった。また嫌いな人に対しては、いつもにましてにこやかに接すると議論への深入りを避けていた。あと付け加えれば、秋野さんはいくぶん「シャイ」だったと思う。
秋野さんの「性格」だけがみんなに讃えられるのが僕には不満だ。誰も秋野さんの学術的業績を回顧しない。秋野さんは中ロ関係、とくに領土問題研究の先駆者であった。また、旧ソ連全体の地政学的研究の第1人者でもある。とくにパイプラインをめぐるCIS諸国の外交分析は1級品であった。タジキスタンは彼の壮大な研究業績の重要ではあるが、一つの部分にしか過ぎない。彼の学術的な仕事の系譜という観点からはこのことは押さえておく必要がある。
伊東さんのエッセイにあるように、秋野さんの学界での評価は不当に低かった。誰もが彼のような仕事はできないくせに彼の「ラフ」な議論を批判した。そして僕もしばしばその隊列に加わった。あと10年生きていたら、彼の「突撃ルポ」は学問的に昇華され、学界でも確固たる名声を残したかもしれない。そう思うと僕は悔しい。
秋野さんの死に遭遇して、みんなが彼との「いいつきあい」を争うように語っている。だが、まてよ。筑波や北大は彼を本当に大事にしてきたのだろうか。外務省や国連は彼の死をどの程度真摯に受け止めているのだろうか。彼を次第に「危険な場所」へと駆り立てたのはむしろ僕らの秋野さんに対する「誤解」と「無理解」ではなかったのか。彼は「不満」のすべてを一人でのみ込んで去っていった。あとに残されたものたちがすべきことは、きれいごとで彼を讃え「にわか友人」を標榜することではない。ましてや彼を国際貢献の「日本の星」などと祭り上げないことだ。僕は彼の仕事をありのままに引き継ぎたい。
彼がタジクに行った理由はシンプルなものだと思う。「これは俺にしかできない仕事だ」。「俺のような人間はこういうときに飛んでいくためにいるのだ」。そして運が途切れた。
だから、僕は秋野豊を追悼しない。
岩下明裕(山口県立大学)