スラブ研究センターニュース 季刊 2005年 冬号 No.100 index


スラ研50年:下草にまぎれた小さな若木が、
世界に枝先を届かせる大きな藤棚に

荒又重雄(北海道大学名誉教授)


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1934年生まれ
北海道大学経済学部助教授を経て1977-96年北海道大学経済学部教授
この間センター運営委員、協議員等を歴任
1996-2004年釧路公立大学学長
専門は社会政策・労使関係

全国共同利用センターとしての現在のスラブ研究センターは、官制化を達成した時点でも法学部に属する小さな研究施設に過ぎず、独立の研究所ではなくて、大 学の森に繁茂する下草にまぎれた小さな蔦のような姿でした。それが50年の時を経て、いまや世界に枝先を広げる大きな藤棚に成長し、北海道大学の誇りと なっています。稿を依頼されて改めてわたくしは、1953年に新制北海道大学に入学して以来今日まで、絶えず「スラ研」のごく近い傍らで,時としては「ス ラ研」の内側の外縁部にあって日々を過ごして来た私自身を思い返しています。正史を適切に補足するものとして役立てばと期待しながら、私的な追憶の中から いくつかの場面を取り出して、記してみます。

理学部脇の大きなエルムの木立は、先日の台風で見る影も無くなってしまいましたが、とりわけ大きい一本のエルムのかげにひっそりと(今も)立つ石造りの小 さな倉庫と、これに接して建てられていた守衛宿直室のような木造小屋が「スラ研」でした。至極少数の人びとにしか積極的認知を受けていない,ごく小さな研 究組織。そこに鳥山成人先生ほかの初期のスタッフが詰めていました。

でも、大学大衆化の出発点に立った新制北海道大学の内部に、時代の流れとは反対方向の学生定員を持たぬ小さな研究組織が生まれていたのだと、今になって判 ります。学生定員を持たぬとは言え、勉強好きな学生には徹底して親切でした。戦争直後の研究者たちは、大学や高校の勉強好きな学生・生徒と親密でしたし、 わたくしが鳥山成人先生に新制高校の生徒だったときからおめもじいただいていたこともあったからかもしれませんが、学生のわたくしが経済学部図書室から借 り出した雑誌を、飲酒の不始末から紛失してしまったとき、鳥山先生が黙って差替えの一部をわたくしに手渡して下さった事を思い出します。柴田誠一君やわた くしの修士論文の発表を、猪木正道先生を含めて大家の先生たちが聞いてくださったときの、若い卵たちへの大先生の優しい気配りも、今になって記憶の中の光 景から確認されます。決して上手に利用したとはいえないわたくしにも、「スラ研」の書籍雑誌のコレクションは心の支えでした。小さい体で、しかし漬物石の ようにどっしりと動かず、それをしっかり管理してくれていた司書の秋月さんは、当時の日本に乏しかったライブラリアンの貴重な見本でした。

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スラ研草創期に使われていた石造りの 小さな倉庫

そうして、石造り書庫の壁の大部分を埋めた当初の書籍雑誌がアメリカ(ロックフェラー財団)からの寄贈であり、したがって英語文献がかなりの比重を占めて いたことも、「スラ研」蔵書の特徴でした。日本には戦前から「ソビエト研究会」の流れがあり、伏字だらけでほとんど禁書扱いのレーニンやコミンテルン文献 を普及する動きは、戦後占領期にソビエト大使館からの文物の流出などへと続いており、その中には、後にスターリンに忌避されるに至ったヴォズネセンスキー による貴重なソ連戦時経済分析もありましたが、そうした流れとは違った出発でした。

だからといってコミンテルン系の文物が忌避されたと言うことではありません。日本に「ドル余り」の時代が来て、外国の古書市場に出る大きなコレクションを 買う予算が動いた時、ロシア社会民主労働党発足時の、ボリシェヴィキーとメンシェヴィキーの分裂以前の何かが刻印されたページを含むスヴァ-リン(および ベルンシュタイン)・コレクションが北大に収蔵される事になる動きに、わたくしも関与しましたし、このコレクションのより大きな分割分が北大に到来するよ う力を貸されたのが、長谷川毅先生でした。

わたくしと同年代の外川継男先生が、助手で赴任されて、以後ながく「スラ研」を支えました。深更まで勉強する若い研究者でした。日高の素封家の出身で早稲 田大学に進学し、コミンテルン文献と日本共産党創生期の出版物の驚異的蔵書(その重要部分はいま北海道大学附属図書館に収蔵されています)を保持しておら れた伊藤四郎さんの文庫の散逸を怖れて、修士から博士に進学する時期のための自分の食いつなぎ用貯金を拠出し、ために週2日を早朝から夜間までのアルバイ トで潰していたわたくしは、早朝の光の中に深夜からの勉強の疲れを癒している若き外川先生を見かけていたように思います。

大学の拡大期はアルバイト学生だったわたくしにも運を与えて、やがてわたくしは北海道大学経済学部に席をおいて学生に講義する身分になりましたが、その頃 に、外川先生や木村汎先生たちは、渾身の力を振るって、北海道大学の一部局である法学部所属の研究施設であり、法学部を介さずには予算請求も出来ないとい う地位を脱して、小さくとも独自の部局であろうと運動していました。成果が学内共同研究施設という地位でした。よって運営にはいくつかの学部が関与する事 になり、経済学部のわたくしにも協力の場が現れたわけです。わたくしは田畑伸一郎先生、原暉之先生、家田修先生ほかの方々の新採用人事に立ち会いました。 さらに活動を広げるためにどのような組織を求めるべきかで、複数の構想が練られていました。その事を思い返そうとすると、伊東孝之先生や皆川修吾先生のお 顔が記憶から呼び出されてきます。学内共同利用センターから学内の独立研究所へ、あるいは全国共同利用センターへの選択が迫られていたと思います。わたく しは問われて、躊躇無く全国共同利用センター案を推しました。

その理由はといえば、技術革新の急速化と大学の大衆化が、国立大学附属の既存研究所の存続を困難にしつつあると気付いていたこともありますが、同時に、学 内共同利用センターになってからの「スラ研」の活動が、外国人研究者の招聘、かれらをまじえての全国的・国際的シンポジウムの実施において際立っていたこ とを重視していたからです。そもそもその前段の夏冬の「定期的」研究会からして、選択される日程が東京・大阪の大学のアカデミック・カレンダーに即してい て、北海道の教壇で学生の前に立つわたくしなどの都合からすると、決して便宜のよいものではなかったのです。「受動的」にこれと付き合いながら、わたくし はそれを善しとしていました。

それともう一つ、想像するところコロンビア大学への留学経験や在外公館詰めの人材とのお付き合いの深かった木村汎先生の指導力が大きく作用していたので しょう、大学関係の研究者ばかりでなく、特派員経験ジャーナリスト、在外公館出向経験者などの研究者が多数、「スラ研」の夏冬の研究会に顔を見せていまし た。わたくしはそのような機会を得て、知見を広めることが出来たし、その体験はわたくしに迫られた政策判断に影響したとおもいます。夏の暑い午後の日差し を揺れるカーテン越しの風では防ぎ切れず、炎熱地獄となっていた法学部小会議室での研究会の様子が脳裏に画像となって残っています。

外国人客員研究者のポストで「スラ研」に来て頂いた方々は、初めのころは「東欧」の人が多かったような印象があります。結果から見ると、かなり適切な判断 であったと言えるでしょう。ソ連崩壊以前にその世界で起こっていることの意味を知ろうとすれば、東欧が問題に迫る切り口を示してくれていたからです。和田 春樹先生のような力量をもってソ連のど真ん中で少数反対派と知己になることなど出来ないわたくしは、やっと1985年になってロシア極東に信頼できる知り 合いを得ましたが、この人をと思って招待してもならず、派遣されて来るのは政治担当の副所長、というのが定番のようでした。だから文部省は警戒怠り無く、 わたくしが北大国際交流委員長の曽野先生の後ろ盾を得て、低温科学研究所、スラブ研究センター、それと経済学部の三部局揃えて北海道大学とロシア科学アカ デミー極東支部との学術協定に向けて動いても、事は成りませんでした。その中で原先生が可能な範囲内でと拾ったのが、ウラジオストックの歴史学・民俗学・ 人類学研究所と「スラ研」の協定でした。そのあたりは伊東孝之先生がよく見ておられます。

実は文部省が警戒することもなく、わたくしのような日本の元「左翼」にもいろいろ見えてきていました。日本の研究者や労働組合活動家を招いて講義を聞かせ るソ連要人が、日本に来ると自分の教え子に会わず、金森久雄のところに行って教えを乞うとかです。それを喜んだ日本人も多かったが、自分たちも外貨を掴み たいと庶民が熱望している旧ソ連で、田中角栄の刎頚の友くらいしか外貨をいじらなかった日本戦後のモデルは適用できないと、わたくしは強く感じていまし た。日本の中央政府がらみでブルブリスが「スラ研」を訪問した時、わたくしも「要人」の一人として会談に同席していたのですが、帰りがけにかれが、「わた くしの妻がこれこれの研究所を主宰していて」といった言葉を吐いたとき、人品の程度が知れた思いで悲しかったものです。

いまはまた時代が展開し、望月喜市先生と組んでわたくしも努力したハバロフスク経済研究所との縁も、札幌市役所と協力して開発し、しかし実効がいまいち だったノヴォシビルスクの管理研究所との縁も、「スラ研」とつながったし、またわたくしは木村汎先生の後押しで、色丹・択捉訪問も叶いました。それこれを 世界中からの学者と日本中からの若い研究者で埋まる会議室で思い返せるのは、幸せということでしょう。



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