ダマンスキー事件30年
−「郷愁」と「沈黙」のあいだ−
スラ研の思い出(第5回)
1969年春、世界は中露武力衝突のニュースに揺れ動いた。ハバロフスクから南へ250キロ、ウスリー河に浮かぶ74ヘクタールの小島ダマンスキー(珍宝)島の領有をめぐる争いが発端であった。中国の岸辺からわずか100メートルの場所にあるこの島は、一般国際法が定めた主要航路による国境画定原則をとれば、中国領であることは誰の目にも明らかである。だが19世紀後半にロシアが中国におしつけた「不平等条約」は、ウスリー東岸やアムール・ウスリーの河川上の数多くの島々をロシア領と定めた。ダマンスキーは中露のあいだに横たわる「不平等」な関係の氷山の一角に過ぎなかった。
平凡社『世界大地図帳』より 拡大図 |
島の碑をバックに |
島の中国移管に関するロシア側の「沈黙」は、ダマンスキー事件30周年記念の今年、島の所属していた沿海地方で破られることになった。「中国領になってしまったのは残念だが、ロシアの領土を守るために戦った人々の名誉は変わらない」(4)。ウラジオストクでは今年に入り、国境警備軍博物館を始めとしてダマンスキー事件30周年によせて様々な企画がなされ、すでに多くのロシア人が中国への島の移管を知ることになった。とはいえ、日本に対して勝利に終わったハサン(張鼓峯)事件60周年を祝う昨年と比べれば盛り上がりは乏しい。人々の心には「祖国防衛のシンボル」であったダマンスキー島への郷愁が深い。それは中国人に対する「不信」の根深さと結びついている。
国境画定が終わったことで中国との関係は改善されたとする地元の専門家の声が聞かれる一方で、極東大学のとある中国研究者はこう本心を述べた。「『中国の脅威』はなんら変わらない。中国人に対するロシア人の気持ちもそのままだ。中国人たちは国境画定以後も河川工事を試みて、河の流れを変え国境を自分たちに有利にしようとしている」。彼は中国人がウスリー河を越え東の海へむけて押し寄せ、土地を取り返しに来ることを心底恐れているようだ。筆者がウラジオストクを訪問するきっかけとなった国際シンポジウム「21世紀の歴史教育における東アジアの歴史」(今年6月に歴史・考古・民俗研究所ほかが主催)への参加者は日本人ばかりで中国人の姿はみられなかった。
不思議に思った私はこの夏ハルビンを訪れた際、シンポジウムに参加しなかった理由を中国の友人たちに訊ねてみた。普段、愛想のよい彼らの表情が急に険しくなる。「どうしてウスリー東岸がロシア領となったことを記念する催しに我々が参加するのだ。未来にむけての協力のシンポジウムならば喜んで出席するが、ロシア人の歴史を祝う必要はない」。言葉につまった私は質問を変えた。では中国はなぜダマンスキー30周年を祝わないのか? あなた方が血を流して取り戻した領土ではなかったのか。彼らは笑顔に戻った。「すでに問題は解決したのだ。歴史上初めて平和的に。だからそんなキャンペーンを行う必要はない。ロシア側への配慮が大事だ。ロシア側を刺激したくない。中露関係を良好にたもつためにも。国際情勢やNATOの問題も考慮している」。
ウスリー河を観光船が行く(対面はロシア) |
ダマンスキー島から下流へおよそ80キロ、同じウスリー河をはさんでダリネレチェンスク(伊曼)を臨む虎頭の岸辺で船遊びをした。緑で覆われたロシア側国境に人影はない。監視塔が私たちを見張っている。ロシア側を見飽きた私はふと中国の岸辺へと目を移した。ここには観光客が訪れ、それを目当てに商売をする中国人たちが河べりで暮らしている。彼らにとってはごくふつうの日常だ。いったい何のために中国人は国境に押し寄せるのか? 国境を神聖なものとみなすロシア人には理解できない(5)。ウスリー東岸を取り戻す準備でもしているというのか。ふと河辺で作業に従事する中国人労働者が眼にはいった。河岸の建物を守るただの堤防工事としか思えなかった。
河川工事にいそしむ中国人(虎頭) |
−注−