●1ドルだけ高い賞金
―1995年度ブッカー賞とアンチブッカー賞についての考察―
エドゥアルド・ヴラーソフ
訳:望月恒子
ペレストロイカ以後、新生ロシアは「文明世界共同体」に参入したが、その参入は、幸いに、伝統的なピロシキ屋のかわりにマクドナルドが開店したり、コカコーラがクワスに取ってかわったりという次元だけに留まっていない。文学賞の創設と、それに伴うキャンペーンもまた、いまロシアが次第に参加しつつある文化的生活の「構成要素」である。国と関係のない国際的レベルの文学賞がたくさん導入されて、政府関係の賞と競合すること自体は、ひたすら喜ばしいことであり、「文化的」「先進的」な人々が異議を申し立てることではない。それにもし異議があったとしても、そのために状況が根本的に変わることはないだろう。毒舌家や正統派はそのような文学賞の現実的な文化的意義を声高に否定したり、それらが最初から「金で買われて」いるとかコマーシャリズムにのったものだとか言い立てることはできる。しかし、すでにできあがった現状に実際に影響を与えられるのはスポンサーだけだ。スポンサーは、当然ながら、国内の文化状況への影響よりは、自分たちの賞の権威と宣伝について気を配る。したがって、ブッカー賞やアンチブッカー賞や贋ブッカー賞がロシアに必要かという問題を、口角泡をとばして論じあう必要はない。いま批評に求められるのは、受賞作がどんな作品かをまじめに分析して、それらの作品がどの程度、古典的名作(少なくとも将来の)の名に値するかを究明すること、そして各賞の審査員の決定の社会性―あるいは、より正確に言えば党派性―の度合いを確定すること、つまり、授賞作の決定がどれくらい文学に基づいているか、どれくらい文壇事情に基づいているかを明らかにすることである。
文壇事情に関して言えば、昨年のロシア文学界におけるもっとも輝かしい(あるいは、もっとも騒がしい?)事件は、まちがいなく、ヨーロッパで長い伝統を持つブッカー賞と、「独立新聞」の生まれたばかりのアンファン・テリブル(恐るべき子供)であるアンチブッカー賞の対立である。これら2賞は、客観的に見れば、受賞候補者たちに対する非常に狭い、党派的な意見を反映している。しかし、経済的困難や政治の混乱にも関わらず、ともかくロシアで続けられている文学活動について、1995年にはこの2賞だけが、その現実的プロセスのインディケーターになっているのだ。
ロシアにおけるブッカー賞授与は、今年で4回目になる。過去3回は、マルク・ハリトーノフ(92年)、ヴラジーミル・マカーニン(93年)、ブラート・オクジャワ(94年)に授与された。1995年度の候補者は、エヴゲーニイ・フョードロフ(長編『オデュッセイア』、「ノーヴイ・ミール」94年5号)、オレーグ・パヴロフ(『お勤めの話』、「ノーヴイ・ミール」94年7号)、ゲオルギー・ヴラジーモフ(『将軍とその軍隊』、「ズナーミャ」94年4・5号)であった。賞金12500ドルのこの賞は、結局ゲオルギー・ヴラジーモフに授与された。
純粋に国産の(あるいは、ともかくも自家製の)アンチブッカー賞は、「独立新聞」によって創設された。ヨーロッパ的で、純ロシア的でないブッカー賞に対抗して、その思想的対立者として設置されたものである。客観的にみて1995年のロシア文学における最良の作品、思想的・芸術的基準においてブッカー賞に匹敵する作品を選ぶことよりも、むしろ、ロシア文化にはいりこんできた西側文明のコスモポリタン的本質に戦いを挑むことが、アンチブッカー賞の目的である。第1回アンチブッカー賞の候補は、アレクサンドル・ポクロフスキー(中編『撃て!』)、セルゲイ・ガンデロフスキー(中編『頭蓋開口手術』)、アレクセイ・ヴァルラーモフ(中編『誕生』)であった。象徴的にブッカー賞より1ドルだけ賞金を高くしたこの賞は、ヴァルラーモフが受賞した。
新聞雑誌では受賞作と作家をめぐって派手な論争が展開された。その論争は、どちらの賞も、「純粋な」文学の問題より、党派的イデオロギーの問題にはるかに大きく関係しているということを、冷静で厳しい観察者に再確認させるものであった。ヴラジーモフとヴァルラーモフそれぞれの支持者と反対者は、論争に参加する中で、自分たちでは気づかぬまま、こうした文学的制度の本質を明るみに出した。それは、これらの賞が、作品の文学的価値よりも、作家の思想的立場と「党派性」に対して与えられるということである。これは、実際的見地から、理解できるし、是認できる事実だ。賞によって、つまりはお金で援助すべきは作家であり、それも今すぐなのだ。それに対して作品は・・・というわけだ。これについては、ゴーゴリの『検察官』の病院監督ゼムリャニーカがうまいことを言っている。ゼムリャニーカは、少し現代風にしてやれば、文学賞の審査員がつとまるくらいだ。彼は自分の病院の患者について、「死ぬやつは死ぬし、治るやつは治る」と言ったが、文学作品だってその通りだ。だいたい、時が判断してくれるだろう…。
さて、最初はもちろん、「審査員は誰か」という問題だ。ブッカー賞の側には、ヨーロッパとロシアの文学的エリート(昔は「出国禁止」だったが、今は「出入国自由」、あるいは「帰国」した人々)がいるのに対して、アンチブッカー賞は、「独立新聞」編集長ヴィタリー・トレチャコフのあくなき情熱に支えられている。トレチャコフは、あらゆる真実と虚偽(どちらが多いかは興味深い)を用いて自らの「独立性」(この場合は、西側からの独立を指す)を証明しようとしている。2賞の間に熾烈な対立がある以上、各賞の背後にいるグループの予期せぬ決定を下すことのない審査員を選ばなければならない。95年度ブッカー賞審査員長は、スタニスラフ・ラスサージンであった。批評家でコスモポリタン、文学においては全く伝統的な好みと関心を持っている。審査員はファジリ・イスカンデル、アレクサンドル・チュダコフ、ナタリヤ・ゴルバネフスカヤ(在パリ)、アンジェイ・ドラヴィチ(在ワルシャワ)。審査員ひとりひとりは、確かに立派な人物で、それぞれの領域でよく知られている。イスカンデルやゴルバネフスカヤには、広告は必要ない。チュダコフとドラヴィチの文学研究も、チェーホフと現代ソヴィエト・ロシア文学の多くの専門家が引用、論及するところとなって久しい。しかし、別の点も容易に目につく。それは、審査員全員が、いわゆる60年代人、この世代の特徴をすべて備えた人々であることだ。60―70年代に、文学に関して(文学ばかりでなく)自分の「独立」した意見を公的に表明する可能性を奪われていた彼らは、ペレストロイカ期には思想的流行を作り出す側になった。しかし、流行は通り過ぎ、文学者は残った。ポスト・ペレストロイカの情勢では、60年代人は後続世代にとって、「進歩的傾向の知識人」ではなく、「前世紀の遺物」となっている。彼らが自分たちの理想を守る不屈さが、党の教義がイデオロギーを支配して他の意見が許されなかった、まだ遠くない過去を思い起こさせるのだ。95年度ブッカー賞は、94年の発表作品を審査の対象としたが、これも彼らの「後進性」の象徴とみなすことができる。60年代人は、またもや遅れたのだ。ともあれ、この点については、94年度ブッカー賞受賞者(訳注:オクジャワ)の昔の歌にある文句、そして95年度ブッカー賞受賞者(訳注:ヴラジーモフ)が、今や古典となった異論派的短篇の題名として選んだあの呼びかけを思い出そう‐‐「気にしないでくれ、マエストロ」。
アンチブッカー賞審査員の顔ぶれは、ブッカー賞の場合ほど単純明快ではないが、やはり納得のいくものである(ブッカー賞に比べて、意見の違いが目立って大きかったのは、このせいかもしれない。次点のポクロフスキーの得点は16点だった。受賞者ヴァルラーモフは18点だから、明らかに僅差である)。審査員長は、当然、トレチャコフ自身がつとめた。しかし、投票権は持たなかった(審査員長だが投票に参加しないという興味深い立場‐‐執行権力の長である大統領が、法の執行には参加せず、聖書の言葉でいえば「あらゆる法と予言者を超越」しているのと似ている)。彼以外の、投票権を持つ審査員は、セルゲイ・エーシン、マリヤ・ローザノヴァ(在パリ)、アレクサンドル・ミハイロフ、ヴィクトル・トポロフ、ミハイル・ゾロトノーソフ、ヴィクトリヤ・ショーヒナ、オレーグ・ダヴィドフ、エフィム・リャムポルト、イーゴリ・ゾートフである。モスクワからの二人の審査員は、一人二役といったところだ。エーシンは有名な散文作家であると同時にゴーリキー文学大学学長だし、ミハイロフは批評家であると同時に、雑誌「ソロ」の発行・編集者である。同じことは、雑誌「シンタクシス」の女主人、ロシア系パリジェンヌのマリヤ・ローザノヴァについても言える。彼女は高名な夫(訳注:シニャフスキー)と共に、もうずっと前から、マクシーモフの雑誌「コンチネント」を中心に集まっている60年代人エリートと対立する立場をとっている(ブッカー賞審査員のイスカンデルやドラヴィチは、「コンチネント」誌に参加している)。トポロフとゾロトノーソフは、審査員の中ではペテルブルグの批評を代表している。ショーヒナ、ダヴィドフ、リャムポルト、ゾートフは、文学者、批評家であるだけでなく、「独立新聞」の常連の寄稿者である。ここでも、仲間意識は明白だ。蛇足ながら、アンチブッカー賞審査員の仕事上の(それに授賞者決定の)「派閥主義」は悪名高いが、これは次の事実にも表れている。「独立新聞」でトレチャコフの次長をつとめるゾートフは、モスクワ大学文学部「外国語としてのロシア語学科(訳注:外国人にロシア語を教える教師を養成する学科)」のスペイン語科を、受賞者ヴァルラーモフより2年早く卒業している。ゾートフとヴァルラーモフは、同じ科の卒業生なのだ。
アンチブッカー賞とブッカー賞の審査員の相違は、年齢よりも、思想的立場の相違である。トレチャコフがいかに熱心に自分の新聞の完全な「独立性」を守ろうとしても、金持ちのスポンサーの支持がなくては、新聞が生き残れないのは、明白だ。スポンサー制度の存在そのものが、ロシアにおいてはエリツィンと彼のチームが政権を握っているときにだけ可能なこともまた、明白である。エリツィンのチームには、ロマンチストの60年代人などひとりもいない。だから、60年代人のコスモポリタン的な空論とか、国政にあたっての彼らの実務能力の欠如などに対して、「独立新聞」とその周辺が反感を抱くのは当然である。60年代人の実務能力のなさは、「偽60年代人」ゴルバチョフや、真の(?)60年代人アレクサンドル・ヤコブレフ(同姓のエゴール・ヤコブレフも同類)によって、証明された。アンチブッカー賞設立者たちは、まるで自分たちの「大資本」志向を正当化するかのように、また新聞雑誌や文学の商業化に反対する人々からの予想される攻撃に反論するかのように、ロシア独自の文学を志向している。彼らは現代作品の大海の中から、ロシア的独創性を持つ作品、ロシア的メンタリティ、アイデンティティなどををもっとも正確に伝えていると彼らに思われる作品を探したのである。
過去のブッカー賞受賞者たち全員(すでに4人)の受賞理由が、個々の具体的作品よりも、文学における全体的イメージ(マカーニンとハリトーノフ)や、60年代人世代に対する過去の貢献(オクジャワとヴラジーモフ)にあることは、一目瞭然である。ヴラジーモフの受賞作をめぐって新聞雑誌でくりひろげられた論争は、この事実を確認させてくれた。『将軍とその軍隊』をなんとか文学研究の手法によって検討する試みがなされた論文は、たった1篇だった。ナターリヤ・イワノーヴァはその論文「祖国の煙」(1)で、ヴラジーモフの小説とヨシフ・ブロツキーの詩「ジューコフの死によせて」を、人物の解釈と大将軍のイメージの構築の点で、関連づけている。それとともに、V.プロップの『昔話の形態学』を構造主義的に評価してそれに依拠しつつ、この小説をフォークロア的図式で検討している。他の批評家や時評子はみな、小説そのものではなく、歴史的事実やレアリアを作品中に提示する方法について論じている。そして、自分がどんなに歴史に通じているか、KGBの文書にいかに通暁しているかをひけらかそうと、互いに競い合っているのだ。(2)
ヴラジーモフの長編に関する批評は、作品を擁護するにしろ攻撃するにしろ、すべて、共通のパトスに支配されている。それは、前線経験のある文学者と、戦争に行かなかった文学者の基本的な対立に帰すことのできるパトスである。前線経験があって、前の時代について思想的にポジティブな思い出を持っている作家の場合、ヴラジーモフの作品を読むと、軍隊で「古参兵現象」と呼ばれている条件反射を起こす。「古参兵」の目から見たヴラジーモフは初年兵同然で、実戦経験もないうえに、厳しい学校を経てプロの将校になる気もない「面汚し」ときている。そんな彼に、戦争の時代に戦争そのものが打ち立てた思想的協定を破る権利はない。第一に、アンドレイ・ヴラーソフ将軍は祖国への裏切り者だったし、今でもそうなのだ。彼の罪を晴らそうとしたり、『将軍とその軍隊』で行われているみたいに、彼に少しでも人間的な特徴を与えようと努めることは、禁止されている。1941年にモスクワがヴラーソフ将軍の手で救われたことを思い出すのが禁止されているのと、同じである。同様に、侵略者を「人間的に描く」ことも禁止だ。たとえそれが、戦車に関する叡知をほかならぬロシアで身につけた才能あるプロの軍人ハインツ・グーデリアンであっても。第二に、前線経験者だけが、戦争のあらゆるレアリアやディテールを自由に扱うことができる。戦争の時空間の現実を正しく、「写実主義的に」伝えられるのは、彼らだけなのだ。第三に、これがいちばん大事なことだが、誰も、彼らの思想的ドグマを侵害する権利を持たない。このドグマが、ファシストを相手の戦闘に彼らを導き、このドグマのおかげでソヴィエト連邦は戦争に勝ったのだ。このドグマに従いたくなくてソ連を捨てた亡命作家などに、権利はない。
95年度ブッカー賞をヴラジーモフに授与することによって、反スターリン主義60年代人たちは、正統派スターリン主義者たちに挑戦状を投げつけた。たぶん、これが最後の挑戦になるだろう。(3)この小説のテクストの背後にいる文学者やイデオローグたち(公式、非公式を含めて)は、大祖国戦争においてスターリンが一義的にポジティヴな役割をはたしたとは認めず、彼の犯罪的本質を主張している。スターリンは平時だけでなく戦時にも、ソヴィエト国民の苦しみを深めたというのである。ヴラジーモフや彼と考えを同じくする人々にとって、「この世に罪ある者はない」という聖書やトルストイの公理は、芸術的創作欲のみならず、政治的宣言への衝動もかきたてるのだ。
ヴラジーモフの小説では、タイトルにある「将軍」とはいったい誰のことか、「その軍隊」とは誰の軍隊か、最後までわからない。小説中に将軍は3人いて、それぞれに軍隊を有している。3人の中の誰も‐‐合成イメージであるコーブリソフも、実在の人物であるヴラーソフもグーデリアンも、特に道徳的・政治的な評価はなされていない。各人物は、作者による道徳的定義を受けずに提示されており、歴史の前には全員が平等である。具体的な状況で具体的な命令を発した具体的な人々を評価する際には、誰ひとり、「祖国とスターリンのために」戦ったボゴモロフさえも、客観的ではあり得ない。ここでヴラジーモフは、60年代人が崇拝するバフチンの教えに従っている。バフチンは「全面的な対話関係」と「存在のカーニバル化」を主張したが、それはまさに、ヴラジーモフが『大鉱脈』『沈黙の3分間』を発表し、ラスサージンがその書評をしていた時代だった。
『将軍とその軍隊』でヴラジーモフは、大祖国戦争史について、公平な、彼の考えでは客観的な見解をうちたてている。昔も今も変わらず、戦争は将軍たちにとって仕事である。彼らはプロとして、彼らの主人たちの思想的ドグマに関係なく、この戦争という仕事を遂行しなければならない。ヴラジーモフが小叙事詩とも言うべきこの作品で、レフ・トルストイに大きな関心をはらっているのは偶然ではない。『戦争と平和』の作者に関する直接の言及(たとえば、グーデリアンのヤースナヤ・ポリャーナ滞在の場面)(4)の他に、この長編にはもっと根本的な<トルストイ主義>が存在する。自作の将軍たちのひとりであるグーデリアンと同様に、ヴラジーモフもトルストイの鏡に映し出されているのだ。(5)彼は『戦争と平和』の手法を用いて、作品中に実在の人物と架空の人物を混在させている。直接的にジューコフ、フルシチョフ、バトゥーリンなどの名で呼ばれる実在の人物、言い替えやほのめかしでカムフラージュされたヴラーソフやブレジネフ(6)、それにコーブリソフ(7)をはじめとする架空の人物たちが、混ざり合っている。さらに、地名もおおい隠されている。プレドスラヴリという作品中の地名はキエフ、ムィリャーティンはリューテシにおきかえられる。トルストイの叙事詩を通じて読者におなじみの創作手法のこうした要素は、長編の芸術的側面を強化するよりは、作者の思想的立場を強調する方向に作用している。歴史を外側から、利害関係のない観察者の目で見る見方は、何が真実で何が虚構かを、識別しない。歴史のコンテクストの中では、すべてが相対的で、どんな評価も虚偽である。戦争は、正しき者にとっても罪ある者にとっても、悪である。ここには、20世紀後半のトルストイたるソルジェニーツィンから受け継がれた要素もある。ヴラジーモフは、ソルジェニーツィンの崇拝者、熱心な擁護者である。(8)
ブッカー賞グループが文学におけるトルストイ的原則(叙事詩性と、すべてを包括する<客観性>に増幅された、グローバルな歴史主義)を擁護しているとすれば、アンチブッカー賞がブッカー賞に対抗すべく設立されたことを思い起こすとき、アンチブッカー賞の文学・思想的方向性を推測するのは、難しいことではないと言えよう。
ヴァルラーモフの中編『誕生』が、トレチャコフが方向づけをしたアンチブッカー賞の審査のフィルターを通過した。トレチャコフは授与式当日のインタビューで、「私は実際、文学的というより政治的人間です」と述べて、自分の<組織的>原則を隠さなかった。(9)文化政策のコンテクストで言えば、アンチブッカー賞の審査は、当然、トルストイと正反対の人物、歴史主義と政治を排除したドストエフスキーをめざすものとなった。そしてヴァルラーモフの小説は、これ以上考えられないくらいに、この方向づけの具体化、実現のために適していた。「独立新聞」自体が、満足を隠さず、『誕生』についての審査員の意見を発表している。
審査員の意見は次の通りである。アレクセイ・ヴァルラーモフの中編『誕生』は、ロシア語散文の革新的作品であって、人間の誕生という永遠のテーマに独創的な解決が見出される。ヴァルラーモフ氏の作品は、構成と言葉の点で非のうちどころがなく、ロシア文学の伝統を十分に発展させると同時に、現代生活の本質そのものを、事実に即した芸術的見地において反映している。(10)
この審査結果の報告は、官僚的に華麗で、挑戦的なほど折衷的だ。ここには「革新性」、「永遠」、「芸術的見地」といった、社会主義リアリズムの支持者たちの武器庫からの借用もあれば、文学研究の流行への気配りもある。バフチンかロトマンから飛び出してきた「構成」などがそうである。現代版ドストエフスキー発見の試みは、まったくキマイラのような姿を呈している(訳注:「キマイラ」は、頭はライオン、体はヤギ、尾はヘビの姿をしたギリシャ神話の怪獣)。
作品の思想的衝動について言えば、『誕生』はドストエフスキーというより、むしろドストエフスキー趣味である。ヴァルラーモフは以前の作品(『こんにちは、公爵!』『お人よし』)では、反都市主義と自然への逃避を背景として、生の意味や自分自身の探求を擁護していた。『誕生』においては、人間が自分自身の中に意味と己れを探求することに、力点が移っている。35才の名のないヒロインは、初めての子どもの誕生を待っている。子どもは胎内にいるときも、出てきてからも、ヒロインに多くの心配と苦しみをもたらす。胎内で病気になり、早産、そしてまた病気になり、作品の結末の部分でやっと生き延びるのだ。作品中で母と子がおかれる病的状況は、「現実の」環境の病的状況によって増幅される(作品中のできごとは1993年のモスクワではじまる。この時期のよく知られた政治的事件を背景に、物語は進む)。こうした病的状況が、作品を読むと、大げさな感傷と苦悩(あるいは自虐)を特徴とするドストエフスキー趣味と受け取れるのだ(この意味で『誕生』は、『未成年』や『悪霊』よりも、「エイリアン」のようなタイプのハリウッド 映画に近い。「エイリアン」では、ヒロイン役のシガニー・ウィーバーが、『誕生』のヒロインと同じように、胎内の異体のせいで、無意識の説明しがたい苦しみを味わう)。作品の思想的構想を形成する基本的メタファーは、一目瞭然である。人間の外側に世界はない。世界は人間の内にある。外界の事物や事件はすべて、人間の内部世界の事物と事件である。人の周囲でどんな事件が起こるかは、その人の内部の状態にかかっている。これが、ヴラジーモフと対極的な立場であるのは明らかだ。ヴラジーモフは作品中の人物を周囲の環境に溶けこませ、すべてを認容する歴史の流れにそれらの人物を漂わせている。
『こんにちは、公爵!』で「大文学」に登場したヴァルラーモフは、思想的には厳密で首尾一貫している。彼を、よく売れる流行の思想を「遂行」する日和見主義の作家だと言うことはできない。この意味では、「最新流行の思想に合わせて」歴史を書き直す希望を持っているヴラジーモフの方が、ずっと日和見的である。『誕生』以前のヴァルラーモフの散文は、19世紀には雑階級作家、20世紀には農村派の作家たちに育まれてきた良質のロシア・リアリズムに通じるものだった。都会生まれのロシア人には、ロシアの田舎ほど清らかですばらしいものはない。それが、『誕生』以前のヴァルラーモフの読者や批評家に対する主張だった。都会から自然へ逃げることは、外側の世界から内側の世界への移行、他者の要素から自分の要素への移行、歴史から人間への移行にほかならない。『誕生』で作家はミスティフィケーションを行って、はじめは、これまでと同じ反都会主義的モチーフを保とうとしていると、読者に認めさせようとしている。ごく最初の部分で、作品の主人公―女主人公の夫―は、しばらくモスクワを離れて森へ向かう。森では、当然、からっぽの小屋を見つけるのだが、その後に雄弁な、典型的にヴァルラーモフ的な(彼だけであろうか)場面が続く。
彼は10分くらい動かずに、座って住居の平穏と匂いを楽しんでいた。タバコを一本吸うと、ストーブをつけ、水を運び、じゃがいもの皮をむいて火にかけた。今はどこにも急がなくていいので、すべてを自分の習慣通りに正確にやった。これらの単純な動作のひとつひとつから、都会人だけが森で感じることのできる、説明しがたい独特の満足を得ながら...。つい数年前だったら、自分はこの小屋やこの森の魅力全体を感じとることはできなかっただろうと、彼は考えた。彼の感覚は、こんなに完全で深くはなかっただろう。なぜなら彼はあまりに名誉心が強く、自分が不完全だという意識に苦しみ、何かをめざしていたから。今は、幸い、こうしたことはすべて終わった...。ここにいるときだけ、彼は本当に快かった。それで時々、あと数年したら、この村か似たような小屋に完全に移り住んでしまおうと考えることがあった。彼の最良の、そして最悪の目的を葬り去ってしまった生活、不運や無理解や冷淡さで彼を辱めてきたこの生活を忘れて、移り住むのだ。この生活は、実際、うまく行かなかった。それが彼の責任なのか、それとも、たまたまそうなったのか、生活というのは9割がたの人がうまく行かないもので、ただそれを意識する人が滅多にいないだけなのかは、彼にはわからなかったが。(11)
しかし、これは自己韜晦である。都市文明から逃避して、じゃがいもを煮たり玄関口でたばこを吸ったりするために森へ逃げる男は、この先で作品の主人公にはならない。主人公になるのは、自分に無関心なモスクワで胎内の赤ん坊を育む女性だ。ここで行われているのは、文明からの逃避という伝統的逃避ではなく、アンチブッカー賞審査員セルゲイ・エーシンの言葉を借りれば、「ロシア文学の大躍進、実はロシア文学を縛りつけてはいなかった枷から抜け出す行為」(12)である。行為は女性の内部へと移行する。この女性は、彼女の中で生まれ成長していく新しい生命を感じることだけで、生きていく。
先に私が「ドストエフスキー趣味の精神」と名づけた要素が、まさにこの箇所で作用しはじめる。ヴァルラーモフは、病的で醜くて苦しみに満ちた生理的世界へ、読者を導いていく。ヒロイン自体が、若くも健康でもなく、不幸である。周囲の人々も、彼女と同じだ。物的な生活環境も、それにふさわしい。感じが悪く、未完成で、安定していない。だが、人間のみっともなさ(特に、もう若くなく、経過もおもわしくない、妊娠した女性の醜さ)は、作品では、新しい生命体に生命を与える行為として規定されている。一方、不定型の社会環境は、人間の生活には無関心である。まったく個人的な、生理的に私的な要素と、冷淡で遠い他人の要素の葛藤を描き、その葛藤の解決において「私的で生理的な」要素を支持すること‐‐審査員の意見によれば、この点に明らかに「大躍進」が見られる。ヴァルラーモフは(自らそれを望んだのではないと信じたい)、ヴラジーモフに戦いを挑んでいる。ヴラジーモフは、プロの将軍たちを描いて、一般的な「客観的」歴史を作り出そうとした。ヴァルラーモフの人物たちは、文明発展の法則に対してではなく、ただ自分自身に対して、自分の肉体に対して、敏感である。たとえその肉体が、道徳的にも生理的にも、醜く、病的で、苦しみをもたらすものであろうとも。
あの寒い夜、モスクワのまん中で、民主主義を守るためにユーリー・ドルゴルーキー公の銅像のもとに集まり、熱っぽい演説に耳を傾けている群衆の中に立っていたとき、特にはっきりと彼はこのことを理解した。誰にも一度もうちあけはしなかったが、国の運命も、民主主義の運命も、自分には知ったことじゃないということが、わかったのだ。一切が瓦解して地獄に落ちようとも、独裁者や外国の侵略者がやってこようとも、自分は指一本動かさない。なぜなら、自分の命は今や赤ん坊に必要だからだ。(13)
ここでは赤ん坊が人間存在の主な価値だと宣言され、それと平行して、政治ゲームに興ずるすべての人に挑戦状が投げられている。作品の最後では、2度の危機を経て赤ん坊が生き延びるが、これは人間の生活の意味についての作者の考えを宣言したものである。まさにこの宣言が、審査結果を決定したのだ。
95年度ブッカー賞の審査員には、1.5人の外国人が含まれていた(0.5人は、ナターリヤ・ゴルバネフスカヤのことである)。5人中1.5人が外国人というわけで、ほかにイスカンデルとラスサージンも、ロシア人というには「疑わしい」。そしてこの審査員たちは、外国人に賞を授与した‐‐彼はソ連出身ではあるが。ナショナリズムの傾向をもつ人々は、ブッカー賞にはこんな伝統(訳注:コスモポリタニズムの伝統)があるとみなしてきたのだが、審査員たちはやはりこんな結果を出した。ナショナリズム的傾向の人々は、ロシア・ブッカー賞受賞者の民族性を実に真剣に分析した結果、ロシア人をひとりも見出さなかった。ヴラジーモフはドイツ国民、オクジャワはグルジア人、ハリトーノフはユダヤ人というわけである。こうした政治的ゲームでは、マカーニンさえ、何かよくわからないウラル系民族出身者という役割が押しつけられている。(14)つまり、一面から言えば、「コスモポリタニズム」的傾向の審査員たちが、歴史法則の前には万人が平等であることを宣言しつつ、本質において反ロシア的で「ヴラーソフ的」な作品に、賞を授与したわけである。
アンチブッカー賞審査員は、口うるさいトレチャコフの言によると(15)、全員がロシア民族、エフィム・リャムポルトのために訂正を加えれば、全員が少なくともロシア国民である。そのような民族的(あるいは、民族主義的?)単一性のためには、マリヤ・ローザノヴァがフランスのパスポートを持つことさえ許された。(16)審査員の意見によれば、受賞者はメンタリティにおいて典型的なロシア人で、意識下の原理に働きかけることのできる作家である。ヴァルラーモフは若くて、ロシア的な髭を蓄えている。「革命的」ニカラグアに2年いたことについては、あまり触れられない。彼の『誕生』の重要な点、より正確に言えば有利な点は、魂と呼びならわされているものを擁護したことにある。魂はロシア人にあっては‐‐審査団の意見から判断するとロシア人においてのみ‐‐、ずっと前に肉体と一体化し、肉体そのものになっている。ハッピーエンドの崇拝者は(『誕生』の結末はハッピーエンドである。それ以外にはあり得ない)、一般にこうしたイデオロギーを、都会を捨てて森に住み、ハムの代わりにじゃがいもを食べ、両切りタバコの代わりにロシア風の吸い口つきタバコを吸うことで片づけている。このようなモデルは、『誕生』のようなテクストのレベルでは、うまく作用する。なぜなら、読者は完全に自分の「肉体性」に依存していて、その「肉体性」の苦しみから抜け出したいと願っているが、作家はそうした依存性や希望につけこむからである。その希望は必ず幻想に終わるのだが、それを口にするのは禁じられている。ハリウッド式ハッピーエンドの法則が作用するのだ。そのハッピーエンドは、『罪と罰』風で、現実ばなれしているのだが。そのような自己感覚や親としての本能を持たない、他のロシア人については、やはり書かれていない。それは、そんな人間の方が、精神的に豊かなヴァルラーモフの主人公たちよりも、依然として数が多いという単純な理由からではないだろうか。
1996年度アンチブッカー賞は、「カラマーゾフの兄弟賞」と改称されることが、すでに発表された。1995年のドストエフスキー、すなわちアレクセイ・ヴァルラーモフ自身が新たに審査員として参加するか、あるいは彼が指名した文芸批評家が参加することも、発表された。(17)ブッカー賞は、もちろん、ブッカー賞のまま留まるだろう。思想的に不倶戴天の敵である小さい2グループ間の、かなりローカルな論争も変わらず行われ、2グループのどちらが、現実をよりよく理解し、より才能豊かに現実を映し出しているかについて、議論を続けることだろう。その際に、候補作は、現実を映し出すよりは、むしろ現実を構成しているという事実については、両陣営とも、またもや触れずにおわるか、あるいは触れるのをいやがるだろう。悲しいかな、これらは現実ではなく、単に紙上の話なのだ。作家たちが明らかにメシア思想を抱いていることや、彼らにユーモアのセンスが欠けていて、「世界に見えぬ涙」と「世界に見える笑い」を混ぜ合わせることが異常に不得手であることについても、やはり言及されないだろう(何しろ、ここにいるのはトルストイとドストエフスキーだけで、冗談の好きなアフリカ人やウクライナ人であるプーシキンやゴーゴリではないのだから)。ともかく、2賞のプロットは、もう組み立てられた。あとはそのプロットを実行に移すだけである。
つまり、ひょっとしたら、ブッカー賞とアンチブッカー賞の相違は、紙幣だけなのかも知れない。たった1枚の紙幣。それも、ロシアのではない1枚の...。
注:
" (1)「ズナーミャ」1994年7号、pp.182―93.
" (2)たとえば次のような論文がある。U.シチェグロフ「戦うべき恐怖」(「独立新聞」1996年2月1日,p.5)、「嘘と中傷は、議論における論拠ではなく、無力さの証拠だ」(「クニージノエ オボズレーニエ」1996年3月19日,pp.16―17)、V.カルジン「情熱と執念」(「ズナーミャ」1995年9号、pp.199‐210)、M.ネホロシェフ「従者が将軍を演じる」(「ズナーミャ」1995年9号,pp.211‐19)など。ヴラジーモフ自身も、議論の相手に同じやり方で反論しているのはおもしろい。彼は色々な論文で、まさに「軍事史家」として、自分の立場を擁護しようとしている。たとえば、「新しい真理、古い判決」(「ズナーミャ」1994年8号、pp.180―87)、「私が職権を集中したとき...(V.ボゴモロフへの返事)」(「クニージノエ オボズレーニエ」1996年3月19日、pp.11―16)
" (3)ヴラジーモフの小説を取り上げた記事のひとつは、次のように題されている。I.シェヴェリョフ「最後のソヴィエト小説:ブッカー賞を受賞して、ヴラジーモフはテーマを完成した」9(「アガニョーク」1995年50号,p.68)
" (4)G.ヴラジーモフ『将軍とその軍隊』、「ズナーミャ」1994年4号、pp.47―51.
" (5)G.ヴラジーモフ『将軍とその軍隊』、「ズナーミャ」1994年4号、p.47.
" (6)私が読んだ限りでは、この長編に関する記事において、なぜかブレジネフの像は批評家たちに見過ごされている。しかし、ブレジネフの姿は、フルシチョフがジューコフの前で、名前はあげずにほめちぎる「このすばらしい若者」の中に容易に見てとれる。この若者は後に個人崇拝を復活させる。
" (7)コーブリソフ将軍の原型であるN.E.チービソフ将軍については、M.ネホロシェフが詳しく書いている。「ズナーミャ」1995年9号,p.219)
" (8)ヴラジーモフの異論派としての本格的活動は、ソ連作家同盟第6回大会にあてて書簡を送ったことで始まった(1967年5月26日)。その書簡でヴラジーモフは、検閲廃止の問題についてソルジェニーツィンの見解を支持、擁護した。
" (9)「『アンチブッカー賞』―これですべてではない (ニコライ・ズヴェリョフによるヴィタリー・トレチャコフへのインタビュー)」「独立新聞」1995年12月21日,p.9
" (10)「独立新聞」1995年12月21日,p.1
" (11)A.ヴァルラーモフ『誕生』、「ノーヴイ・ミール」1995年7号、p.6
" (12)ショーヒナ「将来の文学のために。第1回アンチブッカー賞授与によせて」:「独立新聞」1996年12月23日、p.1
" (13)A.ヴァルラーモフ『誕生』、「ノーヴイ・ミール」1995年7号、p.12
" (14)クリツィン「誰の罪か」、「文学新聞」1995年12月13日、p.4
" (15)「『アンチブッカー賞』―これですべてではない (ニコライ・ズヴェリョフによるヴィタリイ・トレチャコフへのインタビュー)」「独立新聞」1995年12月21日,p.9
" (16)同上
" (17)「独立新聞」1995年12月5日,p.1