●アイギ, ゲンナジイ Aigi, Gennadii
草へ吹く風
ディアナ・オビニエのデッサンに寄せる23の詩篇 1993-1994
訳 たなかあきみつ
エピグラフ
……おお線形のスキタイの風よ……
1960年の詩篇より
国‐プロローグ
小径の純粋さ
水のいちずさ――
そしてこの空を――夢みるかのよう
この高みは――だれも知らない
極めて――たとえ極めてもう――異質な
大地という明るい貧しさを――
われわれに言葉少なに語りかけるその地の:
《われわれがこの世にいる間は
けむりは――農家の煙突で――ゆらめいている》
1993
トヴェーリ州
デニーソヴァ・ゴールカ村
線――1
そしてますますはるかに雪は拡がっていく――
線をやがて地平線上に引こうと――しだいに夕焼
けを引き伸ばしつつ
1993
岸の出現
歌声は緑をぬってさまよう:
音楽とは――いっすん‐法師!
緑はみどりごを見つける――わたしの
まなうらを――浮遊中の!
川と岸!
変幻自在だよ――草むらは
1993
線描―1
尖筆によって創始される――ワレ在リ‐闇を
手はじめに。死は――語り尽す:光
1993
宵
星です:まずはじめに――彼女は:そして間もなく
――おまえは:それからひときわ長々と――私は
1993
線――2
世界の雨の前線が仕留められる
1993
宵:あれは昔日の野
そして悲しみは製粉所の翼の上で
まどろんでいる
1994
線――3
線は息もたえだえだが、途絶するわけでは
なく、相も変らず見つめているかのよう
1993
長時間のデッサン
そしてわれわれは誰かの夢にみられているも同然
ふたたび風のように飛び移るもの
この夜から白昼へと――
束の間吹き寄せられた
森と連れだって
その森に身をひそめた――光ともども
1993
罌粟
背面で
これは――黄昏どきに化合したもの
頭部で
何か重くのしかかるものと
1994
線――4
ところでここで――神が――不意に――ぴくっと身震いした
1993
出来事の生じる
しじま
1
しじまの島々
2
そして再度――暗くなる:
それは――ひとがた‐しじま
(なんとも奇妙なことに)危うくはない
3
そして――(誰もいなくとも)――光
4
また再び――うごめき
その島々の
1993
線描‐視現
ところで要は――時を経て
視力は減退していくのだが
今もって眺めていると
やおら上昇してくる――緩慢な
(夢の中さながら)
判決として
1994
線――5
そして線はおじぎをする:“ぼくは
線の国の生れ、だからぼくには無言だ
この地の礎の冷気は”(そして線は立ち
去っていく)
1993
悲しみ
これは風が
しなわせるのです
こんなにも軽い
(死を想う)
心を
1994
線描―2
そして――追憶――草へ吹く
風のような
1994
8月の終り
たったひと粒っきりの漿果です
――きいちごは:不意に――霧の
なかから:間近に
1993
また再び――長時間の
デッサン
いつも朝
風によるおのれ自身の反復
端から――隣り合った野から
だがここでは――農民の家々に
囲まれて
その跛行は
ますます森閑としてくる(“誰か”との
出会いのように……息をころせ――意識もなく)
1994
さわさわ(古いメモ、――娘とともに絵を描きながら)
猫のしじま木々のしじま茶碗のしじま
娘のおしゃべりのしじま(しじまのような
彼女のデッサンのざわめき)滞在のしじま
ここには
1993
そして再び――“鉛筆の
最初の痕跡”
そして失神したのかもしれない
この顆粒状によって(さも野から
瞳が見つめていたかのように――
ある種の奇蹟によって)――おお
秘匿したままの――常に同じ――
幼年時代。
1994
長々と――都市
夜:窓の外は雪(さながら――“あの世にて”)
1994
デッサン
そして野
だけ――言葉のない
手紙……――“声明”
(……神への……)
1993
そして――近年のひと冬
(エピローグに代えて)
なんだかくすんだ白い病院もどきが
なんども野へ滑走していった
――どうかこのしじまで癒されますように――
すると門扉の外と同じく窓の外の道は
ますますじっとりと消え去り悲しさもひとしお
“これでおしまい”は“地上の道”のように残響するばかり
1994
デニーソヴァ・ゴールカ村
■著者の注記■
詩篇“国‐プロローグ”
最後の2行(ここでは、チュヴァシ語からの逐語訳)はその日記のなかで、偉大なチュヴァシ人の詩人ヴァシレイ・ミッタ(1908−1957)が、彼の父――文盲の農民ヤグール・ミッタの歌で記憶に残ったものとして引用している。
※著者稿から訳出。
アイギ、そしてアイギ圏/たなかあきみつ
ゲンナジイ・アイギの詩はつねに新たに始まっている詩、つねに進行中の作業である。あくまでも「しじま」と共生しつつ、書くことの根源的な発光態として、アイギの詩は読者を、言語の光の舞踏へ、それと同時に生者の心臓の鼓動へとぐいぐい引き寄せる。本来なら何冊かの個別の詩集として上梓されて当然の詩群を一冊に集成して、1991年の5月には『ここ』が、1992年の3月にはこれとは異なる編集・構成で『いまやいつも雪』がいずれもモスクワでようやく刊行された。
なぜ「ようやく」なのか。ほぼ30年間にわたって、ロシア語で書くチュヴァシ人の詩人ゲンナジイ・アイギを包囲していたぶあつい「沈黙の壁」。1987年6月11日付の「モスコフスキイ・コムソモーレツ」紙への作品掲載を皮きりに、この沈黙の壁が崩れさったのだが、それ以前には旧ソ連でアイギのロシア語の詩は一行も印刷されなかった。声高な政治的ディシデントならずとも、あらゆるコンフォルミズムに徹底的に抗して、あるいはコンフォルミズムとは無縁の創造行為に関わる人々は、スターリンの晩年期に形成された地下の、第二の文化圏に属していた。アイギはジャンルを問わずこうした人々と強い絆で結ばれる(アイギの作品にはしばしば彼らの名やイニシャルが具体的に刻まれている)一方、公的にはもっぱらチュヴァシ語の詩人として、さらに『フランスの詩人たち』『ハンガリーの詩人たち』等の、それじたい驚嘆すべきチュヴァシ語訳アンソロジーの翻訳者としてつとに知られていた。この間、国外では「ヴォルガのマラルメ」と称されるなど、既存のロシア詩には類例のない先鋭かつ高純度の詩と高く評価され、あいついでヨーロッパのほとんどの言語に翻訳され、ロシア語オリジナルの詩集もモスクワよりもはるかに早く、1975年にはミュンヘンで、1982年にはパリで刊行された。
アイギは1934年チュヴァシア(旧ソ連のチュヴァシ自治共和国)のシャイムルジノの生れ。少年時代からすでにチュヴァシ語とロシア語のバイリンガルだったとはいえ、詩を書く言語を基本的に変更することは大きな賭だったにちがいない。アイギの詩才に大いに注目したパステルナークらの再三の助言により、1958年頃から本格的にロシア語で詩を書くにいたった。1961年から10年間、上級ライブラリアン及び芸術セクションの主任としてマヤコフスキイ記念博物館に勤め、その期間中、3回にわたってマレーヴィチをはじめロシア・アヴァンギャルドの画家たちの、当時開催が困難だった展覧会を組織した。マレーヴィチは、アイギの多岐にわたる思索の光源となっており、モスクワで刊行された前述の2冊の詩集にも、「カジミール・マレーヴィチ」や「朝:マレーヴイチ:ネムチノーフカ」などの作品が収録されている。
アイギの詩ほど、黒い二つの点であるコロンをはじめとして、各種の記号が語とおなじ強度でふんだんに用いられ、シンタクスの脱臼の徹底や隔字体の積極的導入ともども、詩という形式をぎりぎり成立させている例は、すくなくともロシア語にはないだろう。リズムの界面にあっては、
その緩・急の進行上も休止も語の意味との接触上も、アイギの詩は堆積性よりもむしろ劈開性にとむ。そのクリヴァージュの鋭さと深みは痛みをたっぷりと「貯光」しているといえるかもしれない。したがってポエジーの不測の事態にあっても、アイギはたとえばシューベルトを忘れない。チュヴァシアを起点のトポスとするアイギ特有の野や森、睡り・白さ・雪……は、イメージ・スキャンの単なる素材や「急造物件」ではもちろんない。これらの作用域は広くかつ深い。人間としての生命維持装置に欠かせない詩がいまも存在しているとするならば、アイギの詩は、ツェラン以後ますます見出しがたくなっている生命維持装置そのものだろう。アイギ、1行とて書かざる日はなし。
(『アイギ詩集』1997 書肆山田刊・所収)