●アレシコフスキー, ユズ Aleshkovskii, Iuz
解説 今田和美
1. 作者について
Iuz Aleshkovskii:小説家、詩人。本名Iosif Efimovich。筆名の"Iuz"はアレシコフスキー特有の言葉遊びで、"Sovetskii Soiuz"の最後の二文字をとったと思われる。1929年クラスノヤルスクの軍人の家庭に生まれる。父の転勤によりモスクワやラトビアを転々とし、第二次大戦中はオムスクへ疎開。学校を中退し海軍従軍中の49年、軍規違反で4年間の収容所送りとなるが、53年スターリンが死亡したため3年で恩赦釈放となり、モスクワで運転手や建設工として働く。
55年以降、表向きは童話やテレビ・ラジオ番組の脚本を書き、裏では自作の歌(59年作詞の「スターリンの歌」が最も有名)を歌い、それと平行して「引き出しのために」小説を書くという二重生活を送る。
79年「メトローポリ」に収容所に関する歌を3作発表。同年2月に米国へ亡命し、コネチカット州在住。米国ですでに8冊の本を出版しており、英、独、仏語に翻訳されている。
本国ではペレストロイカ以前は公式的には殆ど無視されていたが、自主出版では絶大な人気を得ていた。88年「新世界」に詩が、90年「アガニョーク」に小説が一部初めて公式的に掲載され、96年初の作品集が出版された。ピョートル・アレシコフスキーは甥。
主要作品
Dva bileta na elektrichku. Rasskazy dlia detei. Moscow, 1965.
Kysh, dva portfelia i tselaia nedelia. Moscow, 1970
Tri pesni v al'manakhe "Metropol'". Ann Arbor, 1979.
Nikolai Nikolaevich. Maskirovka. Ann Arbor, 1980.
Ruka. New York, 1981.
Kenguru. Ann Arbor, 1981.
Sinen'kii skromnyi platochek. New York, 1982.
Karusel'. Northampton, Massachusetts, 1983.
Kniga poslednikh slov: 35prestuplenii. Vermont, 1984.
Smert' v Moskve. Vermont, 1985.
Broshinoe tango. Middletown, Connecticut, 1986.
Stikhi. Novyi mir, No. 12, 1988. ("Pesnia o staline""Lichnoe svidanie""Okurochek"の3作品)
Sobranie sochnenii v 3 tomakh. Moscow, NNN, 1996.
Eshche odin tom. Moscow, NNN, 1996.
参考文献
Paramonov, B. O romane Aleshkovskogo. Russkaia mysl', 9-VII, 1981. p. 11.
Sapgir, K. Volk i zvezdy. Kontinent, No. 28, 1981. pp. 422-6.
Vail', P., Genis, A. Sovremennaia russkaia proza. Ermitazh, 1982.
Mal'tsev, Iu. Dushevnye bolezni bezdushnogo mira. Kontinent, No. 33, 1982. pp. 390-3.
Losev, L. O tvorchestve Iuza Aleshkovskogo. Russkaia mysl', 28-X, 1982. p. 10
Interv'iu+Losev, L. Master i margarin. Russkaia Mysl', 29-V, 1984. p. 10
Bocharov, S. Ne unyvai, zimoi dadut svidanie... Novyi mir, No. 12, 1988. p. 121
Roshchin, M. Iuz i Sovetskii Soiuz. Ogonek, No 41, 1988. p. 121(同じ号に"Kenguru"が一部掲載された)
Chernykh, V. Iskusstvo kino, No. 1, 1990. pp. 9-10.(この年No. 1-5にかけて"Kenguru""Ruru"が一部掲載された)
Bitov, A. Povtorenie neproidennogo. Znamia, No. 6, 1991. pp. 191-206(3巻本作品集の第1巻に収録)
Brown, D. The Last Years of Soviet Russian Literature. Cambridge UP, 1993.
Porter, R. Russia's Alternative Prose. Oxford/Providence, USA:BERG, 1994.
Brodskii, I. Predislovie k Sovraniiu sochinenii v 3 tomakh. Moscow, NNN, 1996.
Interv'iu. Argumenty i fakty, No. 25, 1996. p. 3.
2.作品について
『ニコライ・ニコラエヴィチ』Nikolai Nikolaevich.(1970年)
副題「ソ連の生物学の陰気な居酒屋での明るい旅」
スリの私(ニコライ)が、酒を飲みつつ昔の収容所仲間の男に自分について語る。
戦後収容所から出てきた私は、モスクワの共同住宅に住む叔母の所に転がり込み、職もなくスリをしていたところを、同じアパートに住むキムザという生物学者の研究室助手として雇われる。仕事は、不妊女性の子宮へ移植するために毎朝精液を提出することだった。実験は軌道にのり評価されはじめ、賃金はアップされる。私は研究員のヴラダ・ユーリエヴナに恋をする。強度の宇宙放射能に強い新種の人間を作ることに夢中になるキムザに対し、私は奇形のニコライ・ニコラエヴィチの誕生を想像して恐ろしくなる。ある日、私の精子がヴラダ・ユーリエヴナの子宮に植え付けられた。「科学のため」と平然とする彼女に私は複雑な気持ちになる。
ところが、助手の密告で研究室は廃止され、3人とも解雇される。私は行き場を失ったヴラダ・ユーリエヴナと同棲を始めるが、翌日彼女は死産してしまう。アパートではこっそりと実験が続けられる。
スターリンの死後、3人はもとの職場に復帰し、実験を再開する。実験が成功してキムザは有名になり、私は一財産をなす。二人は、科学もマルクス・レーニン主義もオナニーにすぎないのに、そのためにロシアで多くの血が流された、もう沢山だ、との結論に達する。長靴職人に転職することにした私にキムザは、生命の秘密は決して解明されないとわかっただけでも、長年科学に携わってきた甲斐があった、と告白する。
『カンガルー』Kenguru.(1974-5年。Kontinent No. 25 /Ogonek 1990. NO. 41. /Iskusstvo Kino. 1991. No. 1-4.に一部掲載)
国際的泥棒である私(ファン・ファヌィチ)が、居酒屋で友人コーリャ(『ニコライ・ニコラエヴィチ』の主人公)に自分の体験を語る。
1949年のある朝、私は逮捕され、チェカーのキダーラ中佐の尋問を受ける。彼にはすでに何度か逮捕されていたが、常に「特別重要な事件用にとっておく」ために釈放されていた。やっとその時が来たのだ。3ヶ月後に迫った頼の記念日までにすべての未決事件を解決せねばならないという。10の候補の中から、私は「1789年6月14日から1905年1月9日にかけての夜、モスクワ動物園における最年長のカンガルー強姦・殺害事件」(懲役25年)を選ぶ。私は、非常に快適だが監視カメラ付きの特別房に入れられ、裁判でもっともらしい供述が出来るようにと有袋類学者からカンガルーについての講義を受けるかわりに、彼にセックスと女性心理について教える。
ある時麻酔をかけられ目覚めると、私は手足を縛られ藁を敷いた床に横たわっていた。実験材料として、脳にカンガルーとしての自覚を植え付けられてしまったのだ。
数カ月後、私は裁判を受け、全面的に容疑を認める。法廷では、私自身が脚本を書いた今回の事件に関する映画が上映され、それを観ているうちに、私には映画の中の私が自分自身なのか、分身なのか、そもそも脚本など書いたのかわからなくなってくる。判決は銃殺。私の謝辞で裁判は終わる。
なぜか収容所送りとなった私は政治犯の雑居房に入れられ、もとボリシェヴィキたちに議論をふっかけられ辟易する。私は後ろが見える第三の目を手に入れ、ネズミ殺しに活躍する。突然スターリンの死による釈放が告げられる。
気が付くと私は、色とりどりの花(政治家たちの顔をかたどった花壇)の中に横たわっていた。ポケットの中に釈放証明書とモスクワ行きの切符、千ルーブルが入っていた。家へ帰った私は、近所に住む生物学専攻の大学生イーラと恋に落ちる。
キダーラをKGBに尋ねる私だが、そんな人物はおらず、私の事件を担当したのは別人で罪状も「カガノーヴィチとベリヤ暗殺未遂」だったとして追い返されてしまう。私は動物園へ向かう。カンガルーは本当に殺されており、その時お腹の袋にはいっていて助かった子供がいた。カンガルーに同情し、買い取ってオーストラリアへ帰してやりたいと願う私だが、動物園を追い出されてしまう。
帰宅し、自由を喜びつつ、もうすぐクリミアから帰ってくるイーラを思い、私は幸せな気分になる。
『手』Ruka.(1977-8年)
副題「刑吏の物語」
潟≠フベテラン刑吏である私(シバーノフ。1917年11月7日生。私は、粛清への貢献でレーニン賞を受けており、手が大きく、容疑者の容貌が変わるほど殴るので「手(ruka)」 とあだ名されている)が、自分の人生を台無しにしたグーロフという男(私と同い年の肉・乳製品省局長。父親ポニャーチエフは党中央委員でスターリンの側近だった)にモンテ・クリスト伯よろしく復讐するため、グーロフの豪華な別荘で私的に尋問する。尋問というよりは、自分自身の打ち明け話が1人称で延々と語られる。私は、打ち明け話を語り終え、グーロフに罪を認めさせた後で彼を殺すつもりである。
打ち明け話は絶え間なく逸脱、先走りや後戻りを伴って何日もかけて進行する。その中で私は、度々延々と独自の哲学を披露しつつ体制を批判するが、それは殺された父やこれまで尋問した反体制家たちの思想の受け売りでしかない。私は体制を批判しつつ個人的な復讐のためにその体制に加担する自分に対し自嘲的であり、そんな自分には救済も許しもないことを自覚している。
11月7日の革命60周年式典と重なる私の誕生日に向けて、尋問は進行する。私は故意にグーロフの死の瞬間を引き延ばす。
農業集団化が進む1929年冬、グーロフ少年は、コルホーズ入りを拒む農民を処罰しにきた父ポニャーチエフに連れられ、私の住むオジンカ村へやってきた。大人は全員銃殺され、私はグーロフたちピオネール隊に再教育と称し長時間川岸の丸太に縛り付けられて性的不能になり、孤児院へ入れられる。孤児院で仲良くなったパーシュカの父親(クレムリンの食糧倉庫長)の嫌疑が晴れ、私は彼の家に養子としてひきとられ、モスクワ郊外の幹部別荘で暮らしながら、チェキストになりポニャーチエフ一味やマルクス、スターリンに復讐することを夢見る。その夜から、私は度々「あの夜で私と再会したいなら復讐はやめて自らの魂を救え」と忠告する、殺された父の夢を見るようになる。
37年の粛清直前のある日、私は森で茸狩りの最中に、狂犬に襲われかけたスターリンを救う。スターリンは私に Ruka というニックネームを授け、ボディー・ガードに抜擢する。スターリンの名において粛清を遂行しながら、私は妄想や孤独、恐怖におびえるスターリンの素顔に触れる。
私はオジンカ村虐殺に関わったポニャーチエフの部下10人を次々と粛清し復讐してゆくが、ポニャーチエフ父子だけは偶然が重なり殺せない。私は、スターリンの絶大な信頼を得ていて手が下せないポニャーチエフの裏切りをでっち上げた映画を撮ってスターリンに見せ、粛清の許しを得る。
一方成人したグーロフは、自己保身のために父を告発し収容所へ送り、流刑になり飢えに苦しむ母を見殺しにした。45才のコレクチーヴァという党の実力者の養子になるが、実質は愛人で性的関係を強要され屈辱を覚える。コレクチーヴァのおかげで党員になれた直後、娘のエレクトラと結婚したいがためにグーロフはコレクチーヴァを病死に見せかけて殺害する。頑として継母殺しを認めないグーロフに、私は尋問室にコレクチーヴァの棺を運び込ませ、骸骨に残された傷と棺に入っていた凶器を見せる。
尋問中にうたた寝した私は、再び父の夢を見て、自分を銃殺することを条件にグーロフを生かしておくことを提案する。拒むグーロフ。そこへ両手両足を失い、口もきけなくなった父ポニャーチエフが運び込まれる。彼は私が手を下す前に収容所送りとなり、そこで脱走事件に巻き込まれ四肢と声を失っていた。同意しなければ、コレクチーヴァ殺しを妻子にばらすという私に、グーロフは提案をのむ。私は部下に私の死後グーロフを始末するよう命じる。私、ポニャーチエフ、グーロフの三人での最後の晩餐の後、グーロフは私を銃殺する。
3.コメント
形式: 3作品ともアレシコフスキーの得意とするダイアローグを装ったモノローグ形式。ただし『カンガルー』では、1人称と3人称の語りの頻繁な交替がみられる。
文体: 基本的に口語体で書かれており、卑猥語(mat) 、泥棒、収容所、KGBなどの隠語が多用されているが、時々それとは対照的な叙情的・感傷的描写が現れる。リアリスティックかと思えば幻想的あるいはグロテスク、というように複数の文体が無秩序に交替する。
なぜ mat を用いるかについては『手』の語り手に mat を使うことで、自分の言語感覚を救っている」と説明させているように、作者はmat をソ連の、本質を破壊され空っぽになった(死んだ)公式的言説(言語墓地)に対抗する唯一の手段と考えている。政治的スローガンや固有名詞("Proletarii vsekh stran, soediniaites' so mnoiu!""Kyrla Myrla""Khariton Usinych Iork")をパロディー化して遊ぶ行為も、そうした「死んだ言葉」に対するアンチテーゼと考えられる。
また、アレシコフスキーにおいては mat 自体ではなく mat と、それとは別範疇の語彙(例えば共産主義的決まり文句)の組合せが文体的効果(異化効果)を生んでいることを、パラモーノフはじめ複数の批評家が指摘している。
逸脱: 頻繁な逸脱の中で体制批判や「共産主義は形而上的悪である」といった哲学、あるいは人生訓が語られるが、話に没頭し過ぎて冗長になってしまう嫌いがある(特に『手』にその傾向が顕著)。
語り手像: 下層階級出身で公式の教育は受けていないので知的ではなく柄は悪いが、頭は良い。女好きだが本当に愛するのはいつも一人だけ、という純粋なところがあり憎めない。嫌悪より共感を呼ぶ。
暴露文学的要素: 全ての作品を、スターリン時代から70年代にいたるソ連社会の百科辞典として読むことができ、体制批判の姿勢を明確にした暴露文学としての性格も有している。特に『手』はスターリンのテロを最も鮮やかに暴露した作品(ニコライ・ペトロフ)との評価もある。しかし、暴露文学につきもののじめじめとした暗さはなく、悲惨な場面の描写も乾いた(?)悲しみを喚起する。尋問場面はリアルで恐ろしいが、途中で飲み食いしたり散歩に行ったりするなど妙に牧歌的で緊張感がなかったり、尋問が進むうち、尋問官と容疑者の間にある種の友情が芽生えたりする。批判の対象であるはずの「体制側」の人物たち(スターリンでさえも)が一種の宗教愛をもって生身の人間として描かれていることが、アレシコフスキー作品を暴露文学から隔てている。
自伝か虚構か: KGB での尋問や収容所の場面など、細部にかなり自伝的要素が感じられるが、虚構性の方が強い。「回想」という枠組みを用いつつ、カレンダー的時間を無視して自由に時空間を行き来していることが、虚構性を増している。
作家としての評価
作品集にブロツキーとビートフが解説を書き、イスカンデルやオクジャワらが賛辞を寄せていることからもわかるとおり、作家仲間の評価はかなり高い。特にブロツキーは「言語を手段として執筆するのではなく、自分自身が言語の手段となっている作家」としてゴーゴリ、プラトーノフ、ゾーシチェンコと並び称すほどの肩の入れようだ。
一方で、アレシコフスキーに「現代ロシア散文における禁止用語文学の生みの親」と一定の評価を与えながらも、彼の「大量の禁止用語を用いたモノローグ」という手法が紋切り型と化している、とする少々厳しい見方(ワイリとゲニス)もある。
最近は殆ど作品を発表せず過去の人になりつつあるが、「時代の記録」と片付けてしまうには余りにユニークな作家である。少なくとも、現代ロシア文学における文章語への俗語や禁止用語を含めた口語の影響を考える上で、アレシコフスキーはかなり重要な存在ではないだろうか。