●ケンジェーエフ, バフィト Kenzheev, Bakhyt
「イワン・ベズウグローフ」 Ivan Bezuglov. Znamia, No. 1-2, 1993.
「若き日の芸術家の肖像」 Portret khudozhnika v iunosti. Oktiabr', No.1, 1995.
解説 望月哲男
1.作者について
バフィト・ケンジェーエフは1950年生まれの詩人、小説家。多作家で、主な作品は以下のとおり。
Poslaniia. Stikhi. Sintaksis, No. 25.
Stikhotvoreniia 1982-1987. Znamia, No. 10, 1980.
Novye stikhi. Znamia, No. 4, 1990.
Vremia deistviia. Stikhi. Novyi mir, No. 9, 1991.
Stikhi poslednikh let. Znamia, No. 12, 1992.
Iz Novykh stikhov, Nobyi mir, No. 2, 1992.
Plato. Roman. Znamia, No. 3-4,5, 1992.
Mladshii brat. Roman. Oktiabr', No. 7,8,9, 1992.
Ivan Bezuglov. Meshchanskii roman. Znamia, No. 1,2, 1993.
Vremia techet neslyshno. Stikhi. Oktiabr', No. 5, 1994.
Portret khudozhnika v iunosti. Roman. Oktiabr', No. 1, 1995.
2.作品について
1)『イワン・ベズウグローフ』
メシチャンスキー・ロマン(通俗/俗物小説)と副題された作品。現代ロシアに欧米型総合商社が誕生するまでの波乱に充ちた経緯が、20章にわたって描かれる。
a)人物
主人公イワン・ベズウグローフは、その商才と堅忍不抜の努力によって小さな証券会社を国際的規模の総合商社に育てつつある、32才の青年社長である。この人物の内には、現代ロシア版の成功者、試練を乗り越えるヒーロー、理想的男性のイメージが、多分にパロディ的に描き込まれている。主な要素は以下の通り。
反共主義: 彼はまず共産主義体制の痛烈な批判者である。これには個人的な経験が大きな役割を果たしている。彼の父親は同じく企業心に富んだ工場長であったが、その合理的で労働者の福祉に配慮した経営方針が党官僚の利益に抵触したため、主人公の少年時に逮捕されて獄死している。この結果、クラスのヒーローだった主人公自身も、ソ連社会でのまともな立身の道を奪われ、恋人をもあきらめなくてはならなくなる。現在の彼を支える力の一つは、この不合理な社会体制への反感である。
資本主義志向: このことと表裏一体となって、アメリカ型資本主義、機会均等の競争社会への、彼の深い信奉がある。各人がそれぞれのリスクを背負いながら合法的に競争する欧米型ビジネス社会をロシアに確立するのが、彼の理想である。それ故に彼は非合法世界との関わりを一切拒否し、自身の利益や安定を犠牲にしてまで現行のロシア法を順守した形での経営を行うという、ドン・キホーテ的な姿勢を貫こうとする。また彼は会社の利益の一部を、医療などの福祉や教会の再建といった社会的目的に役立てる活動も続けている。
ロシア・コンプレクスと一流趣味: 主人公は国際社会の基準から見た現代ロシアの貧困と、ロシア人の欧米コンプレクスに心を痛めている。それが過剰で滑稽に見えるステイタスの顕示につながっている。二人のボディーガード、キャディラック、流行のスーツ、贅沢な別荘、コンピュータシステムを備えた豪華なオフィス、ラップトップパソコン、高価なレストランでの昼食、ジャック・ダニエルズ、小切手帳とクレジットカード・・・こうした小道具が外国人ビジネスマンとの付き合いにも気後れしない自信を生み出す様を、語り手は詳述している。この一流趣味は、彼の側近の選び方にも反映している。
仕事人間: ビジネスの成功と社会の変革を目標とする彼は、全生活を仕事に捧げている。睡眠や読書の時間を削り、一人暮らしの家も飛行機の機中も、随時仕事の場にしてしまう。
マッチョ趣味と女性体験: 女性に対しては、その仕事の能力を的確に評価しながら、相手が男性の保護を必要とする弱い生き物だという態度を変えない。秘書の誘拐事件の際も、彼は自分一人で相手を救出に赴く。女性の指導下で働くことは不可能な人物である。
学生の頃恋愛関係にあった女性と、父親のスキャンダルが元で別れて以来、彼は仕事人間の殻に隠れて、女性一般に対して距離を保ってきた。現在、秘書のタチアーナと彼は相互に好意を寄せ合っているが、彼のこの態度のせいで関係は一向に発展しない。それがこの作品のハーレクイーン小説的サスペンスの核になっている。
他の人物:
登場人物の多くはロシア作家の名前を与えられている。
主人公の会社の側近には、法律顧問ミハイル・レールモントフ、社長代理フョードル・チュッチェフ、幹部社員ボラトゥインスキー、秘書タチアーナ、運転手ジュコーフスキーなどがいる。選りすぐりの精鋭である。
このほかに商売相手となるカナダの世界的財閥<ヴェルレーヌ&ランボー>の代表ポール・ヴェルレーヌ、元共産党政治局員で現在は闇ブローカーのヴラディスラフ・ゼレノーフ、主人公の元恋人の女優アンナ・シャフマートワ、在米のスキャンダラスな亡命作家タターリノフなどが登場する。
b)物語
作品は一面で、いまだ商業ルールも不備な90年代ロシアを背景にした企業小説としての性格を持ち、また他面で、ストイックな青年ビジネスマン、快楽主義の外国人財閥、有能な秘書、恋多き女優を四つの極にした、恋愛小説の構造を持っている。
急成長してきた主人公ベズウグローフの会社は、最終的安定の一歩手前の段階にある。主人公はその一歩を、メキシコ・韓国との三角バーター貿易(ロシアからガラスと木材をメキシコへ輸出、見返りにメキシコのサボテンを、カナダ経由で韓国のテキーラ業者に卸すというもの)に賭け、大きな資本をつぎ込む。同時に彼は、ロシアの企業法の改正により、海外にプールしてあった資産の全部を、ロシアの銀行に移すことを余儀なくされる。
大きな転機にあるこの企業に、二つの外的要因が働きかける。一つは闇経済の世界に生きる元党官僚のゼレノーフで、ベズウグローフの会社の乗っ取りをたくらんだ彼は、主人公の秘書タチアーナを誘拐して、韓国との商談を妨害しようとする。主人公は自力でこれを解決するが、この経緯が法律顧問レールモントフへの疑惑を呼ぶ。
これと同時に、主人公の元恋人で有名女優のシャフマートワがビジネスマンの映画を作るという名目で接近し、彼の気を引くと同時に、彼に恋心を寄せるタチアーナを動揺させる。
誘拐事件がきっかけとなってベズウグローフとタチアーナの心は急接近するが、一方韓国との商談の立会人となったカナダの富豪ヴェルレーヌがタチアーナに関心を寄せ始めることもあって、両者の関係はあいまいなものにとどまる。
こうして不安定な要因を抱えたまま、ベズウグローフはヴェルレーヌの招待を受け、タチアーナ、社長代理のチュッチェフ、タチアーナの妹スヴェトラーナ(服飾工場の主任でチュッチェフの恋人)を連れてカナダにゆく。メキシコからの輸入過程のチェック、工場見学と、海外資産の引き上げが目的である。
モントリオールのヴェルレーヌの元には、女優シャフマートワとシナリオライターのタターリノフも居合わせ、旅行恋愛小説的ストーリーが発展する。シャフマートワはベズウグローフの誘惑を試みる。一方タチアーナは、ホテルのレストランで、ヴェルレーヌ、シャフマートワ、タターリノフの会話を盗み聞きし、ヴェルレーヌがベズウグローフと関わりを持ったのが、アンナの依頼によるものであること、彼がロシア人事業家の資産にも実力にも低い評価しか与えていないこと、この富豪とシャフマートワは過去に恋愛関係にあり、現在はそれぞれのターゲット(タチアーナ、ベズウグローフ)の攻略のために協力していること、などを知る。
タチアーナは同時に、革命前に亡命した曾祖母の妹ペトロフスコ=ラズウモフスカヤ夫人と連絡を取り、相手から贈られた10万ドルで指輪を買うが、ベズウグローフはそれをヴェルレーヌからの贈り物と錯覚する。
こうして疑惑と動揺を抱えて帰国したベズウグローフは、再びゼレノーフらの襲撃を受けながら、持ち帰った200万ドルの資産をロシアの銀行に預ける。しかし金はそのまま凍結されてしまい、一方会社は翌朝までに債権者に5700万ルーブリの金を返済しなければならないという苦境に陥る。この状況下で、タチアーナのマッキントッシュから会社の秘密情報を写したファイルが発見され、彼は愛する秘書をスパイと疑わざるをえないはめになる。
以下の展開は喜劇のクライマックスと大団円に似ている。
ブローカーのゼレノーフがベズウグローフの会社の債権を一手に集め、会社を乗っ取ろうとする。しかしベズウグローフが全てをあきらめようとした瞬間に、チェイズ・マンハッタン銀行の代理人が登場し、会社が別の資産家に買い取られたことを宣言する。実は無実の疑惑で会社を追われたタチアーナが、曾祖母の妹から譲られた一大資産で、会社の株を買い占めたのである。会社の新しい主人となった彼女は、当惑するベズウグローフに、新しい社名<ベズウグローフ&サンズ>を提示し、夫婦として共同経営してゆくことを提案する。
2)『若き日の芸術家の肖像』
作者自身と同じく1950年生まれのモスクワ子の主人公が成人してゆく1970年代までの出来事を、12章にわたって記述した作品。叙述の中心は主人公の直接体験であるが、彼が関わる芸術や学問世界の事柄を通じて、同時代ソ連の知識人世界の雰囲気が、皮肉な視点から描写されている。主人公タターリノフをはじめ、前作『イワン・ベズウグローフ』の何人かの人物も、その少年期・青年期の姿で登場する。
恐らくこの小説の一つの眼目は、イデオロギー的な価値判断を留保した上で、過去に存在した自分たちの生活空間を再現してみようという姿勢にある。そこで重要なのは物や人間や出来事の細部であり、それがもたらす特別な感覚である。そこでは筆者の懐古的情熱と、現在の反省的視点から生まれるアイロニー、過去の人物の見通しのない視点と、世紀末の作家の歴史的パースペクティヴといったものが混ざり合って、独特に込み入った文章が生まれている。
例えば:
「私が正直な両親のもとにモスクワの町で生を受けた年、モスクワの住民はまだあと3年弱も高齢の独裁者の鉄の支配のもとに苦しみ、カガノーヴィチの名を冠した世界随一の地下鉄の大理石の天蓋の下を歩み、米帝の陰謀を確信を持って暴きたてるアナウンサー、レヴィタンの正当なる怒りと、労働戦線の公式戦況報告を読み上げる同じ人物の心からなる歓喜を共有する運命にあった。言い換えればそれは1950年、すなわち過去の全ての世紀と同様、そして恐らく来るべき諸世紀とも同様に、苦悩に満ちみちた世紀の真ん中のこと、さらに細かく言えば同年の8月2日、予言者イリヤーの日のことであった。歴史図書館の読書室で借り出した『夕刊モスクワ』の、触れなば崩れ落ちんほどに脆くなった紙面によれば、その日は、我が誕生に敬意を表してというわけでもあるまいが、暗い藤色の重たげな雷雲が広がり、稲妻が音もなく閃いて、晩方にはレーニン丘の方角に発した雷鳴が、長々と伸びた快楽庭園にそって市立第一病院の脇を駆け抜け、さらにゴーリキー名称文化と休息の公園に達したとのこと。その公園には筋骨隆々たる若き乙女たちの彫刻が、セメントでメリヤス風に作った清純な水着姿で一年中立ち並び、カンヴァス地のズボンをはいた背の高い戦後の青年たちが、パーマネントで髪を縮らせた屈託のないガールフレンドの体を濡れた新聞で守り、笑いながら全速力で豪雨に泡立つ遊歩道を駆け抜け、当時人気のアトラクション『空飛ぶ人』──片側に長い槌を、片側に座席を着けた乗り物──の下で雨宿りするのであった。中には屋根もない観覧車の座席でずぶぬれになろうという物好きもいたが、そのかわりその目もくらむような高みからは、こんな時こそ順番待ちもなく、我が首都の景観を、すなわち高層ビルの群、緑の遊歩道、黄色と青の便利なトロリーバス、賢人の風貌をした記念像、鋼鉄の鎖に支えられたクリミア橋、神秘的な古きクレムリンに向けてうねる川の御影石の如き表面といったものを、心ゆくまで楽しむことができたのである」
物語はいくつかの層に別れている。
1)主人公自身の成長の物語:
彼は学歴のない退役砲兵大尉の父、歴史学士の母とともに、市心にちかいクロポトキン門のそばのコムナリナヤ(何世帯かが雑居するアパート)に暮らしている。父方の家はオレンブルグに根を持ち、叔父の一人グレープは、「ステップのクセノフォント」の異名を持つ偉大なアエド(竪琴を弾き語る詩人──この架空のジャンルは作中エクゾテリカと呼ばれ、詩・純文学一般のアレゴリーとなっている)で、スターリン期に粛清され、60年代に名誉回復された。
幼少時から読書好きの物知り少年であった主人公は、叔父の名誉回復を期に、祖母や両親の薦めで叔父と同じアエドの養成教室に通い始める。彼は10代半ばに年少者のコンクールで優勝するまでになり、将来への希望を覚えるが、この経験は同時に同年代のスポーツ少年の間で彼を孤立させることにもなる(前出の作品の主人公ベズウグローフは、彼をいたぶるクラスメイトの急先鋒である)。
主人公はこの芸術の「銀の時代」の遺産や、未発表の叔父の手記に深い関心を示すが、結局は自らの才能と、エクゾテリカ(詩文学)の現実的有効性への疑念にかられ、徐々に演奏から遠ざかってゆく。
10年学級の終わり、彼は進路を「錬金術」(これも基礎科学一般のアレゴリーであろう)に変え、モスクワ大学助教授ミハイル・ペシキンの指導と援助で、無事同大学の錬金術学部に入学する。しかし強烈な反共主義者のペシキンは、国外の学会に出席したまま亡命する。
曲折の後、彼は錬金術をも捨て、正式な就職も断念したまま、非公式なアエドとしての活動に入ってゆく。その間、元クラスメートのベズウグローフの恋人マリーナと結婚し、離婚して、作品の終わりには寄食者として、KGB職員となった同じく級友のゼレノーフの取り調べを受ける。
2)60年代の人間像:
主人公の父親は、兄弟が粛清されたこともあって学業を断念し、仕事の他はひたすら新聞を読み、海外のラジオ放送に耳を澄ます生活に落ち込んだ人間である。彼にとっては偉大な芸術こそが唯一の価値のようで、息子がエクゾテリカを捨てたことをひたすら悲しむ。
この父親のほかに、ソ連体制下で芸術的良心と政治的保身のバランスを注意深く保っている彫刻家ジュコフキン、芸術家の養成と言論の自由の擁護に全てをなげうって活動する女教師ヴェロニカ、学問の自由のために祖国を捨てる助教授ペシキン、そして主人公の級友たち──父の逮捕で将来を失うベズウグローフ、KGBに入ってゆくゼレノーフ、結婚相手を求める女性たち──といった様々な人間像が描かれている。
この中には変名で暗示されるソ連文化人(詩人)たちも混じっている。例えば叔父の「ステップのクセノフォント」はマンデリシタム、「労働者サマリヤ」はゴーリキー、ペテルブルグの「正教徒イサアク」はブロツキーを、それぞれ連想させる。
こうした中で、主人公は一貫して子供らしい保守性、現実主義や、おめでたくも見える社会への信頼を保っており、それがこの作品と反体制的な風刺文学とを隔てている。父親をはじめとする大人たちや、同世代の青年たちの社会体制批判を、彼は一貫してイデアリズムとみなし、共産主義の理念にもそれなりの真理と意味があり、よき人々がそれに命を懸けてきたのだ、という類の主張を変えない。
作者はまた、この主人公の芸術(エクゾテリカ)への関わりの内にある多面性──少年らしい好奇心、純粋な感動や美的インスピレーションなどの要素、他と違う特別な世界に関わることへの違和感や照れ、卑俗な野心や名誉心、自分の才能や芸術の有益性への疑念、無意識の模倣やひょう窃、同時代の芸術への疑念など──を、露悪的なほど率直に描き出している。この多面性は、科学(錬金術)への関わりについても同様である。これは、ソ連の芸術や科学につきまとっていた神話性や権威と、権力との関わりの中に現れるそのいかがわしい生態との間の落差が、若き俗物の内に呼び起こした反応と見ることもできる。
この健全な常識人は、様々な大人たちの人生観を垣間みながら、結局非公式な芸術家になり、「権力は人間を誘惑する。しかし誘惑に負けるか否かは自分の良心の問題だ」という、屈折のある人生観を持つようになってゆくのである。
3)風俗:
時代の風俗のリアリティこそが、作品のもう一人の主人公である。スターリンの死の前後から第三次亡命の時代まで、モスクワの青少年の生活にも大きな変化があった。それを作者は随所に、レトロ文学風に描いている。
少年が図書館で読んだ本のタイトル、理科の実験の詳細、クリスマスツリーを買う顛末、遊園地の食べ物や飲み物の名前、文房具、KVN(頓知クラブ)などの人気テレビ番組、よその家でのおやつ、コムナーリナヤの共同炊事場での日常、妹のはいるサナトリウム、そしてとりわけ主人公の一家が60年代はじめにようやく手に入れた郊外の独立アパートに引っ越すシーン(そこではシニカルな父親も一種のユーフォリア状態になる)──こうしたモノや事件の描写を覆う生き生きとした記憶は、思想と行動の焦点がぶれたような人物たちの断片的記述とは対比的な形で、ソ連という時空のイメージを明晰なものにしている。
3.コメント
『若き日の芸術家の肖像』の前書きによれば、ここにあげた2作品は、未完の長編『収税吏と淫婦たち』の1部2部をなすものである。小説家としてのケンジェーエフは、キッチュ、俗物趣味、大衆文化の愛好者を自認しているが、この両作品にも、ソ連・ロシア社会を風俗や大衆文化のレベルで捉えようとする姿勢、さらに通俗文学の様々なジャンルの様式を組み合わせて、ロシア的現実感覚やメンタリティを描こうとする志向がうかがえる。
両作品は、多くの大衆小説と同じく、俗流フロイト主義の図式で読み得るような構造を持っている。例えば『イワン・・・』の好色な外国人の老富豪、秘書と女優は、それぞれ堕落した権威ある父親、および聖性とエロスという母性の両面を現していると受け止められる。『若き・・・』は一転して、抑圧された弱きロマンチストの父親たちと、現実主義的な大人のような子どもたちの物語である。これは20世紀後半のロシア的心性のアーケタイプの戯画と受け取りうるかも知れない。
両作品を連続して読むと、一連の人物像の屈折現象に気づく。例えば『若き・・・』の主人公タターリノフは、生真面目な常識人から寄食者になり、『イワン・・・』では、アメリカに亡命してスキャンダラスな低俗文学を書いている酒浸りの作家として登場する。また『イワン・・・』のストイックな英雄的主人公の若き姿は、単なるこわもての優等生兼ガキ大将であり、父の不幸を期に大学時代から闇のブローカー業を始める青年である。
主人公を取り巻く女性たちの変身ぶりを含め、こうした屈折の「現場」は描かれていない。あるいはそうした変化があまりにも単純に動機づけられていて、読者は複数の可能な主人公像の一面だけを提示されているかのような印象を受ける。作品は主人公たちの心理の深層を飛び越えて、ただその意識と振る舞いの表層のみを描いている。逆に言えばそうした「深層」や「総合的人間像」を不可能にして、人間を何かの出来事の書き割りにしてしまうのが、ここに描かれていない70・80年代の現実であったと読むべきかもしれない。