●フールギン, アレクサンドル Khurgin, Aleksandr
「オーストラリア」 Strana Avstraliia. Povest' iz provintsial'noi, a takzhe i inoi zhizni. Znamia, No.7, 1993.
解説 望月哲男
1.作家について
アレクサンドル・フールギン:ドニエプロペトロフスクの作家。まだ発表作品の少ない若手の一人のようで、本作の発表された93年頃から、しばしば批評欄の話題に上るようになった。例えば現代作家に詳しいA.ネムゼルは、スラポフスキー、P.アレシコフスキー等とともにこの作家の力量を評価し、とりわけ本作を傑作と見なしている。
2.作品について
『オーストラリア』
オーストラリアの名を持つこの作品は、同国を舞台としてはいない。オーストラリアは作品の一人物が憧れる異国であり、そして最後に主人公の大半が飛行機で不時着する国がそれかも知れない、という形で登場するのみである。
作品は、中心人物の死を語ることから始まり、続いて彼と直接間接に関わった数人の男女の経験が、その死の前後から3年間ほどのスパンで、個別的に描かれるという構成になっている。それはいわばイエスの死に始まる共観福音書のパロディーのような構造である。以下人物ごとの物語を要約する。
1)ジョーラ: 失われる主人公とは、ウクライナの町(恐らくドニエプロペトロフスク)の大工場に働く機会組立工ジョーラ(ゲオルギー)。きわめて女性にもてる人生享楽家の彼は、二番目の妻レーナと暮らしながら、何人もの女性と恋愛関係を持っていた。この彼が工場の事故で突然死んでしまうことが、人々の人生にさまざまな影響を与え、それまで無関係だった人々を関係づける。
2)レーナ: 事故当時、浮気な夫を引き留めるために二人目の子供を生んだばかりだったジョーラの妻レーナは、女が男の五倍ほども集まった葬式で、夫の元恋人たちと知り合いになる。工場の食堂部主任ステーシャ、医務室主任エレーナ、教師リューバなどである。
レーナはこの女性たちからさまざまな援助を受けることになり、ついには夫の命日の卓をともに過ごす親友となってゆく。夫の死後三年たって、彼女は別企業の主任セルゲーエフと同棲することになるが、これもまた夫に繋がる縁であった。すなわちセルゲーエフはその直前まで、ジョーラの妹ダーシャの恋人だったのである。
3)ミハイロフ: ジョーラの同僚であった組立工ミハイロフは、そもそも自分の仕事を嫌っていたが、二つの事件がきっかけになって、すっかり倦怠に陥ってしまう。一つはジョーラの事故死であり、もう一つは妻がベトナム人と浮気したことである。ミハイロフはこれをきっかけに仕事と家庭を去る。そして公衆便所の掃除人として生計を立てながら、いつかこの世界を捨てて全く未知の国オーストラリアに移り住むことを夢見て暮らすことになる。
4)コムパニエツ: ジョーラの工場の職長であったコムパニエツは、ジョーラと違って、一度も女性に愛されたことのない男である。彼は事故の責任をとって職を去り、後に自らの会社『メフマシュ』を設立して成功する。しかしやがて、副社長格として雇った元同級生との間に、互いの妻との関係をめぐる軋轢が生じ、相手に殴られて歯をすっかり失ってしまう。彼は二度作らせた高価な入れ歯を、事故と強盗のために二度とも失い、会社は倒産し、さらに妻にも妾にも見放されてしまう。
この直前、彼はジョーラの恋人の一人ステーシャと、偶然の情事を交わす。
5)ダーシャとセルゲーエフ: ジョーラの妹ダーシャは、夫ヴォヴィックが突然職を捨てて探検旅行に去ってしまった後、元からの浮気相手であった職場の部下セルゲーエフと暮らしていた。三年ほどして彼女は発病し、腫瘍で乳房も卵巣も失って、第二級の身障者となってしまう。彼女をかいがいしく世話していたセルゲーエフは、突然探検行から戻ったヴォヴィックによって閉め出され、結局ジョーラの未亡人レーナと暮らし始めることになる。
6)ステーシャ: 工場の食堂部主任ステーシャは、一度の結婚に失敗した後、独身のまま通算33人の男性と関係を持ってきた。ジョーラはそのうちで唯一退屈を感じさせないすばらしい男として、彼女の記憶に残っている。物語の現在、彼女は34人目の男性、芸術家のチェカーソフと出会い、モスクワの彼のもとまで出かけて安定した関係になりかけるが、ふとした感情の行き違いから帰ってきてしまう。そしてチェカーソフが追いかけてきたときには、彼女のベッドには偶然町で出会った元の上司コムパニエツが寝ていた。
7)エレーナ: 工場の医務室主任エレーナは、退屈なナルシストのダンサーと、判で押したような味気ない生活をしている。彼女は夫を憎んでさえいるのだが、別の人間と新しい生活をする気にもなれないのである。子供のない彼女はジョーラとの関係ですぐに妊娠するが、それを明かさぬまま堕胎してしまい、ジョーラはすぐに別の女に移ってゆく。ともにジョーラを恋人にしたエレーナとステーシャは、彼の遺族を(食料や薬品の入手で)助け続ける。
エレーナはある時公衆便所で働くジョーラの元同僚ミハイロフを見かけ、同時にこの人物が行方不明で手配されていることを知る。しかしそれきり彼女は相手を見失ってしまう。
8)ヴォヴィックとリューバ: ジョーラの妹ダーシャは、三年ぶりに同居し始めた夫ヴォヴィックの性生活の相手ができないのを気に病み、義姉のレーナにパートナーの斡旋を頼む。レーナは、これも夫ジョーラの恋人であった教師のリューバを彼に紹介する。ヴォヴィックはリューバを家に連れ込むようになり、身障者の妹というふれこみで台所に引きこもっているダーシャの脇で、情事に励むことになる。
このヴォヴィックの発案で、ダーシャの29才の誕生日が祝われることになり、リューバを除いたジョーラの女たちが、それぞれの連れ合いを伴って集まる。
9)異境での集合: 物語の終わりに、重要人物たちが別の世界で一堂に会することになる。
ステーシャがモスクワで買ってダーシャの誕生日に贈った宝籤が、400万ルーブリの大当りとなり、ダーシャの提案でレーナ、エレーナ、ステーシャ、ダーシャの女四人組がカレリアへ気晴らし旅行することになる。飛行機には偶然、不幸続きで自棄になった元社長コムパニエツが乗り合わせている。
彼らの飛行機はしかしカレリアには向かわず、風に流されたまま30時間も海を越えて飛行して、どこか分からない国に着いてしまう。その国の飛行場で、給油も入国も拒否されたまま、彼らは滑走路やロビーで物売りをしたり、付近に畑を作ったりして、住み着き始める。そしてそこには、行方不明となっていたジョーラの同僚ミハイロフまでが、すでにトイレ掃除人として住み着いていたことが分かる。
この空港で新しい結びつきが生まれる。すなわちエレーナは帰国後コムパニエツと結婚し直すことを決心し、ステーシャは全てを捨ててミハイロフとその地に残ることに決める。そしてダーシャはそのまま異国で死んでゆく。
3.コメント
本作の文章は、まるで口頭での説明文のように、単純な文構造の中に頻繁な言い替えや補足を含みながら、深みのある内容や息の長い描写を避けて、淡々とどこまでも続いてゆくような印象を与える。それはごく薄められた説話体、もしくは単に軽薄体と呼びうるようなスタイルである。
例えば:
もちろんレーナが、二人の子供を一手に抱えて、確かな生活の支えもなくてやってゆくのは、楽ではなかった。確かに例のジョーラの女たちは、つまりかつての愛人たちは、もちろん皆が皆ではないが、その何人かは、本当に彼女を見捨てず、忘れもせず、彼女のいわゆる後見役を引き受けてくれた。第一が食堂部の部長ステーシャだった。安値で肉をまわしてくれる、あるいはバターを、あるいはサラミを、といった具合。ある時など砂糖を二袋も配達料持ち出しで届けてきて、こう言った。
「売りなさい。今時砂糖なんてどこをどう探したってないんだから。1キロが120ルーブリ。それより安くしちゃダメよ。私には70ルーブリあて戻してくれりゃいいの。それが公売価格だからね」
この軽い文体は、人物の内面描写にも繋がっていて、それをいかにも軽薄なものとする。
帰りの道中ずっと、そして家に着いてからも、ステーシャはチェカーソフに腹を立て、そして自分にも腹を立てていた。むしろ相手よりも自分に一層腹を立てていた。というのも彼女には明らかに分かったからだ。もう自分がチェカーソフ無しでは暮らせないし、もし暮らせたとしても、昔よりももっと退屈でひどい暮らしになるだろうということが。つまり惨めな生活になるだろう。そう、だいたいがそんなものは生活とも呼べない、生活の真似事にすぎないんだ。それでステーシャは一晩中、そしてその晩の明けた朝になっても、意味もなく憤慨し続け、それから何とかして自分を元気づけ、奮い立たせるために、町へ這い出し、通りを散歩して、何でもいいから映画でも見ることに決めた。そうしてマルクス・エンゲルス通りに出たとたん、工場の昔の職長と鉢合わせした。ジョーラの事故があった後で、一切合切責任を負わされて、首になった人物だ。彼女は言った。
「うちに来ない?」
こうした文章は、因果の論理をある浅いレベルにとどめると同時に、悲哀、感動、エロティシズム、残酷さといったものに、等しくユーモラスな空しさの色合いを与える。
このスタイルは恐らく作品のテーマと関係している。発端に置かれた主人公の死が、物語の中心に空虚をつくり出している。この場合、死んだ主人公が本当はどんな人物であったのかということは、問題ではない。彼の不在が人々の心の空虚さを暴き出し、空虚さが人々を結びつけている。したがって欠落しているのは主人公だけではなく、男女関係には感情の起伏が、人生には目的が、行動には動機が欠けている。そして事件は全て偶然のように、外部から発生するのである。
ここで唯一出来事の因果に関係しているように見えるのは、この世界への絶望に浸りきって人生をすっかり降りてしまったミハイロフである。この人物が異国の空港に住み着くようになった次第は、一言も書かれていない。恐らく彼の絶望の強さと、別世界オーストラリアへのあこがれの力が、奇跡のように彼をそこへと導いたのだとしか説明できない。そして神話のような宝籤の当選や、奇妙な飛行機の不時着を演出し、ジョーラの仲間たちを異空間に集合させたのも、多分その同じ力なのである。
ここには一種のアレゴリー──空虚を越える力は絶望の強さの中にしかないといったアレゴリー──を読みとりたくなる。この地味な人物の願望を作品のタイトルとした作者の意図も、このような文脈で推測されるのである。