●キビーロフ, チムール Kibirov, Timur
「レーニンがこどもだったころ」 Kogda byl Lenin malen'kim.
解説 鈴木正美
1.作家について
1)経歴
キビーロフTimur Iur'evich Kibirovは1955年生まれ。13歳の時にブロークの詩集を手にしたのが詩を意識した始まりだった。1975ー77年兵役につく。ロシア語学・文学の教師を志してモスクワ教育大学を卒業し、芸術研究所の研究員となる。25歳の時から詩を書き始めた。1980年代半ばにドミトリイ・プリゴフ、レフ・ルビンシュテインといったコンセプチュアリズムを代表する詩人たちと出会ったのがきっかけで、詩人として本格的に出発する。作品が初めて活字になったのは1988年のことだが、91年には文集『リーチノエ・ジェーラ・_』にプリゴフ、ルビンシュテイン、ガンドレフスキー、アイゼンベルグ、ヴィクトル・コヴァーリ、デニス・ノヴィコフらと共に作品を発表し、注目される。文集『鏡』第2号にも作品が掲載される予定だったが、資金難のため発行されなかった。その後文芸誌にも登場するようになり、94年には8冊の詩集をまとめた『サンチメントゥイ(感傷)』が1万部発行されるほど人気を集めている。現代詩を代表する詩人たちの詩集を世に出しているプーシキン・フォンドの「アフトグラフ」シリーズの一冊として1997年に『パラフレーズ』も出版された。
2)主な作品集・詩集
『カレンダー』(1991)
『サンチメントゥイ(感傷)』(1994)
この作品集には次の8冊の詩集が収められている。
「抒情教育的叙事詩」(1986)
「下宿人のクリスマス・ソング」(1986)
「別れの涙を通して」(1987)
「三編の書簡詩」(1987ー1988)
「愛についての詩」(1988)
「感傷」(1989)
「リョーンカへの手紙ともうひとつの作品集」(1990)
「便所」(1991)
『レーニンがこどもだったころ』(1995)
『パラフレーズ』(1997)
・詩集
Kalendar': Sbornik stikhov. Vladikavkaz, Ir, 1991.
Stikhi o liubvi: Sbornik stikhov. Moscow, Tsikady, 1993.
Santimenty: Vosem' knig. Belgorod, Risk, 1994.
Kogda byl Lenin malen'kim. Stikhi 1984-1985. SPb., Izdatel'stvo Ivana Limbakha, 1995.
Parafrazis: Kniga stikhov. SPb., Pushkinskii fond, 1997.
・参考文献
Zorin A. Al'manakh. Vzgliad iz zala. Lichnoe delo. Literaturno-khudozhestvennyi al'manakh, L. Rubinshtein(ed.) Moscow, V/O Soiuzteatr, 1991. pp. 246-271.
Zorin A. Vorovannyi vozdukh: Fenomen Timura Kibirova. Moskovskie novosti, No. 3, 19-I. 1992. p. 22.
Levin A. O vliianii solnechnoi aktivnosti na sovremennuiu russkuiu poeziiu. Znamia, No. 10, 1995. pp. 218-220.
Epstein M. A Catalog of the New Poetries. Re-Entering the Sign: Articulating New Russian Culture. Ellen E. Berry and Anesa Miller-Pogacar(eds.) Ann Arbor, The University of Michigan Press, 1995. pp.208-211.
Pravila igry. Besedu vela Inga Kuznetsova. Voprosy literatury, Iiul'-Avgusut 1996. pp. 214-225.
Timur Kibirov bez figobykh listochkov i vne tusovok. Beseda poeta s Oksanoi Nataloka. Literaturnaia gazeta, (No. 48). 27-XI, 1996. p. 5.
2.作品について
ミハイル・エプシュテインの「新しい詩人たちのカタログ」によると、コンセプチュアリズムは社会主義社会におけるソビエト・イデオロギーや大衆意識に関わる言語・身ぶりのシステムである。公式のスローガンやクリシェを用い、記号とそれが意味する内容の間の溝をあばく、からっぽのイデオロギズムの詩である。詩におけるソッツ・アートともいうべきこの傾向の詩人の代表がルビンシュテインとプリゴフだ。いっぽうポストコンセプチュアリズムあるいは「新しい真実(ニュー・シンシアリティ)」とエプシュテインの名づけた傾向を代表するのがチムール・キビーロフである。その特徴は「堕落した死んだ言葉の単位を使うことに愛情を注ぐ実験、すなわちこうした言葉が疎外された場に足を踏みだそうという純粋な生気で言葉を満たそうとする試みである。コンセプチュアリズムにおいて不条理が支配的なのに対して、ポストコンセプチュアリズムの詩はノスタルジーを強調する」。
こうした過去の文化への愛情とはなにもキビーロフが最初に詩に表現しようとしたわけではなく、きわめて古典的な詩人の態度と言っていいだろう。例えばマンデリシュタームはこうした態度を「アクメイズムとは世界文化への郷愁である」として、古典的詩の革命性を主張した。そうして過去のあらゆる文化の総体の上に現在の文学作品がつくられるという考えを現在のロシアで文学的に実践した時に、キビーロフのような作品が生まれるのだろう。すでにこの世にあふれている言語との意識的な戯れという点にコンセプチュアリズムの特徴があるとすれば、ポストコンセプチュアリズムはそうした言葉への愛という点に特徴がある。キビーロフ自身あるインタビューで「ポストモダンとあなたとの関係は」と問われて次のように答えている。「ポストモダニズムを現代文化の状態としてなら理解できる。この場合だれもがポストモダニストだ。ポストモダニズムを読みの方法、テクストの解釈に関するものとして語ることはできる。『エヴゲーニイ・オネーギン』におけるプーシキンがもっとも現代的なポストモダニストであることは明らかだ。無限に引用と戯れることやまじめに語ることを拒むある流派、傾向についての理解が最も欠けているのである。」(「文学の諸問題」1996年第4号)またキビーロフは自身をきわめて古典的な詩人と呼んでいる。
☆『レーニンがこどもだったころ』
もしもレーニンがこの世に生まれなかったら、この世界は一体どうなっていただろう、という空想を広げた作品。作者はレーニン関係のアルバム、古書を収集するのが趣味で、この作品も友人が贈ってくれたスターリン時代に発行された美麗な印刷のアンナ・ウリヤーノワ著『イリイチの幼年、学校時代』(1947)にインスピレーションを得てつくられた。作品の序文にもあるように、この詩は全体主義を賛美したり、あるいは批判したりするために書かれたのではなく、純粋に詩的衝動から書かれたものである。
実際レーニンという一人の人物がこの世に生まれたことは奇跡と言っていいほどの出来事だろう。そんな不思議な思いにとらわれた詩人がソ連詩のスタイルで荘重でさえある叙事詩を書く。「私はしばしば思う、これは本当に/なんて不思議なことか。だが本当にあったこと!/それ以外に彼が生まれることはなかったのだ!/……/『何をなすべきか』や/『マルクシズムの三つの起源』を書いたこと。「オーロラ」や/ロシア電化国家委員会構想、月面車/原子力船、すべてのことが/精子(たったひとつだけだ!)がマリヤ・アレクサンドロヴナの/生殖器にたどりつかなければ/起こり得なかったのだ…なんという不思議だろう…」。そしてレーニンが生まれるきっかけとなる一夜がうたわれる。「マリヤ・アレクサンドロヴナが座っている…/窓を背に浮かび上がる女の/すらりとした悲しげなシルエットに思わず見ほれ/イリヤはドアのところで躊躇した。数分が/すぎた。ピアノのメロディーは/憂愁と言葉に尽くせぬほどの愛/幸福の約束とむせび泣きへと展開した…。/そしてとうとう彼は…」。かくして両親の愛の営みが始まるのだが…。
チムール・キビーロフの詩『レーニンがこどもだったころ』は1984ー85年に書かれたが、ソ連時代には公表されず、1995年にようやく一冊の小さな本となった。装丁は「ミチキ」のアレクサンドル・フロレンスキイが手がけている。本文中に使われている図版もフロレンスキイによるレイアウトで、レーニンの幼少年時代の本の挿し絵や広告をちりばめてある。5章からなるこの詩はレーニンの肉親であるアンナ・ウリヤーノワの回想『イリイチの幼年・学校時代』を章ごとに引用しつつ、ソ連人なら誰でも知っていたはずの、教科書で学んだであろうレーニンの子ども時代をうたっている。それは読みようによっては非常に諧謔的で皮肉たっぷりのテクストとも受けとれるが、詩人キビーロフはいたってまじめに、むしろレーニンへの愛情を込めてこの詩をつくったのである。その表現がまじめであればあるほど、かえってますます皮肉な調子になっていくこと自体が皮肉なことだが、実際にロシア人読者なら感動して読むのかもしれない。作品にはソ連時代の故事やバーチュシコフからゴーリキーやソ連時代の文学に至るまでさまざまな文学からの引用にあふれている。
レーニンがこどもだったころ
チムール・キビーロフ
1
ウラジーミル・イリイチの父、イリヤ・ニコラエヴィチは当時シンビルスク県の国民学校の視学官だった。彼はありふれた階級の出身で、早くに父を亡くし、兄の援助だけで困難ながらも教育を受けることができた…。
ウラジーミル・イリイチの母、マリヤ・アレクサンドロヴナは医者の娘だった。青春時代の大部分を彼女は村ですごしたが、そこでは農民たちが彼女をとてもかわいがった。彼女はすばらしい音楽家で、音楽と数々の言語──フランス語、ドイツ語、英語など──をよく知っていた。
アンナ・イリイニチナ・ウリヤーノワ『イリイチの幼年・学校時代』
私はしばしば思う──これは本当に
なんて不思議なことか。だがそれは本当にあったこと!
それ以外に彼が生まれることはなかったのだ!
すなわち、たとえこの意義に甘んじることが
決してできないにしても。しかし、彼がこの世に
現れたこと、『何をなすべきか』や
『マルクシズムの三つの起源』を書いたこと。「オーロラ」や
ロシア電化国家委員会構想、月面車
原子力船、すべてのことが
精子(たったひとつだけだ!)がマリヤ・アレクサンドロヴナの
生殖器にたどりつかなければ
起こり得なかったのだ…なんという不思議だろう…
私はシンビルスクの彼らの小さな家を想像する
1869年。青いたそがれ。
書斎の視学官。卓上ランプの
心地よい光はソクラテスの額を
照らしている。ペンは紙の上をすべる…。
だがその時、別の部屋から静かに
メロディーが不意にひびき始めた──
なんと限りないやさしさ、なんという
天上の、永遠の、しとやかな憂いで…。
甘い誘惑は活動的な頭脳を
停止させ、手は動かなくなり、
最後まで書けなくなる…。彼はランプを消し、
立ち上がり、抜き足差し足で──客間へ、
灯かりはついていない。ピアノの前には
マリヤ・アレクサンドロヴナが座っている…
窓を背に浮かび上がる女の
すらりとした悲しげなシルエットに思わず見ほれ
イリヤはドアのところで躊躇した。数分が
すぎた。そしてメロディーは
憂愁と言葉に尽くせぬほどの愛
幸福の約束とむせび泣きへと展開した…。
そしてとうとう、彼は咳ばらいした。「おお、愛しい人!──
ああ、きみはなんてぼくを驚かすことか!」──「マリヤ!」
しわがれた低い声でやさしく視学官は
始めた。「もう遅いよ、寝る時間だ、マリヤ!」
そして彼の声にはなにか
マリヤ・アレクサンドロヴナが赤くなるようなものがあった。
「ああ、愛しい人、きみは…」──「マーシェンカ、さあ行こう!
行こう、もう遅いよ、さあ行こう、マシューシャ!…」
私は思う、彼女は不感症だったか
あるいはほとんど不感症だったと。そして視学官の
炎をしかたなく共にしていたのだ。
ゆっくりと、それからそっと
学校の視学官の頑丈な胴を
やさしい手とやさしい足で包んで、
イリヤの、イリューシチカの、イリューシチカの、…イリューシャの!
2
彼は1歳半年下の妹オーリャと同じ頃に歩き始めた。彼女は周囲の人々がそれと気づかぬうちに、とても早くから歩き始めた。ヴァロージャは反対に、歩くことを遅れて学び始めた。もし彼の妹が音もなく倒れて──乳母は「ぱたんと倒れた」と言っていた──小さな手を床につっぱって自分から起き上がると、彼は必ず頭からどしんと倒れて、家中にひびくものすごい大声で泣いた。たぶん彼の頭は重かったのだ。みんな彼のもとにかけよった。そして母は彼があまりにも何度も頭をぶつけるので、ばかになりはすまいかと心配した。下の階に住む知人たちは、ヴァロージャがどんなふうに頭から床にどしんと倒れるか、いつも聞いているのだと話していた。「私たちはいつも言ってるんですよ。あの子は大きくなったら、とても賢くなるか、ひどくばかになるかどっちかだってね。」
アンナ・イリイニチナ・ウリヤーノワ『イリイチの幼年・学校時代』
*1947年版からの引用。残念なことに、1962年版ではすでにこの一説は欠落している。
わが読者よ! ここで何を語るべきか
私は本当にわからないのだ…もちろん、できることなら…
しかし、あえてしない方がいいだろう。ユークリッドの知性は
原因と結果のゆるぎない関係の
糸玉をいたずらにほぐそうとするだろう。
占うことはあるまい。大いなる神秘を前にしては、
天上の力の不思議な戯れを前にしては、
すなおに沈黙するしかあるまい。
3
彼は壊すこと以外に、おもちゃで遊ぶことはあまりなかった。私たち大人が彼をおもちゃでおとなしくさせておこうとするので、彼は時々私たちから隠れてしまうのだった。こんなことがあった。彼の何歳の誕生日だったか、彼は乳母から橇のついた張り子のトロイカをプレゼントされると、新しいおもちゃを持って用心深くどこかへ隠れてしまった。私たちは彼を捜し始め、ある扉のかげに見つけ出した。彼は静かに立ったまま、全部はがれ落ちてしまうまで馬の脚を一心不乱にひねり回していた。
アンナ・イリイニチナ・ウリヤーノワ『イリイチの幼年・学校時代』
ああ、ゴドゥノフ・チェルディンツェフ、まあ見たまえ!
市場の商人のしつこさで、ロシア史の
ミューズが、自分の好き嫌いのない妹
とても安物好きのカリオペに
粗悪品を売ろうとしている!
ああ、トロイカ、鳥のように走るトロイカ! そんなおまえを
誰が考え出したのか。おまえはどこへ走っていく、トロイカよ。
鈴は高らかに鳴りひびく、
泥棒の風は哀歌を大声でうたい、
ぶつかってくる。そして異国の言葉に
恐怖のあまり立ちすくむ。鞭は戯れるようにうなる。
すると計算尺を持った辛みソーセージの
ドイツ人が車輌の窓をのぞきこみ
不信げに… やあ、きみ、鳥のようなトロイカ!
いやはやまったく、きみはどこへ行くんだい?
答えはなかった。そしてもうこれからもないだろう。
額のきれいな縮れ毛の少年は
最後の足をねじ切る。
いいや! ぼくたちは別の道を行くんだ! なんて不思議…
火輪船で行った方がよかったんじゃないか?
あるいは汽船で──清い野原へ、より速く速く、
民衆が歓呼し、みんな愉快になるように。
4
幼いヴァロージャは小鳥を捕まえるのが好きで、友だちと罠をしかけ鳥を捕った。彼の籠にはムネアカヒワかなにかがいたことを憶えている。彼がそれを捕まえたのかどうかは知らない。買ったのか、それとも誰かが彼にくれたのかもしれない。ただ憶えているのは、ムネアカヒワはしばらく生きていたものの、様子がおかしくなりはじめ、羽毛を逆立てて、死んでしまったことだ。なぜそうなったのか、ヴァロージャが鳥にエサをやり忘れたせいなのかどうか、もう分からない。ただ憶えているのは、誰かがこのことで彼を非難したことだ。そして彼は神妙な面持ちで、死んだムネアカヒワを一瞥してそれからきっぱりとこう言ったことをとてもよく憶えている。「もう二度と籠の中に鳥をとじこめたりしないよ」。そして実際彼は、それからは決して鳥をとじこめたりしなかった。
アンナ・イリイニチナ・ウリヤーノワ『イリイチの幼年・学校時代』
影の大群のもとへ飛んでいけ、小さなムネアカヒワよ、
盲目のツバメが帰るところへ、
そこはヴィーナスのハトたちがまとわりつくところ
レスボスのスズメがいるところ、傷だらけのタカが
小さい兄弟のウミツバメの
飛行を歓迎するところ、恐ろしい
殺し屋アホウドリがイギリスの水夫に
厳しく復讐するところ、お返しに
フランスの水夫たちが別の
アホウドリに報復するところ
別荘の住人が散弾でカモメを殺すところ、ウソが
戦争の歌をうたうところ、ナベケリが
道端の少年自然科学者にうたいかけるところ、
小枝にムクドリがとまるところ、カラスが
カラスのもとへ飛び、夜半に
狂気のエドガーのもとへ飛ぶところ、空と
ロシアの大地の間で歌が流れるところ、
ヒナたちが暮らしたいと思うところ、きみが
ヨーロッパコマドリの声を聞くことのできるところ、
正しい習慣を保ちながら、歌い手が
名もない鳥に自由を与えたところ、
メンドリがあばた顔をしているところ、バーチュシコフの帆の上で
ハルシオンがまとわりつくところ、夜の闇に
ぴいぴい鳴き、ピロメラがぶつぶつ言うところ、
太陽より高くワシの子が飛ぶところ、
そして盲目のツバメ、盲目の…
あそこへ飛べ、小さなムネアカヒワよ、
おまえは不死を手に入れたのだ。飛んでいけ!
5
スヴィヤガ川(シンビルスクの川)に彼は走っていき、魚を捕る。そして彼の友だちの一人が次のようなエピソードを語る。「あそこでよくフナがとれるよ」と言って、満々と水のあふれる近くの大きな堀で魚を捕ろうと誰かが提案した。彼らは行ってはみたものの、水には近づけなかったが、ヴァロージャは堀に落ちてしまい、泥の川底が彼をのみこみ始めた。この友だちは語る──「もしもぼくらの叫び声に川岸の工場の労働者が駆けつけて、ヴァロージャを引き上げてくれなかったら、どうなっていたか分からない。」
アンナ・イリイニチナ・ウリヤーノワ『イリイチの幼年・学校時代』
労働者の腕が祖国を救った。
社会民主党員が何と言おうと、こうした個人の役割なくしては
すべての歴史が別のものになっていたであろう。
すでに母なるロシアはブルジョアジーの道へ
レールをふみはずし始めており、
そのままつき進んでいたかもしれない!
傾斜面を、いわば
もっとも抵抗の少ない
この誤った道を。おそらくは
安易な道を見つけて
堕落しただろう。ああ、なんという堕落!
依然としてパイナップルを食べたり、
ライチョウを食ったりして、いつか
白海運河を掘るようなこともなかったろう。
売春も行われなかっただろう。
流血の皇帝ニコライは夫婦と子どもたちみんなで
罰せられることもなく生きていただろう。
そして知性も、名誉も。良心もシュシェンスコエに
おかれたままだったろう! 我らがセラフィモーヴィチは
恥知らずで堕落したモダニストたちの
嘲笑にさらされていただろう。そして誓って言うが、
エフトシェンコはオデッサの酒場に
出演しなければならなかっただろう… 考えるだにおそろしい!
もう少しおそろしいことを考えてみよう、
でも面白い──泥の中から彼を引き上げたのが
労働者ではなく、仮に百姓だったとしたら?
百姓マレイとかプラトンだったら?
もしも我らのイリイチが
百姓たちの謙遜と奉神を好きになったとしたら?
簡素な暮らしをして、十字を切り、祈りの言葉を唱えながら、
乞食の姿でロシア中を遍歴しただろうか?
ああ、なんて不思議なんだ。
それとも、そこにビーバーの帽子を被った
がっしりした商人が通りかかっていたとしたら? あるいは
格好のいい近衛騎兵少尉だったら? あるいは
学生服を着たどこかの司祭のせがれだったら?
とどのつまり、それが悪党どもや
犬畜生といった連中だったら? その時
ヴァロージェニカは立憲君主党員になっていただろうか。
そして花咲く春も勝利の叫びも
彼にはなかったろう… ああ、なんという不思議、
考えてみたら、なにもかも、なんという不思議。