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詩人ワジム・コゾヴォイをめぐって


斉藤毅


 ワジム・コゾヴォイという詩人がロシア本国でどれほど知られた存在であったのかは、さだかではない。私個人について言えば、初めてこの詩人について知ったのは、1994 年にモスクワで出版された彼の著作『カタストロフにある詩人Поэт в катастрофе 』1 (このタイトルは即座にモーリス・ブランショの著作のタイトル、『災厄のエクリチュール』を想起させた)を通じてであった。その後、ロシア語定期刊行物などで時折、彼の名を(主にフランス詩の研究者として)目にすることがあり、コゾヴォイという人が、フランス近・現代詩の研究者であり、彼自身も詩を書いていること、アンリ・ミショーをはじめとするフランスの詩人と交流があり、彼自身の詩集も主としてフランスで刊行されているため、フランスに在住しているらしいことなどを、少しずつ知り始めた。また、日本のある雑誌において、モーリス・ブランショの最近の仕事として「ヴァディム・コゾヴォイの詩集に寄せた『あとがき』」2 ――これが後に訳を掲げるテクスト、『上昇する言葉』である――に言及されているのに目を止め、この事実はとくに注目すべきものであるように思えた。
 やがて私はワジム・コゾヴォイの経歴について詳細を知ることになるのだが、それは、1999 年3月に彼が亡くなったとき、ロシア語定期刊行物に載ったいくつかの追悼記事においてであった3。こうした状況自体、詩人における生/死と、そのテクスト、「名声」4、伝記との関係について、多くのことを考えさせるものである。しかし、今はそれについては措いておきたい。とりあえずは、以下にコゾヴォイの経歴を紹介することにしよう。

 コゾヴォイの死に際して、『新文学展望』誌は追悼特集を組んでいる5。ロシア、フランスで生前の詩人と関わりのあった人々の回想、書誌、先述のブランショによる『上昇する言葉』のロシア語訳、そしてコゾヴォイ自身のテクスト『微笑み』(初出)からなるこの特集は、今のところ、コゾヴォイに関する最も詳しい文献と言えるだろう。以下の記述も、基本的にこれにもとづくものである。
ワジム・コゾヴォイВадим Маркович Козовой は、1937 年、ハリコフに生まれた。モスクワ大学歴2史・文学部に入学するが、大学の学生・教官からなる地下組織「クラスノペフツェフ・グループ」に参加、政治的ビラを撒いた廉で、1957 年に逮捕された6。その後、8 年の刑期を言い渡され、モルドヴァ各地の収容所を転々とすることになるが、1961 年にひとつの出来事があった。将来の妻イリーナ・エミリヤノワとの出会いである。
 彼女は、晩年のパステルナークの恋人、小説『ドクトル・ジヴァゴ』のラーラのモデルとされるオリガ・イヴィンスカヤと最初の夫との間に生まれた娘であるが、1960 年、母親の2 度目の逮捕の際に、娘も共に逮捕されてしまったというのは、よく知られた事実である。こうして、1961 年春、イリーナはモルドヴァの収容所に来ていた7。収容所では男女は隔離されていたが、双方の間では、監視をくぐりぬけ、さまざまな手段を使って盛んに通信(後に掲げるブランショの文章のキーワードをもちいるなら、「パサージュ横断」)がなされており、あるとき彼女のもとに一通の言づけが送られてくる:「貴方がフランスの書籍をお持ちと伺いました。よろしければ本を交換できます。V. K.」。彼女は手元にあった現代フランス詩アンソロジーを手紙の主に届ける手はずをとった。相手は彼女の「惜しみなさ」に感激し、これをきっかけに二人の間に手紙のやりとりが始まった。やがて男の方は自作の詩を送ってくるようになる――
 コゾヴォイの少年時代の文学的関心がどのようなものであったのか、また彼の詩作がいつ頃から始まったのかは詳らかではないが、彼が逮捕されたのは19 歳のときであるから、少なくともフランス詩、およびフランス語についての知識に関しては、その大部分が収容所において培われたものと推測される。そして、彼は収容所を出てから数年後には、フランス文学翻訳のプロフェッショナルとして仕事を行なう能力を身につけていたのだった。
 コゾヴォイの収容所体験が、後の彼の創造にどのような影響を及ぼしたのかという問題については、誰もが気になるところであろうが、今はそれについて何かを述べるだけの準備がない8 (少なくとも旧ソ連の政治的状況は、彼の創造と切り離すことができなかったようであるが)。ここでは、モーリス・ブランショに捧げられた詩篇「旋律Мелодия 」(第2 詩集『丘を離れて』[1982]所収)の冒頭部分を掲げておくにとどめたい:

彼らは私を沼沢の鉄条網に吊るして
私の胸に雪の釘を打ち込み
横目使いでトラタタと呟いていた
死ぬほど好きでたまらない質疑もなく
私は秘めたものを容赦なく胸から掴みだしたのに
彼らはそれをつややかな外套にくるみ
まわりで錫のヴァイオリンの上、足を踏み鳴らし、そのたび
楽器は雪堆の氷湖のように猫なで声をあげていた9


 コゾヴォイは1963 年、実際の刑期より2 年早く釈放され、モスクワに戻るが、そこですでに1 年前に釈放されていたイリーナと再会し、まもなく結婚したものと思われる(65 年に最初の息子が生まれている)。この結婚により、すでに60 年に死去していた詩人パステルナークが、コゾヴォイにとっては、いわば身内ならざる身内のような存在になったわけであるが、このことはその後の彼の詩人としての生に何らかの影を落としたかもしれない。彼は66 年までモスクワの東洋文化博物館Музей восточных культур に勤務し、その後、作家同盟付属の翻訳家同盟に所属、フランス詩翻訳の仕事を本格的に始める。
 彼の訳業については『新文学展望』の書誌に網羅されているが、その範囲は、すでに70 年代ま
でには、P.クローデル、S.J.ペルス、J.シュペルヴィエール、P.J.ジューヴ、A.アルトー、M.ド
ゥギーなど20 世紀フランスを代表する詩人たちをカヴァーしており、とりわけH.ミショーとR.シャー
ルの翻訳には力が注がれている。また、P. ヴァレリーについては、70 年代初めに『レオナルド・ダ・
ヴィンチ方法序説』、『テスト氏の手紙』を翻訳、これらは、他の翻訳とともに、1976 年に彼自身が監
修した、「芸術」出版社の『芸術論』シリーズ、ヴァレリーの巻に収められた。
 フランス近代詩の翻訳としては、1981 年、「ナウカ」出版社の「文学記念碑」シリーズより、コゾヴ
ォイによるロートレアモン『マルドロールの歌』、ランボー『イリュミナシオン』、マラルメの散文詩など
の訳が補遺として収められている、ベルトラン『夜のガスパール』の巻が出版された10。この翻訳の
刊行は文学界の事件となり、(部数が少なかったために)手で書き写す者も現れたほどだったと言
われる。とくにランボーとマラルメの翻訳は、その後も継続され、コゾヴォイのライフ・ワークとなって
いった。



 ところで、先に触れた『芸術論』シリーズのヴァレリーの巻は11、刊行された当時、その非の打ち所のない訳文もさることながら、訳者による註釈も大きな話題を呼んだという。その註釈の充実ぶりは、ほとんど註釈の域を越えていたのである。このようなコゾヴォイの試みが、単なる文献学者の仕事にとどまらないことを示唆しつつ、M.ジャジョヤンはこう述べている:「余白への書きこみ――余白のぎりぎりいっぱいまで書きこまれ、テクスト自体に突き当たらんとしているようなそれ――現代の哲学、および文学理論とはそのようなものである」12。だが、コゾヴォイにとって、それは、むしろ創作行為に関わるものだったのかもしれない。ブランショが『上昇する言葉』で述べている、「無遠慮な[大文字の]《注釈者》にして、疲れを知らないあらゆる《越境案内人》」としての「翻訳者」とは、コゾヴォイ本人のことではないだろうか。
 こうしたコゾヴォイの「文献学」的仕事について、ここでは、冒頭に触れた彼の著作『カタストロフにある詩人』に即して、やや別の角度から見てみたい。この著作は、批評的文章を集めたものと、一応は言うことができるが、そのうちの表題作「カタストロフにある詩人」、そして「補遺」に収められた「マリーナ・ツヴェターエワ:詩人の二つの運命」は、ピョートル・スフチンスキイとパステルナークが50 年代終わり(ちなみにコゾヴォイが収容所にいた時期である)に交した往復書簡、およびツヴェターエワのスフチンスキイ宛て書簡の校訂・注解という作業にコゾヴォイが90 年代初めに携わった際13、そこに付された解説として書かれたものである。この著作にスフチンスキイとパステルナークの書簡のテクストが、そのまま「補遺」に収められているのは、そのためである。
 後に述べるように、コゾヴォイはフランスに亡命して以来、当時すでに老齢であったスフチンスキイと交流を持っていた。スフチンスキイが亡くなったのは1985 年のことであるから、その後、故人と親しくしていたコゾヴォイがその書簡を整理したということになるのだろう14。また、コゾヴォイはパステルナークの方とも、妻イリーナを通じて(そもそも彼女との出会い自体、パステルナークの創造の波及効果として引き起こされたのだと言ってよいかもしれない)、ある個人的な関係を持つこととなった。したがって、コゾヴォイにとって、この二人の往復書簡を校訂することは、客観的な文献学的作業というだけでなく、彼自身の生にとっても少なからぬ意味を持ったことと思われる。自分がいわば死を隔てて関係を結んだパステルナークと、スフチンスキイの間で、国境を隔てて交わされた手紙のテクストの上に、すでに亡命者の身であったコゾヴォイは、おのれの生の見えざる延長を透視しようとしたかもしれない。
 こうして書かれた「カタストロフにある詩人」では、後期のパステルナーク、とりわけ小説『ドクトル・ジヴァゴ』におけるパステルナークの創作上の変節、具体的には、アウシュヴィッツ・コルィマ以後の「ベズヴレーメニエ沈滞=無時間」――というのも、ここでの「カタストロフ」とは日常的な意味での「時間」の崩壊、「断絶」のことだから――にあってなされた、歴史的ゲローイ主人公を中心とした「語り」への回帰について、詩人とスフチンスキイの間で交された書簡に沿いながら考察される。一方、「詩人の二つの運命」でも、ツヴェターエワのスフチンスキイ宛て書簡を出発点としつつ、詩人の「私」、ないしは「運命」の二重化(「《私》とは、私の中にある私でないものの全体なのです」)について、主に亡命時代の彼女の生に焦点を当てて論じられている。
 このように、これらの文章は、詩人たちの作品そのものというよりは、彼らの生、ないしは「運命」と「(作品を)書くこと」との関わりが考察の対象となっているのだが、それは、これらがそもそも書簡の解説として書かれたからであるといえよう15。しかし、『カタストロフにある詩人』という著作全体から見た場合、様相はやや変わってくる。というのも、この著作には、もうひとつ「スフィンクス」という対話篇が収められており、このテクストと表題作とが、著作の本編をなしているからである(すでに触れたように「詩人の二つの運命」は「補遺」に入っている)。この長大な対話篇(著者の言葉によれば「内的対話」、すなわち自己内対話)の話題の中心にあるのは、1934 年にマンデリシタームが逮捕された際、スターリン自身が直接パステルナークにかけたという、例の電話のやりとりであるが(ここから、スターリンは果たして「スフィンクス」――「思考」を促がす「恐怖」のシンボル――なのか?という問いが生じる)、対話は個人的体験(たとえばコゾヴォイ本人の見た夢の記録など)も交えつつ無数に分岐しながら展開してゆく。その内容を要約することは、ほとんど不可能であるが、ソヴィエト時代の現実を特異な形で証言する、きわめて注目すべきテクストである。
 これら本編をなす2 つのテクストについて、コゾヴォイは『カタストロフにある詩人』の「序に代えて」の中で次のように述べている:「これら2 つのテクストは[…]、我々のうちに時間の断絶を引き起こす、不安と待機の感覚から源を得ているという点で、どちらも変わりがないはずである[…]、どちらも、それぞれのやり方で、この感覚を、意識のファクトあり方の一例として解釈するというよりは、運命の一現象として理解することを試みているのである[…]」(強調は原文)16。すなわち、表題作においてはパステルナークの、「スフィンクス」においては著者自身をも含めた、歴史的・個人的「運命」における「カタストロフ」のありよう様(そして、このあり様と「書くこと」との関わり)が問題にされているのである。
それでは、この2 つの文章は、「運命」と「カタストロフ」についての論考かといえば、そういうわけでもない。まずこれらのテクストそのものが、「不安と待機の感覚」を源として、つまりそれに導かれて書かれたものなのである。
 この点に関して、コゾヴォイは同じ「序に代えて」において、この著作に収められた3 つの文章がすべて未完のものであることを告白している。そのいずれもが、続きが書かれるべきものでありながら、出版上の経緯により、やむを得ず「4 分の3」、「半分」だけを刊行せざるをえなかったものなのだった。しかし、これらの文章は、もう少し時間があれば完結したであろうに、といったものでもない。このような未完性はテクストの成立そのものに内在的なものであり、未完のテクストは「想像不可能な全体の、不可避的な《4 分の3》、《半分》、《3 分の1》等々」、「予見不可能な終わりの、部分的な始まり」であり、「いかに《尻尾》や《頭》をくっつけてみたところで、断片性から逃れることはできないのだ!」。それならば、「フラグメント断片のままでいいだろう、それらを何らかの(私のではない)意志にまかせ――私はこの意志をイントネーション的と呼び、カタストロフィックな断絶と結びつける――断片となって散らばるままにしておこう……」(強調は原文)17。そして、この「時間の断絶」は、そのまま本書の主題である「カタストロフ」へと繋がってゆくのである。
 こうして、コゾヴォイの、言わば「文献学者」としての仕事も、文学についての記述というよりは、それ自体が、ある捩れた空間、ブランショならば「文学的空間」と呼んだかもしれない空間のうちで試みられていたのだった。このような仕事は、ソヴィエトの作家・詩人についてよく言われるような、単なる日々の糧のための手段ではなく、彼の詩的創作と並行してなされる作業だったのではないかと想像される。

 こうしたことは、翻訳という営為について、一層当てはまるであろう。とはいえ、それは技術的な作詩法の修練としてだけではない。これもブランショが『上昇する言葉』で集中的に述べていることであるが、翻訳пере-вод, tra-duction とは、それ自体、詩に本質的に関わる何かなのである。
 コゾヴォイの生涯を貫いていた「翻訳への意志」も、こうした観点から見るべきと思われる。イリーナ・エミリヤノワの回想によれば18、コゾヴォイが亡くなった後、彼の部屋に入った彼女と友人たちは、翻訳しかけのランボー『イリュミナシオン』の原稿を机上のタイプライターに見いだしたという。先に触れたように、彼による『イリュミナシオン』の翻訳は1981 年にすでに刊行されていたが、それは抄訳であり、彼はなんとか全訳を成し遂げたいと考えていたのだった。タイプにセットされていたのは、とくに難航していた詩篇「Bottom」の訳稿であった。エミリヤノワは、この詩篇中の≪gris bleu≫ (「夜の暗闇に翼を曳く青鼠色の巨鳥…」19)という語に対し、≪сизый≫ という訳語を見つけ出すのに、彼がいかに苦労したかを物語っている。

 またエミリヤノワは、これに関連して、生前のコゾヴォイがつねづね、「自分はヤズィーク言語を女のように愛する」と語っていたことを伝えている。これはけっして民族主義者の言葉ではない。「女のように愛する」というのは、ひとりの他者として、それも異‐性として愛するということであり、そこには誘惑と同時に、あらゆる抵抗がともなう。実際、上のコゾヴォイの言葉は次のように続くのだった:「彼女のあらゆる『地獄の陰影』も含めて」。そして、このような抵抗が最も顕著に現れるのは、おそらくは翻訳という営みにおいてであろう。外国語のテクストを母語に翻訳するとき(あるいはその逆の場合も)、翻訳者にとっては、外国語ばかりでなく母語もまた、誘惑すると同時に抵抗する、ひとつの他者として現れてくるのである。
 この点で、1984 年にフランスで刊行されたコゾヴォイの詩集『丘を離れてHors de la colline.Прочь от холма 』20は興味深いものである。これは、それまで彼によって書かれた作品のフランス語訳の選集であるが、ロシア語原文と、コゾヴォイ本人およびM.ドゥギー、J.デュパンによるフランス語訳の対訳の形をとっており、そこにH.ミショーによる挿絵がはさまれている。詩集のこうした視覚上の構成は、偶然のものではないように思える。おそらくはミショーによる(抽象的)挿絵が触媒となって、キリル文字とラテン文字によるテクストが、同じひとつの《ピシモーあや》の空間に包含されることになるのである(ちなみに、最後の詩篇のロシア語原文は、コゾヴォイ自身のものと思われる直筆で載せられている)。
 モーリス・ブランショのテクスト『上昇する言葉』はこの詩集に寄せられたものであるが、ブラ言語」も、このような空間と無関係のものではないと考えられる。あるいは、エミリヤノワの次のような証言を引用することもできる:「そしてランボーは、その狂暴な気性と、伝統的なフランス語のシンタックスの破砕とによって、彼[コゾヴォイ]にとっては、長司祭アヴァクームやフレーブニコフと同縁の、ロシア詩人なのであった」21(ブランショの言う「統辞的空間の破壊」と比較していただきたい)。いずれにせよ、コゾヴォイにとって、翻訳とは、母語と外国語の境界が瓦解するような空間において営まれていたのであり、それは彼自身の詩作の場合も変わることがなかったものと思われる。もちろん、そうした空間を通過することは、人を安穏から引きずり出さずにはおかないのであるが。『丘を離れて』のフランス語訳をコゾヴォイと共に行なったM.ドゥギーは、次のように回想している:「彼は声を張り上げて自分の詩句を『フランス語で伝えん』ともがき、この言語に抗して激昂(かつて言われた「英雄的な激昂」)しだすことも、まれではなかった。あるリズムを別のリズムで伝えんともがいていたのである」22
 コゾヴォイ自身の作品については、『新文学展望』において、J.C.マルカデ(コゾヴォイの作品のフランス語訳も行っている)が簡潔に性格づけを行っている。23:「彼の創造は、断固として、『微に入り細に入り』、語を追究し、意味の磨耗によって惹き起こされた嗜眠状態から、語を引きずりだす。彼の創造は、語の秩序を音楽の総譜のように構築する。その結果、記号上、意味上の転位に充ちた、あたかも玉のような、塊のような、統辞上の複合体が現れるのである」。また彼には、語彙についてのまれにみる教養があり、彼の作品の中で出会う難語が新造語のように思われるときでも、それらはかならずやダーリ、あるいはアカデミー版の辞書に見いだされるのであった。
 マルカデは、コゾヴォイの作品に見られる、こうした「言語の飽和性、緊密性」を、ゴーゴリ、レスコーフ、レーミゾフ、フレーブニコフ、あるいはランボー、マラルメの系譜に連なるものとしているが、一方、B.ドゥービンは、コゾヴォイが生前、変わらず愛していた書き手として、アヴァクーム、レスコーフ、レーミゾフ、パステルナーク、ランボー、ミショーを挙げている24。ゴーゴリ、レスコーフ、レーミゾフは、文学史的には「スカース」の作家と言われる人々であるが、これら散文作家たちの言語が、コゾヴォイの作品において、どのように詩へと転移されているのかというのは、興味深い問題である。
 また、コゾヴォイの詩集では、アフォリズム的な断章、散文詩ないしは短編のようなテクストが、通常の詩篇の間にかなりの割合で混在しており、作者自身は両者の間に明確な区別を行なっていないように見える。マルカデは、こうした散文的テクスト、「さまざまな意味論上の層――文学的、文芸学的、理論的、歴史哲学的、哲学的、回想的……層の織りあわせ」についても言及しているが、彼は、ローザノフの影響の他に、ここでもゴーゴリ、「曲折、逸脱、言い直し、留保」を伴うゴーゴリの文章との繋がりを指摘している。さらにマルカデは、このようなコゾヴォイとゴーゴリの共通性の要因を、両者の文章語としてのロシア語にひそかに入り込んでいるウクライナ語的要素に求めることさえしている(すでに述べた通り、コゾヴォイはハリコフの出身である)。
 また、こうしたロシア的伝統の他に考えられるのは、先に引用したエミリヤノワの証言にも見られる通り、コゾヴォイがみずからの散文的テクストにおいて、とりわけランボーの散文詩の実験をロシア語で試みようとしたのではないか、ということである25。コゾヴォイとランボーとの親近性については、ブランショも『上昇する言葉』の中で述べている。彼は、「最も大きなアンパシアンス性急さが、最も大きなパシアンス忍耐を本質的に必要としている」という、ランボーの「トラヴァーユ労作」についてのヴァレリーの評言に触れた後、次のように述べている。やや長くなるが、全体を引用してみよう(ちなみに、これはブランショがコゾヴォイの作品を直接に性格づけしている、ほとんど唯一の部分である):「ワジム・コゾヴォイの詩の中にある、(私たちにとっては)どぎつく荒々しいもの――よりうまい言い方をするなら、デヴァストゥール荒廃させる=心を乱すもの――は、こうしたアンパシアンス性急さの要請、リズム上の破綻、立ち止まることなく先へ急ぐことの必要性、ときには諸イマージュ形象の累積を引き起こす。そして、これら諸形象は、ただ一つの語の中においてさえ衝突しあうことになるのだと言うことができる。しかし、ランボーのぶっきらぼうさ、衝撃的な暴力、けっして魅惑的ではないショックが、内なるリズムと練り上げられたヴィブラシオン振動を保持しており、それらリズムと振動が、抒情性と挑発を超えて、何らかの…(未知なるものの?)方向への推進力を示しているのと同様に、ワジム・コゾヴォイ[の作品]においても、次のようなものを見抜かねばならない。つまり、ある厳格さと自由、凄まじい激しさと、さらに凄まじい甘美さ、狂奔し抑えることができないにも拘らず、無理に抑え込まれている運動、そしておそらくは、あらゆる不寛容に対する不寛容な反乱、言い換えるなら、永遠の亡命者たる詩人、その唯一の務めは立ち去ることである詩人に出発することを禁じる、抑圧に対する反乱である」26
 この部分は、ぜひとも後に掲げる訳とあわせてお読みいただきたいと思うが、ともあれ、コゾヴォイの作品において問題となっているのが、ランガージュ言語における主導権がリズムとイントネーションへ移行することによって起こるシンタックスの破砕、語の構築・語彙の拡大による言葉の意味論上の屈折、さらにこれらに伴う詩から散文への、散文から詩への転移であるというのは確かであろう。そして、このような現象の中にあっては、ラング言語の同一性(母語/外国語の差異)を保つ境界もまた、翻訳の空間におけるのと同様、瓦解することになるのである。


 時間的な叙述が前後してしまったが、コゾヴォイの詩作は、60~70 年代においても、上に述べてきた翻訳活動と並行して、続けられていたようである27。しかし、彼の作品が初めて公にされたのは、1978 年、いわゆるタミズダートとしてスイスで刊行された第1 詩集『雷雨の猶予Грозовая отсрочка 』においてであった28(この出版がどのような経緯で実現したのかは不明)。そこには、1966 年、すなわちコゾヴォイが翻訳活動を開始した時期から、1976 年までの10 年間の作品が収められている。『新文学展望』の書誌によれば、この10 年間のあいだに、彼の作品は、旧ソ連では(定期刊行物も含めて)一切、発表されていないため、結局、本国においては、コゾヴォイの公の顔はあくまでフランス詩の翻訳者であったということになろう。
 実は、この時期、具体的には1973 年にコゾヴォイは、フランス・ペンクラブとR.シャールにより、フランスに招聘されていたが、当局からの許可は得られなかった。その後、長い交渉が続き、ようやく1981 年になってコゾヴォイのフランス行きは実現する。彼は長男を伴って当地へ赴いたが、最初はもちろん一時滞在のつもりであった。しかし、翌82 年、彼はフランスに移住することを決意する。エミリヤノワによれば、すでに触れたランボー『イリュミナシオン』の翻訳が81 年に刊行された際、さる学者から『文学新聞』紙上で酷評を受けたのを知ったことが、ひとつのきっかけとなったらしい29。彼は国立科学研究センター(C.N.R.S.)30で勤務を始め、85 年には妻イリーナと次男を呼び寄せることができた。そして、87 年、彼は最終的にフランス市民権を獲得する。
 こうしてコゾヴォイは、いわゆる「第3 の波」の亡命ロシア人に属することとなる。フランスで彼は、ミショー、シャール、そしておそらくはブランショを含む文学者らと交流を持ち、また自身の作品を発表することができた。1982 年には、「シンタクシス」社から第2 詩集『丘を離れて』(ここでもミショーが挿絵を書いており、戯曲も収録されている)31を、84 年にはすでに述べた対訳版『丘を離れて』32を、そして88 年には同じく「シンタクシス」社から第3 詩集『記名されたものПоименное 』33(という訳語でよいのだろうか)を刊行する。
 もちろん、1980 年代後半から始まるソ連の民主化・崩壊の動きによって状況は変わり、この頃からコゾヴォイはフランス・ロシア双方で活動(ロシアでのミショー絵画展の開催などを含む)を行なうようになる。1994 年には、先に述べた『カタストロフにある詩人』、およびこれまで出された3 冊の詩集からの選集34 がロシア本国で刊行される。しかし、『カタストロフにある詩人』などを見ると、彼のうちには、亡命ロシア人文化に対する、ある種のこだわりがあったようにも感じられる。たとえば、この本の表題作では、彼の敬愛するレーミゾフがフランスに亡命後、J.ポーランや当時のシュルレアリストたち、またミショー、シャールらと交わっていたこと、またコゾヴォイ自身が彼らからレーミゾフの思い出を聞いたことなどに触れられている35。つまり、コゾヴォイの創造のうちでひとつにされた2 つの系譜、ロシア的伝統とフランス近・現代詩との出会いが、「第1 の波」の亡命ロシア人たちにあっては、現実に起こっていたのであり、彼はそこに象徴的な意義を見いだしていたのかもしれない。
 そして、彼はフランスの地で、実際に「第1 の波」の亡命者と知己を得ることになった。ピョートル・スフチンスキイのことである。コゾヴォイは、1981 年にフランスを訪れて一月ばかり経った頃、ミショーからスフチンスキイを紹介されたのだった:「アンリ・ミショーは私に、ぜひともスフチンスキイに会って、私の詩を見せるよう勧めて言った:『彼ほどありとあらゆる新しいことを開示してくれる人はいないよ』。だが、当時、スフチンスキイは90 歳にならんとしていたのだ!」36。ユーラシア主義運動の中心的人物、文芸批評家、そして後には音楽学者として名を知られることになったこの人物と37(ちなみに彼もまたアルトー、シャール、ジューヴといった詩人たちと親交があったという)、コゾヴォイとの具体的な交渉については詳らかではないが、『新文学展望』の特集の扉に掲げられているスフチンスキイの文章は、コゾヴォイの詩に最大限の賛辞を贈っている(この文章の出典は明らかでないが、おそらく1984 年に『ロシア思想』紙に掲載された『ワジム・コゾヴォイの詩』38 からのものと思われる)。そして、85 年のスフチンスキイの没後、遺された彼の書簡の一部をコゾヴォイが校訂・公刊していることは、すでに述べた通りである。さらに彼は、『ピョートル・スフチンスキイとその時代』という本の編纂を行ない、1999 年にモスクワの「音楽」出版社より刊行されているが39、これはコゾヴォイの生涯最後の仕事となった。
 亡命ロシア人文化との関わりで言うならば、コゾヴォイの詩集に寄せて『上昇する言葉』を書いた
モーリス・ブランショも、この文化とまったく無縁ではなかったことを考えるとき、彼とワジム・コゾヴォイとの関係は、かならずしも偶然的なものではなかったように思えてくる。ブランショの文学活動の最初期から変わらぬ友愛の関係で結ばれていたG.バタイユ、E.レヴィナス、またブランショと、とりわけバタイユに圧倒的な影響を与えたA.コジェーヴ(コジェーヴニコフ)などは、直接・間接にこの亡命ロシア人文化に関わっており、このようなパースペクティヴのもとで見るならば40、コゾヴォイとブランショの関係は、20 世紀初頭からロシア・フランス両文化の間で連綿と形づくられてきたネットワーク網細工のひとつの結び目をなしているのだといえるだろう。



 最後に、以下に訳出するブランショのテクスト『上昇する言葉』41 について若干、述べておきたい。すでに広く知られているブランショの批評活動についての解説を、ここであらためて繰り返す必要はないと思われる。これまでのブランショの批評の主たる関心の的となってきたのは、フランス・ドイツの作家・詩人たちであるが、恐ろしいまでの多読家と思われる彼の場合、もちろんそれにとどまることはなく、その対象は英米文学、ラテン・アメリカ文学にまで及び、ロシア文学も例外ではなかった(彼はA.カミュへの追悼文の中でツルゲーネフのトルストイ宛書簡を引用することもできたのだった)。最も知られた例は、『文学空間』(1955)第4 部1 章におけるドストエフスキイ『悪霊』のキリーロフの自殺に関するエピソードの考察であろう。
 ただ、個人的なことを言えば、マラルメを初めとした19 世紀後半から20 世紀にかけてのヨーロッパ詩における、文学テクストのあり方の根本的な転換について、その批評活動の最初期から一貫して思考しつづけているブランショが、現代ロシア詩についてどのような考えを抱いているのかということは、気になるところであった。『明かしえぬ共同体』(1983)の、M.デュラス論をなす第2 部において、ツヴェターエワの詩篇「エウリュディケーからオルペウスへЭвридика --- Орфею」が引用されていることから見ても42、彼がロシア詩にまったく関心を向けていないわけではないことが伺われた。
 『上昇する言葉』は、ブランショによる数少ない(唯一かもしれない)現代ロシア詩についての批評であり、その意味で貴重なものといえるだろう。ただ、この文章がコゾヴォイの詩集に寄せられたものであるという事実を知らされなかった場合、ひょっとしたら人はそれがとくにコゾヴォイの作品に向けられた文章だということに気づかないかもしれない。そこで挙げられるマラルメ、ランボー、ヴァレリー、シャールといった名は、ブランショの批評においては馴染みのものであるし、語られている内容も、これまで続けられてきたブランショの思考と同じ圏内にあることは、彼の批評に親しい者であるならば、誰もが納得するところであろう。しかし一方で、マラルメ、ランボー、ヴァレリー、シャールがコゾヴォイときわめて縁の深い詩人たちであり、ブランショがおもにマラルメ、ランボーに即して語る、詩と翻訳の関係、詩と散文の区別といった問題が、同時にコゾヴォイの創造の中心にあったものであることも確かである。おそらくブランショは、上に挙げた詩人たちに即して、こうした問題を語ることで、それをコゾヴォイの創造に対するひそかな賛辞に代えたのだと思われる。結果として、ブランショの文章は、「翻訳」という重大な問題にも絡めつつ、コゾヴォイがフランス詩の伝統から引継いだ問題を鮮やかに描き出しているのだといえる。
 コゾヴォイとブランショ、この(ミショーと同様)公の場で具体的な顔を明らかにすることを徹底して拒んできた書き手との間に、実際にどのような交流があったのかはさだかではない。コゾヴォイの『カタストロフにある詩人』ではブランショの著作への言及がなされている他、この本に所収の「スフィンクス」では、二人の間に手紙のやりとりがあったことが暗示されており43、なんらかの接触はなされていたものと思われる。また、『新文学展望』の書誌によれば、コゾヴォイは1997 年に『モーリス・ブランショのために』という文章(あるいは詩篇?)を発表している44


 以下に訳出したのは『上昇する言葉』のテクストのほぼ半分である45(後半については、ぜひとも別の機会に翻訳を果たしたいと思っている)。翻訳の際には、B.ドゥービンによるロシア語訳46 を参考にした。ブランショのテクストはそれ自体、「線状の文、統辞的空間の解体」の中で書かれており、翻訳を進めるにつれて、このような大それた仕事を目論んだみずからの無謀さを痛感した。ドゥービンによるロシア語訳も、場所によってはかなり大幅な意訳が施されている。以下の訳は、あくまで試訳のようなものと考えていただけたらと思う。また、マラルメその他からの引用に関しては、できる範囲で出典を示したが、それが果たせなかった箇所もある。読者の皆様のご教示をいただければ幸いである。
 最後になってしまったが、コゾヴォイの詩集のほとんどを所有しておられた、たなかあきみつ氏からは、それらをお貸しいただいたばかりでなく、今は入手困難と思われる『丘を離れて』ロシア語版、および対訳版を、ご親切にもお譲りいだだいた。本稿は氏のご好意なしにはけっして書かれえなかった。ここに深い感謝を申し上げたい。また、ブランショの翻訳にあたっては、電気通信大学講師の原和之氏から、文字通り貴重なお時間を割いて、丁寧なご助言をいただいた。氏にもここで心よりの感謝を申し上げたい。いうまでもなく、訳文に見られる誤りはすべて筆者の責任によるものである。


1 Вадим Козовой. Поэт в катастрофе. М.-Париж, Гнозис, Institut d’Etudes Slaves, 1994.
2 『ユリイカ』,1985 年4 月(モーリス・ブランショ特集号),119 頁。これ(西谷修氏によるもの)がおそらく日本におけるワジム・コゾヴォイへの最初にして唯一の言及であろう。
3 最近、以下の文献に「ワジム・コゾヴォイ」の項目があり、その経歴・創作について紹介されていたことを知った:Словарь поэтов русского зарубежья. Под ред. В. Крейда, СПб., Изд. Русского Христианского гуманитарного института, 1999, с. 386. ただ、コゾヴォイの生前に準備されたと思われる(彼の死について言及されていない)この項目のスペースは比較的小さなものである。
4 M.ブランショ『来たるべき書物』,IV, 6「権力と栄光」(粟津則雄訳),現代思潮社,1976,380 頁以下を参照。
5 Новое литературное обозрение, №39, 1999, с.186-240.(以下、НЛО と略記)
6 この「大学歴史学部生事件」については、Чешков М. Талант. НЛО, с. 198-200 を参照。
7 以下の収容所でのエピソードの記述は、イリーナ自身の回想による:Емильянова И. ≪Вадиму было 19 лет…≫.НЛО, с.191-197.
8 これについては、Чешков М. Талант. НЛО, с. 200. も参照。
9 Kozovoi, V., Hors de la colline. Прочь от холма, Paris, Hermann, 1984, p.78.
10 Бертран А. Гаспар из Тьмы (≪Литературные памятники≫). М., Наука, 1981, с. 165-232.
11 Варели П. Об исскустве. М., Исскуство, 1976 (2-е изд., 1993). この本は数人の訳者の共訳によるものであるが、そのほとんどは監修者であるコゾヴォイによるものである他、80 頁強におよぶ註釈、および年譜・書誌は彼が一人で担当している。
12 М. Жажоян. Трактат без героя. Русская мысль, 22-28 июня 1995.
13 Переписка Б. Пастернака и П. Сувчинского. Ruvue des etudes slaves, LXII, fasc. 4, 1990,pp.727-782. Письма М. И. Цветаевой из архива П. П. Сувчинского. Ruvue des etudes slaves, LXIV, fasc. 2, 1992, pp.183-221.
14 コゾヴォイは1986 年に、スフチンスキイとパステルナークが1927 年に交した往復書簡の校訂も行なっている:Из переписки Б. Пастернака и П. Сувчинского. Ruvue des etudes slaves, LVIII,no.4, 1986, pp.637-648. これらの書簡も『カタストロフにある詩人』の「補遺」に収められている。.
15 とはいえ、コゾヴォイが目指しているのは「詩人の伝記」の再構成ではない。考察の土台となっているのは、やはり書簡というテクスト、「ピシモー書かれたもの」であることに注意されたい。
16 Козовой В. Поэт в катастрофе. с. 8.
17 Козовой В. Поэт в катастрофе. с. 7-8.
18 Емильянова И. ≪Вадиму было 19 лет…≫. НЛО, с. 193-194.
19 小林秀雄・鈴木信太郎訳。
20 Kozovoi, V., Hors de la colline. Прочь от холма, Paris, Hermann, 1984.
21 Емильянова И. ≪Вадиму было 19 лет…≫. НЛО, с. 194.
22 Деги М. ≪Сделать что-нибудь вместе с Вадимом…≫. НЛО, с. 208.
23 Маркадэ Ж.-К. О Вадиме Козовом. (незаконченная заметка). НЛО, с. 210-212.
24 Дубин Б. Жить невозможным. НЛО, с. 188.
25 先に言及した「文学記念碑」シリーズのベルトラン『夜のガスパール』の巻は、実質的には「フランス近代散文詩」の巻であり、コゾヴォイはその巻の補遺、「19 世紀フランス散文詩の歴史から」の翻訳の大半を担当している。彼の散文的作品には、一般にフランス散文詩の伝統(ミショーのテクストにまでいたる)の影響があるのかもしれない。
26 Kozovoi, V., Hors de la colline, pp.124-125.
27 コゾヴォイが同時代の他のロシア詩人たちとどのような関係を持っていたのかは不明である。ちなみに、彼の詩篇の中には、文芸学者N.ハルジエフに捧げられたものが少なくとも2 篇ある。
28 Козовой В. Грозовая отсрочка. Lausanne, L’age d’homme, 1978.
29 Емильянова И. ≪Вадиму было 19 лет…≫. НЛО, с. 195.
30 先述のスフチンスキイとパステルナーク、ツヴェターエワの書簡が掲載された雑誌、Ruvue des etudes slaves は、このセンターによって刊行されている。
31 Козовой В. Прочь от холма. Париж, Синтаксис, 1982.
32 これは第2 詩集と同名ではあるが、すでに述べたように、コゾヴォイの3 冊のオリジナル詩集からの選集であり、内容は第2 詩集とはことなる。
33 Козовой В. Поименное. Париж, Синтаксис, 1988.
34 Козовой В. Из трех книг: Грозовая отсрочка. Прочь от холма. Поименное. М., Прогресс, 1994.
35 Козовой В. Поэт в катастрофе. с. 23-24.
36 Козовой В. Поэт в катастрофе. с. 291.
37 音楽学者としてのスフチンスキイの業績(とくに音楽的時間に関する考察)については、日本語文献でも紹介されている: G.ブルレ『音楽創造の美学』,音楽之友社,1969,124 頁。J.C.ピゲ『音楽の発見』,音楽之友社,1975,215 頁を参照。
38 Сувчинский П. Поэзия Вадима Козового. Русская мысль. 2 августа 1984.
39 Петр Сувчинский и его время. М., Музыка, 1999.
40 こうしたパースペクティヴは、今後、20 世紀ヨーロッパの思想・文学史を振り返って再考する際、ますます必要なものとなってくるだろう。バタイユとL.シェストフ、B.スヴァーリン、A.コジェーヴら亡命ロシア人との交流については、今では多くの文献があるが、ロシア語で書かれたものとしては以下のものがある:Фокин С. Жорж Батай в 30-е годы: философия, политика, религия. СПб., Изд. С.-Петербургского государственного университета, 1998. レヴィナスのリトアニア、ハリコフ時代の生活、およびロシア文学からの影響については、本人が、E.レヴィナス・F.ポワリエ『暴力と聖性』,国文社,1991 所収のインタビューの中で語っている。また、20 年代終わりにレヴィナスが『ユーラシアЕвразия 』誌にロシア語で寄稿した、ハイデッガー『存在と時間』などの書評については以下の文献を参照:Антология феноменологической философии в России. Т.2. Под ред. И. Чубарова, М., Логос, 2000, с. 522-527. A.コジェーヴの思想背景にある20 世紀初頭ロシア哲学の影響については、Auffret, A., Alexandre Kojeve. La philosophie, l’Etat, la fin de l’Histoire, Paris, Bernard Grasset, 1990. 以来、問題として提起されているが、フランスにおけるコジェーヴとベルジャーエフ、カルサーヴィン、スフチンスキイら他の亡命ロシア人思想家との関係などを含めて、最近、ロシア側からの研究が出はじめている:Руткевич М. А. Кожев и Л. Штраус: спор о тирании. Вопросы философии, 1998, №6: 79-92. Кожев А. Религиозная метафизика Владимира Соловьева (Преди-словие А. Козырева). Вопросы философии, 2000, №3: 101-135. など(ちなみにA.コジェーヴが哲学者V.コジェーヴニコフの息子であると言われることがあるが、それは誤りである)。
41 Blanchot, M., “La parole ascendante. ou Sommes-nous encore degnes de la poesie? (notes eparses), ” in Kozovoi,
V., Hors de la colline. Прочь от холма, pp.119-127.
42 M.ブランショ『明かしえぬ共同体』(西谷修訳),朝日出版社,1984,112 頁。
43 Козовой В. Поэт в катастрофе. с. 152-153.
44 Kozovoi, V, “Pour Maurice Blanchot,” Poesie, no. 85 (1997), pp.106-109.
45 Kozovoi, V., Hors de la colline. Прочь от холма, pp.119-123.
46 Бланшо М. Восходящее слово, или Достойны ли мы сегодня поэзии? (разрозненные заметки). НЛО,с.201-206.