●ニコラーエワ, オレーシャ Nikolaeva, Olesha
「ここ」 Zdes'
解説 宇佐見森吉
1.作者について
オレーシャ・ニコラーエワ:1955年生まれ。モスクワのゴーリキイ文学大学卒。現在は同大学で「ロシア宗教思想史」を講じ、詩のセミナーを受け持っている。処女詩集は《奇跡の園生》(1980)、《冬の船にのって》(1986)で注目される。1987年以降、《新世界》、《ズナーミャ》誌を中心に作品の発表を続けている。近年の詩集に《ここ》(1990)があり、小説集《世界の鍵》(1990)も注目を集めた。
主要な作品および参考文献は以下の通り(文芸誌掲載作品はのぞく)。
Sad chudes. 1980.
Na korable zimy. Moscow, Sovetskii pisatel', 1986.
Zdes'. Stikhi i poemy. Moscow, Sovetskii pisatel', 1990.
Kliuchi ot mira. Povesti. Moscow, Moskovskii rabochii, 1990.
Poznat' zamysel zhizni. (Interv'iu). Literaturnoe obozrenie, No. 3, 1990.
Twentieth Century Russian Poetry: Silver and Steel. An Anthology. Anchor Books, 1994.
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Marchenko A. U zhizni zhenskoe litso. (Olesha Nikolaeva. Na korable zimy). Nobyi mir,
No. 12, 1987. pp. 234-236.
Rodnianskaia I. Nazad -- k orfeiu!. Novyi mir, No. 3, 1988. (I. Rodnianskaia. Literaturnoe semiletie. Moscow, Knizhnyi sad, 1995. pp. 108-154.)
Azhgikhina N. Razrushiteli v poiskakh very(Novye cherty sovremennoi molodoi prozy). Znamia, No. 9, 1990. pp. 226-227.
2.作品について
Zdes'. Stikhi i poezy. Moscow, Sovetskii pisatel', 1990.
オレーシャ・ニコラーエワはその詩のいちじるしい散文性によって、ロシアの現代詩の一翼をになっている詩人である。彼女の詩は主として無韻詩であり、伝統的な音韻律に依拠してロシア語の音楽性を最大限に引き出そうとする古典詩人のようには歌わない。だからといって、コンセプチュアリストの非芸術にむかうわけでもなく、時空を越えた諸文化の接触を通じて自己異化をはかろうとするわけでもない。オレーシャ・ニコラーエワの「詩散文」(ロドニャンスカヤ)──散文詩というより詩形式を通じて語られる散文──はあくまでも「いまここ」の散文的な日常につながれていて、そこにさまざまな登場人物を描き込んでいく。
《女たちのパーティー》の場合。夢破れ孤独な女たちの世界が口の悪い女友達の激励さながらに抒情的主人公によって共同化される。「エリートだったカーチャの夫は他の女のもとに去り/何年たっても、辛い目にあうたび鍛えられたレーナの/くじけぬ頑張りをだれひとり認めてくれない/スヴェータは家に帰るとなぜか寂しく落ち込むばかり」。そんな4人の女がケーキやつまみを持ち寄ってパーティーに集まり、「──そう言えば古代ギリシアでは──と誰かが口火を切る──/アマゾネスとかいう女だけで暮らしてる島があったわよね、/男なんか、なにがあっても/そばに寄せつけないのが鉄則で、/嵐に遭って偶然そこに流されて来た奴も/すぐにその場で殺してしまうのよ!」。こんな話に一同はいたく盛り上がり、さんざん人をこき下ろし、やがてパーティーはお開きとなる。「さようなら、カーチャ、/とっても綺麗よ、この家の明かりはなんだか薄暗いけど!/さようなら、レーナ、あんたはこれからトロリーバスなんでしょう、それから空地をとことこ/おっかなびっくり行くんでしょう!/さようなら、スヴェータ、/あんたは右ね/それから左に行って、/真っ黒な氷で覆われた公園を抜けていくのよね!/さようなら、ターニャ、/あんたはまだ食べ残しのケーキのお皿をみんな洗わなくっちゃね!...」。
しかし、オレーシャ・ニコラーエワの詩で描かれる散文的な「いまここ」が「彼岸」を欠いているわけではない。彼女の詩では、それはたとえば日常に潜む神秘という主題として与えられる。
《なにひとつ、日々の生のほかには》の場合。両親のダーチャで兄夫婦の一家とともにすごした一夏の思い出が抒情的主人公の口から語られる。とりたてて事件が起こるわけではない。むしろ主人公は「日々の生」のうちにた生命の神秘を感受する。死を胚胎した生という時間感覚。この「いまここ」の時間感覚によって、さまざまなエピソードが隣接的に関係づけられてゆく。
「髪の毛をもっと濃くするために」頭髪を剃られ、乳歯の抜けた姪のクシューシャ、たびたびモスクワに戻って、天井に届きそうなくらい丈ののびた「自慢の棕櫚に水をやる」ママ、「チェルノブィリから連れて来られて、この土地で育てられているのだと」誤解されそうな異形の子供たちを連れ歩くわたし。焼け落ちるダーチャの夢。「これは警告にちがいない/そろそろわたしもしゃんとすべきときなのだ/人生のがらくたをいたずらに胸にためこむばかりでなく」。
こうして主人公は「手始めに煙草をやめ」「就寝まえに、人気ない夜道をひとめぐりする」ことになる。「なぞめいた葉のさやぎが聞こえて来ると、わたしはいつも思い出した/手紙を寄越さぬ友人が/話していたではないか/去年の落葉をかさかさ鳴らして/これは草が伸びているのだと」。その翌朝、犬にさかりがつくと、ダーチャは大騒ぎとなり、家族の間の喧嘩に発展する。わたしは子供たちを連れて教会にゆき、「子供たちは墓を見てまわり、「ペトロフキン・コーリャって/すぐ死んじゃったんだね、たった三歳だよ」と驚く。ダーチャに戻るといつの間にか家族の仲直りはすんでいて、やがてみんなは家路をたどり、ダーチャは板で塞がれる。「雨は降り続き、雪は降り積もり、/ペトロフキン・コーリャの丘を覆った/モロコシ畑は雪野原に変わり、/ママの棕櫚はなぜか枯れてしまい、/クシューシャの髪は伸び、りっぱな大人の歯が生えて」くる。こうして「そこではきれいさっぱり、なにごとも起こらなかった」はずなのだが、それが主人公には「実り多き夏」であったと思えてならない。
ところで、大地に生える草の伸びる音を聞き取ることのできるほどの鋭い聴力の持ち主といえば、北欧神話のヘイダムダル神をおいてほかにない。そしてたとえば、オブローモフも「自分は今やっと生活をはじめたのだ」と実感するとき、この超自然的な感覚について語られたシュトルツの話を思い起こすのである。「いまにあなたのオルガニズムの中であらゆる力が働きはじめるようになったら、あなたの周囲の生命も活動を開始するでしょう。その時こそ、あなたの目は今まで帷でかくされていたものを見るようになり、あなたの耳は現在聞くことのできないものを聞くようになるでしょう。神経の音楽が演奏をはじめると、あなたは宇宙の諸圏のひびきを聞き、草の成長に耳を傾けるようになるでしょう。待ってらっしゃい、急ぐことはありません、ひとりでにやってきますから!」。
「草の伸びる音が聞こえる」。この表現は慣用句にすぎないともいえる。しかし、自己の詩学を「神秘的リアリズム」という言葉で表現しているニコラーエワの詩の世界にとっては、このシュトルツの言葉は捨てがたい。それは彼女の「いまここ」のポエジーの核心に触れているにちがいないからである。