●ヴィクトル・ペレーヴィン Pelevin, Viktor
ヴィクトル・ペレーヴィン『ジェネレーションP』
望月 哲男
1 作者について:Виктор Пелевин: 1962年生まれの小説家。93年ロシア・ブッカー賞小賞受賞。
1-1 作品:
Синий фонарь (рассказы). Москва: Текст, 1991.
Омон Ра. Знамя 5, 1992.
Ника. Юность 6-8, 1992.
Бубен Верхнего Мира. Октябрь 2, 1993.
Жизнь насекомых. Знамя 4, 1993.
Желтая стрела. Новый мир 7, 1993.
Происхождение видов. Огонек 29, 1993.
Тарзанка. Столица 20, 1994.
Папахи на башнях. Огонек 42, 1995.
Чапаев и Пустота. Знамя 4-5, 1996.
Сочинения в 2 т. Т. 1: Омон Ра. Бубен Нижнего
Мира (рассказы). Москва: Терра, 1996.
Сочинения в 2 т. Т. 2: Жизнь насекомых.
Затворник и Шестипалый. Принц Госплана.
Желтая стрела. Бубен Верхнего Мира (рассказы).
Москва: Терра, 1996.
Чапаев и Пустота (роман). Москва: Вагриус, 1996.
Жизнь насекомых (романы): Омон Ра. Жизнь
насекомых. Москва: Вагриус, 1997.
Generation 'П' (роман). Москва: Вагриус, 1999.
(本作品)
1-2 日本語文献:
後藤正子「飛行するゴーストの夢」『群』4、1994
大野典宏「ターボ・リアリズム」『群』5、1995
井桁貞義「青いライト」『ロシア文学の現在』スラブ研究センター、1996
三浦清美訳『眠れ』群像社、1996
沼野充義訳「聖夜のサイバーパンク、あるいは「クリスマスの夜-117.DIR」」新潮9、1996
望月哲男「ヴィクトル・ペレーヴィン」『世界X現在X文学 作家ファイル』国書刊行会、1996
望月哲男訳「塔の上の円筒帽」『ロシア文学作品集』北大露文&スラブ研究センター、1997
望月哲男「チャパーエフとプストタ」『ロシア文学の近景』スラブ研究センター、1997
望月哲男「チャパーエフとプストタ」『ユリイカ:20世紀を読む』vol.29-5、1997
吉原深和子訳『虫の生活』群像社、1997
2 作品について: 『ジェネレーションP』16章からなる長編小説。
2-1 主人公とあらすじ
主人公はソ連の70年代に思春期を過ごしたジェネレーションP(=ペプシコーラ世代)の一員ヴァヴィレン・タタールスキー(Вавилен
Татарский)。その変わった名はワシーリー・アクショーノフ(Василий
Аксенов)とヴラジーミル・イリッチ・レーニン(Владимир
Ильич Лени)の頭文字の組み合わせで、50-60年世代の父の理想(共産主義と自由の関係回復)を反映したものとのこと。兵役を避けるために工科大学および文学大学で学び、ソ連の諸民族語の翻訳を生業としようとしていた彼であったが、国家の解体によってその人生設計が破綻してしまう(語り手の表現によれば、改革の成功のあげく国家が「涅槃の境」に入ってしまったため、永遠なるものを見失ってしまったのである。ちなみに永遠とはクモの巣の張った風呂小屋であって、忘れ去られればそれっきりというドストエフスキーのパロディが、この作品の反復モチーフのひとつである)。
こうしてやむなくキオスクの売り子をしていた主人公は、やがて文学大学の同級生(セルゲイ・モルコーヴィン)の紹介で広告業界に就職、いくつか帰属先を変えながらこの世界の階段を上っていく。すなわち小さなベンチャー企業「ドラフト・ポディウム」、元ニューヨークのタクシー運転手ドミートリー・プギンの会社、『プラウダ』ビルにオフィスを持つウラジーミル・ハニンの代理店「タイヌィ・ソヴェートニク(枢密顧問)」、テレビ番組の隅々に登場する謎の人物アザドフスキーが情報工学研究の銀行間組織というふれ込みで経営する「養蜂研究所」という順序である。
主人公の経験は、主として次の3つのレベルで展開される。
1)主人公が広告やテレビ・メディアの論理を現代ロシア社会に応用しながら、実際に様々なコピーを製作していく過程。この過程には、『Positioning:
a battle for your mind』といったアメリカ版の情報の他に、主人公がこっくりさんで呼び出すチェ・ゲバラの霊がもたらす情報や思想が大きな役割を果たす。
2)主人公がテレビ界の内幕に入っていき、ついには(ロシアとアメリカとを問わず)世の中の政治的現実というものが、テレビによって作られたヴァーチャル・リアリティにすぎないと認識する過程。ここでの主な道具建ては、「養蜂研究所」のスタジオで作られているエリツィンをはじめとする政治家たちの3次元モデルである。
3)主人公の麻薬吸引時の幻覚に登場するバビロニアの女神イシュタルの神話が現実世界のプロットに転化し、神話界とテレビ業界が融合していく過程。ここでは主人公は、いくつかの試練をくぐり抜けて最終的にイシュタルの夫となる英雄である。
このそれぞれが、なんらかの神話的プロットに沿った現代ロシア社会の解読という性格を持っている。以下各々について略述する。
2-2 物語の3層構造
1)メディアとバーチャルな主体:
主人公の仕事は、アメリカ式のテレビCMの論理をロシア式に読み変えるところから始まる。ポジショニング(positioning:他商品との差異化による当該商品の位置づけ)、ニッシュ(niche:特定市場分野)、ターゲット・ピープル(target
people:宣伝の対象層)、イメージ定着(vnedrenie)、購買勧誘(vovlechenie)、ブラックPR(black
public relations:スポンサーとの裏取引などを指す)といった概念を、彼はロシアのメンタリティを考慮しながら自己流に解釈していく。
しかし「爛熟した帝国主義社会の論理」を、ロシアという「原始的資本蓄積社会」に応用することは、当然矛盾をともなう。例えば欧米ではクライアントとコピーライターが協力して消費者を洗脳しようとするのにたいして、ロシアではコピーライターがクライアントの脳の隙間をふさいでやらなくてはならない。しかもポスト社会主義社会においては、資本の原始的蓄積が、そのまま最終的蓄積に終わるのだ・・・・・・このようなアイロニカルな職業意識が主人公たちに共有されている。
例えば広告業者の一人ハニンと主人公の会話は、以下のように展開する。「ロシアのクライアントは馬鹿だから、何が連中の気に入るのかこっちから説明してやらなけりゃならないんだ。それに、連中がなぜ広告を注文するかわかるかい?・・・・・・」「商品を売るためでしょ」「それはアメリカのはなしさ」「じゃあ、大物になった気分になるためで?」「3年前まではそうだった。だが今じゃちがうんだ。今のクライアントは、いい年をしてブラウン管や人生における出来事を一生懸命に追っかけている連中に対して、自分が100万ドルの金をひょいとゴミ箱に捨てることのできる男だということを見せつけたいのさ。だから広告は下手なら下手なほど良いって訳だ。・・・・・・本人が全くの馬鹿でも、商売がうまくいっているもんだから、つまらない広告を何回でも放映できるってことになるからな」
「ロシア経済の奇跡の主眼はなにかといえば、それは経済がどんどんケツの穴にめり込んでいくのに対して、ビジネスは発展し、強化され、国際競争の場に進出しているということだ。ところで、周りの連中がいったい何を売っていると思う?」「何ですか」「売るといっても、モノを売ってるんじゃない。電波の時間と広告の空間が商品なのさ。新聞でも町中でも同じことだ」・・・・・・このような論理に従えば、広告という媒体が、実はほとんど唯一の商品となる。マクルーハンに通じる「メディア=メッセージ」という主張が、作品のもう一つの反復モチーフである。
主人公が「こっくりさん」で呼び出すチェ・ゲバラの霊は、このような認識をロシアの特殊性を越えて一般化してみせる。それによれば、ブッダの時代から存在する人間主体と客体の不幸な分裂に加えて、テレビ・メディアの時代は新しい不幸を抱えている。それは現実を演出し生産するテレビという新しい客体(オブジェクト2)と、テレビ番組によって感覚、生理、意識をコントロールされるバーチャルな主体(サブジェクト2)との倒錯した関係である。番組制作者の制御通りに反応するバーチャルな主体は、本来の主体(サブジェクト1)を完全に排除してしまうので、この不幸な現象を意識する主体も奪われてしまう(テレビは集合的非存在への入り口である)。そして本来人間がコマーシャル・メッセージを回避しようとして行うはずのザッピングも、逆に番組制作者が視聴者の意識回路を自由に開閉する行為の名称になってしまう(テレビ時代の主体とは、ホモ・サピエンスならぬホモ・ザピエンスである)。
ゲバラによれば、この受動的でバーチャルな主体のあり方は、経済原理から見た人間社会の構造に対応している。つまり総体としての人類は、過去にマモン(蓄財や欲望の化身)の名で呼ばれたような、経済活動を唯一の目的とする有機体とみなし得る。機能が金の出し入れに集中しているところから、この有機体にはORANUS(Ротожопа:口尻)と言う名がふさわしい。個々の人間はこのORANUSの細胞であって、細胞膜から金を吸収し、排出することを生業とする。この単純構造のORANUSに唯一備わった神経系が、いわゆるメディアである。メディアは個々の細胞に3種類の刺激を送る。すなわちオーラル、アナル、排除の各ワウ・インパルス(Wow
Impulse)である。オーラル・インパルスはメディアの提示する理想我に近づくため多くの金を蓄積しようとする意欲を促し、アナル・インパルスは理想我らしくあることの快楽を味わうために多くの金を消費することを促す。そして排除インパルスは、この蓄積と消費の衝動を妨害するような不要情報を排斥するのである。これらメディアの刺激への反応形態によって、3タイプのアイデンティティ・モデルが形成される。
この論理によれば、メディアおよび広告は、かつて共産主義イデオロギーがそうであろうとしたように、人間の行動を経済一元的に制御する独占的な信号系たることを標榜しているのである。
2)政治的現実の模造
上記のことは現代におけるメディア、ビジネス、個人のアイデンティティの相互関係のモデルと捉えられるが、これが文字どおりに展開すれば社会的現実の総体がメディアの制御下にあるということにもなる。実際作品の後半で巨大メディア産業「養蜂研究所」のスタッフとなった主人公は、現実の模造・生産の現場に立ち会うことになる。つまりそこでは、エリツィン、レベジ、ベレゾフスキー等々といった政治家のCGモデルが何百も作られ、それを使って議会や記者会見をはじめとする様々な政治的現場のシーンが、日常的に演出されているのである。その際重要な政治家には精巧な3次元モデルが、端役や頭数に過ぎない者には「ボボーク」「半ボボーク」と呼ばれる動きの少ないモデルが割り当てられる。先輩社員によれば、ロシアの政治はもっぱら彼らの会社が作成したTV番組の中に存在するのであり、その外にいわゆる「本当の現実」があるわけではない。そして他方でこの会社は、政治家たちの非存在を隠蔽するために、彼らを見かけたと証言する役割の「人民の意志」集団をも抱えている。こうした現実の捏造はロシアだけの現象ではない--と先輩社員は解説する。大統領二期目のレーガンも、ブッシュも、みんな作りものだった。ただし、純粋な技術上の問題は別にして、この種の現実模造に関わっているクリエーターの質は、米国よりもロシアの方がずっと上だ、と。いずれにせよコピーライターたちこそが、政治・経済的現実の作者なのである。
政治的現実を支配するこの企業には、国内に恐れるべき者は存在しない。経営者が恐れるのは、放映される現実の経済的価値(例えばインタビュー番組に写る小道具の銘柄)を厳しくチェックしながら、周波数の増減によって会社をコントロールしようとする海外(アメリカ)のスポンサーの意向である。実際レベジのインタビュー場面のタバコを無断でキャメルからジタンに変えたデザイナーは、罰として殺害される。そしてこの不運なデザイナーが保険のために仕掛けておいたウイルスによって、同社の政治家ソフトが全滅するという事件までおこる。
主人公自身、この政治家ソフトを使って、資本家ベレゾフスキーとチェチェンのサルマン・ラドゥーエフがモノポリー・ゲームをしたあげく口論になり、2000万ドルのやり取りをめぐって決裂するという、破天荒なドキュメンタリー風フィルムを作成する。しかし彼には、結局のところ誰がなぜこうした現実模造を必要としているのか、全体を仕切っているのが何者なのか、一向に納得がいかない。このことはさらに第三の神話レベルの問題に関係づけられる。
3)イシュタルとバベルの塔
主人公の奇妙な名前Vavilenは古代バビロニアの首都バビロン(Babylon、ロシア語ではVavilon)を連想させるが、実際彼の運命にはこの地域の神話のプロットがつきまとう。彼が私物の中に見つけた見覚えのない書類には、バビロンのカルデア人の3つの謎というテキストが含まれている。それによれば、太女神、大聖娼、大バビロンなどと呼ばれる女神イシュタルは、常に人間の夫を求めていた。女神の夫に志願する者は、ジッグラート(ziggurat)という階段つきピラミッド型寺院の外周を上っていき、しかるべき場所で3つのイシュタルの謎を解かねばならなかった。解答できた者は頂上にある黄金のイシュタル像と交わり、失敗した者は落ちて死ぬのである。この謎の答えを地上で商っているのが、くじの神エンキドゥ(作中では大地の主人エンキの召使い、別の神話ではギルガメシュのライバル、友人)の神官たちで、女神の夫の座をめぐるこの命がけのトライアルは「大くじ」または「名前のないゲーム」と呼ばれた。なお女神の祭具である黄金のマスクと鏡、およびベニテングタケ(カサの模様が星空を連想させるので、第三の祭具とも呼ばれる)が、この作品でシンボリックな役割を果たす。
主人公の体験は随所でこの神話のモチーフをたどるように展開する。まず彼は、旧友にもらったベニテングタケによるトリップ状態で、言葉(舌)のもつれを経験し、これこそバベルの塔(バビロンの寺院)をめぐる言語混乱の神話の元だと実感する。彼はその状態でモスクワ郊外の巨大な廃墟ビル(建設中に放棄された防空ステーション)に迷い込むが、その門には「このゲームには名前がない」という看板が出ている。彼は古代のジッグラートを上るようにビルを上ったあげく、シンボリックな3つの拾いものをする。すなわち、当時手がけていた広告の商品「パーラメント・メンソール」の箱、後にこっくりさんでお世話になるチェ・ゲバラの肖像がついた3ペソ硬貨、そしてメディアを象徴するテレビ型鉛筆削り器である。
彼の第二の麻薬体験には、バベルの塔の守護者を自称するシルッフ(Sirruf)なる龍が登場し、イシュタル神話の脇役であるエンキドゥについて解説する。それによればかつて地の神エンキの妻エンドゥ(一説にイシュタル)が誤って水に落とした虹色の数珠が解け、バラバラになったビーズがそれぞれ人間であることを主張しはじめた。エンキ神は漁師の姿をしたエンキドゥを作ってビーズの回収を命じる。以来エンキドゥはビーズ=人間を捉えて歩くことになったが、その際人間は釣り糸を口から尻まで通されて数珠繋ぎになっていくのであった。これは上記(1)の物語層で語られるORANUSとしての人間を連想させ、バビロニア神話と広告の世界を結ぶ輪となる。シルッフはこの神話の広告論的展開として、エンキドゥはすなわちバアル神(物欲の神)であり、ビーズ玉は人間の(偽りの)アイデンティティを示す。そしてコピーライターの役割とは人間たちに消費の炎を見つめさせることだと言う。その論理では人間がモノを消費するのではなく、消費の炎が人間を焼き尽くしていくのであり、テレビやスーパー・マーケットはゲヘナの谷の代役をしているのである。
太古的幻覚と現実の両世界は、最後から2番目の「黄金の部屋」の章でひとつに重なる。オスタンキノ池の地下100メートルを舞台とするこのシーンでは、主人公の雇い主アザドフスキーがイシュタルの祭具である黄金のマスクと鏡を持って登場する。広告業界のボスは、実は地上におけるイシュタルの夫だったのだ。そこで明かされるのは広告業界の裏にある「庭師協会」という組織の謎である。すなわち、名前を持たぬ太古のある女神(一説にはイシュタル)が、死期に臨んで死ぬことを恐れたあげく、犬の形をした死の半身と生の半身に分裂した。両半身は戦いに入ったが、他の神々の介入で和解がなされた結果、生の半身は肉体を失ってシンボリックな黄金のイデーと化し、死は5本足の醜い犬に変じて、北の辺境の国で眠ることになった。この犬が今ではロシアの卑語に出てくる5本足の犬「Pizdets」である。ロシアではこの犬が眠っている限り大したことは起こらないが、彼が目覚めると「作物が実らなかったり、エリツインが大統領になったり」大変なことが起こる。そこでこの「庭師協会」は、女神に生命を与えている聖なる樹の手入れをすると同時に、この魔犬が目をさまさないようにすることを目的としている。すなわちロシアの広告業界とは、この女神の象徴する生命、富、豊饒を守るために、イシュタルの地上の夫を頂点として形成された組織なのである。
この章の最終場面で、女神イシュタルの夫の交代事件が起こる。すなわち新参者が女神に目をのぞき込む儀式において、主人公タタールスキーが女神に新しい夫として選ばれ、従来の夫アザドフスキーは直ちに位を追われて処刑される。そして今や女神の地上的肉体の代替物として、主人公タタールスキーの3次元モデルが(かつてのアザドフスキーと同様に)、あらゆるテレビ番組に登場するようになるのである。
3 ロシア式広告
上記のようなプロット構成とは別に、作品の随所で紹介されるコピーやコンセプト(主人公自身の作品も、他の人物の作品も含まれる)が、この小説を愉快なものにしている。以下ロシア・イメージに関連したもので翻訳可能と思えるものをを紹介する。
百貨店チェーン「ギャップ」用コピー
ロシアはかねてから文化と文明の間のギャップを批判されてきました。しかしいまや文化も文明も存在せず、残ったものはギャップばかりです。
ギャップ――あなたのイメージ(The Way They See You)。
タバコ「パーラメント」ポスター用コピー案
93年10月事件時に歴史的な戦車が並んだ橋の上から撮ったモスクワ河河畔地区(ナーベレジナヤ)の風景写真。ホワイトハウスのあるべき場所には、巨大な「パーラメント」のパッケージ(コンピュータのモンタージュ)が見え、周囲に椰子の木が茂っている。キャッチフレーズはグリボエードフの台詞。
祖国の煙もまた我に甘くこころよし/パーラメント
同テーマ第3案
丘の頂上で蓮の葉に坐ったグレベンシチコフがタバコを吸っている。地平線にはモスクワの諸教会の円屋根。丘の下には1本の道が通り、そこを戦車の縦列が上ってくる。
キャッチフレーズ: パーラメント――ジャズが始まる前に
年金基金「静かな入り江」用コピー
いや、お前さんはもう海の男じゃない・・・・・・ 隣の病室から襲撃されても黙っていたあなたを、友人たちが責めます。しかしあなたはただ微笑むだけ。だってあなたは一度だって海の男なんかじゃなかった。ただこの静かな入り江目指して、一生航海してきただけだから。
年金基金「静かな入り江」
タバコ『ヤーヴァ』
上空から見たニューヨーク。そこへミサイルの弾頭のように『黄金のヤーヴァ』のパッケージが降下していく。
キャッチフレーズ: 報復攻撃
キリストに寄せたコピー
救世主ハリストス寺院を背景に、長い真っ白なリムジン。後部のドアが開くと、中から光がさしてくる。光の中からサンダルの足が出て、アスファルトに触れようとし、ドアの取っ手においた片手も見える。顔は見えない。ただ光と車と片手片足だけ。
キャッチフレーズ: 救世主ハリストス??確かな紳士のための確かな神様
男性用グッチとロシア・イデー(部分)
文芸評論家が田舎のトイレにしゃがみ込んだ姿で:「ロシアはヨーロッパの一部かどうかという議論は、きわめて古くからのものです。そもそも専門家なら、例えばプーシキンが生涯の各時期にこの問題をどう考えていたのか、何カ月かの誤差の範囲で簡単に指摘できるでしょう。例えば1833年のヴャーゼムスキー公爵宛の書簡で彼は・・・・・・」この瞬間メリメリという大きな音が響き、足元の板が折れて、男は穴に落ちていく。(中略)中から評論家の頭がニューと出て、目をあげると、落下によって中断した話を再開する。「恐らく起源は教会分裂に求めるべきです。かのクルィローフがいみじくもチャアダーエフに語っています。『ときどき周囲を振り返って感じるのだが、ぼくらの住んでいるのはヨーロッパじゃなくて、なんだかその、ただの・・・・・・』」この時評論家は何かにぐいと下に引っ張られ、ごぼごぼと音を立てながら沈んでいく。後はしーんと静かで、聞こえるのはハエの羽音だけ。ここで声が入る。
メンズ・グッチ: ヨーロッパ人になれば香りもエレガント
葬儀社用コピー
ダイヤモンドは永遠ではない
デビルシャン兄弟葬儀社
ついでにこの作品自体に関する「メーカーのお断り」を前書きと裏表紙から:
前書き: 作中に言及された商標はすべて尊敬すべきそれぞれの所有者の所有物であり、すべての権利は保持されている。商品名および政治家の氏名は、実在の市場商品を指すものではなく、個々人の思考の対象として強制的に誘導されているあるビジネス・政治情報空間の諸要素の投影を指すものである。著者はそれらがそうしたものとしてのみ受け止められることを願う。これ以外の暗合は偶然のものである。なお著者の意見は彼の視点と一致しないことがある。
裏表紙: 本書を読む際に頭に浮かびうる思想はすべて著作権の対象となる。それらを許可なく思考することは禁じられている。
4 メモ
現代ロシアをどんな視覚から、どのような枠組みで概念化するか??それが90年代のペレーヴィンの一貫したテーマである。前作『チャパーエフとプストタ』では、革命の英雄の神話とアネクドート、仏教・道教思想、ジャポニズムといったものが、愉快な補助線を提供した。この作品ではバビロニアの神話、ヴァーチャル・リアリティ論、広告業界の思想などが同じ役を果たしている。ロシア精神やロシア的理念といったイデオロギー的テーマを市場社会の広告業界の言葉に翻訳すると同時に、政治や市場の原理を富と永世の追求に関する素朴な神話語で説明してしまうという、多方向の読み換え遊びである。キューバ革命40周年の年にチェ・ゲバラの霊がホモ・ザピエンスやORANUSとしての人類を語るといった趣向は、この作者ならではのものだろう。しかし細部の面白さは疑いないとしても、全体の迫力や意外性という点では、前作におよばないという感じを覚える。バビロニアの神話が、仏教やチャパーエフ・アネクドートほどには深みのある構造を提供しないからだろうか?エリツィンが作りものだという設定は、すでにアネクドートに先を越されてしまっているからだろうか?あるいは作者のコピーライターとしての才能は、すでに知られ過ぎているからだろうか。いずれにしても計算・合理化しつくされた仕掛けの部分よりも、以下のように論理化しきらず映像に語らせるといったスタイルの一節にこそ、ペレーヴィンの不思議な魅力が現れているように感じられる。
「ニューヨークにいるとつくづく実感するんだなあ、つまりこのままだと一生ずっとどこかの小さな臭い台所に腰掛けて、糞だらけの汚い内庭を眺めながら、やくざなカツレツをかじって過ごすんだなって。こうして窓辺にたって、糞と塵溜めを見ているうちに、黙って人生が過ぎて行くんだ」
「変だなあ、そんなことならわざわざニューヨークくんだりまで行かなくったって・・・・・・」
「いやいや、ニューヨークだから感じるんで、モスクワじゃ駄目なんだ。もちろん臭い台所とか糞だらけの内庭なんかはここの方がずっと多い。でもここじゃ、その中でお前の一生が過ぎ去ってしまうなんて、絶対に思いあたらないだろう。本当に一生が過ぎてしまわないうちはね。ついでにいえば、これこそがソ連式メンタリティの最大特徴のひとつなんだ」