●ピエツフ, ヴィヤチェスラフ P'etsukh, Viacheslav
短編「珍重すべき人々」 Dragotsennye cherty 他
解説 沼野充義
1. 作家について
ヴィヤチェスラフ・ピエツフ(Viacheslav Alekseevich P'etsukh):詳しい資料がいまのところないので、とりあえず、主として1995年にワルシャワで出た「ロシア作家辞典」(ヴェザ・ポフシェフナ社刊、フロリアン・ニェウヴァジヌイ編)のピエツフに関する項目によって、紹介する。なお、ピエツフという姓の力点は、当初「ピエツーフ」と思われていたが(実際、多くのロシア人もそう発音している)、本当は「ピエーツフ」のようである。ただし、報告者が1990年頃モスクワで本人に会ったとき、その点は確認できなかった。
ピエツフは1946年11月18日モスクワ生まれ。大学では歴史を学ぶ。学校で歴史の教師をつとめる。最初の短編を発表したのは、1977年。1984年には最初の短編集「アルファベット」が出版される。1989年の長編「新モスクワ哲学」で名声が高まる。これは同時代ロシアのステレオタイプのパロディとして、笑いだけでなく涙をも誘うファルスとして現代ロシアの現実を提示している。周囲の世界に対するこういった態度は、ピエツフの散文の基本的な特徴になっている。長編「新時代および最新時代のグルポフ市の歴史」は、ロシアの風俗を風刺的に描くシチェドリン的な伝統を受け継ぐもの。同様の目的は、中編「貴重な特徴(珍重すべき人々)」(1989)でも追求されている。長編「未来の予言」(1989)の主人公は、中学校の平凡なフランス語教師だが、ロシアには大いなる精神的な変動が迫っているという思いに突き動かされ、ロシアの未来を予言しようとする。
ピエツフの主要著作
単行本
Alfavit. Sovetskii pisatel', 1983. 表題作の中編の他、12編の中・短編を収録。
Novaia moskovskaia filosofiia. Moskovskii rabochii, 1989. 「新モスクワ哲学」および「グルポフ市の歴史…」の2長編の他、「珍重すべき人々」など5つの中・短編を収める。
Predskazanie budushchego. Molodaia gvardiia, 1989. 表題作の長編以外に、10編の短編と3編の中編を含む。
特に注目すべき雑誌掲載作品
Nobyi zavod/ Bilet. Novyi mir, No. 6, 1987. (「新しい工場」「宝くじ」)
邦訳・日本での紹介
邦訳としては『現代詩手帖』1989年5月号に浦雅春氏による翻訳(短編連作「悲観的喜劇」の3編)がある。紹介の文章としては、沼野による「ロシア人て、なんて面白いだろう──ピエツーフ〔ママ〕の珍重すべき才能」(『ユリイカ』1990年8月号)、「おれたちゃみんなろくでなし──ピエツーフの「変な小説」」(『海燕』1990年8月号)など。
2.作品について
「珍重すべき人々」 Dragotsennye cherty
原題は「貴重な、大切な特徴(あるいは風貌、輪郭)」といったところだが、愛すべき風変わりな「人さまざま」の点描集なので、あえて「珍重すべき人々」と訳してみた。様々なロシア人をめぐるごく短い(アネクドート的な)エピソード集である。
・アフリカの寄港地から恋人に電話をしたくなり、大変な苦労をして薔薇を手にいれ、船長の機嫌をとり、モスクワに電話をする男。しかしそれほどの苦労をしてかけた電話だというのに、電話の会話の内容はじつにくだらないどうでもいいようなものであり、緊急の用事などではまったくない。「こっちの象は、インドのやつとは違って耳が大きいぞ」とか、「おれのほうも調子はまあまあさ」といった具合である。
・月曜日の朝。地下鉄建設労働者の寮での光景。二日酔いの同僚をどうしても仕事に行かせようとする男。
・田舎町で暮らす迷信深い男オカモエフ。あまりにアパートが狭いので、村ソヴィェト議長にしつこくかけあって新しい広いアパートに入居するが、その番地が13番地なのでどうしても我慢できず、すっかり精神的に調子がおかしくなってしまう。この男は「ロシア流の主観主義的観念論者」だった。つまり迷信深かったのである。そして「どうせおれたちゃ燃えちまうよ」と口癖のように言っているうちに、煙草の火の不始末から本当にぼやを起こす。そして全身に火傷を負って病院にかつぎこまれるが、相変わらず妙なことを口走るので、とうとう精神鑑定にまわされてしまう。
・自分の犬が余所の家に居ついてしまったため、取り返そうとかけあいに行く男。しかし、それが自分の犬であることを証明しないがぎり返せないと言われ、妙な話の経緯から『プラウダ』がないので自分の犬だと証明できないことになってしまう。
・小さな村に一軒だけの店。いつも長い行列ができる。女たちが時間をつぶすために歌を歌う。
・町の読書好きが冬の極寒の日に、チェーホフの夕べのために集まる。馬鹿げた議論が続く。酒を飲みたがる2人の男と、それを禁ずる責任者の女性。2人は密かに酒を飲み、酔っぱらってしまい、外に出ると凍死の恐れがあるのでついに読書会室に泊まることになる。
・ある科学研究所に、いつも老消防士が酒をせびりにくる。それに文句をつけた研究員が、結局謝らされる。
・同じ研究所で。2人の労働者の会話。火星に行ったきり帰らなくなったロシア人の話。なんと、地球での女性関係がもつれてしまったためだという。
・2人の女の雑談。そのうちのひとりが、なぜ結婚をしないのかについての「長い話」。昼は仕事、家に帰れば、重症の麻痺で倒れた母親の看護という生活をしているうちに、「人生は過ぎてしまった」。ところが、重症の麻痺と思われたこの母親、じつは……。
・人のいうことを何でも真に受けるイリヤという男が、同僚にだまされて、「奇跡の電話番号」があるということを信じ込む。そして、「奇跡の電話番号」にかけると、じつに奇妙な会話が始まる。
「ろくでなしの人生」Zhizn' negodiaia
1954年生まれの「ろくでなし」アルカージイの人生を、ある作家が描く。家に寝そべって鼻をほじくっているばかりで、何の仕事もしようとしないで、結婚しても妻に愛想をつかされる。徒食の罪で刑務所にまで入れられるが、生活態度を改めようともせず、1981年に亡くなってしまう。最後にこの短編についての作家と、ある友人との会話が添えられる。互いに「お前はろくでなしだ」と罵りあって終わる。
「ワシリサと亡霊たち」Vasilisa i dukhi
2月の夜。田舎で孫と婿と暮らす高齢の老婆。その他の身内は皆死んでしまった。彼女は孫に「夢はいくつあるの」と聞かれても、明日の用事のことしか思い浮かべられない。深夜、孫が寝静まって庭に出ると、5人の亡霊たちが立っている。
「雀の夜」(夏の嵐の夜)Vorob'inaia noch'
別荘地で無為を楽しむ主人公(語り手)。同じ別荘地に住む友人の知り合いの女性サーシャ(舞台女優)に一目惚れをする。夜遅くまで友人とその女性と3人でトランプをして遊ぶ。夜彼女を送っていくと突然の雷雨になり、彼女の別荘に上がり込むが、ある軍楽隊長に7年もつきまとわれているという打ち明け話を聞かされ、嫉妬に苦しむが、幸福も不幸も同じようなものだという結論に達する。
「モスクワ─パリ」Moskva-Parizh
ウラルの山の中の、何の楽しみもない「モスクワ」という名前の村で働いている労働者たち。あるとき休暇をとって、近所の「パリ」という町に出かけ(といっても交通機関もろくにないので、ヘリコプターで行くのだが)、「ムーラン・ルージュ」で遊興する。田舎で働くごく普通の労働者たちの、希望のないすさんだ暮らしと、「モスクワ」「パリ」といった大都会のきらびやかな名前のアンバランスがとてもおかしい。
「宝くじ」(『海燕』掲載の拙稿参照)
「新しい工場」(『海燕』掲載の拙稿参照)
「大洪水」Potop. Basni v proze.
「苦情」Zhaloba
「絵」Kartina
「オアシス」Oazis
「神様と兵隊」(浦雅春氏の訳あり、邦訳を参照のこと。ここでは紹介は省略)
「9キロ地点の番小屋の二人」(同上)
「おれはいかに死んだか」(同上)
3. コメント
ピエツフはペレストロイカ後に目ざましく活躍を始めた「新しい傾向」の散文の作家の一人である。シニャフスキーなどにも、社会主義リアリズムの枠を破る新しい作家として注目された。1987年6月に『ノーヴイ・ミール』に掲載された二つの短編「宝くじ」と「新しい工場」は、過去のソ連文学の理想像からかけ離れているだけではなく、グラスノスチがもたらした「暴露小説」とも異なった「変な」味わいがあって、社会主義リアリズムの時代が公的にも終焉したことを印象づけるものだった(シニャフスキーのエッセイ〔弘文堂刊「スラヴの文化」の巻〕参照)。彼の著作は一時旧ソ連でも矢継ぎ早に出版され、評価も高まり、彼自身『諸民族の友好』編集長にも就任した(最近、解任〔?〕)。報告者はその後のピエツフの執筆活動を丹念に追っているわけではないので、一般的な印象としてしか言えないが、その後、ピエツフはソ連社会の急激な変化と、世代交代の波にうまく乗っていない感じであり、その意味では、作風はまったく違うが、タチヤーナ・トルスタヤの位置と少し似ている(ペレストロイカ期に颯爽と登場し、注目されたものの、その後「ポスト・ペレストロイカ期」にはもはや「指導的な立場」に立たなくなっているという点で)。
作風の特徴を簡単に指摘すると、以下のような点があげられよう。
(1)登場人物は「平凡だが、どこかがちょっと変で、面白い人たち」(頭の調子がちょっとおかしい老婆、迷信深い男、つまらないものを獲得するためにとんでもないことをやらかす男など)ばかりで、社会主義リアリズム的な「肯定的主人公」はまったく出てこない。
(2)饒舌な独特の口調によって、「一口話」(アネクドート)の呼吸で語られている。
(3)語られる出来事の因果関係はしばしば支離滅裂だが、その支離滅裂さが人生そのものであるかのように提示されている。描かれている現実は基本的にはリアリスティックなもので、過激な幻想文学的手法を使っているわけではない。しかし、卑俗な日常生活の馬鹿馬鹿しさのなかにどっぷりつかっているだけのようでいて、ある瞬間にふっとその日常性を突き破ってしまうようなところがある(「新しい工場」や「珍重すべき人々」のなかのいくつかのエピソード)。
(4)ゴーゴリ、ドストエフスキー、チェーホフなどのロシア文学の古典を意識的に踏まえ、それを現代的な素材として消化しているものが多い。
(5)作者が作中人物に対して皮肉なスタンスをとっているため、作者は揶揄しているのか、批判しているのか、面白がっているだけなのか、あるいは愛情を注いでいるのか、どうもよくわからない。おそらくそのすべてを作者は意図的に組み合わせているようである。社会主義リアリズム的な作者・登場人物の立場に関する「一元的」色付けは、一貫して避けられている。
(6)描かれている現実はしばしば陰惨なものだが、基本的には、「ロシア人というのはなんて面白い人たちなんだろう」と面白がって観察する視点が保たれている。そのため、作品自体は陰惨な印象を残さず、むしろ飄々とした、場合によっては「軽い」印象さえ与える。またロシア人の「民族性」に対する観察眼は、場合によっては「民族派」的な立場にピエツフを近づけることにもなっている。
(7)「ずらし」「逸脱」の手法。饒舌な語りはしばしば「逸脱」を繰り返していくが、逸脱している語りの力自体が面白い(例えば「絵」「大洪水」)。「苦情」は、肉屋で売り子に失礼な扱いを受けた初老の年金生活者の「苦情」のテクストだが、肉屋に対する苦情から話はどんどんそれ、近所の人たちに対する一般的な苦情が次から次へと展開される。
また中心的なものでないディテールに焦点をふと合わせることによって、話全体の重点をずらす手法がしばしば使われる(典型的なのはたとえば「絵」。未来の疑似ユートピア的な光景を描いた絵を描写した掌編だが、最後は「トランプ遊びに打ち興ずる」昔ながらのムジークの姿で締められている。また「オアシス」も同様。)