●ソローキン, ウラジーミル Sorokin, Vladimir
「ドストエフスキー・トリップ」 Dostoevsky-Trip.
解説 望月哲男
1.作家について
Ochered'. Paris, Sintaksis, 1985
Sbornik rasskazov. Moscow, RUSSLIT, 1992
Norma. Moscow, Obscuri Viri i izd. Tri Kita, 1994
Roman. Moscow, Obscuri Viri i izd. Tri Kita, 1994
Serdtsa chetyrekh. Nezavisimyi al'manakh Konets vaka, No. 5, 1994
Mesiats v Dakhau. Igor Sacharow, Ross, 1992; Segodnia, 22, I, 1994
Tridtsataia liubov' Mariny. Moscow, izd. R. Elinina, 1995
Russkaia babushka. Mesto pechati, No. 7, 1995
Hochzeitstreise. Mesto pechati, No. 8, 1996
Dostoevsky - Trip. Obscuri Viri, 1997
V. Sorokin/ A. Zel'dovich. Moskva (Kinostsenarii), Kinostsenarii, No. 1, 1997
2.作品について
小冊子で58ページの短い一幕戯曲。
地味な作りの部屋の中、七人の薬物中毒の男女が苛立ちながらバイニンを待っている ── そんなシーンで舞台が始まる。だがすぐに明らかになるのは、彼らの必要としているのが通常の薬物ではなく、文学作品だということである。
「まったくセリーヌやジュネやサルトルをやっている連中は、どうしてみんなこう短気なんだろう?」仲間の苛立ちに辟易した一人が言う。「神経がぼろぼろになっちまうまえに、セリーヌを止めてフォークナーにしろよ」「フォークナー!」女性の一人が反論する。「アムステルダムでフォークナーやヘミングウェイをやってる連中のことをなんて呼んでるか知ってるの?『重量挙げ選手』って言うのよ!」今にも分散しそうなグループを、一人が懸命になだめる。「今日は七人揃ってなくちゃならないんだ……今日のはグループ用さ。新世代なんだよ」
所在ないままに交わされる会話によると、この世界ではセリーヌ、クロソウスキ、ベケットといったのが強くてハイなクスリで、フロベール、モーパッサン、スタンダールなどが口直しに使われる弱いやつらしい。ジュネーヴにはカフカ、ジョイスで始めてトーマス・マンやトルストイで抜けるコースもあるらしいが、トルストイはどうもボーヴォワール顔負けのひどい代物のようだ。ロンドンの特別コースはセルバンテスとハックスリーにボッカッチョとゴーゴリを少し加えて実にゴージャス。ひどいクスリの緩和剤にはハルムスがいつも効く。ナボコフ=ブーニン=ベールイ=ジョイスとつなぐロシア風トリップもあるが、ナボコフは高級品で、ロブ=グリエの四倍、ナタリー・サロートの一八倍の値がついている。フォークナーは独特で、禁断症状の緩和にもフォークナーが使える……。
そこへようやく作家の名前のついた瓶をたくさん抱えたバイニンが到着、早速ポー、A・デュマ、ラブレー、プラトーノフといったところを提案するが、グループ・トリップの人数が合わない(デュマは一二人、ラブレーは三六人、プラトーノフは一六人用なのだ)。七人用と聞いて彼が最後に取り出すのがドストエフスキーである。新製品で、禁断症状の緩和にはハムスンが良いという。
こうして一同が錠剤を含んで始まるのがドストエフスキー・トリップである。
現れるのは『白痴』のナスターシャ・フィリッポヴナの家での夜会場面。男女の「演ずる」ナスターシャ、ムィシキン公爵、ガーニャ、その妹ワルワーラ、レーベジェフ、イッポリートが、原作のシーン割りを無視して集っている(トーツキー、エパンチン将軍などは省略されている)。ナスターシャが公爵の忠告でガーニャの求婚を断り、続いて十万ルーブリの現金を持ったラゴージンが登場。やがて貧乏公爵ムイシキンが大金持ちになることが明らかになり、ナスターシャをめぐる馴染みの三角関係が現出する。ナスターシャはラゴージンの女たることを選び、ことのついでに十万ルーブリを暖炉に捨ててガーニャに手でつかみ出せと命ずる……。
しかし原作の面影を残すのはここまでで、続くシーンでは主人公たちが奇怪に肥大した各自の欲望を表出し、それを生き始める。守銭奴ガーニャの願望は巨万の富を得てエヴェレストの頂上に城を建て、眼下の群集にダイヤとエメラルドをばらまくこと、妹ワルワーラの夢は世の無垢な妹たちを満載した気球『妹の愛』号で旅に出ることである。道化レーベジェフは巨大な鋼鉄の豚になって世界中のどぶ水や富者の靴底を舐めてまわり、肺病で瀕死のイッポリートは科学技術の粋を集めて新しい肉体を作り、世界に歓喜とオプチミズムを広めようとする。ナスターシャはナパームの火炎放射器をつけた装甲車で世界中に火をつけはじめ、ラゴージンは諸大陸の全女性と順次性交して妊娠させるという遠大な事業にとりかかる。同情の人ムイシキンの夢は自らの三二五五一五〇本の神経の全部にヴァイオリンの弦を結びつけ、世界中の孤児たちの手で『世界の痛み』の調べを奏でさせることである。
各自が狂ったように生きてみせるこの願望夢は、やがてファルスから悪夢へと変わる。宝石が底をついたガーニャは城のダイヤの壁を取り崩す羽目になり、ワルワーラの『妹の愛』号は世の妹たちの重みでタラップが壊れてしまう。レーベジェフは放射性廃棄物に悩まされ、イッポリートの人造の肉体からは筋肉が剥離していく。ナスターシャもナパームの不足と放射器の故障に見舞われ、ラゴージンはヨーロッパの女性の半数と関係したところでインポテンツになる。公爵は孤児たちがでたらめにかきむしる弦の音に苛まれる。
この混乱のあげく、皆は役柄を捨てて自身の心的トラウマの記憶を語り始める。通学の電車で性的いたずらをされた少年、猟犬を死なせて父親に裸の尻を打たれた少年、隣人の男色シーンを目撃した少女、ポリオの後遺症の脚を笑われた少年、瀕死の祖父の体をもてあそび続けた少女、母親との近親相姦にふけった少年、ナチス包囲下の町で死人の尻の肉を集めてカツレツとして売っていた双子の兄弟……。
この回想の後、一同はすっかり虚脱状態に陥ってばたばたと倒れていく。最後に置かれるのは、バイニンと化学者の会話である。「もうこれで三回目だぜ。何度繰り返しゃ気が済むんだ……しまいにゃ客がいなくなっちまうぞ」「……これで実験段階は終了さ。はっきりしたよ、ドストエフスキーを生で用いるのは死につながるってな」「どうするんだ」「薄めるんだ」「なんで」「そうさな、スティーヴン・キングでも使って様子をみるか」
3.コメント
ソローキンの戯曲としては、ボードビルと題された『新婚旅行』、短い4幕ものの『ロシアのお婆さん』があり、映画のシナリオとしてはゼリドーヴィチと共作の『モスクワ』が知られている。活動の領域を広げているソローキンにとって、舞台やスクリーンは目下の関心の対象のようである。
本作の魅力は薬物志向と文学志向をダイレクトに結びつけたアレゴリー性、メタ文学性にある。もちろん文学の枠組みで文学解体を行った『ノルマ』や『ロマン』に較べて小規模の軽い展開であり、表現の制約との遊び、視点やプロットの隠蔽といった要素がない分、印象は単純である。コンセプチュアリズムの文芸として、何が成功で何が失敗かということを考える際に良き材料となる作品だと思われる。
文学=薬物というテーマ設定は、もちろん現代的(ロシア的)ロゴセントリズム批判と、その批判自体へのからかいを含んでいる。薬物的な効果という文脈で言及される作家たちの性格づけも面白いが、ソローキンならもっとひねっていたずらをしてもいいのではと思わせるくらいストレートでもある。
いちばん面白いことの一つは、やはりドストエフスキーの薬物性というテーマ設定であろう。もめ事も和解もドストエフスキーからと言うぐらい、この作家の名前はあらゆる文学シーンに登場してきた。九〇年代に目立つ話題の一つは彼の民族主義をどう解釈するかというもので、F.ゴーレンシテインの戯曲『ドストエフスキー論議』(『テアトル』九〇年二号、執筆は七三年)、Iu.クワルディンの小説『戦場はドストエフスキー』(九六)は、いずれもユダヤ人文学者が登場してドストエフスキーの反ユダヤ的民族主義を批判し、その文学のイデオロギー性、男性原理中心主義、ジャーナリズム的非芸術性などを暴露するという趣向を含んでいる。
V.ポドロガによる「皮膚のない人間」という定義も含めて、現代のドストエフスキー・テーマの展開はラディカルな面白さをたたえているが、半面こうした議論そのものがいかにもドストエフスキー的なものと見えてしまうことも確かである。ドストエフスキーが民族主義者であったか否か、彼の作品がイデオロギーのモノローグ的展開なのか多元性のポリフォニックな統一であるのかといった問題について、われわれはいずれの立場にもそれぞれ有利な論拠をあげることができる。なぜなら彼の作品自体がそうした対立のパラダイムを内包しているからだ。ドストエフスキー論は本人の仕掛けた問いの構造からなかなか出られないようである。
ソローキンのコンセプチュアリズム的な遊びは、そうした矛盾対立だらけの構造を分析するのではなく、それがいかに強力な罠であるかを描写しようとする姿勢に立脚している。物語から解放され局部をデフォルメされた作品世界は、次元を異にした思想や欲望の渦巻きが読者のアイデンティティを揺るがせてしまうようなドストエフスキー文学の生理を模写している。そしてひいてはロシアにおける文学のリアリティ構築力への賛嘆と警戒を伝えている。ドストエフスキーは彼にとって面白くも危険な刺激的「薬物」なのだ。