●レオニード・チシコフ Tishkov, Leonid
解説 鈴木正美
1.作家について
チシコフLeonid Aleksanndrovich Tishkov は1953年5月4日、ウラル地方、スヴェルドロフスクのニジニセルギーという田舎町に生まれた。両親は学校教師で、兄が二人いた。彼は自分がなにかこの世のものでないような、なにか別の世界にいるような感覚を持ち続けた子供だった。友達もできず、自然観察と読書で日々を過ごしたという。高校卒業後はモスクワに出てセーチェノフ医科大学に通った。このころからすでに絵や詩をかいていたが、学業にはあまり熱心ではなかった。在学中にユーゴスラヴィアの国際諷刺画コンテストで金賞を受賞した。1978年に大学を卒業したものの、すでに風刺画とイラストで画家として活躍しており、ベルギー、カナダ、イタリア、ポーランド等国内外の国際諷刺画展に次々に作品を発表した。1985年、芸術家同盟に加わる。1989年、ザミャーチンの『われら』の挿絵でライプチヒの国際ブックデザイン賞を受賞した。翌年、自ら「ダブルス出版社」を設立し、自作品の出版を始める。絵と散文詩の組み合わせによる作品を次々に生み出し、1992年にはベルリンの国際ヴィジュアル・ポエトリー展にも出品。個展で自ら作曲した音楽を用いたパフォーマンスを展開する。1993年にはデューク大学美術館で個展が開催され、175ページものカタログが出版される。その後も本の挿し絵やCDのジャケットのイラストを手がけたり、ミハイル・スホーチンの詩集『巨人たち』(1995) を出版するなど、イラストレーター、風刺画家、詩人、脚本家、作曲家、出版者として精力的に活動を続けている。
作品リスト
Dabloidy. Moscow, Dablus, 1990.
Gazeli. Moscow, Dablus, 1990.
Prostye deistviia D. Moscow, Dablus, 1990.
Zhizn' chelovechika. Moscow, Dablus, 1990.
Son rybaka. Moscow, Dablus, 1991.
Nobye pesni. Moscow, Dablus, 1992.
Dabloidy. Moscow, Dablus sovmestno s IMA-Press, 1991.
Dabloidy. Sochinenie. P'esa v dvukh chastiakh. Mesto pechati, No. 1, 1992. pp. 92-111.
Creatures.Durham, Duke University Museum of Art, 1993.
Stomaki. Moscow, Dablus sovmestno s IMA-Press, 1993.
Churki. Moscow, Dablus sovmestno s IMA-Press, 1995.
参考文献
Doktor iz palaty nomer shest'. Stolitsa, No. 5, 1993. pp. 63-65.
Kuda ty ukhodish', serdtse moe?. Moskovskie novosti, No. 49, 6. XII. 1992. p. 23.
鈴木正美 チシコフ星の生物たち 「ユリイカ」1995年9月号 330-331ページ
2.作品について
・「ジヴフ(象の鼻の中に生きるもの)」 ZhVKh(Zhivushchii v khobote) (1989年)
75×100cmの紙にインクで描かれた一連の作品。一枚につき一話ずつジヴフの生態が語られる。ジヴフは人間と同じ姿をした生き物である。彼らは蟻塚の中から顔だけを出してひたすら象がやってくるのを待っている。彼らはまだ卵の殻の中にいるのと同じ状態だ。象は彼らのうち一人を鼻の中に吸い込む。彼は象の鼻から頭だけを出して生活する。ジヴフはもちろん移動の手段を象に頼っている。時には北極点まで行って旗を立ててくることもある。彼らの歯は頑丈で、重いトランクを口にくわえて運ぶこともできる。象の両方の牙にゴム紐をつけてパチンコにし、それで鳥を打つ名人である。二人のジヴフはそれぞれバイオリンをくわえ、コンビで演奏することもできる。危険を察知するとガスマスクをつけたり、ナイフを口にくわえて戦ったりする。ジヴフの幸福は鼻の中に異性のジヴフと仲よく暮らすことである。雨樋を象の鼻と勘違いしている愚かなジヴフもいる。象と仲たがいしてモリで象を刺し殺してしまうジヴフもいれば、狂った象に後頭部を叩き割られてしまうジヴフもいる。象は時に宇宙大まで成長することがある。おおむね彼らは幸福に暮らしているようだ。寿命をまっとうして、砂漠に象の大きな骨とジヴフの小さな骨が並んで横たわっている光景も見られる。
・「ダブロイドたち」 Dabloidy. (1991年)
1989年に「我が村の人々」と題して描かれた絵物語。1991年に一冊の本として出版され、同作品を戯曲化したものが翌年「メースタ・ペチャーチ」誌(第1号)に掲載された。「ダブロイドたち」はジヴフの話と同じような絵物語だが、内容はさらに複雑になり、絵の中に手書きの文字による物語が縦横にかかれるようになる。「ダブロイドたち」は1989年のウラル地方にあるコルホーズを舞台にしている。ある朝コルホーズの一角で奇妙な物体が発見される。全長 1m30cm、直径 20cmほどの長い枕のようなこの物体はパンのようでもあり、ソーセージのようでもある。この得体の知れない物体を調べていたコルホーズの委員長は、この物体「ダブルス」に触れているうちに日頃の疲れを忘れ、心がなごみ、やがてダブルスを抱いて気持ちよく寝入る。翌日ダブルスは小屋に紐で吊るされるが、親切な老婆に助けられ、彼女のバーニャにかくまわれる。孫たちがダブルスを着せかえ人形のようにして楽しく遊んでいるとコルホーズの大人たちがふみこんでくる。ダブルスの運命やいかにという時にダブルスは突然光り輝き、中から次々と「ダブロイド」が生まれてくる。それは人間の背丈ほどの大きさの足だけの生物だ。つま先は肥大していて、足の上部に向かって円錐形に少しづつ細くなっている。この足だけの生物ダブロイドはどんどん増え続け、コルホーズじゅうに広がってしまう。
ところがこの生物はなにもしない、歩くこともできない。ただそこにいるだけなのだ。何故か人々の心を惹きつけるダブロイドは人の手によってのみ移動することができる。軍隊も出動するがなんの効果もない。やがてダブロイドは人々の心をとらえ、一人にひとつのダブロイドが所有されるようになる。「もうこれなしには生きていけない」という者までいる。それほど心をなごませてくれる生物なのだ。ダブロイドと楽しく遊ぶ子供たちのシーンで戯曲は終わる。
・「チュルカたち」 Churki. (1995年)
A3版変形の大きな絵本(絵物語と画集の中間といった方がいいかもしれない)。「チュルカたち」の主人公は文字どおり木の切れ端のことで、全長 1 m、直径 15cm ほどの木の角材に短い足の生えた生物である。自然、樹木そのもののシンボルであるチュルカ独特の宇宙を持っている。絵本ではチュルカの世界、神話などさまざまなエピソードが語られるが、後半は少女マーシャとチュルカの物語になっている。ある日、空から木製のピノキオのような「ブラチーノ」が降ってくる。彼を見つけたマーシャは彼と共に生活を始める。楽しく暮らしながらも夜毎のように伐採や山火事の悪夢にうなされるブラチーノ。不安になったマーシャは彼を精神科医のもとへ連れて行く。頭の中まで木で出来ている彼は狂人と診断され、入院させられてしまう。その後、マーシャは道ばたで小さな木端チュルカを見つける。植木鉢でこの木片を育てるとどんどん成長して立派なチュルカになる。楽しく暮らす二人だが、異形ゆえに世間から白い目で見られるチュルカ。しかし、ある日マーシャが留守の時をねらって隣人の身体障害者がチュルカをおびき出し、ストーブで焚いてしまおうとする。危険を察したチュルカは逆に彼をその体で撲殺してしまう。殺人犯と彼をかばうマーシャは警察に追われ、逃亡生活を送る。逃亡の果てにたどり着いたのは、チュルカの国だった。チュルカを救った聖女マーシャはこの国の王女となる。そこへ愛するブラチーノが現れ、めでたしめでたしとなる。
3.コメント
絵と物語が一体となった彼の作品と民衆版画ルボークとの関連を指摘する者が多い。彼の育ったウラル地方は古いロシアの文化、フォークロアが残っていて、それが彼の創造する世界の根底になっている。ロシアは東か西か(アジアかヨーロッパか)という昔からある議論もこの地にいるとあまり意味はなく、ごく自然に東西の文化を融合した形で身につけていったようだ。彼の発言にはしばしば古代インド哲学や道教が引用される。
また架空の生物の物語、特にジヴフの話から『鼻行類』を思い出す人もいるだろう。医大で学んだだけあって、解剖学の影響は大きかった。実際に絵を描く上で、非常に役立ったし、解剖の知識からチシコフの絵画に登場する独特の生物たちが生まれたのである。夜の街を淋しく徘徊する胃袋だけの生物「ストマク」などその最たる例だろう。架空の生物の絵はすでに1986年に発行された「ファンタスチカ文庫」シリーズの一冊であるカレル・チャペックの『山椒魚戦争』(ヤン・ヴァイスの『迷宮1000』も収録)に登場している。このあまりにも有名な古典SFにぴったりの挿絵をチシコフは描いている。無表情だがどことなくひょうきんな山椒魚の顔、うすら笑いをうかべる人間たち、空中にただよう目、全体に淡い色彩のなかで山椒魚を構成する有機物だけが不気味な色をしている。そして後にチシコフ世界の重要なキャラクターとなる潜水夫も画面の隅に登場している。また解剖学と絵画という関係はレオナルド・ダ・ヴィンチを思い出させる。「レオナルド・ダ・ヴィンチは一体の死体を解剖し、人間の構造を研究した。そこで私は自己を解剖することによって、自分の恐怖や感情を露にし、各々の人間をシュミレートするのだ」。
チシコフがつくり出す世界は奇妙で猥雑な、それでいてどこか牧歌的でユーモアラスな宇宙を構成している。とても上手いとは言えない絵なのだが、一度見たら、なんとなく忘れられない。なぜ普通の画家のように描かずに、奇妙なものばかり考え出すのか、という質問には次のように答えている。「芸術とはすべて想像の産物だ。単純な方法では魂を開示することはできない。たぶん単純な楽器が太鼓だったら、複雑なものは百弦のギターということになる。音は複雑になるが、しかしそのことが真実のないものということを意味するわけではない」。
代表作「ダブロイドたち」の印象は強烈である。ダブロイドは両性具有だが、同時に男性性器のシンボルでもあるらしい。チシコフによると「私は自分の魂の諸段階を示している。例えばダブロイドはいくぶん哲学的だ。彼らは我々のコンプレックスの模型なのだ」。さらにこのダブロイドはタオすなわち宇宙そのもののことだという。「頭を持った足、これは道という文字である。これは中国語ではタオという。これは首と足という文字からできて、道になる」。男性にして女性、頭にして足、無知にして全知、宇宙卵のようにカオスとコスモスを同時に体現しているダブルスは、至高の存在として天にいるアンドロギュヌスではなく、ウラル地方の農村に現れる日常の存在である。それはまったく欲望を持たず、ただそこにいるだけで、すべてを幸福に導く完全体なのだ。ブラフマンのひとつの表れとも考えられているこのダブロイドは、実は私たち一人一人の身近にいるのだが、心を開いた人にしか見えないらしい。マスコミには彼の作品を精神分裂症の所産と評している者もいるが、こうした良識的な考えの人々にはダブロイドは絶対に見えないし、チシコフの作品を間違っても芸術とは考えないに違いない。チシコフの描く生物たちは、我々の身体への憎悪と愛情を視覚的に増幅した表現と考えていいだろう。我々は我々自身の醜悪さをこそ愛しているのだから。