●ウトキン, アントン Utkin, Anton
解説 今田和美
1. 作家について
Anton Aleksandrovich Utkin. 1967年モスクワに生まれ、92年モスクワ大学歴史学部を卒業。昨年「新世界」誌9〜11月号に掲載された長編『輪舞』で活字デビュー。おそらく「ヤースナヤ・ポリャーナ」誌の発行に何らかの形で関わっていると思われる。
主要作品
Khorovod. Novyi mir, No. 9-11, 1996.
Dorozhnaia misteriia. Literaturnaia gazeta, No. 3, 1997. p. 11.
参考文献
Pavel Basinskii. V 《kontse romana》 ili realisticheskii postmodernizm? Literaturnaia gazeta, No. 48, 1996.
Vladimir Novikov. Vse mozhet sluchit'sia. Anton Utkin zanovo otkryvaet XIX vek. Obshchaia gazeta, No. 49, 1996.
Sergei Fediakin. Otstuplenie v XIX vek. Nezavisimaia gazeta, No. 6, 1997.
2.作品について
『輪舞』 Khorovod.
(第一部)1836年夏、私はモスクワの大学を放校になり、社交界の重鎮である叔父の口利きで、近衛軽騎兵としてペテルゴフのスモレンスク連隊に入隊する。私は徐々に軍の生活に溶け込み、貴族の出である自分と違って孤児で貧しい運命論者の戦友ネヴレフを得る。その頃、私は運勢占いで、兄弟などいないのに「兄弟がおまえを出し抜くが、おまえを幸福にしてくれるだろう」と言われる。
ある日、私はネヴレフとペテルブルグの叔父を訪ね、昔話を聞く。ナポレオン戦争からの凱旋途中立ち寄ったワルシャワ近くの駐屯地で、叔父は友人と賭けをし、深窓の美しい伯爵令嬢ラドフスカヤを一目見ようとする。伯爵が植民地から連れてきた女性との私生児であるラドフスカヤには東方の血が混じっており、それが彼女の美しさを増している、という噂だった。運良く一夜の宿を得た叔父は彼女に恋をするが、結局思いを告げられずに別れる。実は、この時ラドフスカヤの屋敷への道を教えたのがネヴレフの父だった。
秋。後見人であるスルネフ将軍の娘で幼なじみのエレーナとの身分違いの恋をネヴレフに打ち明けられて、私は自分たちの生まれの違いにやるせなくなる。冬宮の火事見物の帰り、二人は偶然通りで叔父と出会い、叔父宅へ。叔父はラドフスカヤとの再会の思い出を語る。
叔父の隊は、ラドフスカヤとの初めての出会いから一年後の1815年、彼女の屋敷近くへやってきた。ある夜、近くの宿屋が焼け、偶然そばを通りがかった叔父はアンジェイという、ラドフスカヤの邸内に教会を営む神父の命を救ったおかげで彼女と再会するが、またも恋心を告げられぬまま屋敷を後にする。
ある日、私が訪ねると、叔父はワルシャワへ行って留守だった。叔父のワルシャワ行きを不審に思う私は、夜中に叔父の書斎で開いた本の中から女性の手になる叔父宛の手紙を見つける。手紙は1831年10月13日付で、父親との確執や子供の健康、ポーランドが占領されたこと、今後どうなるのかという不安、すぐに助けに来てほしい、といったことが書かれていた。同じ本の中にもう一通の手紙が。(叔父の)依頼で探している男は今のところ見つからないがまだ希望は捨てない、という1834年8月15日付のマルセイユ発のものだった。
叔父からの音信がないままクリスマスが近付き、ネヴレフがまだ忘れられずにいたエレーナは二十歳も年上のポストニコフと婚約する。そんなある日、酔った勢いで私はネヴレフらとペテルブルグへ繰り出し、通りで悪戯をし、私とネヴレフだけが逮捕されてカフカスへ流される。
(第二部)二週間後、スタヴローポリに到着した二人に、偶然叔父を知るカフカス戦線司令官セヴァスチヤノフが、叔父の起こした事件の話をする。
1817年冬、ペテルブルグに休暇でやってきたセヴァスチヤノフは、叔父から、丁度ペテルブルグに来ているラドフスカヤ伯爵令嬢との結婚の介添人になってくれるよう頼まれる。結婚式の最中に警察に踏み込まれ計画は失敗、セヴァスチヤノフは辺境へ流され、叔父は営倉送りの罰を受ける。伯爵父娘はすぐにペテルブルグを去り、ラドフスカヤがその後どうなったかは不明だ、ということだった。
さらに私は出張先で、クヴィスニツキというポーランド蜂起後ロシア軍に捕らわれ、一兵卒として8年近く働かされやっと帰国を許されたポーランド人と出会い、驚くべき話を聞く。
ワルシャワが陥落した1831年、ポーランド軍の命である重要な手紙を運んでいた彼は負傷し、父の戦友だったラドフスキ邸に匿われる。ラドフスカヤは13歳になる息子アレクサンドルがなついたクヴィスニツキに、次のような打ち明け話をする。
アレクサンドルの父親がロシア人であるために、父ラドフスキは彼女に心を開かない。一方アンジェイ神父はラドフスキの遺産をイエズス会のものにしようと彼に取り入り、その趣旨の遺言状を作成させ、アレクサンドルをイエズス会に教育に出そうとしている。そこへ蜂起が始まり、ペテルブルグに住むアレクサンドルの父親にすぐ来てくれとの手紙を書いたがまだ到着しない。自分は肺結核でそう長くはなく、何かあったら息子を頼む、とのことだった。
ラドフスカヤの頼みに請け合ったクヴィスニツキはしかし、コサック兵に捕らえられ、南方へ送られてしまう。ラドフスカヤとロシアの貴族がその後どうなったかはわからない。
春、スタヴローポリに二つの大隊が到着し、我々は旧友との再会を喜ぶが、再会の酒席である友人にエレーナとのことを皮肉られ、侮辱されたネヴレフは決闘して殺し、昇給・昇進を止められた上、前線へ送られてチェルケス側の捕虜になってしまう。営倉入りになっていた私も、夏になるとやはり前線近くへ送られ、何とかネヴレフを探し出そうとするがかなわない。そんな時私は、昔からカフカスの山岳民族に伝わる、過去と未来の出来事がすべて書かれているという「魔法の書」の話を上官から聞くが、おとぎ話にすぎないと一笑に付す。ある日私は、叔父がフランスでコレラで死に、全財産を私に残したというモスクワからの手紙を受け取る。
(第三部)軍務について5年後の184X年早春、私は退役しモスクワへ帰る。都会に飽きた私がカルーガ郡の田舎へ赴くと、隣村に偶然、離婚し父を亡くしたエレーナが母と暮らしていた。二人と懇意になる私。ある日私は、隣人の退役中尉フルツキー宅で、ラドフスカヤ母子の肖像画を見つけ、買い求める。
彼は、実はラドフスカヤ邸に匿われていたクヴィスニツキを逮捕した憲兵隊の一人で、家宅捜査中に火事になった屋敷からその絵を持ち出したのだった。伯爵はその騒ぎの中自室で息をひきとり、アンジェイ神父は放火の疑いで銃殺、ラドフスカヤ母子の行方は分からないという。
初秋、エレーナと結婚した私は、ペテルブルグの叔父宅で遺品の中にフルツキーから買った絵と同じラドフスカヤ母子の肖像が描かれた煙草入れを見つける。
晩秋、我々夫婦はパリへ到着し、あるパーティーで貿易商のアレクサンドル・デ・ヴェリドという東洋の血が混じったハンサムな青年と知り合う。パーティーの席ではある作家が、この世の終わりまでに起こる出来事がすべて書かれた「偉大な東方の書」についての新作の小説を朗読する。
その後、私はアレクサンドルと親しくなるが、彼と妻エレーナとの浮気を知った私は決闘を申し込む。決闘の前夜、介添え人のアルフレッドからアレクサンドルの非凡な運命についての話を聞く私。
母ラドフスカヤの死後、遺産を狙うカトリック教会により南仏へ連れて行かれたアレクサンドルはカルトゥジオ会の修道院で育つ。やがて有名なロシアの貴族がアレクサンドルを探してやってくるが、デ・ヴェリド院長の陰謀で父子は会えない。アレクサンドルは院を出てマルセイユのロシア領事館へ赴く途中、訳あってレナンというアヴィニョン一の葡萄園主のもとで働くことになるが、まもなくレナンはアレクサンドルに全財産を残して死ぬ。アレクサンドルは、葡萄園の経営に成功し、社交界の注目の的となり、近々渡米することになっていた。
私が決闘に出発した後、アルフレッドは謎のピストル自殺を遂げる。私は決闘でアレクサンドルの銃弾に倒れる。
(第四部)二週間後意識を取り戻した私は、エレーナが謝罪の手紙を残しアレクサンドルと渡米したことを知る。私は以前パーティーで「魔法の書」についての小説を朗読した作家の居所を突き止めようとするが、彼はすでに決闘で殺されていたことを知り、一人ペテルブルグへ帰る。
ある日死んだはずのネヴレフが訪ねてきて、自らの冒険談を語る。チェルケス人の捕虜となった彼は、ある日、昔やはり捕虜だったフランス人が森の奥の石に彫り残したという仏語のメッセージを解読させられる。チェルケス人たちは、それが自分たちへの呪いでありすべての災いの元だと考えていたが、そこに記されていたのは、過度な好奇心からカフカスで生涯を終えることになった自らの運命への嘆きと、過去と未来の出来事が網羅された「魔法の書」の発見とその本の隠し場所だった。「魔法の書」に関する部分を省いてチェルケス人たちにそのメッセージを通訳してやった帰り道、ネヴレフはとあるチェルケスの若者に救われ、奇跡的にロシア軍の駐屯地に戻ることができた。そこで再び昇格を許され、6年を過ごし、今では中佐になっていた。ある時「魔法の書」が隠されているという古い寺院跡にやってきた彼は、ついに「魔法の書」を掘り起こすが、キツネに食べられて本の中味は失われていたという。
ネヴレフと別れモスクワへ行った私は、旧友からネヴレフがカフカスの前線で戦死したと聞かされる。
(エピローグ)今では私は田舎で、ネヴレフの妹の忘れ形見の子供たちを育てながら暮らしている。
『道中のミステリー』 Dorozhnaia misteriia
時はおそらく現代。モスクワ発クリミア行の列車のコンパートメントで私が同室になったのは、60才近い、ジーンズと派手なアロハ・シャツを着たギリシャ人と思える男だった。彼は私に、長いこと離れていた旧友にするような昔話を馴れ馴れしく始める。古代ローマ時代を回想する「気のふれた歴史家」を不気味に思う私だが、そのうち本当にどこかで会ったような気がしてくる。男は古代ローマ時代には近衛司令官だったが、今では狡猾な時計の行商人だった。翌日、目的の駅に着いた男は、暖かい目で私を見つめ、「お前はすべてを覚えているが一時的に忘れているだけだ」と言い、下車する。私は突然すべてを思い出して非常ブレーキを引くが、列車は走り続け、私は一人きりで列車の旅を続ける。
3.コメント
『輪舞』
「新世界」誌掲載時に「これは雑誌バージョン」との断り書きがあるので、おそらく実際はもっと長くとても掲載しきれなかったのではないか。
設定(カフカス、決闘、余計者……)と文体は、19世紀ロマン主義文学(特にレールモントフ)を強く意識したもの。直喩が多用され、ストーリー・テリングは巧みだが、時に説明が回りくどすぎることも。
下地となるのは主人公兼語り手による一人称の語りだが、第三者による語りや手紙など、他者の声が大量に含まれている。「私」(+親友ネヴレフ)の物語と叔父(+息子アレクサンドル)の二つ(あるいは四つ)の物語が平行して進み、語り手である「私」は現在と過去を何度も往復する。現在と過去は非常に密接につながりを持ち、運命の糸でつながった複数の登場人物や事件の謎解きの形で物語が進んでいく。
「階層」「運命(占いや予言)」「言葉」といったモチーフが繰り返し現れる。
「なぜ今19世紀物なのか?」という疑問が浮かぶが、「本物の小説」(ドストエフスキーやトルストイのような心理長編小説)を待望するロシア文学界の伝統とポストモダン的な実験小説のある種の限界が見えてきたことが重なって書かれるべくして書かれた小説なのかもしれない。エピグラフにはカラムジンの『ロシア人旅行者の手紙』が引かれており、「長編小説の時代は終わった」とする冷めた読者に対する挑戦ともとれる。
「ジャンルが曖昧」との批判もあるが、よくできた「歴史小説+私小説+推理小説」と呼べるのでは?
作家としての評価
『道中のミステリー』が掲載された「文学新聞」には、「多くの批評家に“96年にデビューした作家の中でダントツ”とされている」という枕詞がついている。アナトーリー・キムは昨年12月の「文学新聞」で「今年最も喜ばしかった文学界の出来事」として「ポストモダニズム的リアリズム」の小説家たち(ウトキンの他に Vladislav Otroshenko, Vladimir Sotnikov )との出会いを挙げ、彼らを洗練された創作技法や真の精神性、美的感覚、知性を兼ね備えた作家と高く評価している。
パーヴェル・バシンスキーも同じく『輪舞』を「リアリズム的ポストモダニズム」の作品と呼び、筋立ての巧みさや構図の厳密さという点では前例のないデビュー作のお手本としながらも、ジャンルが曖昧なためにリアリストにもポストモダニストにも受け入れられないだろう、とのかなり辛口の批評だ。
一方、『輪舞』を悪名高きポストモダンとは無縁な作品とするのは、ヴラジーミル・ノヴィコフである。彼によれば、ウトキンはポーランドの作家ヤン・ポトツキの影響を受けており、新たに19世紀を発見し、トゥイニャーノフやオクジャワの影響下にあったここ数十年の歴史小説に新たな進歩をもたらしたことになる。
セルゲイ・フェヂャーキンは、『輪舞』は現代という悪趣味な時代に書かれた趣味の良い小説であり、ウトキンには今後、今回のような歴史小説を書き続けるか現代小説に転換するかの二つの選択肢がある、としているが、私には過去と現代をない交ぜにした『道中のミステリー』のような作品という第三の選択肢がより魅力的に思える。ともかく、第三作以降に期待したい。