●ヴォイノーヴィチ, ウラジーミル Voinovich Vladimir
「モスクワ 2042年」 Moskva 2042. Ardis, 1987.
解説 西中村 浩
1. 作家について
1932年、タジキスタンのスタリナバート(Stalinabad, 現ドゥシャンベ)生まれ。父親はセルビア系のロシア人でジャーナリスト、母親はユダヤ系で数学の教師であった〔このあたりの事情は昨年発表された回想記風の《Zamysel》(Znamia,No. 10-11,1994)の少年期を描いた部分で詳しく書かれている〕。1951年から1955年まで軍隊に勤務。はじめは詩を書き、60年にモスクワのラジオ局で仕事をしながら、この間に50ほどの作詞をする。61年、最初の中編小説《My zdes' zhivem》(Novyi mir, ・1, 1961 )を発表。以後、主としてドヴァルドフスキイが編集長をしていた《Novyi mir》に中編を発表。こうした初期の作品はテンドリャーコフのような作家に好意的に受け入れられる一方、社会主義リアリズムには無縁の「現実をあるがままに描く手法 (Poetiki izobrazhat' zhizn' kak ona est)」ゆえに批判もされた。63年から彼の代表作のひとつとなった《Zhizn' i neobychainye prikliuchenie soldata Ivana Chonkina》を書きはじめる。69年に作家に無断でその最初の数章が国外の雑誌に掲載されたために、国内では作家としての活動が極度に制限されるようになるが、そのほかにもダニエル・シニャフスキイ裁判に抗議したり、ソルジェニーツィンを擁護するなどの活動もあって74年には作家同盟から除名される。80年には当局から亡命するよう迫られ、同じ年の12月ついにドイツに亡命し、以後は現在にいたるまでミュンヘン近郊に住んでいる。
初期の作品はかなりリアリスティックなものだが、『チョンキン』以後は現代ロシアの代表的な風刺作家であり、サルノフなど多くの批評家によってゴーゴリやサルトィコフ・シチェドリンの系譜につながる作家と考えられている。90年前後から過去の作品が国内でも出版されるようになり、このころ作家も一時帰国し、いろいろなインタビューを行うなどロシアでの活動も盛んになってきているが、90年以降の新しい作品は現在までのところ(わたしが知っているかぎり)去年発表された回想記風の《Zamysel》だけである。「ソヴィエト」が崩壊し、かつてヴォイノーヴィチ自身が体験したソヴィエト的な現実が過去のものとなりつつある現在、その風刺がどこへ向かうのかはいまのところわからない。
☆主な作品(作品集)
My zdes' zhivem. Povest'. Novyi mir, No. 1, 1961.
Khochu byt' chestnym. Povest'. Novyi mir, No. 2, 1963.(本来の題名は《Kem ia mog vyt' stat'》)
Rasstoianie v polkilometra. Povest'. Novyi mir, No. 2, 1963.
V kupe. Stsenki. Novyi mir, No. 2, 1965.
Dva tovarishcha. Povest'. Novyi mir, No. 1, 1967.
Vladychitsa. Povest'. Nauka i religiia, No. 4-5, 1969.
Povesti. Moscow, Sov. pisatel', 1972. (My zdes' zhivem, Dva tovarishcha, Vladychitsa) Stepen' doveriia: Povest' o Vere Figner. Moscow, Politizdat, 1972.(本来の題名は Dereviannoe iavloko svobody.)
Putem vzaimnoi perepiski. Povest' Grani, 1973. No. 87-88.
Litso neprikosnovennoe: Zhizn' i neovychainye prikliucheniia soldata Ivana Chonkina. YMCA-Press, 1975.(一部はGrani 72 , 1969)
Proisshestvie v Metropole. Rasskaz. Kontinent, No. 5, 1975. (邦訳あり 1979年)
Ivankiada, ili rasskaz o vselenii pisatelia Voinovicha v novuiu kvartiru. Ardis, 1976.(邦訳あり 1979年)
Pretendent na prestol: Novye prikliucheniia soldata Ivana Chonkina. YMCA-Press, 1979. ( Zhizn' i neovychainye prikliucheniia soldata Ivana Chonkina. kn. 1, 2としてArdis,1985, 1987. 国内では kn.1 が Iunost', No. 12, 1988─No. 1-2, 1989, 単行本として Knizhnaia palata より1990年. 邦訳は1977年)
Putem vzaimnoi perepiski. YMCA-Press, 1979.(短中編と公開状)
Fiktivnyi brak: Vodebil' v odnom deistvii. Vremia i my, No. 72, 1983.(Oktiabr', No. 10, 1990)
Antisovetskii sovetskii soiuz. Stat'i. Ardis, 1985.
Tribunal: Sudebnaia komediia v 3 d. London, 1985 ( Teatr, NO. 3, 1989.)
Moskva 2042. Roman. Ardis, 1987.
Shapka. Povest'. London, 1988.
Khochu byt' chestnym. Povesti. Moscow, Moskovskii rabochii, 1989.(過去の作品と公開状を集めた作品集)
Zamysel. Znamia, No. 10-11, 1994.
2. 作品について
作者自身をモデルとしたと思われるミュンヘン近郊に住む亡命ロシア作家Vitalii Nikitich Kartsev(ただし年齢は作者よりも10才年下の1942年生まれ)が主人公。1982年のある日、作家は友人のドイツ人実業家から光速より早く飛行することによって未来へ行く装置が開発されたことを知り、さっそくルフトハンザへ行って2042年のモスクワ行きの切符を手に入れる。この未来への旅行についてはだれにも話さなかったにもかかわらず、この日から作家のまわりで奇妙な事件が起こる。まず自転車で散歩している途中、富裕なアラブの権力者に誘拐され、莫大な報酬と引き換えに未来には公開されているはずの水爆の設計図をもってくるように頼まれる。つづいて、永い間会わなかったかつての大学時代の同級生でいまはKGB将校になったBukashevと「偶然に」出会うが、なぜか彼は旅行のことを知っていて、帰ってきてから連絡するという。さらに、いまは反体制運動の権威となっている亡命作家Sim Simych Karnavalov(モデルはソルジェニーツィンか?)にカナダまで呼び出される。だが、Karnavalovはなかなか会ってくれず、しばらくその広大な邸宅に足止めされた KartsevはKarnavalovが毎朝ボディガードを従えて、白馬に乗ってロシアに専制君主として帰還する予行演習をしているのを目撃する。ようやくこの大作家に会えたKartsevはフロッピーディスクに収めたその大部の作品を未来のロシアに持っていくよう指示される。
ようやくミュンヘンに帰ることのできた作家は、家族や友人に盛大に歓送会をしてもらったあとで、二日酔いと寝不足で痛む頭をかかえながら、未来へ向かう飛行機のような乗物に乗り込む。だが、この飛行の途中でも不思議な光景を目にする。途中で出会った宇宙船にBukashevが乗っていたのだ。いぶかしく思いながらも未来のモスクワに到着すると、他の乗客はすべて連行されたのに、彼だけは特別な待遇を受け、空港で盛大な歓迎を受ける。どういうわけか彼はこの時代より一時代前の「予備的な文学(predvaritel'naia literarura)」の古典的な作家となっており、彼の生誕百周年記念を祝う祭典が準備されようとしていたのだ。そして、作家は特別に用意された装甲車に乗せられていよいよ2042年のモスクワへ向かうことになる。
未来のモスクワは、老人たちの支配に反対したBukashevに指導される「怒れるKGBの将校」たちが8月革命によって作り上げた、一国ならぬ一都市の内部だけで実現された共産主義社会「モスクワ共産主義共和国(Moskorep)」となっていた。ホテルの一室を与えられたKartsevはユートピア社会で生活を楽しんでいる人たちの夢を見る。だが、翌日ホテルを抜け出したKartsevの見たものはおよそユートピアとはかけ離れたものだった。やがて世話をしてくれる彼の祝典準備委員会のメンバーなどの話からこの社会の様子が少しずつ明らかになっていく。共産主義都市モスクワは第1の敵対環(かつてのソ連の諸共和国)、第2の敵対環(かつての社会主義諸国)、第3敵対環(資本主義諸国)から鉄条網のついた壁で完全に遮断された社会であり、そのkomunianeと呼ばれる住民たちは衣食住のほかに呼吸、水など受けるサービスによってランクづけされ、その住む区域も3つの環に分けられている。そして、ここではかつてのソヴィエト社会の抱えていた矛盾が奇妙な形で解決されているのだった。住民は基本的に無料で1次製品(pervichnyi produkt)と呼ばれるようになった食料を提供されるのだが、そのためには2次(btorichnyi) 製品と名づけられるようになった排泄物を提供しなければならなかった。また、トイレットペーパーの不足はトイレットペーパーを新聞にすることによって解決され、老人や犯罪者の問題は彼らを外の世界へ追放させるという形で解決されていた。宗教は完全に政治のなかに組み込まれ、存在しない神の代わりに超天才(Genialissimus)と呼ばれる指導者 Bukashev を讃え、共産主義の宗教儀式を普及するために存在している。また作家は2つの部類に分けられ、無紙文学に属する作家・詩人たちの創作の自由はコンピューターの本体のないキーボードに打ち込むことでなんでも書くことができるという形で実現され、一方、有紙文学の作家たちは自然描写の専門家、戦闘場面の専門家というように専門分化され、共同で指導者の生涯を書くことになっていた。これは芸術的にも、イデオロギー的にもレベルの高い作品を書くことができるようにするためであった。
だが、それでも未来のモスクワの指導者たちにとってのユートピア世界にはまだいくつかの「矛盾」が残っていた。官僚化したかつての「怒れる将校」たちは Bukashev の改革を嫌い、彼を宇宙に追いやることによって象徴的な存在とし、自分たちは地上の実権を握り、その地位を保持しようとしていた。一方、こうした政府に反対する Simit と呼ばれる Karnavalov の信奉者たちが隠れた大きな勢力として存在していた。そして、Karnavalov自身は自分の体を冷凍保存してロシアに専制君主として帰る日を待っていた。こうした矛盾の存在に作家が気づくようになるとともに、彼がこれほどこの社会で特別に待遇されている理由も明らかになってくる。 Simit の存在はどうやら彼がこれから書くことになっている(しかし未来世界ではすでに書かれている)この『モスクワ 2042年』という小説で Sim Karnavalov について書いたことが原因になっていたのだ。彼の祝典を準備している指導者たちは Kartsev に Karnavalov にかんする記述を小説のなかからすべて削除してもらい、書き直された作品を出版することによって現実の Karnavalov と Simit を抹殺しようとしていた。そして Kartsev を特別に優遇するとともに、さまざまな圧力をかけて完成された小説を書き直すように強要する。だが、酒と女にはだらしない Kartsev もさまざまな圧力や迫害を受けながらも作家としての良心を守りとおそうとし、委員会のメンバーたちの申し出に対して Sim という名を Serafim という名に変えるだけに留める。
こうして指導者たちの作家の説得工作は功を奏することなく、生き返った Karnavalov はかねての念願どおり共産主義を倒して、白馬にまたがってロシアに専制君主として帰還する。Karnavalov の指示を果たさなかった Kartsev は逮捕されるが、果たせなかった理由がこの社会にフロッピーディスクを使えるコンピューターがなかったためであることがわかると、釈放され、いまや皇帝にして全ルーシの専制君主となった Serafim 1世に未来社会で見たことを現在の(1982年の)Karnavalov に伝えるように命じられて、現代に戻ることを許される。
現代世界に帰ると、今度は作家が書こうとしていたこの小説の噂を聞いた Karnavalov の秘書から電話があり、Karnavalovについての記述をすべて削除するように求める。だが、未来社会でさまざまな迫害にも屈せず作家の良心を守りとおした作家はこの要求をも拒否する。
3.コメント
全部で7章からなる長編小説だが、未来社会を見て書いたはずの小説が未来社会のできごとを逆に規定してしまうといった奇妙な筋立てや未来社会での反乱などの事件があるものの物語としての起伏には若干乏しい。また、各章がそれぞれ表題のついたせいぜい数ページの小さなエピソードに分かれ、かなりゆるやかな構成である。語り口は1人称でなされ、未来社会での体験、未来社会のリアリティの描写、さまざまな問題をめぐる対話、作者の印象や考えが絡み合っているために、やや冗長な感じもするが、ユーモアとアイロニーの豊富な軽快な語り口の文章である。
この小説が出版されたのはちょうどソ連国内でザミャーチンやオーウェル、ハックスリ
ーなどの小説があいついで出版されたころだったという事情もあって、こうしたアンチ・ユートピア小説の系譜において読まれたこともあったが、いま読み返してみると、たとえばオーウェルのような深刻なテーマを扱ったものではなく、ヴォイノーヴィチが『チョンキン』や『イヴァンキアーダ』、あるいはこの小説よりあとに書かれた官僚的な作家を風刺した小説『帽子』と同じようなテーマを扱っているように思われる。『チョンキン』について現代ロシアの批評家サルノフは、ソヴィエト社会内部のさまざまな欺瞞に満ちた行動の「規則」(uslovnost')を不可避のものとして受け入れ、「規則」にしたがって、言わば演じているように、行動し、発言し、ものを書くのに慣れた人々とチョンキン(=ヴォイノーヴィチ)との大きな違いは、彼がこうした「規則」になんらかの確固とした原理や確信にしたがって反発しただけではなく、明確な理由づけはなくとも、こうした「規則」が人間の自然の本性に反するものとして、反対している点であると書いている。ただ、亡命作家を主人公とした1人称のこの小説では作家のアイロニカルな目は亡命ロシア人、反体制作家たちにも向けられ、さらに文学者の良心を毅然として守る人間である一方で、禁欲とはおよそ縁のない人間で酒と女性の誘惑にはだらしなく、また凱旋する Karnavalov が投げる数セント硬貨を馬の下にはいつくばってまでも拾おうとする作家である主人公自身にも向けられている。反ソヴィエト的な明確な理念をもち、一定の原則にもとづいてソヴィエト体制を批判する傾向の強いいわゆる反体制の作家たちのなかでヴォイノーヴィチが特異な位置を占め、またその風刺が体制が変化しても少しも古く感じられないのは、主人公のなかでこのふたつの面が矛盾なく描かれているからだろう。
だが、『われら』や『1984年』のようなアンチ・ユートピア小説の古典を背景としてこの小説を読むと、また別の面が浮かび上がってくる。アンチ・ユートピア小説の基本的なプロットは理想社会に存在する矛盾を深刻に受け止めた内部、ないし外部の人間の反乱という形で構成されることが多いが、この小説ではSimit、あるいは外の世界から来た「野蛮人」 Karnavalov が存在するにもかかわらず、その反乱はプロットの構成にほとんどかかわっていない。そのかわりに中心になるのが主人公が書いた(ことになっている)小説の存在であり、未来社会のできごとはこの小説で書かれたとおりに起こる。これはヴォイノーヴィチがこの小説で強調したかった重要なテーマのひとつ「2次的なものは1次的である (vtorichnoe pervichno)」という未来社会の重要なスローガンをめぐる問題とかかわっているように思われる。もともとは(内容概説のところですでに触れた)食料の配給に関するこのスローガンは、未来社会のイデオロギー、アンチ・ユートピア小説というジャンルにかかわっている。すなわちこの共産主義社会(そしてソヴィエト社会)においては、生の現実(すなわち1次的なもの)は一定のイデオロギーによって再構成された現実(すなわち2次的なもの)によって完全に取って代わられているのである。ザミャーチンの『われら』においては未来社会の現実は同時代の多くのイデオロギーを再構成することによって作りだされているが、そこでは小説の虚構性を強調することによって、こうして作りだされた2次的な世界が虚構にすぎないことが示される。一方、ヴォイノーヴィチの小説においては文学者としての良心ということ以外の原則や確信から自由な(あるいは無原則な)、とりわけ食事や酒や性など非常に卑近なことがらにまで関心をもつ人間が見た生の世界によって、共産主義社会のイデオロギーで作りだされた2次的な現実が「異化」されているということができよう。
また、この問題は現実世界と小説世界の関係にもかかわるものである。エピローグで「小説そのものについては書く前にそれを読んだような感じになった。というのは、この物語は自然にできあがっていったようで、そのなかのなにが1次的で、なにが2次的なのか自分でもわからなかった」と書かれているが、小説の世界、虚構の世界の現実性というテーマはおそらくナボコフなどにつながっていくものだろう。
だが、残念なことにこのテーマは小説のなかで充分に展開されているとはいえず、テーマ自体も作家の良心という問題や風刺などに覆われてあまり目立たない。