SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )
Copyright (c) 1996 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.
An identity is questioned only when it is menaced, as when the mighty begin to fall, or when the wretched begin to rise. Identity would seem to be the garment with which one covers the nakedness of the self: in which case, it is best that the garment be loose, a little like the robes of the desert, through which one's nakedness can always be felt, and, sometimes, discerned.
James Baldwin, American writer
問題点:
1. ロシアの新しいアイデンティティの模索
2. その主なパターン
3. 外交への影響
1991年8月のロシアの民主主義革命には三つの側面がある。すなわち政治(共産党支配制度の終結)、経済(市場経済化)、民族解放(ソ連邦の解散)の諸 側面である。そのうち最後のものは心理的には特に複雑で、様々な問題をもたらした。共産主義の思想と効率の悪い経済モデルから解放された新しいロシアが、 政治・経済の分野における大きな試練を迎えたことはやむ得ないが、ソ連解体が「回避可能」であったし、偉大なる「祖国」の「維持」が十分可能であったとい う見方も、最近はあまり珍しくない。民族解放といっても、ソ連という国は特殊な帝国であって、支配していたのは一国とか一つの国民ではなく、共産主義とい う思想とその思想をかかげた共産党という勢力だった。この意味では、ソ連の解体はロシアとロシア国民にとっても民族解放の行為であった。ところがその意識 はまだあまり普及していないし、またソ連解体がソ連時代に存在していた旧共和国の国境線に沿って行われたことが、妥当であるか否かとの疑問も生まれてい る。ロシア帝国時代にははっきりした国境線を持つ民族国家がなかったのに、ロシアボリシェヴィキが自分なりの恣意的な民族政策にしたがってこれをやった。 その名残が今でも感じられるのである。
ウクライナとの争いの種になっているクリミア半島とセヴァストポリを巡る議論の中には、ナショナリスト勢力の盛り上がりが目立つだけでなく、民主 勢力の戸惑いも観察されるのである。次期大統領の有力候補と目されるモスクワ市長ルシコフ氏の「フルシチョフがクリミア半島をウクライナに提供したのは、 ウクライナのロシアへの自由加盟300周年記念日の一種の手みやげであって、すでにソ連邦が存在しなくなった現在では、この決定は無効である」という発言 は、ロシア国民にアピールするにちがいない。
また、新しい国境線がロシアの周りに突然生じたことだけではなく、「ロシアの母の町」と呼び慣わされてきたウクライナの首都キエフが、今や「外 国」の都となってしまったことも、国民意識にとってにわかには納得できないところである。
いずれにせよエリツィン大統領は、クリミア半島もセヴァストポリ軍港もウクライナの領土であるという思い切った声明を、自分のプレスマンを通じて 発表し、これによってイメージダウンが避けられなかった。その反面、自分が愛国主義者であることを立証するために、国境線の不可変の原則を何回も訴え、ロ シア領土の統一を守り領土を絶対に譲らないという姿勢を示している。おそらくソ連解体によって失われた領土は、戦争を起こさない限り取り返せないと充分自 覚したうえで、残っている領土を一貫して守るという立場であろう。
しかし新しいロシアにとって、領土の問題のほかにおそらくもっと重要な問題がまだ未解決である。これは新しいロシアのアイデンティティのことであ る。ロシアは様々な危機に悩んでいるが、その一つはアイデンティティ・クライシスであるといっても過言ではない。独立した民主主義ロシアのアイデンティ ティがどういうものであるか、またはどういうものであるべきか等の質問に答える事が、急務となった。その答えが得られないうちは、ひょっとすれば政治・経 済改革もうまくいかないし、国内安定も達成されないという見方もある。
ロシアのアイデンティティを巡る議論が集中的に現れてくるのは「ロシアのアイディア」についての論争である。これはただアイデンティティという事 ではなく、ロシアは何のために存在しているか、何の目的をたてて頑張るべきかという問題である。第一次世界大戦時にベルジャーエフ が「世界大戦はロシアの国民的自己意識に関する焦眉の問題を投げかけた。ロシアの国民思想は、ロシアの謎を解き、世界におけるその位置と役割を決定する必 要と義務を自覚している」と書いたが、今現在もロシアの前に同じような課題が立ちはだかっている。
ロシアのアイデンティティの様相を把握しようとする時、最初の第一歩から大きな問題が起こる。国としてのロシア及び民族としてのロシア人を、どう いうふうに定義すればいいのか。外国語では言葉一つしかないのに、ロシア語では二つの定義がある。つまりルーシ(Rus')及びルスキー (Russkii)と、ロシア(Russia:憲法上はロシア連邦)及びロシイスキー(rossiiskii)、ロシアニン(rossianin)であ る。国の名称はやはりロシア[連邦]でありルーシではないが、国民は、90%がルスキーであってもロシアーネ(ロシアニンの複数)である。多民族的な国で ある限り仕方がない。ということは、ロシア連邦というのは多民族的であるだけではなく、多国家的であり、それぞれの民族共和国がそれぞれの言語と宗教を 持って参加できる、新しいアイデンティティを目指すべきではないだろうか。ちょうどソ連時代の共産党の綱領や憲法に“新しい文化的な共同体であるソ連人” と定義されていたのと同じように、今はロシア連邦の“新しい共同体であるロシア連邦人”という表現がふさわしいのかもしれない。
しかし、ロシア連邦に所属する民族共和国が、必ずしもロシアと一つの大きなフレームワークを共有するようなアイデンティティを求めるかどうかとい うことも、問題になっている。その意味で、チェチェン戦争はロシア人の自己意識にも大きな影響を与えたと思われる。チェチェンの大統領選挙の候補のプログ ラムを見ても、ロシアのアイデンティティと対立するイスラム教的な価値がトップになっている。回教法典のスローガンが、チェチェン国民へのアピールの第一 と第二のポイントになっているのである。
市場経済下の道をたどっているロシアには「反資本主義」の感情が強くなりつつある。これも明らかにアイデンティティのクライシスの現れであり、ロ シアの伝統的なアイデンティティに深く根ざした問題である。「反資本家」の理念と低い「階級意識」を持ったロシア文化の権威の一人が、ドストエフスキーで あった。彼は「地主」であったトルストイとツルゲーネフを鋭く批判したりののしったりしている。
「ツルゲーネフには一体にロシアの生活についての知識が欠けている。民衆の生活については、彼は一緒に猟をした屋敷付きの召使い(『猟人日記』の 登場人物)から一度聞いただけであり、それ以外にはなにも知らなかったのだ」「貴族の作家、大地主の作家というのがいる。レフ・トルストイやツルゲーネフ は大地主だ。ポレヴォーイはその文学史の本に、バーデン=バーデンのツルゲーネフの屋敷の絵を掲載している。だがバーデン=バーデンのツルゲーネフの絵 が、ロシア文学になんの関係があるというのか?しかしこれこそが資本の力なのだ」*1
ドストエフスキーにとってロシアの貴族階級は欧州と密接な関係を持っているので、「西欧主義者」は貴族階級を支持せざるをえないということにな る。それどころか「文明」という概念自体がヨーロッパからロシアに伝わったものである以上、文明の支持者は即貴族階級の支持者ということになるのである。
「わが国では文明(つまりヨーロッパ式の市民秩序)の支持者は必然的にヨーロッパ主義の支持者であり、つまりは西欧主義者である。従って彼らは貴 族階級を支持せざるをえない。なぜなら貴族階級のみがヨーロッパ主義の提唱者だったからである」*2
もちろんドストエフスキーの思想はもっと複雑であり、しかも以上は草稿ノートからの引用で留保が必要である。しかしロシアの文学・文化の大家で あったこの人物の考え方は、伝統的な「反資本主義」「反ヨーロッパ主義」をよく表していると言えるのではないか。
2. 新しいアイデンティティの形成には、四つの基本的な要素が作用していると考えられる。つまり、a)遠い過去の遺産である革命前のロシア本来の アイデンティティ、b)近い過去の大国ソ連のアイデンティティ、c)現在ソ連崩壊と改革によってできた厳しい現実のプラグマチズム、d)将来への期待と近 代化(民主主義と市場経済化)への願望(aspiration)である。
この四つが非常に微妙な相互関係で混じり合っているのが現況だが、それを論ずるのは本稿の課題を外れる。ここではただ、国民のアイデンティティに関 する問題の中で、外交政策に影響するいくつかの伝統的な要因を選別し、議論してみたい。そうした伝統的な要因は、ロシア哲学者のベルジャーエフの論文によ く代表されているので、それを引用して論点を展開していこう。その要因とは以下のようなものである:
1. 偉大な国(国家)の意識
2. 世界のためのロシアの特別な使命の自覚
3. ロシアは東洋であるか西洋であるかという「永遠の問題」の悩み
4. 「包囲された要塞」のコンプレックスとロシア風の「外圧」感
5. 国家と権力の「聖なる」本質の意識、宗教との関わり合い
1)偉大な国(国家)の意識 「革命前の、戦争中に書かれた論文集を、私は悲しい気持ちで読み返していた。偉大なロシアはもう存在しない。ロシアが直面した世界的な課題も消えてし まったのだ」と書いたベルジャーエフの感情と意識は、今も生きている。それどころか、ソ連という超大国の破綻によって、いにしえの「偉大なるロシア」が失 われたという事実は、民主主義というその成果によっては埋め合わすことができぬほどの痛手を、国民の意識に与えているに違いない。さらにまた、ソ連時代に 旧諸共和国に定住したロシア人が、一夜にして外国人になってしまい、その過半数が差別扱いを受けているのも事実である。この意識も痛ましいのである。
しかし、ロシアが依然として地理的にも、人口や潜在能力の点でも、また文化的にも大国であることは間違いない。ロシアが経済的に非常に後退しており、犯罪 の勃発、モラルの低下、教育制度の危機といった難問を抱えていることは否定でないが、改革が前進すれば問題が徐々に解決され、まだ眠っている潜在力が発揮 されるに違いない。豊富な資源、教育水準の高い労働力、浮上しつつある新しいタイプの人間等に、期待を寄せることができる。
2) 世界のためのロシアの特別な使命(“第三のローマ”コンプレックス) 「ロシアはなにかしら偉大な使命を担っている、ロシアは世界に比類のない特別な国である、という予感が遥か昔から存在した。ロシアの国民思想は、自らが 神によって選ばれたものであり、神を担う国民であるという感覚によって養われてきたのだ。これはモスクワが第三のローマであるという思想に始まり、スラブ 派を経てドストエフスキー、ウラジーミル・ソロヴィヨーフ、さらに現代のネオ・スラブ主義者たちに受け継がれている。この種の思想には、数々のこじつけや 虚偽もつきまとっていたが、しかしそこには、なにかしら真に国民的なもの、ロシア的なものもまた反映されてきたのである」
このコンプレックスは現在あまり一般的ではないが、論争の時には時々表面化してしまう。特に、ロシア国会下院の地政学的問題委員会を指導するロシ ア自民党の面々に、非常に好まれているテーマの一つである。
3)ロシアは東洋であるか西洋であるかという「永遠の問題」の悩み これは西欧と東洋の合間で板挟みになっている状態を意味する。
ロシアは東洋に対する関心を持ってきたが、広義にはキリスト教の世界であり、それに対して東洋は主としてイスラム教か仏教の世界である。しかしロ シアのキリスト教は、西洋で圧倒的であるローマ・カトリック教とその一派ではなく、ギリシャ正教であり、そこにロシアと西洋との間の溝がある。これは特に アイデンティティの問題と関連して、よく感じられることである。
この対立を解消するために、ユーラシアという説が開発された。この概念がソ連時代にもゴルバチョフによって打ち出され、「ソ連が東洋と西洋の間にあ る架け橋の役割を果たすべきだ」との主張がなされた。これもまたロシアの伝統的な自己意識の一面である。ベルジャーエフも次のような期待を持っていた。
「・・・東洋と西洋の仲介者の位置を占めるロシアは、いわば東−西洋であって、人類を合一へと導く偉大な役割を果たすべき宿命にある」
ベルジャーエフは、こうしたロシアの内部の対立、東洋と西洋の二重的な性格の矛盾が、速やかに解決されると信じていた。
「世界大戦は、ロシア対ヨーロッパ、「東洋」対「西洋」といった古来の問題提起の克服をもたらすにちがいない。戦争はスラブ主義者と西欧主義者の内 部争いをやめさせ、視野の狭い偏狭な思想としてのスラブ主義と西欧主義を廃するであろう」
しかし彼は間違っていた。今のロシアではこの論議が改めて激しい勢いでわき起こり、ロシアのなかの西洋と東洋の融合を望まず、そうした可能性を排除 する勢力が再び力を得た。ロシアは東洋でもない西洋でもない第三の文明であるという論調が目立っている。
4) 包囲された要塞のコンプレックス
このコンプレックスは帝政ロシア時代にはあまりなかったが、ソビエト政権が誕生して世界革命を訴え、またその反面で、唯一の共産主義国家の防衛の ために周囲の諸国を敵視するに至って、ロシア=包囲された要塞という意識が根強くなった。第二次世界大戦後「社会主義陣営」が形成されると、この感情は弱 まったが、その崩壊後にまた浮上している。とくに旧同盟国がNATOに加盟する事態になれば、「包囲された要塞」の意識は再び強まらざるを得ない。
”ザフトラ”、”ソヴェーツカヤ・ロシア”、”プラウダ”といった新聞や、また日本で出版されたロシア共産党のジューガノフの著作などには、アメ リカの至上の目的はロシアだけではなくロシアの文化とアイデンティティを破壊することである、と主張されている。次々に登場するこうしたばかげた議論は、 一般の国民には懐疑視されているが、しかしその支持者も少数ではない。
5)国家と権力の「聖なる」本質の意識、宗教との関わり合い
イスラム世界では、イスラム教が、国内的な枠組みだけではなく外交にも、大きな影響を与えている。回教に基づくいくつかの国際経済・政治的な役割 を果たす組織ができた。ロシアでもこの間、正教のクリスマスの行事に見られるようなロシア正教のルネッサンス現象が起こり、そうした行事の際の総主教の発 言のなかでは、「正教の価値観」とか「正教の世界」といった表現が用いられている。しかしこれは、まだあくまでも国内向けの現象である。
3.以上挙げたような種々のコンプレックスは、実際の外交にいかに反映しているのか。次のような具体例にそれが観察される。
1)NATO拡大の問題
明らかにこの問題はロシア人の意識に複雑な感情を呼び起こしているし、いくつかのコンプレックスに関係している。まず、旧同盟国が去ってしまった ばかりか、冷戦期に対立陣営であった軍事同盟に加盟しようとしているという事実が、偉大な国家の国民にとっては、メンツにかかわる問題である。私個人の意 見では、NATOの拡大はロシアにとって脅威ではない。ただそれは心理的に穏やかならざる(psychologically uncomfortable)事態なのである。ロシアもNATOに加盟すればいいのに、どうして加盟しないのか。
ロシアは1991年に一度加盟の希望を表明したようだが、NATO当局の回答を得られなかった。NATO側はこれについて、ロシアから正式な申し 込みがなかったので回答しなかったと言っている。1992年になると一切こういう試みは行われなかったが、舞台裏ではいろいろな動きがあり、1992年に 一度エリツィンの口から、ロシアがNATOの政治的な枠組みに参加してもいいという「失言」があった。1993−1996年には、ロシア国内の政権争いが 激化し、内政が不安定になって、ナショナリスト勢力が国民にかなりの支持を得るようになった。エリツィンはNATO拡大に対する強い警戒心を表現するよう になり、今もその固い姿勢を変えていない。ドイツのコール首相との会談では、彼はこの態度をはっきりと示した。
しかし皆がそうなのではない。レベジの後任者であるルィブキン安保会議書記と防衛会議のバトゥーリン書記が、またNATOの政治的枠組みに参加し てもいいという発言をしている。二人ともエリツィンに任命された者たちであり、単に個人の意見を述べているとは思えない。おそらく、ロシアのトップにも意 見対立がある。ただそれは西側のアナリストが見るようなAtlanticists 対 Neutralistsの対立であるよりは、むしろ一種のプラグマチックなアプローチで、二つの選択肢を同時に追求するエリツィンの外交姿勢を示している のである。*3 NATO拡大に積極的に反対するプリマコフ外相は、いささかもanti-atlanticistではないと、私は確信している。ただ外務省の立場は、 NATOの拡大よりはその解散のほうがロシアの国家利益に通ずるというものであり、また仮にロシアが加盟の申し込みをしても、NATOはこれを口実に他の 国を加盟させ、ロシアだけを手続上の障害をたてて、結局加盟させないであろうと推測しているのである。西側筋も、実際上ロシアの加盟を妨害するのは、ロシ アのナショナリストよりはNATOの首脳であると観察している。*4
2)ボスニア戦争
ボスニアではロシア部隊が微妙な立場に置かれた。すなわちロシアはそのアイデンティティ上の理由からセルビア人を支持したのに、実際はNATOの 司令官の元で行動しなければならなかったのである。ユーゴ危機を整理したアメリカは反セルビア的であったという説が、ロシア民主勢力の中でも流布してい た。しかし、結局ロシアはプラグマチズムの原則で行動した。
3)露米と露中間系
露米関係が冷却化し、露中関係の「戦略的パートナーシップ」がだんだん進んでいるという最近の現象を、どう把握するべきだろうか。はたしてロシア のアジア的な性格が浮上して、西欧主義を圧倒しているのだろうか。
しかしいずれにせよ、ロシア政界は西欧主義者とスラブ主義者という二つの基本的な傾向によって代表されていると見られる。ロシアに1991年の8 月革命を起こしたのは西欧主義者ではないが、経済・政治改革を担当するようになったのが西欧主義者であったことに間違いはない。ガイダルがその一人であ る。
残念ながらロシアでは伝統的に、スラブ主義者は愛国主義者であり、西欧主義者は非愛国主義者であるという評価が一般的であったが、今もほぼそのと うりである。
4)チェチェン戦争後の処理の仕方
チェチェンは実際上は独立している。ロシアは単に名目的に、チェチェンがロシア連邦の一部であると主張しているにすぎない。この場合は明らかに常 識が働いて、戦争で勝てなかったロシアが、自分のアイデンティティの問題に新しいプラグマチズムを応用し、戦争の始末をつけようとしているのだ。
その他の例も挙げられるが、時間の問題もあるので省略させていただく。
−注−
1 ゛Zapisi k <Dnevniku pisatelia> 1876 g. IzrabochiF.M. Dostoevskii, "Zapisnye tetradi 1875-1876 gg.", in F.M. Dostoevsky, Polnoe sobranie sochinenii v 30 tomakh, Leningrad, Nauka, Tom 24, pp. 91, 99.
3 Ira Strauss, What's needed to make Russia a Western ally?, Special to The Washington Post. Daily Yomiuri, January 3, 1997.
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