SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )
Copyright (c) 1996 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.
1. はじめに
ロシア・アヴァンギャルドの研究ならびに紹介は、芸術史の復元という観点から見た場合には、欧米圏や日本では1980年頃までにまず一段階を終え たといえよう。
これにたいして、ようやく当のロシアでも復元作業が本格化してきた1990年前後からは、そのロシアだけでなく、欧米圏での研究においても、それ までになかったような斬新なアプローチや、扱う対象のいっそうの広がりが認められるようになってきた。このいわば第二段階の動きをとりあえずは「ロシア・ アヴァンギャルド再考」と呼ぶことにしたい。日本の例でいうならば、ともに昨年刊行された亀山郁夫『ロシア・アヴァンギャルド』(岩波新書)や拙著『夢み る権利:ロシア・アヴァンギャルド再考』(東京大学出版会)なども、それまでに日本語で出ているものとは違った側面や問題点を新たに指摘し、また多少なり とも変わったアプローチを試みたという点からして、この第二段階に含められよう。
本報告においては、このように第二段階にはいったロシア・アヴァンギャルド研究において、いっそうの解明が求められると思われる点をいくつか挙 げ、助言や批判を仰ぐことにしたい。(なお、以下の報告中に書名をあげている三冊はいずれも拙著上梓後に入手のものである。)
ただし個々の問題点の列挙に移る前に、全体としてのロシア・アヴァンギャルドがおかれている一般状況に、二点だけ 触れておく。
2. ロシア・アヴァンギャルド研究をめぐる一般状況
その第一点は、「ロシア・アヴァンギャルド」の定義や境界の曖昧さである。こうした曖昧さはなにもロシア・アヴァンギャルドに限られたことではな いが、ご承知のように、「ロシア・アヴァンギャルド」と呼ぶべき現象はいつからいつまで存在し、またそこにどのような人物やグループが含まれるのといっ た、ごく基本的な点について、意見の一致が得られていない。そもそも、1950年代になって欧米圏で使われはじめたというこの用語の出自じたいにも原因は あるとはいえ、それにしても何種類もの時代画定があるのはかなり珍しかろう。こういった時代画定や人物画定の揺れがロシア・アヴァンギャルド像にも曖昧さ をもたらしてきたことは、否めない。「ロシア・アヴァンギャルド」なる用語に疑問を呈する者すらいる。
またこうした揺れは、画定された境界内にも見られる。たとえば、十月革命の前後で分けたり、未来派の挑発的ふるまいに代表される1913,14年頃までと その後を区別する見方などがある。
あるテーマを論じる場合に、最初からいきなりこうした境界画定の問題に出くわすことは避けたいところであるが、この問題には「ロシア・アヴァン ギャルドとは何か」という最終的な定義が絡んでいるために、ことはそう容易には決着を見ないであろう。
またこの問題を論じる際には、「アヴァンギャルドとは何か」という一般的な定義と、具体的・歴史的事実としての「ロシア・アヴァンギャルドとは何 か」ということとは、区別されるべきであろう。この点にかんしては、「アヴァンギャルドとは何かを問わずして、ロシア・アヴァンギャルドの定義は可能なの か」との反論も予想されるが、具体的な人物やグループを基準にしてある程度まで枠を設定したほうが、むしろ混乱をきたさないものと思われる。むろん、枠を 二重、三重に設定することも考えられる。
ちなみに、昨年末にロシアで出たA.V. Kursanov, Russkii avangard: 1907-1932(Istoricheskii obzor) v trekh tomakh, Tom 1, Boevoe desiatiletie, Sankt-Peterburg, 1996. は、第一巻だけで三百頁を越えており、目下のところ、ロシアで公刊されたもっとも本格的なものといえよう。そこでのクルサーノフの時代画定は、題名にも示 されているとおり、1907-1932年であり、またグループとしてはシンボリズムや<芸術の世界>、<アクメイズム>などは含まれていない。
報告者の立場も(とくに出発点にかんしては)これとほぼおなじである。一方ではシンボリズムやソロヴィヨフ、他方 では社会主義リアリズムなどとの連続性・非連続性を問題にする場合にも、この境界画定を前提としたい。
つぎに、一般状況の第二点としてあげたいのは、ロシア・アヴァンギャルドの「危機」ということである。その第一は、「ロシア・ルネッサンス」とい う大きな枠へのロシア・アヴァンギャルドの吸収である。この吸収は、十月革命前かせいぜい直後までのロシア・アヴァンギャルドに及ぶのがふつうであり、そ のあとの時代の活動は反ロシア・ルネッサンスとして排除され、結果的にロシア・アヴァンギャルドは二つに分断される。
もっとも、最近では、分断せずに、ロシア・アヴァンギャルド全体をシンボリズムやソロヴィヨフと連続させることによって、全体主義的性格を強調す る見方も出てきている。それらのなかには、「生活創造」というコンセプトにもとづいて、1860年代のリアリズムにまでさかのぼる場合も見られる。
この見方は、アヴァンギャルドのもうひとつの「危機」である、「社会主義リアリズムの先駆者としてのロシア・アヴァンギャルド」と絡んでいること が多い。つまり、ソロヴィヨフ以来の全体主義的性格をロシア・アヴァンギャルドが社会主義リアリズムへと橋渡ししたというのである。ただし第二の「危機」 にかんしていえば、そこまでさかのぼるよりも、ロシア・アヴァンギャルドと社会主義リアリズムのみの連続性を強調した論考が多い。ロシア・アヴァンギャル ドは社会主義リアリズムによってつぶされたのではなく、むしろ社会主義リアリズムを用意したとか、あるいは社会主義リアリズムがロシア・アヴァンギャルド の夢を実現したという見方である。
その火付け役ともいえるグロイス自身はすでに1988年にはこうした見方をまとめた著書を公刊しているものの、このような立場に与する者の多く は、欧米圏の者ですら、ソ連邦の解体前後になってようやくこうした論を述べはじめている。
これら二つの「危機」は、ロシア・アヴァンギャルド研究に新たな成果をもたらすと同時に、緊張感をも招いている。ロシア・アヴァンギャルドじたい の特徴すら、いまだ探究途中にあるなかで、それをあいだにはさむ両者との共通性のみが先行して論じられていくことには問題がないわけではない。とりわけ問 題なのは、ロシア・アヴァンギャルドの両義性、揺れが軽視され、一面のみ、さらにはほんの一断面のみが誇張されていくことである。とりわけ、中心人物であ るグロイスの著作には事実関係の疑問点も少なくない。
3. 今後のロシア・アヴァンギャルド研究の課題
以上のような一般状況を確認したうえで、今後のロシア・アヴァンギャルド研究が明らかにすべきと思われる点のいくつかを、以下に列挙してみたい (順不同)。ただしあらかじめ断っておくが、これらのなかには、ロシア・アヴァンギャルド全体にとって、あるいはそのなかの特定グループ単位にとってすら 共通しているとは言いがたいものが少なくない。
ロシア・アヴァンギャルドは同時代の西欧の動きとどこまで連動したり、影響を受けているのか。
ロシアの文献のなかには、「<絵画の爆発>はフランス、ドイツ、ロシアで同時に起こった」として影響関係に否定的なものも見られるが、実際には、 少なくとも出発点としては西欧の影響を受けている可能性が高い。とりわけ初期の絵画や詩にかんしては、西欧とくらべて数年の後先の問題も重要と思われる。 この問題は、ロシア・アヴァンギャルドそのものの研究を踏まえて、やがてはロシア・アヴァンギャルドを世界の芸術史のなかに改めて位置づけしなおそうとす るならば、その前にぜひとも明確にしておかねばなるまい。
大まかには、美術の場合、レイヨニズム、さらにはシュプレマティズムの段階で、ロシア・アヴァンギャルド独自のものを獲得したといえようが、その 前のプリミティヴィズム段階となるとすでに微妙である。たしかにそこにはイコンやルボークとの関係も含めて民族的伝統との結びつきが顕著に認められるもの の、西欧からの影響ももう少し細かく確認する必要がある。プリミティヴィズムなるものへの移行のきっかけには西欧の影響があった可能性もあるほか、そのめ ざすところがどの程度まで民族的あるいは西欧的であったか否かも、かれらの宣言などからもうかがえるように、個々の画家でかなり異なっている。(ちなみ に、おなじようにイコンを経由しても、たとえばゴンチャローワとマレーヴィチでは、目的やその後の展開は相当に異なっている。)
この点では、Laboratory of Dreams, Stanford University Press, 1996.の序文においてJohn BowltとOlga Matichは、ロシアの独自性の主張に否定的で、「ベールイのシンボリズム、グネドフのダダ的アクション、ロトチェンコの機能的構成主義、さらには社会 主義リアリズムさえ、西欧の視覚芸術や言語芸術の現象に類似している」と述べている。
またこの問題は、影響関係にとどまらず、ナショナリズムとの関係あるいはインターナショナリズムとの関係にも広げられるであろう。ロシア・アヴァ ンギャルドは反西欧的でありつねづねロシア性を強調していたとの説があるだけでなく、さらには、かれらはナショナリストであったとすらみなす説もある。た しかに、第一次大戦開始時などにはその傾向も目立つ。いずれにせよ、西欧にたいする距離の取り方は、アヴァンギャルドの成果や、さらには十月革命後の運命 を考える際にも、十分に考慮に入れられてしかるべきであろう。
(2)演劇性(とりわけ祝祭)
ロシア・アヴァンギャルドには、演劇性が革命前から顕著に認められるが、そのことと革命後の祝祭との関係をどうみるべきか。雰囲気としては、革命 後の一時期、アヴァンギャルドが祝祭の中心にいたことはある程度まで言えるであろう。そのことを裏付けるような文献も少なくない。ただし、はたしてアヴァ ンギャルドは祝祭にいかなるかたちで、どの程度までかかわっていたのであろうかとなると、ヴィテプスク、ペトログラードその他の都市ごとの状況の違いも含 めて、さらに細かな検証が必要であろう。
また、アヴァンギャルドそのものと直接に関係がないにせよ、革命後の演劇熱はどのように説明されるのであろうか。この場合には、おなじように「演 劇」という言葉でひとくくりにされていても、実際にはさまざまな傾向のものがあったわけであり、その辺の区別、さらには演劇と祝祭の区別も当然欠かせな い。
ちなみに、最近目立ってきたロシア・アヴァンギャルドとスターリン文化との結びつきという観点からすれば、当時の祝祭とスターリン時代の祝祭との 比較対照も重要であろう。その際いちばん注目されるのは、祝祭がどこまで自然発生的で、どこまで統括されていたのかということであろうが、ほかにも問題は ある。それは、上記のような演劇と祝祭の区別も含めて、群衆劇、パレード、デモ、その他の区別が必要であろうということである。これらをひとまとめにして 祝祭扱いし、ロシア・アヴァンギャルドとスターリン文化との共通性を説くのであれば、それはあまりに粗雑な議論であると言わざるをえない。
さらには、これら演劇性や祝祭の問題を考えるにあたっては、プロレトクリトとの関係の考慮も欠かせない。あるいは この問題は、アヴァンギャルドの演劇性との連続性という視点からよりも、むしろプロレトクリト中心に見たほうが的確なのかもしれない。
(3)宗教性
ロシア・アヴァンギャルドの表現には涜神と同時に宗教性が伴っている場合が少なくない。ただし、宗教性を問題にする場合には、宗教一般との関係だ けでなく、正教、神智学、四次元、コスミズム、フョードロフ、イコン、ユロージヴイ等の区別をおいた論じ方も必要と思われる。ちなみに、これらのなかでは 研究が比較的遅れていたコスミズムやフョードロフとの関係についても、1996年には A. Gacheva, S. Semenova, Irene Masing-Delicなどによるすぐれた研究がでてきた。
一般に、宗教性にかんしては、正教・神智学その他と芸術・文化との関係の研究がロシアで急速に進展していることもあって、近いうちにかなりの解明 が期待される。
ただし、宗教性を強調するあまりに、科学性を軽視するようなことがあってはなるまい。アヴァンギャルドは、芸術内の法則性を主張し「外部」を遮断 したものの、実際には芸術内での説明ではなく、科学的根拠付けに頼る傾向も目立っていた(この背景には、理論が実践よりも目立ちがちなロシア・アヴァン ギャルドの特徴もあったろう)。構成主義の段階では、そのことが一目瞭然になっている。科学とのこうした関わり方も、いっそうの検討を要するものと思われ る。
(4)機械
上記の科学性とも関係するが、ロシア・アヴァンギャルドには機械をモデルとする傾向が目立つ。むろん、これはロシアに特有の現象ではない。とはい え、モノを対象としている場合はともかく、人間にかんしてまでも機械をモデルや模範とする場合には、どうしても両面価値的たらざるをえない。というか、と りわけその後のロシア史を踏まえたり、あるいは今日的な価値観からすれば、この点は否定的にみられがちである。実際、ビオメハニカの練習風景の記録フィル ムなどを見ても、一種の違和感をおぼえないでもない。だがそれは身体動作のみ独立させて見ているからであって、これが実際の芝居のなかで活かされた場合は また違ったものになっていた可能性もある。
ただ、全体にアヴァンギャルドは、「機能としての人間」のイメージ、あるいは無人称・無人格的な人間というイメージを生みだしたことは、確かであ ろう。またみずからはそのことに積極的な評価をあたえてことも、事実であろう。もっとも、そのことが集団主義とそっくり重なりあっていたかどうかは、検証 が必要である。この場合も、アヴァンギャルドだけでなく、プロレトクリトを考慮に入れざるをえない。
(5)ウスローヴノスチ uslovnostユ
ロシア・アヴァンギャルドが革命前はウスローヴノスチを前面にうちだしていたことについては、ほぼ意見の一致が見られるものと思われる。しかし革 命後、とりわけ「芸術を生活のなかへ」というスローガンを唱えたときにも、その姿勢は保たれていたのか否かは、綿密な追跡調査を要する。代表的グループと してあげられる「レフ」、さらには生産主義者の場合ですら、細かな確認作業が必要であろう。メイエルホリドなどはウスローヴノスチ擁護に最後までこだわっ ていたことが認められるが、ロシア・アヴァンギャルド全体としては1920年代半ばよりこの点が定かでない。
(6)終焉の時期と理由
ロシア・アヴァンギャルドの終焉時期をいつとみなすかは、きわめて難しい。上記のクルサーノフが自著を1932年で締めくくろうとしているのは、 おそらく党中央委員会決議「文学・芸術団体の改組について」を念頭においてのことであろう。これと対照的ともいえるのが、ミリマノフの見方である (V.B. Mirimanov, Russkii avangard i esteticheskaia revolutsiia XX veka: Drugaia paradigma vechnosti, Moskva., 1995.)ミリマノフによれば、世界革命の見通しがなくなった1921年近くには早くもアヴァンギャルドの命運は決せられていた。すなわち、アヴァン ギャルドとトロツキイ的反対派を、インターナショナリズム的プロジェクトの共通性でもってくくろうとしている。
「<自由と理性の王国>とか社会の科学的組織化といった・・・考えが滅びたのは、通常考えられているよりもはるかに早い時期であり、それが死滅し た日付は判明している。すなわち、それは、ロシア・アヴァンギャルドの終焉をしるす日付である。アヴァンギャルドの終焉とは、ユートピアの終焉にほかなら ない。それは1921年近くには明らかになった。すなわち、世界革命が成立しなかった。スターリンが1924年に公式化した一国社会主義建設のドクトリン は、偉大なるインターナショナル的プロジェクトの破綻を意味していた。<戦時共産主義の時期には有益であった左翼運動は、いまや完全に排斥された>と 1926年にベンヤミンはモスクワから書いている。ことによると、アヴァンギャルドと左翼反対派との直接的結びつきを云々する根拠はないのかもしれない。 しかし基本的にはかれらはちがってはいなかった、つまり芸術の左翼戦線も、トロツキイ的反対派も、ネップや党の文化政策を受け入れていなかった。・・・雑 誌『レフ』の消滅史は、社会的プロジェクトと美的プロジェクトの同時的崩壊を改めて示している」。
こうした見方に従うならば、革命後相当早い時点でアヴァンギャルドは生命を断たれていたことになるが、実際、革命政府は1922年あたりに一時期 は認めていたアヴァンギャルドの拠点を廃止していっている。
結局、アヴァンギャルドの終焉時期を確定する際には、a)政府との関係のこうした悪化をアヴァンギャルドの終焉とみなすべきか、b)あるいは、レ フその他のような団体としての動きの停止を目安とすべきか、c)さらには、表現そのものの前衛性をこそ終焉時期判定の基準とすべきか、といったようないく つかの基準が考えられ、それしだいでかなり異なってくるものと思われる。
この最後の点も関係してくるものと思われるが、そもそもアヴァンギャルドはなにゆえ終焉を迎えたのであろうか。外圧だけでなく、表現そのものの枯 渇もあったのか。また枯渇があったにせよ、それはなにゆえか、といった問題も、まだまだ解明の余地を残している。
(7)生活創造/生活建設
この点にロシア・アヴァンギャルドの最大の特徴を見る者は多い。また、一般に芸術と生活の区別が曖昧であったり、両者が一体化している傾向を、ロ シア特有の伝統とする見方もある。たしかに、ロシア・アヴァンギャルドに限った場合でも、初期未来派の<身振り>や発言にはその傾向が認められ、それがウ スローヴノスチの強調と共存したりもしている。
ただし、アヴァンギャルドの夢みた「新しい人間」とか「生活建設」と、ボリシェヴィキの政治との関係は、よくいわれるほどには緊密ではない。この 点については、上記のJohn BowltとOlga Matichも、「ボリシェヴィキと連帯した作家や芸術家はボリシェヴィキ国家の伝道師であったとか、かれらの新たな表現メディアの探究はボリシェヴィ キ・イデオロギーの直接的延長であったといったような広く支持されている説は、再検討を要する」としている。たとえば構成主義的な表現は、すでに革命前か らポスター、本の装丁、ファッションなどに広がっていた。また、革命政府にたいする関係も、マヤコフスキイやガンらと、ポポーワやマチューシンらでは、相 当に異なる。
もっとも、政治との関係は別にしても、「生活建設」はロシア・アヴァンギャルドの大きな特徴であったことはたしかであり、この点をかれらがどこま で実現可能なプロジェクトとみなしていたのか、またたんなる夢のレヴェルにとどめていたのかは、検討を要する。たとえば<事実の文学>の段階では、プロ ジェクトは一種のルポルタージュといったかたちで実践されようとしていたように、きわめて地道なものに変わっている。
さらには、「生活建設」は「アヴァンギャルド=社会主義リアリズムの先駆者」説の有力根拠ともなっている。とりわけグロイスの論は、この点を唯一 の根拠として展開されているといっても過言ではない。ただし、このグロイスの論を認めるならば、ロシア・アヴァンギャルドの構成メンバーは相当に限られて こよう。つまり、グロイスの論の長所を活かしていくには、まずもってロシア・アヴァンギャルド内の区分をもっと細かく進めることが不可欠である。
ちなみに、社会主義リアリズムとの連続性を論じるにあたって、John BoltとOlga Matichは、「エイゼンシテイン、プラトーノフ、プロコフィエフ、シクロフスキイ」のような幾人かと、「ハルムス、クリューン、クルチョーヌイフ、メ イエルホリド、タトリン、テレンチエフ」その他大多数との区別が必要としている。
(8)言語的表現の比重
John BowltとOlga Matichの指摘によれば、「欧米圏の研究は・・・ロシア語に通じているケースが比較的少ないために・・・視覚面での成果、とりわけ抽象絵画の領域での 成果を強調するきらいがある。しかしロシアのコンテクストにおいては、強調は文学面におかれてきている」。
一般にロシア・アヴァンギャルドは、美術家にせよ演出家、映画監督にせよ、文章表現を数多く残している。また詩人 にしても、詩そのもの以外に宣言をはじめとしたいわば理論的なものも著しているケースが少なくない。かれらの試みを理解するためにはそれぞれの「芸術的表 現」とこれら文章の双方を考慮に入れる必要があることはいうまでもないが、いずれに比重をおくかで様相はかなりちがったものとなりかねない。
たとえば、ある美術家あるいは演出家の試みを社会主義リアリズムの先駆と位置づけることが、文章表現を一切ぬきにした場合にも可能かどうか、と いった問題がある。ちなみに、グロイスの論はほぼ全面的に文章表現に依拠している。
4. おわりに
問題点の列挙は以上で止めておきたい。なお、これらのなかには、すでにかなり研究が進んでいるものも含まれているが、いずれもまだ不明部分を残し ていることには変わりないものと思われる。
今後のロシア・アヴァンギャルド研究は、以上のような個々の問題点を優先的に解明していくなかで、シンボリズムあるいは社会主義リアリズムなどと の連続性・非連続性を論じていくべきであろう。ロシア・アヴァンギャルドそのものの特徴を曖昧にしたままに、連続性を云々するのは問題である。たとえば、 全体主義との結びつきということで、ロシア・アヴァンギャルドの集団主義が例にあげられる場合があるが、はたしてロシア・アヴァンギャルドの集団創造が集 団主義であったのかどうかは、「集団主義」の意味も含めて、再検討を要する。実際、そこには共同創造、さらには対話的創造と呼んだほうが適切なような現象 も数多く見られる。
最後に、「ロシア・アヴァンギャルド再考」ということに関連して今後の研究のあり方についても付言するならば、(すでに始まっていることではある が)もはやそれは芸術史の枠内にとどまっている段階ではなかろう。ロシア・アヴァンギャルドは内在的法則を強調することから出発したとはいえ、そのロシ ア・アヴァンギャルドこそ、文化史全体、さらには社会史との密接な関係のなかでとらえられてしかるべきであろう。そうとなればなおさらに、ロシア・アヴァ ンギャルド研究は共同作業たらざるをえない。
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