SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )


仮死と再生
−亡命ロシア人作家の見たアメリカ−

沼野充義(東京大学)

Copyright (c) 1996 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.


はじめに

本稿は、いわゆる「亡命ロシア第3の波」に属する何人かの亡命ロシア作家たちのアメリカ体験を通じて、アメリカ文明に対してロシア人がどのような態 度をとったかを考察することを目的とする。アメリカとロシアは-少なくともロシア人にとっては-世界の2大文明である。アメリカ人の側から見れば、ロシア (ソ連)は遅れた半ば野蛮な国に過ぎないとしても、ロシア人は-いかに反ソ的であれ、いかに祖国で迫害されたにせよ-ロシアの文化・文明に誇りを抱いてい る。そいういったロシア人がアメリカに亡命してきた場合、異文化接触のプロセスにも必ず自尊心と「異化する外国人の視点」が作用し、単に「自由の国アメリ カ」を礼賛するに止まらず、結果としてアメリカ文明の意外な側面を浮かび上がらせると同時に、ロシア文化の特質をも明らかにしていくことになる。その意味 で、これは興味深い比較文学的主題と言えるだろう。

なお、「第3の波」以前の亡命ロシア作家たちの中にも、アメリカに渡ってきた作家は少なくない(ナボコフ、グーリ、アルダーノフ、ベルベーロヴァな ど)。そういった作家たちのアメリカ体験はここでは取り扱わないが、「第3の波」の場合とどこまで同じで、どこが異なるのか、また異なるとしたらその理由 はどのようなものか、考察することは興味深いことである。今後の課題としたい。

1. ソルジェニーツィン-堕落(アメリカのほうがロシアよりも堕落している)

1974年にソ連から国外追放の処分を受け、ヴァーモント州の奥地にロシア風の家を構え、アメリカ文化とほとんど断絶したまま20年近くをアメリカ で過ごしたソルジェニーツィンのケースは、亡命ロシア人のなかではかなり極端な例だが、それだけ純粋に「ロシア的」なアメリカ(および西欧)に対する態度 を表しているとも言えるだろう。

ソルジェニーツィンの考え方は、たとえば1978年に彼がハーヴァード大学で行った有名な講演にはっきりと現れている。ここで彼は、ルネサンスの時 期以来、西欧とロシアが袂を分かって別々の(二つに分裂した)世界を発展させてきたという認識を示す。ロシアと西欧(+アメリカ)が異なった二つの世界で あるという認識自体は珍しいものでもなく、西欧やアメリカの知識人にもごく普通に見られるし、ミラン・クンデラのような中欧の作家にも共通している。しか し、その共通の認識から出発しながらも、ソルジェニーツィンとたとえばクンデラは鋭く食い違っており、ほとんど正反対の立場を取っていると言えるだろう。 ハーヴァード講演でもソルジェニーツィンは、「現代人類の危機は、ルネサンスと啓蒙主義にまで遡れる」と述べ、むしろルネサンスや啓蒙主義が現代の欧米文 化の堕落の源であると主張する。彼に言わせれば、西欧的世界観の堕落の根源は、「合理主義の精神のために人間が神を拒否するようになり、その代わりに自分 自身を世界の中心に置いてしまった」ことであり、そのような合理主義精神に毒されず、独自の精神文化を保持することに成功したロシアのほうが西欧よりも優 れているということになる。このような立場から、ソルジェニーツィンはアメリカの野放しの自由を激しく批判したため、逆に多くのアメリカ人の識者に激しく 反論されることになった。しかし、ソルジェニーツィンにとって特徴的なことに、この後、彼はアメリカの知識人と交流を深めることもなく、建設的な議論・対 話をすることもなかった。所詮、ソルジェニーツィンにとってアメリカは単なるかりそめの流刑地であって、そこの文化はほとんど関心の持てないものだったの である。ソルジェニーツィンの場合は、異文化接触がほとんど見られないという非常に例外的な亡命生活のケースであり、それはもちろん彼の個人的な性向ゆえ でもあるが、それを可能にした物質的基盤があったことも事実である。国外追放になったときすでに国際的な著名人であった彼は、経済的な問題に悩まされるこ となく、ヴァーモント州の奥に蟄居して、以前と同じように著作活動に打ち込むことができた。

2. アクショーノフ 自由(アメリカのほうがロシアよりも魅力的だ)

1980年にソ連から亡命し、その後一貫してアメリカで暮らしてきたヴァシーリイ・アクショーノフのケースは、ソルジェニーツィンと対照的である。 アクショーノフはもともと現代ロシア文壇の中でも、アメリカ贔屓と見なされていた作家であり、アメリカ亡命後はアメリカ文化との接触をむしろ楽しむように して、文筆活動を続けてきた。少し長くなるが、以下に引用するのは、1991年10月に筆者がワシントンD.C.で行ったアクショーノフとのインタビュー の一部である(『海燕』1992年1月号に掲載)。

-アクショーノフさんは1980年にソ連から亡命して以来、ずっとアメリカで暮らされているわけですから……

アクショーノフ そう、アメリカ暮らしももう十一年になるね。

-そのアメリカ体験をもとに、『悲しきベビーを求めて』というアメリカ論まで最近出版されているわけですが、これまでの亡命生活のプラスとマイナス を総括をすると、どういうことになるんでしょうか。以前からアクショーノフさんは、現代ロシア文学の中では「アメリカ派」とか、「アメリカ贔屓」と見なさ れていたように思いますが、実際にアメリカにそれだけ住んでみると……。

アクショーノフ その「アメリカ派」っていうのは、非常に抽象的な概念でね。というのも、もともとソ連ではアメリカのことなんて実際には知らなかっ たわけで、アメリカについてのロマンティックなイメージも自分勝手につくった、現実離れしたものだった。言わば、僕たちの世代は皆、アメリカに何という か、形而上的な意味で興味を持ったんです。つまり、アメリカという国は、最後の逃げ場であって、もうこれ以上、人生から逃げるところがないという時でも、 「まだアメリカがあるじゃないか、あそこに逃げれば自由になれる」という感じがした。アメリカは僕らにとって、まったく新しいリズムの国、ジャズの国でし たね。僕はジャズが大好きで、ジャズのリズムからはいつでも、なんだか別の生活が浮かび上がってくるような気がしたものです。

それにこの広大な約束の土地……。まるでロシアのブィリーナ〔英雄叙事詩〕みたいな、アメリカのカウボーイ映画を見ていると、この国が単純で、純粋 で、誠実な開拓者たちに切り拓かれた国だって気がしてくる。でも、現実のアメリカは夢の中で思い描いていたのとはまったく違っていて、もっと複雑で、もっ と面白いものだった。もちろん、幻滅させられるような点も多かったけれども、同時に、自分の子供時代からの夢がここでは、ある根本的な面でやっぱり生きて いる。だから、アメリカ生活を総括するならば、多くの幻滅もあったけれども、もっと多くの新たな魅惑もあった、ということになるかな。

第一、アメリカは僕に家を与えてくれた。僕がKGBの重い靴で祖国の外に蹴り出されたとき、つまり人生で一番つらかった時期に、アメリカは僕に住む ところを提供してくれたわけすよ。ソ連から放り出された僕は、もう帰るところもない状態で、すべてを取り上げられてしまった。友達も、家族も、そして読者 も。そのとき、アメリカが僕の新しい家になった。これはもちろん、「祖国」ではなくて、あくまでも「家」ですけれど。でも、奇妙なことに、アメリカという 国では、「これこそ自分の家だ」という感覚がとても早く出てくるね。移民の国だからかも知れない。これが、単一の文化に支配されているような国だった ら……

-例えば、日本とか。

アクショーノフ そう、日本だったら、そういう感覚を持つことはもっと難しいでしょうね。僕はこの国なら、自分も何らかの場所を占めることができる なんじゃないか、と感じた。もちろん、僕は決してアメリカ文学の一員になったわけでもないし、これからもならないだろうけれど。僕はあくまでも亡命文学の 一員ですから。

-でも、アクショーノフさんの主要な作品は、最近のものも含めて、ほとんどすべて英訳されているわけですね。そうだとすれば、英訳を通じてであれ、 アメリカ文学の一部になっているとは言えないんでしょうか。

アクショーノフ それは部分的な所属であって、やっぱり本当に一員となっているとは言えないな。ごく一部の限られたアメリカの読者層にとってはそう でしょう。でも、ロシアで読者とのあいだに生ずるようなことが、ここで起こるとは、とても思えない。つまり、ほんの一言口に出しただけで、ちょっとした仄 めかしをしただけですべてを理解してもらえる、といった関係は、ここではまったく不可能ですね。でも、その一方ではやはり、僕はここで自分の場所を占める ことができるし、それはアメリカにとっても必要なことだ、ということがわかった。外国からきた知識人で、別の文化を代表する人間が、ここではやはり必要と されている。しかも、それは職業的なとしてだけのことではない。現に僕はアメリカの大学で教えたり、研究したりすることを通じて、アカデミックな世界の一 員になってしまったわけだが、そんなことが我身に起こるとは、ロシアにいた頃は夢にも思わなかったね。

-大学で教えるという仕事は、気に入っていますか。それから、アメリカの学生の質についてはどんな印象をお持ちでしょうか。

アクショーノフ まあ教えないですむものなら、そのほうがいいんだろうけれど。でも、これがいまでは主な収入源ですからね。それに、ひどく悪い仕事 というわけでもなし。それは生活の糧だけでなく、ときにはある種の満足感さえも与えてくれます。それに、学生たちもとてもいい。じつは、いま持っているク ラスの若いほうは、ほとんど半分がアメリカ人じゃなくて、中東あたりの出身者なんですよ。アラブ人とか、イラン人とか、アルメニア人とか。こういう若者た ちはロシア文学がどんなものか、まるっきり何も知らずにやってくる。ところが、学期の終わりになるとね、目に見えて違っているんだから、教えがいがありま すよ。

-そういう仕事を通じてアメリカ社会に属しているという感じは、やっぱりありますか?

アクショーノフ そう、いずれにせよ、ここで自分が「余所者」だという感覚はないね。長いこと留守にしてアメリカに帰ってくると、家に帰ったような 気がするし。もっとも、ときには苛々が嵩じて、どこでもいいから他の場所へ行ってしまいたいという気になることもありますが、それはロシアに住んでいたこ ろだってあったことだからね。

-つまり、総決算をするならば、ちょっとした幻滅は色々あったけれども、プラスのほうがマイナスよりもはるかに多かった、と。

-アクショーノフ もちろん。

『悲しきベビーを捜して(1990)は、アクショーノフ自身のアメリカでの亡命生活を踏まえ、そこに「将来書くべき小説のためのスケッチ」を織り込 んでいくという形で書かれている。亡命生活を描いた部分はほぼ事実そのままを記述したエッセイ、あるいは自伝風の文章になっているが、そこに「将来書くべ き小説のためのスケッチ」を織り込んでいくということじたい、アクショーノフの姿勢をよく表している。つまり彼はアメリカでの体験を作家として吸収しなが ら、それを自分の創作活動に取り込んでいるのである。ここでの彼のアメリカに対する態度は、もちろん、手放しの称賛ばかりではないが、基本的には上に引用 したインタビューからもうかがえるように、批判すべき点を批判しながらもアメリカの魅力を讃えるという方法を取っている。確かに本書で彼は「亡命とは部分 的には自分自身の葬式に似ている」と言い、亡命が「仮死」にも似た痛切な体験であることを強調しており、作家に対するアメリカ人の尊敬のなさや、アメリカ 独特のプロヴィンシャリズム(それに対して、アメリカにやってくると、自分たちロシア人が「やっぱりヨーロッパ人だ」ということがわかるとも言ってい る)、そしてソ連の現状もろくに知らないくせにソ連にシンパシーを持つアメリカの知識人などを批判している。しかし、その反面、テキサスのレストランで 会った、ドイツとロシアの区別もつかない素朴なウェイトレスの魅力を讃え、また交通違反で捕まりかけたときのアメリカの警官の態度がソ連の場合とまったく 違っていることに感嘆し、全体として見るとやはり「魅力」のほうが勝っていると言えるだろう。

3. リモーノフ 幻滅(アメリカもロシアもロクでもないことに変わりはない)

1974年にソ連を出て、75年から5年間にわたって土方、石工、レストランのバスボーイなどの職を転々として大都会の最下層の生活を生き抜いた亡 命ロシア人作家エドゥアルド・リモーノフのスキャンダラスな自伝的小説『おれはエージチカ』(1979)が描いているのは、現代の亡命ロシア人にとっての 「地獄」としてのニューヨークである。この小説には、苦労してソ連を出てアメリカにやってきたものの、ニューヨークの過酷な現実に恐れをなし、もしも許さ れるならばソ連に戻りたいなどという泣き言を言う亡命者が登場し、以下のような理屈で自己正当化を試みる。

「俺は〔ソ連に〕帰るよ……。いいか、俺はな、ソ連にいたころ、うぬぼれて、自分をたいした人間だと思い込んだってわけだ。ところがこうして〔アメ リカに〕来てみると、自分が何の能もない男だってことがわかった。俺はのんびりと暮らしたいんだ。どこかトゥーラの方にでも行って、ちっちゃな家を持ち、 魚を釣ったり、狩りをしたりして、田舎教師にでもおさまってさ。ここは地獄だ……。このニューヨークってところは気違いの町だ。俺は帰るぞ、ここの暮らし はもうたくさんだ。自由なんてものは、アメリカの連中にはこれっぱかしもないじゃないか。職場で何か、思い切ったことを言ってみろよ、あっという間にクビ だよ、いとも簡単にな……」

こうして亡命者のうちのある者は、「アメリカの自由が口先だけで、その文明も上っ面だけのものに過ぎない。それに対して、自分たちの母国の文化こそ は、アメリカ的な物質的繁栄には縁がないものの、本物の深さを持っている」というノスタルジックで転倒した論理を振りかざすようにさえなる。今まで無条件 で美徳と信じられてきた、アメリカ生活の特徴の一つ一つが、相対主義的な視点から批判にさらされるのである。リモーノフは、アメリカ人の勤勉さという神話 について(そして、それは同時にロシア人の怠惰さの神話について、ということでもあるのだが)こう言っている。

ここ〔アメリカ〕に住んでみてよく分かったことだが、アメリカのほうがロシア人よりもたくさん働くなんてのは嘘で、たいていの場合、仕事の量はロシ アよりも少ないくらいだ。ただし、アメリカ人は、自分の仕事についてあれこれしゃべるのが大好きで、自分がどんなにたくさん仕事をしているかって、吹聴し てまわるだけのことさ。

楽園にたいするこの種の幻滅は、母国である程度の生活水準を維持していながら、あえて「それ以上」を求めてアメリカにやってきた移民や亡命者の場 合、特に強いものになる。その典型的な例は、リモーノフを含む、ロシアや東欧から亡命してきた作家たちだろう。彼らの大部分は政治的迫害を逃れ、創作の自 由を求めてアメリカにやって来るわけだが、母国で彼らが迫害されたという事実は、彼らが社会的にいかに重要な存在であったかを何よりも雄弁に物語っている はずである。ところが「自由の国」アメリカにやって来ると

、確かに表現の自由はあるかもしれないが、誰も文学者の言うことに真面目に耳を傾けうとしないという、ある意味では亡命以前よりも悪い状況に亡命作 家は直面しなければならない。この点に関してもリモーノフは『おれはエージチカ』で雄弁に語っている。

……大体において、こうして異国に逃げてきたからといって、今までのところはまだ何もいいことはなかった。ソ連で僕がつきあっていたのは、詩人や、 芸術家、アカデミー会員とか、大使、魅力的なロシアの女性といった人たちだったけど、このアメリカではご覧の通り、僕の友達と言えば、ポーターとか、レス トランの下膳係、電気工、ガードマン、皿洗いといった連中ばかり。もっとも今さら昔の暮らしを思い出してくよくよしている訳じゃない。僕は昔のことを忘れ ようとたゆまず努力しているから、きっと結局のところ、忘れることができるだろう。

正直に言えば、僕は〔アメリカの〕こんな生活を全然予想もしていなかった。ボヘミアン的環境で育ったロシアの若者だからね。「詩とか芸術は、この世 で人が携わることのできる最も高尚なものだ。詩人は、この世界で一番重要な人物だ。」僕はこういった考え方を真理として子供のころから吹き込まれた。とこ ろがどうだろう、このアメリカで僕は依然としてロシアの詩人でありながら、まるっきり無意味な人間に成り下がってしまったのだ……。

ここ〔アメリカ〕にやって来て、いまこそわかった。こっちも、あっちも、ロクでもないことに変わりはない。どこへ行ったって、同じような悪党どもが のさばっている。しかし、ここではその上、僕にとって損になることがある。なぜならば、僕はロシア語で書くロシアの作家だからだ。結局のところ、僕はアン ダーグラウンドのモスクワで、文学的ロシアで注目されてちやほやされ、その名声のために甘やかされていたんだ。ロシアの詩人は、ニューヨークの詩人とは比 べ物にならない。ロシアでは詩人は昔から万能で、いわば精神的な指導者のようなものだった。で、例えば、詩人と知り合いになるのは、ロシアではたいへ名誉 なことだ。ところが、ここでは詩人なんてクソじゃないか……。

4. ワイリとゲニス 対照表(アメリカとロシアを綿密に比較する)

セルゲイ・ドヴラートフの自伝的長編『わが家の人々』(1983)は、主人公とその母親がソ連を出てアメリカに渡り、先に出国していた主人公の妻・ 娘とニューヨークで再び一緒になり、新生活を始めるところで終わっている。ニューヨークのケネディ空港に降り立った主人公と母は、迎えに来ていた友人の車 に乗ってハイウェイを妻のアパートに向かう。主人公の母はアメリカという全く未知の異文化を生まれて初めて目の当たりにしたのだろう、そのとき面白い反応 を示す。

母は〔車の〕窓の外を眺め、こう言った。

「なんて空っぽな通りだろうね。人もいなれば、家もない……」

「これは通りじゃありません、ハイウェイですよ」と、クラコフが反駁した。

ハイウェイって、なんのことだい?」

そして、この主人公を待ち受けていたのは、やはり「空っぽな」アパートだった。ここで第一印象におけるアメリカの「空っぽさ」が繰り返し強調される のは、偶然ではないだろう。アメリカにやってきたばかりの移民にとって、初めて見るアメリカの風景は過去もなければ意味もない、空疎で奇妙な記号に過ぎな いのだから。

しかし、亡命地での生活が始まるとすぐ、好むと好まざるとにかかわらず、経験は蓄積されていき、獲得された商品は狭いアパートの中で勝手に増殖して いくかのようだ。そうしているうちに、亡命者の目には徐々に、自分が何を失い、何を新たに獲得したかというバランス・シートが見えてくる。なにも損得を比 較対照したからといって生活が楽になるわけではないが、ともかく亡命者は自分の知っている二つの世界を比較せずにはいられない。あたかも比較することが彼 の新しい生活の一部であり、その比較というプロセスを経ることによって毎日の生活のなかに結局からめとられていくのだ。例えば、2人組みの亡命ロシア人批 評家(ユダヤ系)、ピョートル・ワイリとアレクサンドル・ゲニスによって書かれた卓抜な亡命文化論『失われた楽園』(1983)の巻末にも、そのような損 得一覧表が出てくる。ソ連やアメリカの生活の現実を知らないとわかりにくい項目も多いのだが、ここではあえて何の説明も付け加えないで、そのまま引用して おこう。

われわれが失って、もはや取り戻せないもの。

本当に価値のある交際、本物のカラシ、親友、ヒマな勤務時間、いまわしい権力、民族的威信、言葉に対する敬虔さ、カットグラス、気楽な生き方、家族 の絆、ロゼのポートワイン、変化への信念、政治的アネクドート、祖国に対する愛、祖国に対する憎しみ、祖国に対する無関心、寓話的にカムフラージュされた 風刺の言葉、宗教への関心、迫害されるユダヤ人であるという倒錯した快楽、俗物根性との戦い、反ユダヤ主義、チャパーエフ、スラヴ民族の遺跡、地下出版、 不安定な生活、慈悲、遠くの地を遍歴するロマン、同一精神の敵ども、辛辣な皮肉、共同住宅の設備、新聞の論説に対するマゾ的な欲望、陽気な貧乏、外国から の手紙、弱いものを進んで庇おうとする気持ち、社会的規範に対する反逆、皆を一致団結させるプロテストの感情、突出する可能性、国民全体の怒りの感覚、真 実の探究、人民への愛着、人民、気分を高揚させてくれるエリート意識、首都のレストラン、BBC、ロシア式の風呂屋、生きた外国人、初恋、思想上の敵、思 想、ロシア的生活の幅広さ、買い物の行列、秘密の素性、居住登録、先祖の墓、個人の蔵書、ユーモア感覚、そして世界の陸地の6分の1

……。だが、最大の損失は、夢だ。楽園に関する美しい、秘められた夢。

そのかわり、手に入れられたものは-視野の広さ、比較の可能性、ジーンズ、自由、自由に対する恐怖、低所得者のための食料券、アメリカの市民権、中 華料理、寛容さの実物見本、性革命、チューイングガム、ユダヤ教会、グミリョーフの著作集、自由の女神の光景、犯罪に対するパニック的恐怖、実務能力、ゴ キブリ、ホットドッグ、夢のような本屋、24時間放送のテレビ、海外旅行、しらふであること(部分的に、また文字通りの意味で)、コロニアル様式の家具 セット、英語への抜きがたい反感、英語、イスラエルを裏切ったうしろめたさ、キャメル(煙草)、マリファナ、何十もの亡命ロシア出版社、亡命、物質面の幸 福、あいまいさ、ノスタルジア、万一の時のための貯金、旅路の果ての感覚、過ぎ越しの祝いのパン、最も民主的な憲法、人種差別、無限の可能性、社会福祉、 『プレイボーイ』、国際的な趣味、民族的な誇りのとぎすまされた感覚、抵当、概念芸術、魚、そして地球の最良の部分。

まとめ

ワイリとゲニスが掲げた損得一覧表の帳尻があうかどうか、保証はない。しかし、亡命者はこのような喪失と獲得の緊張関係に身をさらしながら生活して いくしかない。その結果、上に引用した一覧表にもあるように「比較の可能性」が文学的手法として浮かび上がってくる。その意味では亡命者とは「比較する人 間」なのであり、特にアメリカに亡命したロシア人作家の場合は、二つの大文明の比較の可能性という、利用のしかたによっては非常に大きな特権を手に入れる ことになる(ナボコフやブロツキーはその特権を最大限活かした作家と言えるが、その点についてはここではこれ以上触れない)。その結果、「比較」は亡命作 家の書くほとんどすべてのものを貫く視点となる。例えば、ワイリとゲニスの共著で、一見したところ軽い料理エッセイのような『亡命ロシア料理』 (1987)にしても、ソ連から亡命してアメリカにやってきたロシア人の文芸批評家が、アメリカの不味いジャンクフードを罵倒しながら、故郷の味を懐かし み、本物のロシア料理の作り方を読者に伝授すると同時に、ロシアとアメリカの両者を視野に入れた文明批評の本になっているのである。

本稿はそういった「比較」の質について考察する試みである。残念ながら、本稿はまだ、何人かの具体例と引用、そして若干の走り書き的コメントに止 まっており、実質的な考察はまだ今後の課題である。むしろ実質的な考察を進めていくための資料と考えていただきたい。

今後、考察をさらに進めるにあたっては、以下のような視点も補うべきであろう。

(1)「第3の波」以前の亡命ロシア人と「第3の波」の違い

(2)西欧に亡命したロシア人の場合とアメリカに亡命したロシア人の違い

(3)アメリカの亡命ロシア出版(特に『新しいロシアの言葉』『新しいアメリカ人』といった新聞)の調査


文献

Aleksandr Solzhenitsyn,"Rech' v Garvarde"(1978), in: Solzhenitsyn, P ublitsisti-ka in 3 vol., vol.1, 1995, Yaroslavl'.

Vasilii Aksenov, V poiskakh grustnogo bebi, New York, 1987.

Eduard Limonov, Eto ja -- Edichka, New York, 1979.

Sergei Dovlatov, Nashi, Ann Arbor, 1983.

Petr Vail', Aleksandr Genis, Poteriann rai, Jerusalem, 1983.

Arnold McMillin. ed., Under Eastern Eyes, McMillan, 1991


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