『アンナ・カレーニナ』を訳して
望
月哲男
モスクワの貴族オブロンスキー公爵家で、夫の浮気から揉めごとが起こり、ペテルブルグ
の高級官僚の妻である妹のアンナが仲裁にやってくる。アンナはその滞在中に、義妹キティの意中の人である青年将校ヴロンスキー伯爵を魅了して、二人の仲を
壊してしまう。同時にキティに思いを寄せていた地主貴族リョーヴィンも、夢破れて田舎の領地へ帰っていく。影のように従うヴロンスキーとともにペテルブル
グ
に戻ったアンナは、いつしか自身も恋の虜となり、夫カレーニンとの暮らしに幻滅していく・・・・・・。
トルストイの長編小説『アンナ・カレーニナ』は、このような複数の男女関係の相関を追いながら、ロシアの二大都市と田舎、ドイツやイタリアの地方都市を
めぐって展開していく。時代はわが国の明治初期にあたる一八七〇年代半ば。文明開化の担い手である鉄道や電信がシンボリックな役割を演じると同時に、転換
期に特有の諸問題が、作品に影を落としている。すなわち資本主義化にともなう農村の荒廃、地主貴族階層の没落、世代の断絶、無神論・神秘主義・民族主義の
流行といった現象である。
生涯、信ずるべきものは何かと問い続けたトルストイは、この恋愛小説をも問いかけの場としている。ヒロインであるアンナの物語は、男女それぞれの恋愛感
情の機微やその相違を細やかに映し出すばかりでなく、社会における男女関係の位置づけについて本質的な問題を提起している。
中でも重要なのは、夫婦関係は愛情がなくとも社会的に尊重されるのに、婚外関係はたとえ真実の愛に基づいていても排除されるのはなぜか、という問いだ。
ひそかな情事を楽しむ「大人」の貴婦人たちとは違って、自らの感情を隠せない「恐るべき子供」アンナゆえに生まれるラジカルな疑問だが、この問いは諸刃の
剣の役を果たす。つまり形式本位の結婚制度に人道的な視点からの疑問を投じると同時に、真実の愛という「ロマンチックな」情動の確かさを検証する契機にも
なっているのだ。
目くるめくような感情体験に始まり、世間の目を忍びながら肉体の関係へと発展し、罪や恥の意識の試練を受け、認知されぬ子供を産み落とし、果ては嫉妬と
復讐心のかたまりと化すアンナの恋とは、個人にとって、社会にとって、はたして何だったのか? それがこの作品に鳴り響くテーマである。
もう一人の主人公リョーヴィンも、大きな問題を背負っている。そのひとつは社会的な課題で、後進国家ロシアが国民経済の根本である農業をどのように再建
していくべきかというもの。農奴解放後のロシアにとって焦眉のこの問題を、リョーヴィンは西欧的な理論の批判とロシア国民性論の研究に基づいて、実践の中
で解決しようとする。
トルストイ自身を模写したようなこの地主貴族は、肉親の死や子供の誕生を経験する過程で哲学的・倫理的な疑問にも直面する。すなわち、有限な理性とつか
の間の人生しか与えられていない人間が、どうしたら真実を知ることができるのか、道徳や他者愛の基本となる善の知恵・希望の光はどこから得られるのかと問
い続けるのである。
トルストイの世界には、ドストエフスキーの作品に登場するような超人的主人公も、飛びぬけた悪人や善人も登場しない。人物はみなわれわれに似た身の丈を
していて、それぞれの長所と欠点を備えている。そこでは哲学と政治、農業と芸術、恋愛と経済といった性質の異なる問題群が、分け隔てなく、同じひとつの
テーブルに載せられている。小説の時間も、発端・クライマックス・収束を持つ劇的な物語の時間よりも、本質的に同じペースでどこまでも続く日常の時間に似
ている。そんな、いわば等身大の世界の中では、愛・真理・信仰・生・死といった深刻なテーマも、きわめて人間的な表情で、いわばユーモアとアイロニーをま
とって展開される。
すでに何度も翻訳されたこの名作を改めて日本語に訳すに際して、訳者があえて心がけたことがあるとすれば、このようなトルストイ流の現実感覚やユーモア
を、できるだけ正確に伝えたいということだった。結果がうまく行ったかどうかはわからない。ただ翻訳という形の濃厚な読書体験の過程で、何度も微笑や苦笑
や哄笑を誘われたことは確かである。
(『北
海道新聞』2009年2月2日:夕刊)
望月哲男(もちづき てつお)
北海道大
学
スラブ研究センター教授・ロシア文学
専門はロ
シア文化・文学専攻。著書に『ドストエフスキー・カフェー現代ロシアの文学風景』、訳書に『ロマンI、II』(ソローキン)、『ドストエフスキーの詩学』
(バフチン、共訳)、『自殺の文学史』(チハルチシヴィリ、共訳)、『アレクサンドルII世暗殺』(ラジンスキー、共訳)など。
*なお、エッセイの内容は、スラブ研究センターを始め、いかなる機関を代表するものではなく、
筆者個人の見解です。
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