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 研究員の仕事の前線


INCSAがダラム大学で立ち上げ


    オブライエン教授の開会の言葉
         ダラム大学の実質的な学長 オブライエン教授の開会の言葉

     19世紀研究初の国際学会The International Nineteenth-Century Studies Association (INCSA)の第一回大会が7月10日から12日の三日間、立ち上げの中心となったイギリスのダラム大学で行われた。ハイブリッドの大会には参加者が35か国から対面だけで約200名、オンラインを合わせると300名近くに及んだという。筆者は運営関係者(+パネル司会)として参加したが、センターの共同研究員としてもお馴染みの神竹喜重子氏(東京藝術大学)と古宮路子氏(東京外国語大学)がそれぞれ対面とオンラインで登壇していたほか、現地では福井祐生氏や清水真伍氏らポスドク・大学院生の姿も見かけられた。会場はダラム大学の教育学習センターをメインとしてその周辺の他学部の建物を組み合わせたコンパクトな配置で、徒歩10分程度の場所にある大学宿舎も含めて移動は楽だった。


     記念すべき大会はゾーン会長のあいさつで始まった。“The Nineteenth Century Today: Interdisciplinary, International, Intertemporal”という大会のテーマにも含まれているキーワード Interdisciplinary, International, Intertemporalが強調され、その後も機会あるごとに繰り返されていた。穿った見方をすれば、従来の英語圏の19世紀研究でこれらを達成することがいかに難しかったかということの裏返しかも知れない。実際今大会でもヴィクトリア朝の文化に関する知識が前提とされる報告も多く、英語圏の専門家が目立ち、ディシプリンとナショナリティの面では(打ち明けてしまうと)会話に入りにくいところも確かにあった。


    メイン会場となったダラム大学教育学習センター
                 メイン会場となったダラム大学教育学習センター

     ただそれを上回る変化への意志と兆しは随所に感じられた。テーマは文学だけではなく音楽・美術・舞台芸術さらには20世紀のメディアである映画を扱ったものと幅広く、さらに医学や犯罪、写真技術や地図といった狭い意味の「文化」の範疇に入りきらないトピックに真正面から取り組む報告やパネルもあった。ジェンダーやLGBTQ、(脱)植民地主義への関心と知識はほぼ共有されていたように思う。二つの基調講演はともに欧米の博物館等における知の収集と展示の脱植民地化、そして失われた歴史や記憶の回復に関わるものだった。公開セッションでは環境批評や暴力がテーマになるなど、人文科学の新しいトピックや方法論を積極的に取り入れる姿勢が目についた。アカデミズムと現代を生きる人々をつなぐ存在として美術館・博物館や演奏家などとの協力関係も重視されていて、最初の基調講演はロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館(V&A)の新しい施設V&A Eastの館長が行い、公開セッションにはジョージ・ルーカス博物館のキュレーターが招かれて多様なメディアにおけるSFの暴力描写の展開を手際よく解説していた。ゾーン会長の専門分野である音楽関係もさすがに充実しており、プログラムにはレクチャー・リサイタルが5つも含まれていた。総じて、この種の学会にありがちな19世紀への郷愁めいたものが感じられなかったことは印象的だった。この時代とのけっして近くはない距離を冷静に見つめながら、そこからアクチュアリティを読み取ろうとする姿勢にはアカデミズムにとって生産的な危機感すら漂っていた。


     アフリカや中近東、南米を扱った報告に混じってロシア関係の報告は事前に予想していたより数が多かったし、会場にはモスクワ高等経済学院の有力な若手研究者の姿もあった。他地域の研究者との政治的な衝突があったようには見えない。ただ筆者も参加した議論の中で、オリエンタリズムの内面化という観点からオスマン帝国とロシア帝国の比較が話題になった際、ロシアの研究機関所属の、ただしロシアを専門とはしていない研究者が「もっといろいろな問題があるのにロシアと言えば帝国主義が問題にされるのは気分がよくない」と発言したことには複雑な思いがした。一方ロシア以外のスラブ・ユーラシアに関する報告はほとんどなく、また東アジアについての報告数もわずかだった。このような状況を踏まえて、東アジア地域にあってスラブ・ユーラシア研究とINCSAをつなぐハブとして当センターに熱い視線が注がれていることがよくわかった。


    懇親会でのゾーン教授(右端)のスピーチ。<br>左端は運営委員を務める許教授(台湾・政治大学)
               懇親会でのゾーン教授(右端)のスピーチ。
               左端は運営委員を務める許教授(台湾・政治大学)

     開催期間中には毎夕イベントが用意されていた。とくに世界遺産のダラム大聖堂での聖歌(文言もいろいろ興味深い)、そして隣接するダラム城に場所を移して開かれた夕食会は、そこでのゾーン会長の配慮の行き届ききったスピーチと併せつよく印象に残った。三日間とも薄曇りで肌寒いくらいだったが、ダラムは落ち着いた静かな街で、行きかう人々も親切で過ごしやすかった。帰路に乗ったタクシーでは運転してくれていたのが近隣のニューカッスル在住、ルーマニア出身のクリミア・タタールの若者とわかり大いに話が弾んだ。


     次回は2026年、ワシントンに場所を移して行われる。スミソニアン博物館が主催し北米の団体INCS(Interdisciplinary Nineteenth-Century Studies)と合同で行われる大会は、400人規模になるという予想もあるようだ。英語とスペイン語の併用が計画されているという話も聞くから、多様性への配慮がいっそう進むだろう。学会誌とブック・シリーズの出版計画も軌道に乗りつつあり、次回大会ではまた新たなINCSAの姿が見られるに違いない。


    (安達大輔)


     


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