ニュース
- センターニュース
- 英文センターニュース
- 研究員の仕事の前線
- 追悼:外川継男先生
外川継男先生とSRC
外川継男先生を偲んで
外川継男先生著作一覧
(2025年4月23日) - ミルラン・ベクトゥルスノフ特任助教がAb Imperio最優秀論文賞を受賞
(2025年4月21日) - ロシアのウクライナ侵攻特集
- 追悼:外川継男先生
- スラブ研究センター・レポート
研究員の仕事の前線
追悼:外川継男先生
センターの発展の礎を築くうえで、組織面でも国際研究交流の面でも顕著な功労のあった外川継男先生の追悼文を、元センター長の望月哲男先生に書いていただきました。
外川継男先生とSRC
望月哲男(北海道大学名誉教授)
SRCがまだ「北海道大学法学部附属スラブ研究施設」という名の組織だった1960年代から四半世紀あまりも研究員を務められた外川継男先生が、本年1月3日、満90歳で亡くなられました。
ソ連の有人宇宙飛行船ヴォストーク1号の大気圏外への飛行が衝撃を生んだ頃からペレストロイカの時代まで、SRCの活動を牽引し、組織の発展に多大な貢献をされた我々の大先輩であり、筆者も先生がSRCを去られる前の1年間新任として薫陶を受けた身として、直接・間接に伝わってくるその研究者としての感覚の鋭さ、視野の広さ、またあくまでもリベラルで洒脱なお人柄に、強い憧れと敬意を覚えてきました。もちろんご専門の近代ロシア思想史や日ロ文化関係史の領域の著作からもたくさん学ばせていただきましたが、その幅広いお仕事の真価については一文学研究者の狭い視野からはとても語りつくせません。ここでは、先生のSRCでのご活動についてごく簡単に整理し、同時に元SRC情報資料部の松田潤氏のご協力を得て作成した「外川継男先生著作一覧」を別掲することで、先生への感謝と哀悼のしるしとさせていただきます。学者・教育者としての先生のプロフィールについては、同じ歴史学がご専門で外川先生ともSRCとも大変縁の深い、元北大文学研究科長の栗生澤猛夫先生に語っていただきます。
外川先生は1957年に東京大学文学部西洋史学科を卒業されたのち、北海道大学大学院文学研究科に進学、当時スラブ研究施設主任であった鳥山成人助教授のもとで研究生活に入りました。博士課程在学中の60年に、SRCの誕生に深いかかわりがあったロックフェラー財団フェローとしてカリフォルニア大学バークレー校に留学した後、翌61年に法学部附属スラブ研究施設助手に就任。その後パリ第4大学付属スラヴ研究所への留学(66年、フランス政府給付生)をへて69年にスラブ研究施設助教授となり、翌71年から75年9月まで、施設長を務めました(73年教授に昇進)。76年のワルシャワ大学での研修、77年のレニングラード・ロシア文学研究所への研究出張などを経て、77年10月に再度施設長に就任。これ以前から前施設長の故木村汎教授、故出かず子助教授、伊東孝之助教授らとともに推し進めてきた施設のセンター化の構想が実って、78年春に「学内共同教育研究施設スラブ研究センター」が設立され、外川先生が81年3月まで初代センター長を務めました。
この時期、外川センター長のもとでSRCの活動は大きく広がりました。78年には外国人研究員プログラムが開始され、79年には「スラブ研究センター研究報告シリーズ」、「スラブ研究センターニュース」が創刊、54年から行われていた夏期・冬期研究報告会も、年2度の「総合シンポジウム」という形に進化発展しました。これらは形を変えながら現在まで継続されているSRCの活動の根幹です。79年にはさらに「情報資料部」が新設され、資料収集と情報サービスの軸となっていきます。センターのステイタスはいまだ学内共同利用のための施設でしたが、内外の研究界との連携に向けて開かれた活動の形は現在のセンターにそのままつながるもので、外川先生はまさにそうしたセンターの発展のシナリオを作り、今日のSRCへの進化を入り口で支えた先輩たちの中心にいた存在として、顕彰されるべきでしょう。
外川先生ご自身が留学や滞在研究の経験をもとに培ったアメリカ、フランス、ポーランド、ロシアなどのスラブ研究者たちとの親密な関係がSRCの国際化に果たした役割は顕著で、初期の外国人研究員や国際シンポジウム参加者の編成にもその様子がうかがえますし、センターが83年にパリ第3新ソルボンヌ大学国立東洋語東洋文化研究所ロシア・ユーラシア研究センターと最初の交流協定を結んだことも、同じ背景から説明されると思います。
もちろんSRCに対する外川先生のご貢献は組織運営や改革・新機軸といった観点からだけでは説明できない、より本質的な研究活動にかかわるもので、それは、例えば紀要(当時)『スラヴ研究』に次々に発表されたゲルツェン、チャアダーエフを核としたロシア近代思想研究の成果が実証しています。地域研究はもちろん学際的な世界であり、先生の歴史・思想史研究も、政治学、経済学、国際関係論、言語・文学などの諸学の専門家の仕事と隣接し、相互に作用しあいながら遂行されたものですが、そうした環境下で(おそらくそうした環境下でこそ)成し遂げられた息の長い研究の営みの記録を見ると、外川先生とSRCが、いわば互いを育て高めあう、幸福な関係にあったであろうことがうかがえます。
歴史学が専門の外川先生はご自身の活動でSRCに貢献されたばかりでなく、SRCの活動の歴史家としても貴重な仕事を残されています。「スラブ研究施設二十年の歩み」(『スラヴ研究』20号、1975年)、「木村彰一教授と北大のスラブ研究」(『スラヴ研究』33号、1986年)などの文章は、以上略述したようなSRC草創期の歴史を知るうえで、またとない資料です。またのちに当センターニュースに連載された回想的エッセイ「スラ研の思い出1–12」(『スラブ研究センターニュース』 75–86号、1998–2001年)は、先生が在籍されていらした当時の専任や客員はもちろん、事務官や非常勤職員諸氏、関連の学内諸部局の方々のプロフィールまで生き生きと盛り込んだ、たくさんの顔を持ったSRC史で、70年代までの北大の歴史資料としても、また日本のスラブ地域研究史の一局面の記録としても、大変興味深いものです。
上述のような組織の進化にともなって一段と激務化したセンター長職を終えた後の外川先生は、再度ご自身の活動の翼を広げ、83年にはワルシャワ大学日本語学科で授業を担当、85年6月~8月には北大水産学部忍路丸(おしょろまる)に乗ってベーリング海経由アラスカへ周航という、実に興味深い経験をされています。先生のご関心が日露関係へと移ってきたことの反映でしょうが、何よりも分野や手法の枠にとらわれず、自分の目で何でも見てやろうという、地域研究的歴史家としての本領を見る思いがします。
先生は87年に上智大学外国語学部へ転出されましたが、その後も96年9月までセンター共同研究員をつとめられ、またいつからか札幌市南区のマンションで夏を過ごされるようになったので、先生とSRCとの関係は、以降も長く続きました。個人的にも、南北線澄川駅付近の喫茶店でお目にかかってお話を伺ったり、夏の研究会やシンポジウムで文学研究科の故灰谷慶三教授や栗生澤猛夫教授の隣に外川先生のお顔を見たりするのが、とても楽しみでした。
以上大変簡単ながら外川先生のSRCでの活動を概観させていただきました。先生のご恩への深い感謝とともに、本稿を終えます。