SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )


モスクワ・コンセプチュアリズムの美術

鈴木正美 (芝浦工大)

Copyright (c) 1996 by the Slavic Research Center( English / Japanese ) All rights reserved.


リアノゾヴォ派以降の現代美術概観

1950年代終わりに始まったリアノゾヴォ派の詩人たちは、ソビエトの日常生活をそのまま描くことで、かえってその現実のグロテスクさ、不条理をあ ばき、アイロニカルな抒情の世界をつくった。また絵画においては、表現主義やシュールレアリズム風の手法によって貧しい市民生活やその心象風景を描き、公 式の社会主義リアリズムでは描かれることのなかったきわめて独自な世界をつくりだした。このリアノゾヴォ派から始まった創作の意味の問い直し、つまり詩や 絵画が対象とする世界や作品がつくられる場の問題に対する考察が深められていく課程が、1960年代以降の現代芸術のいくつかの潮流を形成することにな る。*1

フルシチョフ体制下でも欧米の美術潮流の情報を密かに入手することはできた。公式の展覧会でジャクソン・ポロックの作品やポップ・アートをかいま見 ることもできた。リアノゾヴォ派のように独自な自由な表現を求める非公式芸術家は多数存在した。ある抽象画展覧会を観たフルシチョフが「まるでロバの尻尾 で描いた絵だ」と酷評した有名な「ロバの尻尾」事件(1962)以降、前衛絵画は公式的には認められなかったが、前衛芸術を探求する画家たちの活動が止ま ることはなかった。非公式な場所では彼らの作品は一般にも公開された。前衛音楽やジャズとのジョイント展も行なわれていたという。こうした「反社会的な」 運動は公式筋の人間にたびたび弾圧されたが、芸術表現の自由を求める画家たちのエネルギーは抑えることはできなかったのである。こうして1970年代には 純粋抽象、ソッツ・アート、コンセプチュアリズム、フォト・リアリズム(ハイパーリアリズム)、キネティズム(キネティック・アート)、抽象表現主義など 個々の画家によって多様な様式がつくられるようになった。

1974年にモスクワ市内の野外で前衛絵画展が開催された時、当局はブルドーザー、放水車を派遣して、展覧会場を徹底的に破壊した。この「ブルドー ザー事件」がマスコミによって西側に報じられ、ソビエトの前衛美術は世界的に知られるようになったが、同時に芸術家たちは二つの道を選択することになる。 すなわち亡命か、さらなるアンダーグラウンドかである。

西側に亡命した画家たちの中で最も成功したのは、現在アメリカにいるアレクサンドル・メラミード(1945−)とヴィターリ・コマール(1943 −)のコンビである。ソッツ・アートという用語は彼らによって1972年にモスクワで作られた。彼らは社会主義リアリズムの様式で描かれ再生産された革命 の英雄たち、工場で働く労働者たち、明るい集団農場の作業風景、レーニン像などソ連社会にあふれる大衆文化のイメージから引用、流用した作品を制作した。 それをある友人が西側のポップ・アートにヒントを得て、皮肉をこめてソッツ・アートと呼んだのである。それは皮肉に満ちたモチーフの組み合わせやパロディ による「反体制的」な作品になっていった。

一方ソ連国内にとどまった前衛芸術家たちはどのような活動をしていたのか。彼らはみんなイラストレーターやポスター画家として生計を立てながら、自 分のアパートに閉じこもって自らの芸術表現を探求し、コツコツと作品をつくっていた。前衛芸術家グループもいくつか存在し、相互に密接な交流があった。彼 らの展覧会場は自分のアパートの一室であり、ここに近しい人々を招き、密かに作品を公開していた。それゆえ彼らの作品はアパート芸術「クヴァルト・アー ト」とも呼ばれた。

政治によって社会の奈落へと落とされた前衛表現は、社会主義リアリズムの手法にこだわらず、さまざまなスタイルでソビエトの現状を反映する反社会的 な作品へと向かった。彼らもまた1970年代以降、ソッツ・アートの一派とみなされることになる。その中でも西側の美術関係者によって特に有名になったの が、エドゥアルド・ガラホフスキー(1929−)、エリク・ブラートフ(1933−)、イワン・チュイコフ(1935−)、イリヤ・カバコフ(1933 −)の4人である。

スターリンの大きな肖像、その肖像は近くに寄ってよく観ると1488個の小さなレーニンの肖像で構成されていることが分かる。ソ連の政治体制の本質 を暴露しようとするガラホフスキー。彼はモノクロームの写真を基調にした表現で、痛烈な社会批判をし続けている。

風景や空をバックに、ある言葉を太い文字で描きこむブラートフの作品はその言葉によって、何でもない背景に新たな意味を与える。例えば「ソ連共産党 に栄光あれ」(1985)という作品は、白い雲が悠々と流れる青空を背景に、約二メートル四方のカンヴァスいっぱいに作品名と同じ言葉が太く赤々と描かれ ている。それは天上から「栄光」が降ってきたようでもあり、同時に地上から人々の叫ぶ空無化した「栄光」の声が集合体となって空に上がったかのようにも感 じる。「ソ連共産党に栄光あれ」は、その言葉だけが一人歩きして、政治的に形骸化したソ連を嘲笑しているかのようだ。

いずれにせよ政治や社会を反映して、その裏に潜む悪を暴く絵画がソッツ・アートのひとつの特徴だが、それはまた同時に、観客の観る立場によってイ メージの変容する絵画、すなわち作品をテクストとして読むソビエト独自のコンセプチュアル・アートにもなり得たのである。


ソッツ・アートとコンセプチュアリズム

 

今日ロシアのポストモダンをめぐる論議の中でも絵画のジャンルで度々言及されるのがソッツ・アートとコンセプチュアリズムである。このふたつの美術 潮流に関しては最近いくつかの画集、概説書が出版されており、いま本格的な研究が進んでいる段階である。*2

ミハイル・エプシュテインによると*3、アメリカのポップ・アートを生んだ西側の大衆意 識は物質の市場属性が支配しており、ソ連では一般概念のイデオロギー的属性が支配している。ポップ・アートにおける缶詰のカン(ウォホールのキャンベル・ スープ缶)が、ソッツ・アートでは街路のスローガンにあたる。ソッツ・アートはコンセプチュアリズムの一部であるという。種種さまざまな芸術言語やイデオ ロギーのシステムを使って作業をするコンセプチュアリズムの中でも、社会主義(共産主義)文明の記号システムに集中するのがソッツ・アートなのだ。生物学 的分類用語で言うと、ポストモダニズムは美学的現象の「綱」であり、コンセプチュアリズムはそこから発生した「目」、ソッツ・アートは「科」である。

ソッツ・アートはコミュニズムとポストモダンの美学的共通性、すなわちそのハイパーリアルな本質、折衷主義、引用性、イデオロギー的アレゴリーや大 衆意識の紋切り型への冷やかな情熱などをあばきだす。ソッツ・リアリズム(社会主義リアリズム)がモダニズムの過去との決別の段階のコミュニズムだとすれ ば、ソッツ・アートはポストモダンの未来を容認する段階のコミュニズムなのだ。だがいまやコミュニズムがポストモダニズムに移行するにつれて、ソッツ・ アートはコミュニズムへのノスタルジーだけを残して消えようとしている。1990年代にソッツ・アートはソ連芸術と同化してしまい、「輝しく、純粋な」コ ミュニズムの時期に成熟したポストモダンのノスタルジーとなる。ソッツ・リアリズムは死んだ。そしてその法定相続人であるソッツ・アートは余命いくばくも ない。

ソッツ・アートは西側のポストモダンとは異なる。ソビエトの若木に遅れて接ぎ木されたのであり、有機的成長の果実であり、コミュニズムの発展段階に おけるロシア・ポストモダンの熟した果実なのである。ソッツ・リアリズムの時代はイデエを再編するシステムにあらゆる現実が服従し、すべてを包括するハイ パーリアリティを創造した。ソッツ・アートの時代はこのハイパーリアリティの条件的な記号的特性を自覚し、異化されたアイロニー、パロディ、ゲームの法則 によって、この特性と相互作用するのである。

以上のようにエプシュテインはポストモダニズムとコミュニズムに共通性を見出し、ソッツ・アートにロシア的ポストモダンの特性を見ている。またソッ ツ・アートがコンセプチュアリズムの一部であるという考えは当を得ているだろう。ソッツ・アートはソビエト的諸記号との戯れと考えるならば、コンセプチュ アリズムはソビエト的なものも含めたこの世界全体への考察といえるだろう。あるいはナターリア・タムルチのいうように「ソッツ・アートはソビエト文化のイ デオロギー的諸記号を熱狂的にパロディーにし、一方コンセプチュアリズムは、イデオロギーでは咀嚼されることのなかったもの、その影響外に依然としてある 小さな事物たちをその諸記号の中に見いだそうした」*4である。

コンセプチュアリズムの芸術家たちが、ソ連芸術家同盟やアカデミーに属さないイラストレーターやポスター画家、教科書や絵本の挿し絵画家であったこ とは重要である。近代絵画においては美術品が他のものとは違った独特の価値を持つものという考えから、額縁に入った油絵すなわちタブローのみが最高の位置 を占めていた。美術という制度において、タブロー以外の装飾美術、工芸は二次的なものとなっていたのである。コンセプチュアリズムの芸術家たちは、制度の 外にいたがためにかえって美術そのものの問題、美術と美術でないものとの境界は何かという問題に取り組むことができるようになったといえるだろう。こうし て美術品と一般の物の区別をとりはらい、視野を拡大し、社会にあふれる諸記号、諸イメージを作品にとりこむことがコンセプチュアリズムの課題となった。言 いかえれば、社会主義リアリズムやソッツ・アートでは取り込むことのできなかったソビエト的現実や生のリアリティの考察、記号とイメージの関係の考察、芸 術と生、知と直感の境界にある芸術性の発生の条件の考察へと向かったのである。かくしてボリス・グロイスの言うように「芸術家は分析家になった。彼らの分 析はいまや「提示する」ものとしての芸術作品と「提示された」対象との相似を見いだすことではなく、対象世界に存在するものとしての芸術作品と世界の中で 同じ法則のもとに存在する他の諸対象との間の違いを見いだすことに向かう。」 *5

例えば、イワン・チュイコフの1970年代の「窓」シリーズでは、本物と同じように窓枠と外の風景がレリーフ状につくられている。パノラマとしての 窓は空間を転倒し、いかにもフィクションであることを隠そうとはしない。ここでは、絵とは何かという問題を提示している。何でもないただの窓が美術でり、 同時にフィクションであるという事実に芸術的イメージのはかなさを見る者は感じる。また「道路標識」(1973)という作品は空をイメージする青い色で塗 られた木の箱に張りぼての雲や森が張り付き、中央に大きな道路標識が描かれている。ただの道路標識が美術であるのかという問題をつきつけているのだ。

エリク・ブラートフの作品は先ほどもふれたように、イメージと大きな文字との構成でできている。「危険」(1973)という作品では中央に小川の流 れる森と野原の牧歌的風景が描かれている。ピクニックを楽しむカップルの姿も見える。ところが110センチ四方のこの絵の回りには赤く太い文字で「危険」 と書かれているのである。何が危険なのか、見る者は不安になる。こうした開かれた空間が、ソビエト市民にとって危険な場所なのではないかという不安。心地 よいはずの風景がまるで違ったものに変貌するショック。奥行きのある風景が、文字によって平面化し、ポスターのようになる。ソビエトのイデオロギーが空中 に浮遊し、これらの記号と離れようのないソビエト生活が表現されていると考えるなら、これはソッツ・アートの作品と考えることもできるだろう。ここではも はやイメージは言葉の下に置かれ、コミュニケーションの特性を欠いたイデオロギーの言葉だけがリアリティを持っている。

ヴィクトル・ピヴォヴァーロフ(1937−)の「独り者のためのプロジェクト」シリーズ(1971)では作者のイメージが詩における抒情的私のよう に必ずどこかに登場する。画家というイメージとその生活のイメージが、さまざまなアイロニカルなモチーフで描かれる。ここでは自分が架空の4人組のうちの ひとりという設定になっていて、けっして実現しないコンセプトだけのプロジェクトが描かれている。このようにコンセプトだけを重視するのがコンセプチュア リズムの特徴のひとつである。そしてこうした特徴がもっとも顕著なのがイリヤ・カバコフの作品である。


イリヤ・カバコフ

 

1960年代の非公式芸術家たちの意識には、高次のリアリティつまり現実にはない世界に本当の文化や真理があり、芸術家はそうした真理に奉仕するも のであるという考えがまだあったが、コンセプチュアリズムはこうした真理を地にひきずりおろした。文化とは目の前にある現実そのものであり、この文化は芸 術家の中にあるのではなく、外部にあるものなのだ。芸術家にとって文化は世界をとりまくもの、そこにあるだけでそれ以上のものではない。こうして芸術家は 自らの内にある真理を表現するものではなく、外部を観察するものとなった。コンセプチュアリズムにとって文化とは表現のための単なるオブジェにすぎない。 さまざまなオブジェはただ引用されるためだけにある。ただのガラクタやゴミから構成されるイリヤ・カバコフの作品は、引用に引用を重ねて意味が多重化した あまりかえって意味不明となったオブジェの集積である。*6

カバコフはソッツ・アートのように単なる社会批判にとどまらず、より人間の生の本質に迫る表現をしている。使用する素材はさまざまだが、彼の作品の 中でも最も重要な素材は文字テクストである。凝った書体、チェーホフばりの文体でつくられたテクストが画面に周到に配置され、このテクストを読む観客はひ たすら考えこまされる。作品が創作された過程を追い、文章テクスト、作品というテクストを解読するという行為そのものが問われるカバコフの表現は、非常に 密度の濃い空間をつくりだしている。

例えば、前衛画家たちの住む閉塞的なアパート空間が生み出した10人の人格の不思議な物語をインスタレーションしたカバコフの作品は、「背の低い 男」「才能のない芸術家」「アパートから宇宙に飛び出してしまった男」「他人の意見を収集する男」「何ひとつ捨てない男」「絵のなかに飛び込んだ男」等と いったシリーズになっており、生活用品からゴミ、ガラクタ、埃の類まで素材にして、悪臭漂うアパート内部の空間を徹底的に再構成している。それはソ連の日 常生活そのものを露にしていて、観客は異様な雰囲気に立ちすくむ。こうした作品の重要なコンセプトとしてカバコフは自ら「空虚について」というエッセイと も物語ともつかない文章で次のように述べている。

「まず何よりも私は、独特な物理的型、空虚の中に生まれ住む人々の精神状態について語りたいと思う。まるで空虚それ自体が浸透したかのように、これ らの住人の各々の経験と感覚はすべての反応と行為に含まれており、各々の仕事、言葉、願望と結合している。ここに住むすべての人は意識的であろうがなかろ うが、二つの次元に暮らしている。ビジネスであれ自然にであれ他人と関わっているか、または空虚と関わっているかである。さらに、この二つの次元は、私が 最初に住んでいたように、人と人を対立させる。次元のひとつは「構築」機構であり、もうひとつはそれの破壊、絶滅である。日々の暮らしの中で、広いレベル でこの二つの次元は、すべてのものの破壊の感覚として経験される。人間は、自分たちが建設し、破壊したものが無用で、無意味で、ばかげたことだと感じる。 こうしたことすべてにおいて、はかなさ、不条理、もろさといった感情がある二つの次元の生活は、例外なく、これら空虚のすべての居住者の、独特な神経症的 状態、精神異常を生み出す。空虚は圧迫、興奮、無力、無感動、原因不明の恐怖の独特の雰囲気を生み出す。」*7

『10人の人格』のなかでも「アパートから宇宙に飛び出してしまった男」(1981-88)の部屋は封鎖されていて中に入ることはできない。壁の一 部が吹き飛ばされていて、何か事故があったらしい。しかし板はしっかりと封鎖されいるわけではなく、板と板の間から中の様子をうかがうことができるように なっている。板の上には警察のものらしいメモが張られている。それによるとここの住人は、自分がいつもここの住人ではないと感じ、宇宙へ飛び出すことを熱 望していた。独学で航空力学、ロケット工学の研究を重ね、ゴムとばねを使ったカタパルトと火薬の推進力による地球脱出計画を完成させ、それを実行に移した のである。部屋の中は壁から天井までソ連的記号であふれた政治的ポスターでびっしりと埋め尽くされている。中央には赤の広場の絵が張られ、サーチライトで 照らされている。うす汚れた共同アパートの一室は社会主義ユートピアの世界であり、ここの住人はツィオルコフスキイ的夢想を実現したのだ。

『10人の人格』のアパートの住人たちは、彼らをとりまくオブジェと言説だけからなり、住人の実体はどこかへ消え去っている。これに限らずカバコフ の作品からは実体がまったく欠如している。それこそ彼の考えるソビエト的現実だったのだ。

「そこには歴史も、堆積物も、連続も存在しない。ただ安易な詩的回想があるだけだ。文化のセットとして修道院があり、町があり、かつてある生活が あったのだが、すべては煙のように空虚の中に溶けてしまった。なにものも生み出さなかったし、なにも意味することはなかった。すべてが空虚の中で、宙吊り になり、消えてしまい、空虚の凍った風に吹き飛ばされてしまったのだ。

そして人生のもっとも重要な記号のひとつは、飛行、転位、駆動である。空虚の風は住人たちをその隠れ家から吹き飛ばしてしまう。遅延を許さず、誰に も根をおろさせないこの国の広大な地上の均一な地面の上に運ばれていく木の葉のようだ。各々の人は仮にここにいるにすぎない。あたかも彼らはごく最近どこ からともなくやってきたかのように、またあるものは他の国にいるかのように。」*8

ミハイル・エプシュテインはその優れたカバコフ論において、カバコフの創作の重要な方法であるこの「空虚」について詳細に論じ、テクストと絵の表現 との相関関係に空虚が生じると考える。「私は芸術家と空虚の相関関係、方法におけるその変化のモデルを提示する。芸術がこの空虚を満たすことができない以 上、芸術のほうが空虚によって満たされるのである。空虚に囲まれおおわれた芸術家にはただひとつの出口が残されている。この空虚を作品そのものの構成に取 り入れること、空虚を側面からぐるりと回ること、自分の創作において空虚を特別な場所に置くことであり、なにより、たとえ境界がないにしても、空虚の境界 をはっきりさせることである。」*9

カバコフは70年代初めから余白の多い平面的な絵とこの絵との相関関係がはっきりしないテクストとの結合による作品をつくり始め、80年代には 『10人の人格』のような複雑なインスタレーションをつくるに至った。さらに最近ではシャズ・パーカショニストのウラジーミル・タラーソフとのコラボレー ションも手がけている。彼は共同台所をテーマにした作品を多く制作しているが、1984年に書いた「モスクワの共同台所。オリガ・ゲオールギエヴナ、煮 立っているわよ」という文章はタラーソフとの共同作品CD「オリガ・ゲオールギエヴナ、煮立っているわよ」(1993)に発展した。場所はモスクワの共同 アパートの共同炊事場。数人の女たちが料理をしながらおしゃべりをしている、その会話だけで構成された作品である。

「鑵を取ってちょうだい。牛乳を持っていくのよ…」「ほっといちゃ駄目でしょ…」「あなたのマッチ貸してくれる?」「あんたの猫ときたら、あんな役 たたず、あっちに連れてって!」「こっちのコップじゃなくて、アルミのを取ってよ、その横の…」「わたしの家にはこんなきれいな、涙みたいな水の井戸が あったの…」「あそこには部屋がふたつあったの、本当よ、ここほど大きくはないけど…」 とりとめのない会話は誰が誰のものとも分からない。料理、政治、 社会、経済、性、道徳、子供の教育、あらゆることがランダムに語られる。ソ連の日常生活の小百科がこの炊事場に凝縮されているかのように。

これらのテクストをただひたすら読むのがカバコフとタラーソフの二人である。彼らは同時にテクストを読むために、複数の声が同時に会話を繰り広げる ことになり、まったくかみ合わないはずの声たちの混交が音楽のように聞こえてくる。タラーソフは時おり様々な台所用品、コップ、ビンなどをがちゃがちゃと 鳴らす。ナベの蓋はシンバルになる。炊事場の喧噪が音楽になる。この音のインスタレーションは一時間に及ぶ。炊事場そのものが生き物と化したようである。 カバコフは言う。「我々は会話をしているのではない。空気を震わせているだけなのだ。コミュニケーションの代用品。我々のまわりはすさまじい言葉の騒音で あふれている。それは騒音ではない。それは人生そのものなんだ。」(「モスクワ・ニュース」1994年 6月5日)

こうしてカバコフの作品は人間の生の空虚そのものを総合的に提示する方向に向かっているのである。


パフォーマンス

 

コンセプチュアリズムは芸術家のコンセプトを直接的に伝える手段としてあらゆる実験を試みたが、なかでも身体を用いてのパフォーマンスはこの芸術潮 流のひとつの到達点を示している。ロシアでは1970年代から多くのパフォーマンス・グループが活動した。カバコフも参加した「集団行為」、「巣」「トタ ルト」「赤い星」「ムホモール」等である。その中でもとりわけ興味深いのがスウェン・グンドラフ(1959−)、ウラジーミル・ミロネンコ(1959 −)、コンスタンチン・スヴェズドチョートフ(1958−)等、若い前衛画家たちの結成した「ムホモール(ベニテングダケ)」だろう。

「穴堀り」(1979)というパフォーマンスでは2メートル程の穴を堀り、空気取りのチューブをつないだ箱に入ったグンドラフを生き埋めにした。数 時間後、穴の中から再び掘り出され、地上に戻った彼は生と自由を実感したという。この実感を体験することこそパフォーマンスの目的だった。また「地下鉄」 (1979)というパフォーマンスは、地下鉄の始発から終電にかけて、グループのメンバーが各々自分の絵を持ってあちこちの駅から地下鉄に乗りこみ、電車 の乗客を無差別に観客にしてしまうものだったという。

グループ「ムホモール」はさらにレコード「ゴールデン・アルバム」(1983)も製作した。それはヴィヴァルディや中央アジアの民謡、当時のポッ プ・ミュージック等を断片的につなぎ合わせ、その上に自作の詩や短編小説をコラージュするといったもので、アンダーグラウンドで大ヒットした。グンドラ フ、スヴェズドチョートフは、一時軍役につき、このグループは活動を停止したかにみえたが、芸術の自由を信じるグンドラフはサハリンから反戦的なメール・ アートを友人たちに送り続けていたという。後にこの「ムホモール」は「中央ロシア高地」というロック・グループへと拡大し、若者たちの圧倒的な支持をえる ことになる。そのステージでグンドラフは、安物のオルガン、アコーディオン、サックス、エレキ・ギター、ドラムをバックに自作の詩をうたい、ノイズだらけ のパンク・ロックを展開した。

「集団行為」は1970年代前半から活動を始めた。このグループのメンバーはアンドレイ・モナストィルスキイ(1949−)、ニキータ・アレクセー エフ(1953−)、ゲオルギイ・キゼバリテル(1955−)を中心とした10人前後のモスクワの芸術家たちで構成されている。「脱都会性」を意識した彼 らがパフォーマンスをするのは、いつもモスクワ郊外の森や野原に恵まれた公園である。彼らの行為はまず、招待状が届き、パフォーマンスの日時、場所が知ら されるところから始まる。その日に向けて観客はさまざまな思いにふける。そして当日、モスクワから郊外のパフォーマンスの場に向かう列車の中で観客も行為 者も心の準備をする。表現行為に参加するための儀式という訳か。都会の汚れた空気から自然へという移動行為は、受動的態度から自発的参加へという個人の内 的変異となる。さて肝心の現場に到着すると。たとえば「第三ヴァリアント」(1978)というパフォーマンスでは、森に囲まれた広い野原の真ん中に30 メートルの距離をおいて二つの等身大の浅い穴が掘られている。森の中から紫色の布を纏った人物が歩いてくる。彼は穴に近づき、中に横たわる。そして3分間 じっとしている。静寂。これは「空虚なアクション」と名づけられている。これが終わると彼はまた森の中へ戻っていく。と同時に二つ目の穴から最初の人物と 同じ格好をした人物が立ち上がる。彼の頭はオレンジ色の風船で出来ている。手に持っている杖で、彼は風船を割る。すると白い塵にまみれた頭が現れる。彼は 再び穴に横たわる。静寂。彼は横たわったままだ。この状態は観客が飽きて全員帰ってしまうまで続く。こうしてパフォーマンスは完結する。空虚、何もない状 態を行為者と観客がともに感じることが、このパフォーマンスの目的らしい。

さらに「行為の時間」(1978)というパフォーマンスでは、7キロメートルもの長いロープが森の中から現れて、野原を横切り、延々と引っ張られて いく。森の中からラッパの音が聞こえてきたり、奇妙なオブジェに向かって行為者が走っていたりと、訳がわからない。なんの説明もなされないまま、なんの意 味も見いだせないままである。ただ重々しい空虚だけが最後に残る。

モナストィルスキイは1980年に「郊外への旅」と題してこうしたパフォーマンスのドキュメント集を制作した。さまざまなマテリアル、写真、アン ケート、論文等からなるこの本は数巻にわたるが、この本に収められた行為者、観客の意見は、今日の芸術を考える上で重要な記録である。これらパフォーマン スは芸術と芸術でないものの境界、行為者(芸術家)と観客(非芸術家)との境界、そして行為や時間に関する問題を人々につきつけたまま、いまだはっきりし た答えは出ていないようである。


テクストと芸術作品

 

最後にコンセプチュアリズムの詩人ドミトリイ・プリゴフ(1940−)、レフ・ルビンシュテイン(1947−)、作家のウラジーミル・ソローキン (1955−)についてふれておかなければならない。プリゴフとソローキンは芸術家としての作品も手がけている。*10

彼らコンセプチュアリズムの文学作品は多かれ少なかれソッツ・アート的傾向をもつとエプシュテインは指摘している。ソローキンの『ノルマ』と『マ リーナの13番目の恋』、プリゴフの警官をうたった詩はソッツ・アートであり、ソローキンの『ロマン』はロシアの心理小説の記号システムを観念的に扱った ものである。*11

ルビンシュテインの詩は書誌カードに一フレーズずつ書かれ、そのカードはひとまとまりになってセッケン箱ほどの小箱に収められている。カードはトラ ンプのように切って、どこから読んでもよい。例えば「名称のない出来事」(1980)という作品はこうだ。「1,まったくできない」「2,どうしてもでき ない」「3,できない」「4,たぶん、いつか」「5,いつか」「6,あとで」「7,まだだめ」「8,いまはだめ」……。誰の会話なのか、まるで無意味な言 葉の羅列だが、それぞれの発話の状況が容易に想像できるようにできている。ルビンシュテイン自身述べているように「コンセプチュアリズムの芸術的実践とは 作品の創造というよりは、むしろ関係の解明なのだ。」*12つまりコンセプチュアリズムの芸 術作品において、画家と作品との関係、作品と観客との関係、作品におけるオリジナリティと引用の関係などが問われたのと同じようにコンセプチュアリズムの 文学においては、「作者とテクストとの間の、そしてテクストと読者の間の関係、テクストにおける作者の「存在」と「非在」の間の関係、「自分の」言葉と 「他人の」言葉の間の関係、文字どおりの意味と比喩的な意味との間の関係」の解明が重視されるのである。

プリゴフの芸術作品でまず挙げなければならないのが図形詩の試みだろう。タイプライターで打たれた単純な詩行の連続が図形を作り出す。リアノゾヴォ 派の具体詩の実践から始まった記号そのものとしての詩の探求が絵にいきついた一例である。また「缶詰」(1979)という作品では、缶詰のカンの回りにい ろいろな人の署名がされており、カンに立てられた小さな札には「アメリカの完全な無条件の軍備撤廃のための署名カン」とタイプしてある。缶詰はアメリカの 大衆意識を代表しているということなのか、やはり意図はまったく不明の作品である。もうひとつ「グラスノスチ」(1987)という作品は「プラウダ」の実 物の中央上に黒インクで影をつくり、白く「グラスノスチ」の文字が浮かび上がっているというだけのものである。これはグラスノスチがもたらす混乱を予見し ているようにも見えるが、新聞やメディアと芸術との関係を問おうとしているようでもある。

ソロ−キンはロシア文学の古典から日常に散らばる些末事まで、まるでカバコフのゴミの山のように自在に扱うが、同じことを芸術作品でも試みている。 「無題(ソ−ス入れ)」(1988)は陶器製のソース入れとその中に入った脂肪とバターが展示される。このソース入れの周りを囲んで8枚のカルテか処方箋 のような用紙が置かれている。それぞれに意味の分からない数字が書き込まれている。コンセプチュアリズムが解明しようとする諸関係から解き放たれ、ただ不 気味な空間をつくりあげているようだ。また「オナニウム」(1988)という作品も奇妙である。白い紙で包まれた箱を紐で縛った小包なのだが、その包装紙 の上には物語のような奇妙な文章が書かれている。「ぼくの心臓は腐っている。ラッシュアワーの時に地下鉄に乗っていたら、まわりの人間は臭いに気づいて脇 へどくんだ。心臓はオナニーのせいで腐っている。なぜなら心臓の組織には言葉にできない愛がたまって、心臓を腐らせるからだ……」。これを書いた人物は 「白い膿通り」に住んでいる。良識を逆撫でするようなソローキン特有の世界がこの作品にも現れている。ルイクリンの言うように「オブジェはソローキンの文 学的実践の継続である。それは造形的方法で展覧会場に場を作り出す。これらの作品の濃密な手法は「ノーマルな」文化コードの拒否、こうした拒否のあらゆる 自由な効果によって」*13見る者を彼の世界にひきずりこむのである。


おわりに

 

非公式芸術の中でも特にコンセプチュアリズムを、現代ロシア芸術を代表する潮流とする考えは、従来の美術史における様式の進化史観にとらわれてお り、甚だ危険である。コンセプチュアリズムはあくまで多彩で多様なソビエト非公式芸術の中のひとつの現象にすぎない。しかしコンセプチュアリズムがきわめ てソビエト的現象であったという事実は否定できない。この現象が社会のどのような層にどのようなレベルで浸透し、いかにソビエト文化全体に反映したのか、 今後もさまざまな視点から研究されるだろう。

いまやコンセプチュアリズムは流派としてとらえられるのではなく、芸術的実践の場における重要な思考の鍵、方法論となっている。「芸術とは何か」と いう問いがある以上、コンセプチュアリズムは滅びることはない。ひとつの流派、様式が芸術の先端にあるという芸術史観はもう終わったのである。現在も若い 芸術家たちの多くは絵画表現に飽き足らず、音楽、ファッション、パフォーマンス、舞台、映画、写真、さまざまなメディアへと関わっている。非常に複雑で、 あまりにも多彩な表現が展開されていて、それをここで述べるのはまったく不可能だ。日常生活や社会、人間の深層を露にし、その本質に迫り、新たなリアリ ティを求めること、また芸術の本質を問うことに終わりはないようである。


−注−

 


  1. リアノゾヴォ派については拙稿「リアノゾヴォとロシア現代詩」(北海道大学スラブ研究センター平成7年度冬季研究報告会報告集「スラブ・ユー ラシアの変動――その社会・政治的諸局面」所収)を参照されたい。


  2. 本稿では特に次の5冊を参考にした。

    M. Tupitsyin, Margins of Soviet Art ; Soviet Realism to the Present, Giancarlo Politi Editore, 1989.

    O. Kholmogorova, Sots-art, Galart, 1994.

    E. Bobrinskaia, Kontseptualizm, Galart, 1994.

    N. Tamruchi, Moscow Conceptualism 1970-1990, Craftsman House, 1995.

    E. Andreeva, Sots Art ; Soviet Artists of the 1970s-1980s, Craftsman House, 1995.


  3. M. Epshtein, Postmodernizm, kommunizm, sots-art.(東京大学におけるシンポジウム「ロシアはどこへ行く?」プレプリント、1996年9月) -pp.24-27.


  4. N. Tamruchi, op.cit., p.10.


  5. B. Grois, Moskovskii romanticheskii Kontseptualizm, Utopia i obmen, Znak, p.260.


  6. ボリス・グロイスは1970年代後半からモスクワ・コンセプチュアリズムの運動に関係しており、多くの論考を発表している。カバコフの作品に おけるゴミの重要性については、次のグロイスとカバコフの対談が大変参考になる。B. Grois, I. Kabakov, Dialog o musore, Novoe literaturnoe obozrenie, 1996, No.20, pp.319-330.


  7. Kabakov, On Emptiness. In Ross, David, ed., Between Spring and Summer : Soviet Conceptual Art. In the Era of Late Communism, MIT Press, 1990, p.55.


  8. Ibid., p.59.


  9. M. Epshtein, Pustota kak priem; Slovo i izobrazhenie u Il'ia Kabakova, Oktiabr', 1993, No.10, p.188.


  10. プリゴフ、ルビンシュテイン、ソローキンについてはすでに次の紹介がある。

    沼野充義「コンセプチュアリズムとは何か」『群像』1994年2月号、280-281ページ。

    武田昭文「グーテンベルグに別れを告げて――レフ・ルビンシュテイン」『ユリイカ』1994年9月号、308-309ページ。

    沼野充義「倫理からテキストへ――ポストモダンの前衛作家ソローキン」『スラブの真空』(自由国民社、1993年)143-146ページ。

    亀山郁夫「ロマンは死んだ――ウラジーミル・ソローキン」『世界×文学×現在、作家ファイル』(国書刊行会、1996年)230-231ペー ジ。


  11. M. Epshtein, Postmodernizm, Kommunizm sots-art, pp.25-26.


  12. L. Rubinshtein, Poeziia posle poezii, Oktiabr', 1992, No9, p.84.


  13. M. Ryklin, Faktura, slovo, kontekst, Terrorologiki, Eidos, 1992, p.121.

* 本稿は以下の拙文と一部重複している箇所があることをお断りしておく。

「新なるリアリティ――ソビエト現代美術」 『ユリイカ』1991年5月号、116-124ページ

「声と水のインスタレーション――カバコフとタラーソフ」『ユリイカ』1995年1月号、 314-315ページ


SRC Winter Symposium Socio-Cultural Dimensions of the Changes in the Slavic-Eurasian World ( English / Japanese )

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