ITP International Training Program



原稿を読みあげないこと

乗松亨平

(第1期ITPフェロー、オックスフォード大学に派遣)


 個人的な事情になるが、博士論文をようやく脱稿し、それを世に問う仕方についてこれから考えねばならないところだったので、今回の合宿はまことにタイムリーであった。自分の専攻はロシア文学だが、研究の方法は英語圏の文献に圧倒的な影響を受けている。しかし、みずからの研究成果を英語圏で公表しうるという可能性は、日本国内の媒体に英語で論文発表することは別にして、これまであまり現実味のあるものとして考えてこなかった。今回の合宿をとおし、しかるべき訓練としかるべき手続きを経れば、あるいはそれも不可能ではないかもしれない、という想念を得ることができたのは——なかば錯覚であるにせよ——、自分にとって大きなことである。


 訓練についていえば、原稿を読まずにプレゼンテーションをする、という今回の合宿の主目標は、自分にとってたいへん驚きであった。アメリカの学会ではほんとうに原稿を読まないのか、と複数の人に聞いてまわったくらいだ。ちなみにいただいた回答のなかには、文学研究の場合は読むこともあるというものもあったのだが、いっぽうで思い出されたのが、先だって、アメリカで教鞭をとる高名なロシア人学者を日本に招聘した際、講演の原稿の事前配布に強い難色を示されたことである。聴衆の英語力を慮ってのことだったのだが、ペーパーを読むのであれば話す意味はない、講演とはパフォーマンスであり聴衆への感化力が枢要なのだ、と彼は述べていた。この点で印象深かったのが、合宿を締めくくるデモ・カンファレンスに先立ちおこなわれた、アンドリュース教授の講演である。彼のプレゼンテーションは、合宿で教わった諸方法のまさしく模範例であった。そのようなものにしてくれという依頼があったのかもしれないが、これが英語圏のスタンダードなのだ、という事実をまざまざと見る思いがした。


 もうひとつ、自分にとって清新であったのは、文学以外のスラヴ・ユーラシア圏研究者との交流である。今回の合宿で文学研究者は越野剛氏と私の2名だけで、多くの参加者の方々とは初対面であった。「ロマン主義」や「リアリズム」すらかならずしも通じない場所で、自分の関心をたびたび説明することになったのは、よい訓練であったとともに、自分が自明としている諸前提に反省を迫る経験でもあった。


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