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論文集への歴史的決着? ――講習会を終えて考えたこと

松里公孝


 論文集には、共通したコンセプトで結ばれた作品を並べることができるという長所があり、査読雑誌には、あれこれのテーマとの近接性にかかわらず、原稿そのものの優劣で掲載・不掲載が決まるという長所があります。しかしデジタル・ベースの時代には、この競争には歴史的決着がついたというのがコーエンカー先生の自論です。たしかに、こんにちほとんどの研究者は、カードでではなくネットで先行研究を検索し、電子ジャーナルから論文をダウンロードするのではないでしょうか。本HP掲載のエッセイではエレガントに書いていますが、コーエンカー先生は歯に衣着せぬ人で、「論文集なんて、査読されたり落とされたりするのが嫌いな年配の研究者のために残っているに過ぎないのよ」と言っていました。彼女自身、Slavic Review の編集という激務をこなしながら、American Historical Review や Past and Present といったさらにプレステージの高い雑誌に投稿して通してきたわけですから、これは見上げたものです。

 論文集が没落し、査読雑誌がもてはやされるのは、こんにちの評価システムにも原因があります。つまり、雑誌論文は、論文集論文よりもずっと「インパクト」が大きくなるのです。ICCEES の世界大会に提出されたペーパーをもとにした論文集は、論文集の中では最もプレステージが高いものに属します。にもかかわらず、2005年のベルリン大会については、2006年の ICCEES 執行委員会の時点でも若い研究者の投稿がほとんどなく、執行委員は頭を抱えました。就職やテニュア獲得を目指す若い研究者は、より評価の高い査読雑誌に載せることを志向するのです。ベルリン大会については、その後状況は改善しましたが、これに懲りた執行委員会は、2010年のストックホルム大会については雑誌と早めに交渉して、論文集ではなく雑誌の特集号を出してもらう方針です。

 コンフェレンス・ペーパーを、手間がかかるわりには評価が低い論文集ではなく、査読雑誌の特集号として公刊しようというのは、前述の「歴史的決着」後のトレンドです。SRCでも、来年3月に予定される環黒海跨境政治をテーマとする国際シンポジウムのペーパーは、ワシントンDCの Demokratizatsiya 誌と交渉して、特集号を出してもらうことにしました。従来は特集号をあまり組まなかった Europe-Asia Studies も、今後は特集号を出そうということで、コックス教授がアイデアを寄せるよう呼びかけていました。センターの国際シンポは最適のリソースになるでしょう。

 しかし、査読雑誌が特集号を頻発するようになると、「テーマに関わりなく作品の優劣で掲載を決める」という査読雑誌本来の利点が失われてしまいます。論文集のプレステージが下がったため、査読雑誌が論文集的な機能を代行し始めたのです。すると、論文集論文的な水準のものを書いておいて、スコアだけは査読雑誌のスコアを稼ぐというズルも横行するようになります。研究者と評価者の間のいたちごっこにはきりがありません。特集号の乱発は、ただでさえ長い雑誌の行列をますます長くします。最近私は環黒海の正教外交について論文を書き、幸い、Religion, State & Society 誌に採択されたのですが、1年以上待たなければならないといわれました。今年の第3号、第4号はすでに満載で、来年の1、2号はあるテーマの合併特集号になることが決まっているからです。

 査読雑誌には、Slavic Review のように一人の権威ある編集者が全号の内容に責任を負う独占型と、何人かの編集者がローテーションを組んで、それぞれが分担する号を決める型があります。その号については担当者の独裁ですが、雑誌全体としては競争的寡頭制が成立するわけです。Demokratizatsiya のように、複数の編集者の間で意見の相違や競争が起こるようにそもそも意図されている場合もありますし(確信犯的競争的寡頭制)、Europe-Asia Studies のように、結果的にそうなっている場合もあります。競争的寡頭制は、当落線上にある原稿に有利です。ある編集者(号)が受け入れなかった原稿を、別の編集者(号)が救済することもありうるからです。これは、採否決定の多元性だけではなく透明性という観点からも望ましいことです。私見に過ぎませんが、もし Acta Slavica Iaponica を年複数回刊行する財政的ゆとりが生まれたら(投稿数は、すでに年刊では到底収まりきれなくなっています)、競争的寡頭制を採用したらいいと思います。

 こんにち、Taylor & Francis や Sage といった大手出版社が、まるで金太郎飴のように、ありとあらゆる学術雑誌を出版しています。学術出版の寡占化の結果、雑誌の編集方針への出版社側の意向がますます強く出るようになっています。たとえば、ほんの10年足らずの間に、Europe-Asia Studies は年6刊から10刊へと刊行数が急増しましたが、これは Taylor & Francis の意向だそうです。その結果、雑誌の水準が若干下がったことは、本来の編集主体であるグラスゴーの研究所にとっては由々しき事態ですが、「石」が増えたからといって「玉」の絶対数が減ったわけではなく、商業的にも不利益はありません。私も、Religion, State & Society に投稿して1年待たされるとわかっていたら、すぐに出してくれる Europe-Asia Studies に投稿していたでしょう。こうして雑誌の寡占化も進むのです。

 Acta Slavica Iaponica も、どこか大手出版社と提携して出版することができれば、商品化することができ、「インパクト」も生まれるでしょう。しかし、その際は、英語のみの雑誌になることが当然要求されるでしょうし、何らかの形で自己差別化が求められるでしょう。つまり、あらゆる原稿を平等に受け付けることはできなくなるのです。これはおそらく、センターにとって受け入れられる条件ではないと思います。







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