缶詰生活のよろこび
井上 まどか
(立教大学非常勤講師)
「PASSION!」
ホワイトボードにグレッグ講師がそう書いたのは、5日目(26日)の午後のことだった。実をいえば、午前中にひと悶着あった。ネイティブ・スピーカーでさえ学会報告では原稿を読んでいるのに、どうしてノート(話す順やキーワードのみを記したもの)しか見ちゃいけないの? グレッグにそう詰め寄ったのだった。聴衆をひきつけること、聴衆に最後まで聞いてもらうことがいかに大切かというのは、それまでの授業でよく学んでいた。たとえば、聴衆は「話者の囚人(prisoner of speaker)」なのだから、シンプルにすること、何度も繰り返すこと(redundancy)が大切だと学んだ。また論文では書けないような、よりオープンで広い文脈内で示唆する一言、あるいはジョーク(米国の場合)や風味(flavor)が大事だということも学んでいた。これは2日目の夜に特別講義をしてくださったナオミ講師も仰っていた。「読む」のではなく「話す」ことが大事だと、何度も学んでいたはずだった。が、報告の場で頭が真っ白になるのではないか、という不安が大きかった。また、学会でどのようなハンドアウトを配るかによって、報告の仕方が変わってくるのではないかと思っていた。多くの聴衆は、報告者の話に耳を傾けつつ、ハンドアウト(論文形式にしろ、パワーポイントの画面プリントにしろ)を読んでいることの方が多い、という印象があったためだ。
グレッグはこちらの話をよく聞いてくれたうえに、オブザーバーとして参加してくださっていた家田先生に助言をもとめた。家田先生は、インフォメーションが大事なのではなく、アイデアを伝えることのほうがはるかに大事なのだと指摘された。学会では論文の誌上発表とは異なり、いろいろな研究者との交流がはじまる機会だ、インフォメーションだけであれば「メールで送ってください」で済んでしまう、聴衆に自分のアイデアを訴えかけなければ、と仰った。
こうした午前中のセッションを経て、グレッグは午後のセッションの冒頭で、「(報告では)情熱をみせてほしい。自分がとりくんでいることを話せる機会なのだから、幸せなことのはずだ」と語った。私はランチの時間もとりとめなく考えていたが、この言葉を聞いてようやく腑に落ちた気分になった。そうして遅まきながら私は「読まない」ことを決意し、大きなフォントで書いたノートを用意した。パトリック講師の一言も決意を固めさせた。グレッグの話の後、パトリックはpassionの語源はラテン語のpati、すなわち苦しむこと(to suffer)だとつけくわえたのだった。
そうして6日目(27日)にようやくデモ・コンファレンスを終えた。その後に参加した東アジア学会(於ソウル、3月4〜6日)でも、木村先生がグレッグや家田先生とまったく同じことを仰っていたのが印象的だった。木村先生は「インフォメーションが重要なのではない、インフォメーションばかりの報告は魅力がない、アイデアが大切なのだ」と仰っていた。
7日目(28日)の午前中には、杉浦先生の特別講義をうかがった。前日夜はほぼ全員、毛布にくるまって夜更かししていたので、集合した当初はみなの目の下にくまが浮かんでいたようだった(?)が、パワーポイントや音声資料も使われた杉浦先生の話にすっかりひきこまれた。
午後、真駒内の宿舎から一歩外に出て気づいた。21日に宿舎に足を踏み入れてから28日の午後まで、一歩も外に出ていなかった。会館にはプールも併設されていると聞いていたのでこっそり水着も持ってきていたのだったのだが、当然そのような時間があるはずもない。英語合宿をオーガナイズされていた越野さんは、最中に「ラーゲリ生活を楽しんでいます」と仰っていた。同感である。
合宿中には、何度も部分プレゼンテーションを繰り返した(導入のみ、結論のみ、本文のみなど)が、参加している仲間たちからのコメントはとても参考になった。他の人のプレゼンテーションへの皆のコメントもおおいに勉強になった。英語だけしか話せないという環境もよかったのだと思う。こんなに楽しい缶詰生活であれば、ぜひまた経験したい。そうつらつらと考えていたら、向こうにみえる停留所にバスが来てしまった。雪の残る道をよたよたと走って停留所に向かった。
末筆ながら、この英語合宿をオーガナイズされた越野さん、そして必要な機材を揃えてくださるなど合宿をスムースに運営できるようにしてくださったスラブ研究センターの藤森さん、加藤さん、そしてディスカッサントの模範となるコメントをデモ・コンファレンスでしてくださった青島さんに、講師、特別講師の方々、オブザーバーの家田先生、この合宿を企画された松里先生への謝意とともに、心より感謝申し上げたい。
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