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ITP米国派遣の報告書半谷 史郎[→プロフィール] 派遣場所:米国ハーバード大学デイビス・センター 「若手研究者インターナショナル・トレーニング・プログラム(ITP)」の派遣事業の一環として、米国ハーバード大学デイビス・センターで十ヶ月にわたって在外研究する機会を与えられました。滞在を終えて無事帰国しましたので、この間の活動について報告し、今後のプログラム運営の参考にしていただきたいと思います。 1.はじめに 日本学術振興会が推進するITPプログラムは「若手研究者が海外で活躍・研鑽する機会の充実強化」をうたうものです。スラブ研究センターではこれを、日本の若手ロシア研究者が英語圏で積極的に発信できようになるための訓練の機会と位置づけ、募集の趣旨で「有力国際学会での研究発表、一流英文査読誌への投稿」や「研究企画・組織能力を身につける」ことを強調しています。 しかし出発前から、この課題は荷が重すぎると感じていました。2008年春にITPの公募を見た時は、アメリカもハーバードも絵空事の別世界でした。応募の動機も、正直なところ、(後述しますが)訳している英語の研究書の原著者がいるからという軽いものでした。それが思いがけず採用されてしまい、英語もおぼつかないのに、本当にアメリカでやっていけるのだろうかと心配でなりませんでした。 そこで渡米に当たって、スラブ研究センターの公式目標はそれとして、これを自分なりに消化して、内々にささやかな目標を立てました。 一つは、英語の基礎体力の向上です。これまでほぼロシア語一色、英語とは疎遠な研究スタイルで押し通して来て、最近になって、研究書の翻訳に取り組む中でようやく英語力の必要性を痛感しだした身です。英語力が実用からほど遠く、ゼロからの出発に近いことは自覚しています。だから消化不良になりかねない拙速の高望みは止めて、時間と手間がかかっても、段階を踏んで着実に実力を上げる道を選びました。具体的には、まず6月から8月はハーバード大学の英語夏期講習を受講し、以後は所内の各種催しものへの参加、日常生活での接触、専門以外の読書などで、とにかく英語とアメリカに慣れることを重要な目標に据えました。 もう一つは、ソ連の民族問題に関する研究書、Terry Martin, The Affirmative Action Empire. (Cornell University Press, 2001) の翻訳完成です。これは、この数年来、六人の共同作業で進めてきた仕事です。渡米時には、訳稿がすべて出揃って監修の推敲作業をはじめたところでした。500ページ近い大著の翻訳は、かなりの集中を要する作業であり、以前から当面はこの作業に専念する心積もりでしたが、米国派遣が決まって雑音の少ない研究環境が与えられることになった時点で、この翻訳完成を滞在期間中の最優先課題にしようと決めました。原著者と膝突き合わせて相談できる環境が、翻訳には願ってもない条件だったせいでもあります。 2.具体的な活動 こうして決めた自己目標にしたがって、滞在中は翻訳第一ですごしました。土日関係なく日がな一日ほぼ研究室で仕事をしていたので、滞在日時の大半は翻訳に割いたと言っても過言ではありません。アメリカまで行って座学の翻訳作業で、果たして行く意味があるのだろうかと出発前は一抹の心痛があったのは事実です。それでも、(実感は薄いのですが)帰国前には周囲の人たちから、十ヶ月で会話力は格段に進歩したと言われました。二ヶ月間の英語の夏期講習、日常生活での英語との接触、折に触れて出席した所内の研究会が有形無形の効果をもたらして、そうした結果につながったのだと思います。また行く前は想像していなかったことでしたが、ハーバード大学の図書館の充実ぶりは、翻訳の仕事を進めるにあたって大きな力となりました。この点については、スラブ研究センターのニューズレター116号(2009年1月発行)にエッセイを書きましたので、そちらをご参照下さい。[→click] (a)指導教官 滞在中の指導教官は、テリー・マーチン教授にお願いしました。大きく二つの点でお世話になりました。一つは、翻訳の不明点の相談です。マーチン教授には、翻訳が一段落した時点で半日時間を割いていただき、こちらが用意した長大なリストをもとに事細かに不明点を解決していく作業をしました。電子メールで瞬時に世界中の人と交信できる時代になったとはいえ、細かい点を詰める場合、やはりメールでは隔靴掻痒の感があり、一対一で質問をぶつけて回答をもらう面々授受に勝るものはありません。原著者と直に接したおかげで、翻訳の質を大幅に上げることができました。 マーチン教授には、もう一つ、2008年11月にフィラデルフィアで開催されたAAASSでの発表に向けて、特訓をお願いしました。「Russia’s Great World War in Global Perspective: A Future Research Agenda」という、ロシアの第一次大戦を話し合うラウンドテーブルで、シベリア出兵に関する日本の史学史を話したのですが、事前練習につきあっていただき、アメリカの学界で発表するにあたって、どのような点に注意すべきか、事細かにコーチしていただきました。様々な助言をもらいましたが、特に発表の冒頭部分で結論を述べるべきだというアドバイスは、日米の学会文化の違いとして銘記すべき点だと思いました。日本の学会発表では活字が重要な役割を果たしており、レジュメや資料などを目で追いながら、話を聞くスタイルが主流です。聴衆は活字によって大まかな方向性が推測できるので、報告者のしゃべる内容が多少退屈だったり、理解できなくても、なんとかついていけます。一方、アメリカは配布資料は何もなく、報告者のしゃべる言葉だけが勝負です。音声は発話とともに消えてゆくものですから、聴衆の興味を逸らさない配慮、特に最初の数分間で関心を持ってもらい、全体のおおまかな内容をつかんでおいてもらうことが、とても重要になってきます。実際に発表の場に臨んでよく理解できましたが、発表の冒頭にパンチを利かせて聴衆の注意を奪い、聞く気にさせること、あとは中間部分の論証を着実に積み重ね、最後にもう一度全体を繰り返しながらダメ押しのパンチを出す。これがアメリカで受け入れられる発表のやり方なのだと納得しました。 (b)センターや他機関での研究会 翻訳第一で日をすごしていたこともあって、デイビス・センターや他の研究機関への参加にはあまり積極的ではありませんでした。それでも自分の関心に近いものがあれば、時には顔を出しています。以下に、出席したものを列挙します。 [2008年] この中では、ラチェンコ氏の報告が出色でした。これは、ウルフ教授と相談のうえ、私が組織した研究会ですが、報告の中身は予想以上に興味深いものでした。冷戦末期のゴルバチョフ外交は欧米を主舞台として語られることが多いのですが、この報告は従来取り上げられることのなかったアジアに注目し、ソ連と韓国の国交樹立過程を検討したものです。正式な外交関係を持たぬ両国のパイプ役として、世界各国に散らばるコリアン・ディアスポラ(サハリン、モスクワ、アメリカ)が大きな役割を果たしていたという指摘は新鮮でした。また対比事例として当時の日本の動きにも言及し、領土問題がネックになって対ソ(対露)交渉が後手に回る様子が描かれました。在外コリアンの広がりが国交樹立にあたって韓国の外交資産になったという指摘が印象的でした。ラチェンコ氏はこのテーマで研究書を執筆中だそうで、冷戦末期の東北アジアの国際関係史をソ連のアルヒーフ史料を駆使して描く最初の試みになるはずだとおっしゃっていました。 このほか、1930年代のウクライナ飢饉の国際シンポジウムも印象に残っています。有名人の顔をおがむだけのつもりで、初日の午後のセッションをのぞいたのですが、なんだか日中韓の歴史論争を聞いているような錯覚に陥りました。ウクライナとロシアの学者の間ではまだしも話はかみ合っていましたが、会場からの質疑の際、ウクライナの歴史認識を受け入れようとしないロシアの態度を厳しく追及する声があり、ちょっと混乱になりかけました。後で聞いた話では、問題の爆弾質問の主は、ニューヨークからやってきたウクライナ人で(特に研究者でもないようです)、ニューヨークではウクライナのことを聞ける場がないので、わざわざこの研究会のためにやって来たのだそうです。二日目は、人口損失の長期結果など、話を広い文脈でとらえる報告も並んでいるので、初日の印象だけで全体を語るのは危険かもしれませんが、ともかく、ウクライナの飢饉について、ロシアとかなり異なる歴史観が形成されていることを痛感させられました。 なお、2009年8月のロシアとグルジアの交戦に際してセンターが開催した緊急報告会については、愛知県立大学「おろしゃ会」の会報第15号に一文を寄稿したので、そちらをご覧下さい。[→click] (c)好条件の研究室 滞在中は、センターの一隅に研究室をもらい、基本的にここで仕事をしていました。センターには長期滞在の研究者が数多くいますが、自分の研究室を持っている人は少数派であり、私はかなり恵まれた条件だったと言えます。大学やセンターの図書館にすぐ行ける立地条件の良さは仕事の能率上、大いに助かりました。また部屋は全面ガラス張りで冬でも明るく、広くて機能的なつくりになっており、集中して仕事をするにはもってこいの環境でした。 研究室は相部屋です。同室の相手は、現在カナダで教鞭をとっているロシア人のデニス・コズロフ氏でした。私に負けず劣らずの仕事熱心で、出勤時間は数時間ずれるものの、ほぼ同じくらい研究室に入りびたりです。毎日顔をあわせ、疲れた時には雑談を、分からないことが出てくれば相談する良き同僚でした。二人の会話は基本的には英語ですが、私が言葉に詰まるとロシア語に切り替えてくれるというのも、英語力が発展途上の私には理想的でした。 3.自己評価 先に述べたように、出発前に自分に課した最低限の目標は英語の基礎体力の向上と翻訳の完成でしたが、これについては一応達成できたと考えています。 まず英語力ですが、たしかに最初は大いに苦しみました。アメリカ到着直後から英語の夏期講習に通ったわけですが、自分の考えが言葉にならないもどかしさに加えて、授業で取り上げられるアメリカの文物に全く関心を持てず、かなりのストレスを感じていました。なじみのロシアに逃げこもうにも、デイビス・センターは夏休みに入って閑散としており、ロシア関係の研究者もいません。勢い翻訳の仕事に集中することで、鬱屈した気持ちを忘れようとする毎日でした。それでも二ヶ月間の講習会の最後の頃には、議論を自分の土俵に持ち込んで展開する余裕は持てるようになったので、それなりの進歩はあったと思われます(なお講習会の最後に受けた実力試験では、読解力が大幅向上する一方で、聴取力は下がるという結果が出ました)。秋以降は、翻訳中心の生活は同じですが、折を見て所内の各種催しものに参加しましたし、11月にはAAASSで口頭発表をこなしました。さらに日常生活で英語を使い、また家での余暇に専門以外の読書をするなどにしたことで、着実に実力は上がっていったようです。おかげで、実感は薄いのですが、帰国前には周囲の人たちから、十ヶ月で会話力は格段に進歩したと言われるまでになりました。 もう一つの翻訳も、滞在中に何とか目鼻をつけることができました。各訳者から提出された原稿のすべてに目を通し、訳語・文体を統一する推敲作業は予想以上に難物で、かなりの時間を要しました。原著で使われている一次史料が活字化されていれば基本的に原文の確認をしましたし、原著の意味が汲み取りにくい箇所では二次文献の原典に当たりなしています。そのため原著者が読んだのと同じくらいの数の書籍に目を通す羽目になりました。そうしたことが可能だったのも、翻訳に集中できる雑音の少ない良好な研究環境と、世界有数の蔵書数を誇るハーバード大学の図書館を利用できたおかげです。また自分では解き切れなかった疑問点を原著者に問い質すこともできました。翻訳に取り組むにあたって、これ以上の環境は望めなかっただろうと思います。この “The Affirmative Action Empire” という本は、ソ連崩壊後に出たスターリン時代のソ連の民族政策に関する研究の中で最も体系的でまとまった成果として定評がありますが、日本語での出版の暁には、大学の教科書・教材として広く活用され、日本の一般読者にも知的刺激を与えることになるだろうと信じています。 以上は成果として自負する事柄ですが、スラブ研究センターの掲げる公式目標に比べると見劣りするのは確かです。公式目標は英語圏での積極的な発信のトレーニングとして「一流英文査読誌への投稿」が義務付けていましたが、この点は今回の滞在中には果たせませんでした。前述のように、翻訳にかなりの精力を割いたため論文執筆の時間がなかったためでもありますが、私の英語力が、滞在中にそれなりの向上を見たとはいえ、まだ論文を執筆できるレベルに達していないと自覚していたことが大きいです。まだ少し時間がかかるとは思いますが、今回の滞在の成果を足がかりにして、英語での発信力を持てるように努力してゆきたいと思います。 4.今後の運営への助言 ITPの第一期生として、今後の運営の参考になりそうなことをまとめておきます。 (1)派遣時期 6月赴任・3月帰国の派遣時期は、私には最適でしたが、この時期が万人にふさわしいとは思いません。まず6月から8月は長期休暇の最中のうえ、年度末ということもあって、人はおらず研究会もなく、研究者との交流を主目的に赴任する人には、あまり実りの多い時期とは言えません(私のように日本から持ち越した自分の仕事に集中するには、静かで涼しくて、とても有益ですが)。おそらく、こちらの年度開始にあわせた9月赴任・6月帰国の方が時間を有効に使えるように思います。 もし日本の大学の教育年度との接続を考慮するのであれば、4月赴任・1月帰国という選択肢もありえるのではないでしょうか。これであれば、赴任直後の二ヶ月あまりで研究者と交流ができ、その後、夏休みは自分の研究に専念するという時間の使い方ができます。 いずれにせよ、その人その人の思惑があるでしょうから、派遣時期は「当該年度内に出発して10ヶ月間」などと、幅を持たしておく方が良いように思います。 (2)待遇・渡航準備 今回は事業初年度の手探り状態だったので仕方がない面があるとはいえ、待遇や渡航準備に関する情報がなかなか入ってこず、出発まで本当にきりきり舞いさせられました。この点は強く抗議申し上げておきます。次年度からは、募集要項の段階できちんと条件を提示し、採用者には渡航準備の方法について的確な情報が伝わるような配慮をしてほしいと思います。 募集要項には「10ヶ月間の旅費、滞在費として適切な額」とありましたが、具体的には月額33万円、渡航費用などに40万円で、計370万円が支給され、これですべてを賄うよう指示されました。渡航準備をはじめてまず困惑したのが、医療保険と家賃がとても高く、支給金額の枠内で本当にやっていけるかということでした。アパートは大学のすぐ近くとはいえ、家賃が月1600ドルで、支給額の半分が飛んでしまいました。ケンブリッジの物価も安くなく、すべて自炊で賄っても日本の1・5倍から2倍くらいになりました。私の場合は研究室との往復の毎日で、余分な支出がほとんどなく何とかなりましたが、そうした見通しが立つまでは落ちつかない日々でした。医療保険も幸いお世話になることはなかったとはいえ、最低限の補償内容に切り詰めていたので、薄氷を渡っていた可能性もなきにしもあらずです。またこれはITPとは全く無関係ですが、歴史的な金融危機下での滞在だったため、まかり間違えば、シティバンクとAIGがつぶれて預金封鎖と無保険のとばっちりを受けるところでした。 渡航準備については、採用決定後、自分でやるようにと言われたものの、アメリカ渡航の知識は文字どおり一からの手探り、周囲に経験談を聞ける人もおらず、ビザ取得や住居確保をどうしたらよいのか全く分からず途方に暮れました。今後は前任者(私)が次の人に経験を伝えていけばすむ事柄ですが、ノウハウを蓄積伝授する場をスラブ研究センターがなんらかの形で設けることも必要かもしれません。 5.おわりに 今回のアメリカ滞在では、数多くの方のお世話になりました。まず、デイビス・センターのセンター長であるチム・コルトン氏と、ITPのアメリカ側の責任者であるリズベス・ターロウ氏には、この場を借りて感謝を申し上げます。また私の受け入れ事務の担当者であるジョアン・ガベル氏には、入国前の招待状の迅速発行にはじまり、滞在中の数多くの問題について親切丁寧に対応していただきました。こうした方々を筆頭に、デイビス・センターの関係者の皆さんのご助力があればこそ、滞在を有意義に終えることができたと思っています。そして、最後になりましたが、派遣元の北海道大学スラブ研究センターにも心から感謝申し上げます。 |
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