ITP International Training Program



ハーヴァード大学デイヴィスセンターでの滞在を終えて


青島 陽子

(ITP第3期フェロー、派遣先:ハーヴァード大学デイヴィスセンター)[→プロフィール




ITPプログラムから援助を受けて、約8か月、ハーバード大学のデイビス・センターに留学させていただいた。以下、その概略をご報告する。


留学の手続きを始めたのは、スラブ研究センターでの説明会が終わった、4月末に入ってからであった。前任者の半谷四郎さんと浜由樹子さんからのアドバイスを受けながら、雲をつかむような状態でビザの申請や家探しにとりかかったことを思い出す。とくにビザの申請は、ウェブでの申請に切り替わったため、色々と不明な点が多く、最後には数千円の手数料を払って、大使館の問い合わせセンターに電話まで掛けた。それでも札幌領事館でのビザの申請には間に合わず(面談日が極端に少なかったためである)、東京の大使館まで書類の提出と面談に行くことになった。すでに6月も半ば近くになっていた。この時期は、渡航準備と博論の最終提出、ストックホルム報告の準備がすべて重なっており、記憶が飛ぶほどに忙しい時期であった。


7月の末、札幌での住居を引き払ったのち、慌ただしくICCEESストックホルム大会に向かった(この報告については次を参照→[click])。ストックホルムから一旦帰国し、二日後にアメリカへと出発した。


到着してみると、日本での慌ただしい日々とは対照的に、ケンブリッジの町はすっかり夏休みで落ち着いていた。アドミニの動きも全体に緩慢で、IDの発行に10日ほどかかり、メールのセッティングには3週間もかかった。セミナーやワークショップなどのイベントもなく、静かな滑り出しとなった。準備に時間がかけられたのは良かったとも言えるが、あまりに動きが少なく、かえって慣れるのに時間がかかったように感じられる。したがって、個人的には、8月の渡航はあまり勧められない。やはり準備期間を前倒しして、6月までに渡航し、ハーバードの夏の英語スクールに出席するのが、アメリカでの生活へのもっとも効率的な入り方であったように思う。(ハーバードの英語スクールには冬に出席しようと思い試験まで受けたが、早期に帰国することになったため、結局は参加する機会がなかった。)私の準備が効率的ではなかったのは事実であるが、ITP派遣者決定と説明会の実施を少し早めに設定していただけると、渡航者にとってもう少し準備が楽になるのではないだろうか。


住居探しは、前任者の二人が記載している通り、厄介な問題であった。浜さんの報告書にもある通り、幸い、彼女が私の住宅探しを手伝ってくれたため、まずはすんなり住居を決めることができた。家主はMITの事務に勤務する50歳代の活発な女性で、空港まで私を出迎えに来てくれた。彼女は、アメリカ独立革命発端の地であるレキシントンやコンコードも見せてくれたし、政治活動も活発に行っていたため、マサチューセッツの黒人知事ディーバル・パトリックとの対話集会にも連れ出してくれた。しかし住居にはいくつかの問題があった。まずバスで20分の道のりは、案外遠く感じられた。夜遅くまでオフィスに籠っていることが多かった私にとって、頻繁には来ないバスを夜待つのは辛く感じるようになった。秋に入って、夕暮れが早くなり空気が冷えだすと、なおさらであった。また、男性も含めて四人でワンフロアとバスルームをシェアするのも、気疲れすることが多かった。11月ごろ、私は引っ越しを決心し、家を探し始めた。この過程では、大家さんとの関係は多少緊張感のあるものになったが、何度か話し合いの場を設けたことで、逆にお互いの理解を深める機会にもなった。彼女には引っ越しも手伝ってもらい、帰国前には食事にも行った。いまでも、とても暖かいメールをくれる。

家探しは、クレイグ・リストという巨大掲示板を使った。しばらくの間、ルームシェアの情報をチェックして、オフィスから徒歩圏内のルームメートを探した。交渉は代理店などを通さずに直接に行うので、リスクも伴うし、途中で決裂することも多かった。しかし家さがしによって、アメリカの自由な市場の面白さを肌で感じるとともに、交渉術もおおいに学ぶことができた。非常に幸いなことに、比較的すぐに、オフィスから徒歩一分という好立地にあった、二人用のハーバード・ハウジング(ハーバード大学が所有・管理する物件)を見つけることができた。ある法学生が、ワシントンDCへ研修に行く5か月間のサブレットの相手を探していたのである。期間がぴったりと合ったこと、そしておそらく、彼女がブルガリアの移民で、そのルームメートもまた、ベラルーシの移民であったことが幸いしたのだろう。彼女たちは、私の研究テーマがロシア史であったことを非常に面白がったのである。(じっさい、ルームメートの出生地であるグロドノという都市を知っていたことは、彼女をとても驚かせた。)オフィスにごく近い場所に移ることができたため、零下20度にまで冷え込み、ここ数十年で最悪と言われた積雪を記録した冬を凌ぐことができた。

家探しは、アメリカ社会とのコミュニケーションとして、非常に面白いものであった。外国人がアメリカで良き共同生活の場を見つけるのには、多少の幸運が必要である。しかし、そこで得られる経験は得難いものである。私はルームメートを探してみることをお勧めしたい。


9月半ばになると、デイビス・センターが活発な活動を始めた。調査地から人が戻ってきて、顔合わせのパーティが何度も開かれた。各種のセミナーとともに、テーマごとのワークショップも始まった。

デイビス・センターには、世界中から著名な学者が来訪し、ほとんど毎日、セミナーが開かれていた。センター以外でも、有名人がシンポジウムやセミナーを開いており、どれに出たらいいのか迷う日々であった。秋ごろ、ハーバードの歴史学部で中央アジアのイスラム学という公募が出た。アメリカの最終審査は「ジョブ・トーク」と呼ばれる公開の模擬講義である。毎週、名の知れた学者が来訪しては、少し緊張した様子で講義をしていったのだが、これを同僚と楽しみにして見に行った。当地で知り合った日本人のある学者は、ハーバードは学者のディズニーランドと評していたが、言いえて妙である。ハーバードに滞在することのこの上ない幸福と贅沢は、このようなことにある。

こうした派手なイベントとは別に、デイビス・センター内には部門ごとに分かれた「ワークショップ」が定期的に開かれていた。私は、政治学のワークショップと歴史学のワークショップによく顔を出した。前者は、研究員が多く、ランチを食べながら、密度の濃い議論を戦わせていた。後者は、圧倒的に院生が多く、ハーバードの院生たちの関心があるテーマや議論の文法がどういうものかを理解することができた。どちらの場合も、アウトサイダーで、しかも外国人が議論に参入するのは、並大抵のことではなかった。どんなに頑張ってみても、英語では言いたいことの3割も表現することができず、終わるたびに、ああ言えばよかった、と落ち込んだものであった。


デイビス・センターには、来ては去っていく国内外の研究者、ポスドク、院生がたくさんいる。アドミニのジョアンは、しばしばこうした人々との交流の場を主催してくれた。ランチの会や、観劇、音楽鑑賞などのイベントである。こうした活動を通じて、滞在中の研究員とは親交が深くなった。若手は、ほとんどが欧州から来ていたが、彼らは何か国語も器用に操り、もちろん英語には何の苦労もしていないのを見ると、溜息が出た。彼らは、ファンドを貰っては、世界中どこの国にでも軽やかに移り住み、数年単位で移動を続けていた。彼らの母国や滞在してきた国や地域、ロシア観などを聞くのは非常に刺激的なものであった。


またデイビス・センターでは、ジョン・ル・ドン先生とセルヒー・プロヒ先生には、とてもお世話になった。私のつたない研究計画を聞き、色々とアドバイスをくださったのである。とくにル・ドン先生との出会いは鮮烈に記憶に残っている。到着したばかりのころ、デイビス・センターの玄関口で、突然「アオシマサン?」と声をかけられたのである。知り合いなど誰もいないころで、突然名前を呼ばれてびっくりした私は、まったく恥ずかしいことに「May I ask your name?」と聞いてしまった。「John LeDonne」と言われた時の衝撃を忘れることはできない。その後、ル・ドン先生はなんどか私をお昼に誘っていただき、お話をする機会を設けてくださった。


最後に、私の滞在中、もっとも心の支えとなってくれたのは、オフィスの同室者となったグルノーラ・アミーノヴァさんとバクティベク・ベシーモフさんである。前者は、すでに13年もアメリカで勉学・教学・研究に励む、知的でシニカルなウズベク人で、後者はキルギスタンの大物政治家である。ご存知の通り、キルギスタンでは、キルギス人とウズベク人の対立が深刻な状況を招いた頃であった。そうした状況を反映してか、オフィスには当初、奇妙な緊張感が漂っていたように思う。しかし、私たちはたびたび生活のことや学問のことで議論をし、次第に同朋意識を感じるようになっていった。私も彼ら二人には頼りきりで、歯医者のかかり方から(到着してから一週間で歯の詰め物が取れてしまったのである!)、プライベートな人生の悩みまで、なんでも相談していた。セミナーの後には、中央アジアの歴史について議論もし、ロシア・中央アジア・日本の状況について、話をした。繊細な観察力ですべてを見通すグルノーラと、エネルギッシュでどんな辛い状況の時でも「ヨウコ、ポジティブにいろ」という暖かい励ましをいつもくださったベシーモフさんは、私にとってアメリカ生活での叔父さんと叔母さんであり、人生の偉大な先輩であった。この二人には、どれだけ感謝をしてもしきれないほどである。


私のハーバードでの生活は、このように刺激の多いもので、勉強しては議論するという、考えられないような贅沢な時間を過ごさせていただいた。セミナーの組織の過程で出会った人々からも、多大な知的刺激を得ることができた(この様子については、以下を参照→[click])。幸いなことに、途中で就職が決まったために、中途で滞在を切り上げねばならなくなった。そのため、義務となっていた論文の投稿が間に合わないまま帰国することになったのは、非常に心残りなことである。この経験を踏まえながら、必ず成果を仕上げていくという重い宿題が、私にはまだ残されている。


このような素晴らしい経験するチャンスをくださったスラブ研究センターとITPプログラムの関係者の皆様には、心から感謝申し上げます。担当してくださった松里公孝先生とデビッド・ウルフ先生、何かにつけて助けていただいた越野剛さんと阿部遼子さんには、とくにお礼申し上げます。また、同期としてワシントンとオックスフォードに滞在していた中村真さんと花松泰倫さんとは、滞在期間中、連絡を取り合い、色々な場面で励ましてもらいました。この場を借りて、お礼申し上げます。




帰国直前の雑然としたオフィス。机の上にある花は、国際婦人デーにベシーモフさんから頂いたもの

(Update:2011.08.23)





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