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二つの一週間:第2回ラウンドテーブルの感想にかえて佐藤 圭史(ITP第4期フェロー、派遣先:ハーヴァード大学ディヴィス・センター)[→プロフィール] モルドヴァ共和国での忘れられない思い出がある。とある研究会が終わり、会場を去る準備をしていた時のことだ。「サトウさん。」振り向くと、見知らぬ恰幅の良い中年男性が私に笑顔を向けていた。「またお会いしましたね。」彼の言葉からすると、少なくとも相手は私を知っているようだった。「ええ、そうですね。」彼を知らなかった私は社交辞令的に応えた。「サトウさん、お願いがあります。今度私たちの研究所で国際会議を催します、ぜひサトウさんにその発表者になって頂けないか、と思っています。」笑顔を絶やさない紳士に対し私は正直戸惑った。日本の大学院の修士課程に入ったばかりで、授業についていくこともままならない時の自分である。英語をロクに話したこともなければ、日本語で学会発表した経験すらない。彼の不意の提案は、あまりにも自分の身に余ると思った。私は一呼吸置き、「すみません、本当に光栄なことですが、今の自分の実力を考えれば発表できるとは思えません。またの機会によろしくお願いします」と答えた。それを聞いた彼はそれまでの笑顔を止め、顔を曇らせて言った。「そのような回答をサトウさんの口から聞くとは思っていませんでした。私は何度かサトウさんの姿を研究会で見ています。外国から来た若い学生が、セッションが終わるたびに発表者のもとに行き、質問し、コンタクトを取ろうとする。積極的にチャレンジしていくあなたの行動に私は心を動かされたのです。でも、サトウさんが発表できない、とおっしゃるのであれば、それはそれで仕方がないと思います。残念ですが、やはり辞退されますか?」私はその当時がむしゃらだったのだろうか、よく覚えていない。研究会ごとに何かを持ち帰りたいという気持ちが、私をそのような行為に駆り立てていたのかもしれない。それよりも私の心を揺さぶったのは、私の行為を注意深く観察し高く評価してくれる人がいた、ということだった。私は、そんな彼の気持ちを素直に受け取ることにし、二呼吸置き答えた。「やります、いえ、やらせて下さい。」 それから研究会までの1週間、朝から日中までルーマニア語、ロシア語の授業に参加するため登校、帰宅から夕方まで就寝、夜は武道の稽古のため起床、夜中から朝まではインターネットカフェで原稿を書き、そして、そのまま登校という生活を送った。当時ノートパソコンが無かった私は、インターネットカフェの深夜割引を利用し、不良子供が徹夜でゲームをしている中で淡々と原稿を作成していった。英文をまともに書いたことがなかった当時の私である。簡便な辞書などもない。外国語で文章を書くことがこれほど大変なことか、とつくづく身に染みて思い知った。それでも5日目の早朝、スズメのさえずり声が屋外から聞こえ、不良子供達が撃ち合いのゲームに疲れ果てて机に突っ伏している中で、私の原稿はようやく完成した。輝かしい朝日の中、誤用だが、「玉稿」という表現が私の頭に浮かんだ。 多大な苦労と苦痛を伴った研究会の発表は、結論からいえば「どん底」であった。どもりに近い状態で、まともに言葉を発することができない。どこを読んでいるのかさえ分からなくなり、目に入った文章をランダムに読み始めるほどの錯乱状態である。文字通り「お話にならな」かった。「いったい誰がこいつを呼んだんだ」という雰囲気が会場に広がっていた。視線が痛いとはこういうものか、と痛感させられた。 ・・・でも、どうだろうか。このような結果になるとわかっていたとしても、あの時、あの場所に戻り、彼の言葉と気持ちを受け取った私は、はたして何と答えるだろうか?私は気を引き締めつつ同じ答えを発したに違いない。「やります、やらせて下さい」と。 ★★★ あれから12年もの歳月が流れた。私はディヴィスセンターで開催される第2回ラウンドテーブルの準備に入っていた。全てが順調であった第1回ラウンドテーブルとは異なり、問題発生の連続であった。ここで小さなことに言及するつもりはない。最大のものは、難航の末に決定した1人の発表者が、開催の1週間前に明白な理由もなく辞退したことである。この段階で新たな発表者を探すことは無理であり、ラウンドテーブルを残りの2人、ピーター=カバチニク准教授とロビン=アンジェリー博士で持ちまわすしかなかった。しかし、ハーヴァード側の責任者でもあるロビンが急に意気消沈し(後にこの理由がわかったが、組織上の問題のためここには書かない)、カバチニク准教授のみによるセミナー形式に変更しようと提案してきた。つまり、20分程度のラウンドテーブル用の発表から、50分近いセミナー(講義)用のものへの変更を准教授にお願いする、ということである。1週間前の提案としてはあまりにも無茶である。先方が受け入れる可能性も低い。しかも、私自身、ラウンドテーブルの直前までエストニア、グルジアでフィールドワーク中にあり、ディヴィスセンターがどのような状況になっているのか、メールから全てを窺い知ることができでなかった。運営側の意欲が著しく低下しているのであれば、ラウンドテーブルそのものを「無期順延」とすべきか、悩んだ。 危機的な状況に面した時、多くの人はどのような行動を選択するだろうか。昨年の災害時に、責任を持つべき「エリート」と呼ばれる人たちは、数々起こるアクシデントに直面し「想定外」という言葉を使った。責任者に必要なのは、「想定外」と命名し逃げ去ることではなく、「想定外」の出来事にどれだけ敢然と立ち向かうことができるか、ではないのだろうか。第1回ラウンドテーブルを組織する義務を果たした自分としては、第2回ラウンドテーブルは、ディヴィスセンター側による「想定外」の問題として片づけることもできた。しかし、そんなことを自分自身が許すわけがない。ラウンドテーブルの運営者を自称した以上、自分がすべきことは逃げることではないだろう。いたって明白なことだ。最終的に、自分が発表者に加わりラウンドテーブルを維持する、という決断をロビンに伝えた。 先走ったものの、ラウンドテーブルのテーマはコーカサス地域の民族問題であり、私の専門外である(今後研究対象を広げていく予定にはあるのだが)。話すネタがないのである。直前までグルジアに滞在していた目的は、グルジアの対ロシア外交政策を研究するためであった。ラウンドテーブルのテーマに合わないだけでなく、報告できるほどの資料もコンセプトも持ち合わせていない。しかし、決断した以上あらゆる手を尽くさなければならない。かつて書き留めた文章をコンピュータのファイルから引っ張り出し、何とか使えそうなものを探しだした。そして、博士論文で文脈に合わず削除するかどうかで悩んだ「民族間対立の武力紛争化の要因分析」という部分が辛うじて使えそうに思えた。研究会まで残り1週間。英語発表の原稿をゼロから書き上げ完成させなければならない。日々感じ続けた焦燥感は、12年前の自分を思い出させた。でも、あの時と今は違うはずだ。外国語や理論の知識も増えた。発表の仕方、論文の書き方というのも学んだ。電子辞書もあるし、インターネットもある。でも変わっていないものもある。それは、あの時の気持ちである。12年越しの自分の「存在意義」を確かめつつ原稿作成に打ち込んだ。 今の自分の持てる全てを投げ打ったラウンドテーブルの発表は、結論から言えば、大成功だった。前日に、ディヴィスセンター内のコーカサス・中央アジア研究グループから支援を受けることになり、ラウンドテーブルに対するロビンと私の士気は高まっていた。カバチニク教授は国内避難民への「民族問題」にかんする意識調査、ロビンはアブハジア紛争の解決に向けた草の根レベルでの方策、私は、アブハジア、南オセチアの武力紛争化の要因分析について発表した。ディシプリンは社会学、政治学、歴史学、国際関係論、時代はソ連末期から現代にかけて、と奇しくもバランスよく構成されていた。それぞれの発表は20分程度に収まり、残りの一時間、会場にいる研究者と議論が交わされた。発表者が様々な背景を持つのと同じく、聴衆の研究者も様々な背景を持っている。質問は多岐にわたり、自分では到底カバーしきれない質問も多かった。しかし、発表者の3人のうち2人が答えられなくても、必ず1人は的確な回答ができたため、示し合わせたかのような3人のチームワークで、議論は滞りなく進んでいったのである。サッカーの試合で、面白いようにパスがチームメートの間でつながっていく、あのような小気味良さであった。 ★★★ ラウンドテーブルの遂行という使命を全うした。会後のランチへ向かう道程、「ラウンドテーブルは大成功だった」という会話が参加者の間で続いた。彼らの笑顔を眺めつつ、そういえば、かつて自分はいったい何を案じていたのだろうか、とふと思った。発表決断から過ごした1週間は苦しいものであった。だがそれは、12年前のような「身の程知らず」を思い知らされる苦しさではなかった。自分自身の成長は、自分ではなかなか分からないものである。でも、1週間という同じ期間を与えられた自分が、12年前とは比べ物にならないほどの産物をもたらしたのは、まぎれもない成長の証である。そして、12年前の失望によって全てを放棄していたのなら今の姿を永遠に見ることはなかったのである。今の1週間を造ったのはあの時の1週間において他ならないのだ。 |
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