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派遣滞在記 - ITP FELLOWSHIP FINAL REPORT-シュラトフ・ヤロスラブ SHULATOV Yaroslav(ITP第5期フェロー、派遣先:ハーヴァード大学デイヴィス・センター) 2012年6月から2013年3月にかけて、ITPフェローとしてハーヴァード大学デイヴィス・センターに客員研究員として派遣されていた。 この体験は私にとって極めて貴重であり、興味深いものになった。以下、その全貌を伝えることは難しいが、私の体験を報告させていただく。 * * * 派遣が決まったとき、私は何とも不思議な気持ちになった。実は、33年前、モスクワの大学院においてアメリカ共産党とトロツキズムを研究していた私の母は、トロツキー死後40年が経過して公開されたばかりのトロツキー文書を閲覧するために、ハーヴァード大学へ研修に行くことが決まっていた。冷戦の真最中である1980年にはとても珍しいチャンスだった。ところが、息子の私が病気になったため、母はこの研修を断念したのである。自分のせいで母はハーヴァードに行けなかったわけだが、33年が経過し、自分がそこへ行くことになるとは、不思議な偶然である。 渡米への準備は既に春から始まった。 まずは3月末〜4月初旬、札幌市内で合宿が行われ、本年度のITPフェロー及び他の研究者も参加し、小規模の研究発表会が行われた。 これはとてもいい練習になり、グレグ先生及び一緒にいた同僚の皆さんに感謝を表したい。 続いて、比較的に早い段階でビザ申請を行ったが、発行期間は思ったより長くなった。デイヴィス・センターから送られた1回目の書類ではビザが発行されず、追加書類が求められた。6月中旬にようやく入国許可が降りたので、東京を後にして、ボストンに到着した。 周知のとおり、マサチューセッツ州と州都ボストンはアメリカ革命の発生地である。ボストン・ティー・パーティや対英戦争、革命運動などに関係する歴史的な建物がたくさん並んでおり、町の中心部は非常にきれいで、ヨーロッパによく似ている。ボストンとその周辺、ケンブリッジ市などは緑豊かで、素晴らしい雰囲気を保っている。極めて明るく、安全な場所であるという印象が残っていたので、2013年4月にボストンで起きた爆弾テロ事件には大いにショックを受けた。この町では戦争や紛争がはるか昔のことであると感じていたので、強い矛盾を痛感した。
大学のキャンパスも、非常に立派であった。中心部の「Harvard Yard」には、18世紀第1四半期に建設された建物が残り、
「この建物はこの国よりも古いよ」と誇りを持って言う学生・先生たちも珍しくない。キャンパスの雰囲気もとても明るく、
独自性を持っている。まさに学問の都、という感じである。
渡米する前に、夏期休暇期間中に是非とも語学研修するようにと強く勧められたため、ケンブリッジに着いた翌日にハーヴァード・サマースクールに行き、
6週間にわたって「アカデミック英語」というコースに通った。久々に多量の宿題に苦しみながら、朝から晩までの勉強でほぼ動けない毎日が続いた。
授業内容は、英語というよりも、古代ギリシア哲学や心理学から環境問題、モダン・アートまで幅広い分野の多くのテキストを熟読し、討論を行う方式になっており、
さすがにレベルが高いものであった。この経験を通じて、英語能力の向上のみならず、様々な教授法やテクニックを身につけることができて、現職でも活用している。
サマースクールはとても役に立つものだった。
前任の方々も指摘している通り、家探しは非常に困難な問題となった。 やはり、世界中から数多くの人々が殺到するボストンとその周辺地は、住居が需要過多になっている。 センターの同僚によると、この地域において多数の物件を所有しているハーヴァード大学とマサチューセッツ工科大学は、 不動産市場では「財閥」のような存在であり、価格を高めに設定しているそうだ。陰謀説は別として、 ハーヴァード・ハウジング(不動産管理事務所)の物件は確かに比較的高かった。 結局、デイヴィス・センターなどの仲間に勧められて、クレイグ・リストというインターネットの掲示板を通じて、 少し不思議な物件を見つけた。建物自体は極めて古く、19世紀末にできたもので、当時はかなりのお金持ちが所有していたところだ。 この地域は地震の心配はいらないと思い、最上階の3階に引っ越したが、暴風のときに建物が揺れたり、 「ハリケーン・サンディ」が来たときに停電になったりして、少し面白い経験にもなった。 近くには、パウダーハウス・スクェアという場所があり、隣の坂の公園には大きな火薬庫が立っている。
実は、この建物が、1774年9月に起きた火薬警鐘という事件に深く関わっており、アメリカ独立戦争の歴史的な見所でもあり、
サマービル(Somerville)市の紋章にも描かれている。この公園は、徒歩3分ほどの距離にあったため、穏やかな快晴の日でも雪の日でも、
あるいは執筆が行き詰まったときでも、そこを歩くのが一つの楽しみであった。
7月中旬から、2013年度Association for Asian Studies (AAS)でのパネル企画の準備に入った。 AASは、アジアを専門にしている研究者の世界最大級の学会であり、渡米する前に、 同じくITPフェローとしてジョージ・ ワシントン大学に派遣された麻田雅文氏と一緒にそこでパネルを企画すると約束していた。 テーマは、前から関心を寄せてきた朝鮮問題であり、特に20世紀前半期における朝鮮民族運動・ナショナリズム思想である。 近年、サンクト・ペテルブルグやハバロフスクでこれに関するたくさんの史料を発掘し、 朝鮮半島やロシア、中国、アメリカにおける朝鮮民族運動を考察したいと考えるようになった。しかし、パネルの参加者を集めることは思ったよりはるかに困難となり、 一時的にこのアイディアを諦めかけたが、締切の数日前にH-Asiaというメーリングリストを通じて、必要人数を超える応募者が集まった。 結局、ロシア・日本・韓国・米国という4カ国から成る研究チームが結成され、それぞれの観点から議論を行う環境が生まれた。 そして、「Korean National Movement: Crossing the Borders in Changing Times (1905–1919)」と題名するパネルが、 「Inter-area/Border-Crossing」のカテゴリとして採択され、2013年3月に無事に実行された。 パネルの企画案を作っていた際に力を貸していただいた麻田雅文氏と、貴重なアドバイスをいただき、 司会者兼報告者をお務めいただいたWayne Patterson教授にこの場を借りて感謝したい。 大学の夏休みは9月半ばで終了した。それまで比較的静かであったデイヴィス・センターの建物に世界各地の客員研究員、 大学の教授陣、院生たちが戻ってきて、様々なオリエンテーションや歓迎会が開かれた。それと同時に、あらゆるセミナーや研究会、 ワークショップも開催されるようになった。以来、ほぼ毎週、歴史・政治から文学、経済学まで、極めて幅広いテーマを取り扱う各種のミーティングに参加できるという環境に恵まれ、 大変勉強になった。内容はもちろんのこと、発表者の姿勢やフロアの反応も興味深く、ロシアや日本とは少し違うと感じた。 アメリカでは、発表内容が面白くないと、聴衆が途中で会場を後にすることは珍しくない。フロアの注目を引き、常に対話を保たないと、 報告は成功しないのである。礼儀正しく最後まで残ってくれる来聴者もいるが、とても残念な結果になる場面を何度も目にした。これは、とてもいい刺激になった。 11月には、スラブ研究の最大級の学会Association for Slavic, East European, and Eurasian Studies (ASEEES)で帝政期とソ連期のロシア極東政策について報告した。 コメンテーターをしてくださったのはDavid Wolff教授であり、いろいろと大変お世話になった。 デイヴィス・センター滞在中、本センター、そして同じ建物にあったライシャワー日本研究所(Edwin Reischauer Institute)及び韓国・朝鮮研究所(Korea Institute)の協力を得て、 幾つかのイベントを企画した。2013年1月に開催された「ITP現地セミナー」については別紙にて報告させていただいたが、 その他には、日露戦争からロシア革命にかけての日露関係、第一次世界大戦期におけるロシア極東の朝鮮人及び朝鮮民族運動について発表を行い、 そしてロシアと日本からの研究者を招待し、帝政期の極東ロシアにおける対ユダヤ人政策、1930年代におけるソ連首脳部の日本観、グルジアの選挙結果に関する研究セミナーを組織した。 ITP現地セミナー以外のイベントは小規模のものであったが、様々な分野の研究者に来ていただき、有意義な議論になり、スラブ研究センターのアピールにもなったと望んでいる。 資料調査も仕事の重要な一部になった。ハーヴァード大学では、ホートン図書館(Houghton Library)を中心に作業を行い、ソ連の内外政策に関わる資料や稀少本を閲覧し、
燕京図書館(Harvard-Yenching Library)の所蔵コレクションも利用した。ワシントンではアメリカ議会図書館とアメリカ国立公文書記録管理局(NARA)で調査を行い、
初めてアメリカ国務省や陸軍省の文書を入手した。
また、ニューヨークのコロンビア大学図書館、特にバフメティエフ史料(Bakhmeteff collection)でロシア革命前後の時期に関連する重要な資料を収集した。
これらの文書は、これからの研究に積極的に取り入れたいと思っている。
アメリカ学界との交流も積極的に行われた。ハーヴァード大学では、デイヴィス・センターやライシャワー日本研究所の方々との関係はもちろんだが、
日本文学の著名な研究者である(Edwin Cranston)先生など、小生の研究テーマと離れているが、重要な学者との関係を築く機会に恵まれた。
その他には、アメリカにおける日本・日露関係史の研究に大きく貢献したバートン(Peter Berton)先生との出会いが印象に残った。
南カリフォルニア大学名誉教授であるバートン先生は、ポーランドで生まれ、ハルビンで育ち、戦前期と占領期の日本を自分の目で見た方である。
激動の時代の生き証人でもありながら、1956年に英語圏の歴史学では初めて1916年の日露同盟について論文を発表した。バートン先生のご自宅に招待され、
いろいろなテーマについて談話したが、目が不自由でいらっしゃるにも拘らず研究作業を止まない先生の姿にまさに圧倒された。
2013年3月に、バートン先生に南カリフォルニア大学に招かれ、ロシア極東の現状について招待講義を行った。
この講義には以前にハバロフスクの極東人文大学東洋学部で教えていた元学生(カリフォルニアの大学院で勉強中)が来てくれたことに驚いた。
若手研究者の育成に欠かせない国際交流が活発になっていることを嬉しく思うし、更に発展してほしいと思う。
以上のように、この10ヶ月間は、大変実りのあるものになった。家庭的とも言える暖かい雰囲気を持つデイヴィス・センターで、
世界各地からの様々な人文系の研究者と知り合えたことも、
本フェローシップの成果の一つとして言えよう。将来、このような素晴らしいプログラムが復活できるよう、心より願っている。
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